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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その三十三

クミコは、一日で何歳も年をとったようだった。頬骨が突き出て眼窩が奥まり、細い唇のまわりにはかすかに小皺が刻まれていた。

「きつい質問をされたのかい?」

ゆっくりとうなづく彼女は、なにか自分の胸の奥深くにしまった秘密に向けて、合図を送ったようにみえた。その印象に押されてか、僕はためらいもなく尋ねた。

「教えて欲しい。君はまさか本当に、ムネオカやコクボを殺したんじゃないよね?」

クミコは堅く口を閉じたまま、疲れ切って淀んだ目で僕を見上げた。

いっそ思い切り口を広げて、あの号泣に突入して欲しかった。家中が轟音で揺れる方がましだった。でも、警察署で得意芸の限界を思い知ったのか、彼女は決して口を開こうとしなかった。

「殺したんだね、君が」

ショックは感じなかった。こんなに憔悴して小さくなったクミコを前にすると、誰が奇術好きの男たちののどに毛玉を放り込んだかなどは、どうでもよい問題に思えた。どちらでもよかったから、彼女に告げたのである。

「うち、また、あんたを騙してもうた」

別人のようなかすれきった声がした。僕を見上げる顔はわずかに歪んだが、号泣モードにも忍び泣きモードにも入らなかった。

「この家に戻りたかった。もう一度あんたと一緒に暮らしたかったから、夢中で毛玉を放り込んだんよ」

「ムネオカ」と名前を口にしたとたん、僕はのどにつっかえを覚えて、片手で該当箇所をマッサージして言葉をついだ。「それに、コクボののどにだね」

「ムネオカは、自分からのどをみせたんよ」

わかる。クミコの号泣を止めようと、彼はいつもどおりに機嫌取りの毛玉芸を披露したのだ。

「あいつの憎々しい大口をみたとき、うち、とっさにミヨの上着のポケットから毛玉取りだして、夢中で放り込んだんよ」

なんというタイミングのよさ。その絶妙な間合いのおかげで、僕は彼女とミオを取り戻し、二十億円の所有者の地位を揺るぎないものにしたわけか。

「でも」 いっそう丁寧にマッサージしながら、僕は訊いた。「コクボも君に大口を開けてみせたんじゃないの?」

クミコは顔をうつむけ、こたつに身を寄せて黙ってしまった。

「そうか、君があいつの口を開けたってわけか」

感情の乱れもあらわに、僕は言った。口を開ける方法はいくらでもある。無理矢理こじあけるのも一つなら、脳をとろかせるのもその一つだ。

「うちが大声で泣くんで、コクボはすぐに毛玉を取り出したんよ」

わかった。コクボは後輩への羨望ではち切れそうになりながら、あの下品な芸の習得に努めてきた。そしていよいよクミコを自分の部屋に引き入れて轟音の炸裂を耳にしたとき、彼はいさんで研鑽の成果をみせたわけだ。

「コクボは自分からすすんで、君に大口を開けたってことか」

「『舌をもっと出して』」 クミコは女医とも恋人ともつかぬ口調で、コクボに告げた言葉を繰り返した。「『もっとよくみせて』、そううちが言うた」

「なるほど」

僕が誉めたと勘違いしたのか。彼女は自負の念を混ぜ入れてつづけた。

「うち、ミヨのポケットから毛玉を一つとり出すと、コクボの開けてる口の中に、ふっと息を吹きかけたんや。そしたらあのひと、大きめに息を吸うた。そこを狙って、放り込んだんよ」

コクボはきっと、絶対に毛玉を吐き出すまいと悲壮な決意で、後輩に負けない大口を開けて息を吸い込んだはずだ。その大口の真ん真ん中に別の毛玉が飛んできたのだから、ひとたまりもなかったろう。

クミコのこの所作を記憶に刻んだミヨは、オオハラ理事長の大口が息を吸った瞬間に、毛玉を放り込んでみせたわけか。

「うっく」

しゃっくりに似た音がクミコから聞こえた。次の瞬間、彼女はこたつから身を乗りだし、ミオのポケットに両腕を突っ込んだ。毛玉で自殺を謀る気だ。

僕は、懸命に両腕にしがみついた。クミコは、僕に押さえつけられ仰向けになった体を激しく左右に揺すった。肘から先をくねくねと曲げて、両手に握りしめた毛玉を口にくわえようとした。僕は剛柔入り交じった肢体の運動に動転しながらも、唇に向かう彼女の指先をなんとかつかまえた。顔中引っ掻かれたが、ついに毛玉をむしり取った。

僕が左右のこぶしに毛玉を握りしめてクミコの上に斜めに倒れ込んだとき、彼女は両手両足を胎児のように縮こまらせた。その奇妙な格好に顔をのぞきこむと、思い切り息を吸って真っ赤になっていくのがみえた。号泣モードへの突入だ。

でもそれは、可哀想なほどに力を失った号泣だった。警察署ですべてを使い果たしたクミコは、かすれ声をじんじんと蝉のように響かせることしかできなかった。

そんな号泣に見切りをつけたのか。彼女は素早く身をよじると、ミヨのポケットにもう一度手を入れて、三つ目の毛玉を取りだしにかかった。目の覚めるように、青い毛玉だ。

僕は両こぶしの毛玉を左右に放ったあと、クミコの手にした青い毛玉を奪おうとした。すると彼女は上体をのけぞらせて、思い切り後方に青玉を投げ飛ばしてしまった。毛玉は夜の闇を映した廊下のサッシに当たって、ぽとり落ちた。

「何や、こんなもの」 玉の行方もみえないまま、クミコはかすれ声で泣いた。「何や、こんなもの」

クミコのか細い体が僕の下で震えた。僕はふわふわとしたちっぽけな毛玉が人間たちを翻弄してきたことに奇妙な感動を覚えて、うつ伏せのまま涙ぐんだ。

ミヤー。

耳たぶの近くで黒猫が鳴いた気がした。顔を上げると、青い毛玉の横に行儀良く坐ったミォの銀目が光った。

「ミォ」

残るひとりがつられてそう言い、いつもの回れ右をした。


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