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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その三十六

というわけで、物語はここで終わる。

三人仲良く暮らしつづける僕らだが、マニラでの不安な毎日については、いまだに懐かしく語ることはできない。一方、現在の生活といえば、まずまず楽しいけれども、詳しく紹介するにはリスクが高い。

そこで参考ながら、僕らが当地で所属するクラブの雑誌から、インタビュー記事の一部を訳出してみよう。これによって、三人の暮らしぶりを少しでもお伝えできれば幸いである。インタビューは昨年の暮れに、僕の自宅でおこなわれた。聴き手の女性は、美しさの欠如を補って余りある好人物だった。



----ご家族は?

  妻と娘の三人です。

----お二人ともおとなしい方ですね?

  ええ。とくに娘は年頃で、恥ずかしがり屋なのです。

----ご趣味はなんですか?

  妻は奇術、娘は体を回転させることです。

----なんて面白い趣味。で、あなたの趣味は?

  さあ。しいて言えば、脳がとろけるのを楽しむことかな。

----それ、私も大好きです。

  聞いて嬉しいです。でも一緒に体験するのは慎みましょう。

----セニョール。噂どおりの楽しい方ですね。

  有り難う。



この物語を書き終えて、僕はあらためて感じている。今のちっぽけな幸せは、バブル時代の日本を生きたお陰ではないのか。といっても、バブル期の不幸をダシに使う幸せではない。あの時代に経験した耐えられないほどの軽さが、当地の生活に必要な一種の「乗り」を与えてくれるのである。

大統領選挙の数だけ大暴動が起こり、新生児の数だけロマンスが証明される国。内閣の寿命は歯ブラシよりも短く、競技場の入口に並ぶ列は独立記念日の行進よりも長い、といわれる国。メイドや門番の三分の一が一ヶ月で行方不明になり、そのうち三分の一は誘拐され、残りの三分の二の半分は誘拐の狂言にすぎないと噂されていて、しかも噂の真相は誰にもわからない国。僕がこの国でクミコとミヨとで楽しく暮らしていけるのは、幸福につけ不幸につけ人生は軽くなり得る、というバブル時代の教訓があるからだ。衛星放送でたまに報道される日本の様子をみると、ひょっとして地球の裏側でひっそり暮らす僕たちだけが、バブルの伝統の継承者なのではと思ったりする。

有り難きバブル時代、そう書くことを許して欲しい。いかにもあの時代は僕をクミコとミヨに出会わせたし、三人を固く結びつけた。三億円というおまけまでつけて、海外に送り出してくれた。あの時代のお陰で僕は十桁のゼロまで数字が読めるようになったし、資産を分割して投資したり、納税金の極小化を勘案するようにもなった。現在所有するドル立ての資産は、円に換算すると円高のせいで微増したにすぎないが、高利回りの債券は満足度の高い収益をたえずもたらしてくれる。

この物語はそういう財政基盤の上に書かれたものだが、実はあらたな収入源としての期待が相当に込められている。二十年以上も昔の出来事だけれど、ニュースとしての価値は高いはずだ。



日本の優秀な編集者の皆さん。この原稿を買ってください。


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