Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その三十一 翌日、ミヨが警察署でなく大学に連れて行かれたのにはわけがある。 黒猫ミォは野良の出自をもつせいか、冬でも早朝から外に出たがる。その早朝にクミコが廊下のサッシを開けて出してやった黒猫は、サッシの端を細く開けておいたはずなのに、どういうわけか朝食時になっても戻らなかった。 「きょうのミォ、やけに長く外にいるんやな」 そうこうするうちに、ミヨが「ミォ、ミォ」と鳴き始めた。 「寂しいのかな?」 「そやろか」 クミコはそう言いながら、彫りの深い目をまばたくと、片耳に手をあてた。コンビーフサンドイッチを皿に置いて、彼女は席を立って居間から出ていった。 「ミォ、ミォ」 ミヨは鳴きつづけながら立ち上がり、母親のあとを追った。僕はしゃべりも鳴きもしなかったが、やはり席を立って様子をみにいった。 ミヨが寒い廊下で外をながめていた。クミコはサッシの戸を開けて、外に出ている。彼女は庭のケヤキに近づいてから、真上を見上げた。一番低い木の股に、ミォが丸まって鳴いていた。ケヤキに登ったのはいいが、下りられなくなったのだ。 クミコは手を伸ばして、ミォを抱き下ろそうとした。だが彼女がいくら背伸びしても、指の先はミォからはるか離れたままだった。仕方なく、僕は大きなサンダルをつっかけて庭に出た。クミコの横に立つと、思い切りつま先だって両腕を伸ばした。幸いに、ミォの首輪に手が届いたので、僕はそっと枝から引っ張り下ろした。 ミォは下ろされた直後によろけたが、四つ足を踏ん張るようにしてしっかり立ったのち、ゆるゆると腰を振って家に戻っていった。猫にもプライドがあるらしい。 その直後から、ミヨは僕につきまとうようになった。 「イヤやわ。親が役に立たなんだ日には、すぐに保護者を変えたがる」 嫉妬とひねくれも手伝ってか、クミコは自分だけさっさと警察署に行くための着替えや化粧をはじめた。でも彼女は、人数分の弁当は用意していた。 上るだけ上って降りられなくなった猫か。僕みたいだな。そんなことを考えながらミヨの手を引いて、僕はキャンパスに着いた。理事長室に向かうときも同じことを考えた。 どんな用件か知らないが、昨夜の電話の調子からすると理事推挙の話ではなさそうだ。僕だけが下に降りられなくなるのなら、まだいい。オオハラと引っついて震えてなくてはならない状況だけは、絶対に避けたい。そう思った僕だが、じきに杞憂であることがわかった。 ノックしてドアを開けると、オオハラは正面の机で書類を書いており、顔を上げようともしない。ミヨの手を引いて立ったままでいるのはご免だし、かといって黙ってソファに坐るのも気が引けたので、声をかけた。 「山部です」 彼はまだ顔を上げない。なにか特別な理由で僕を呼びつけたことが、これではっきりした。 突然、ミヨが僕の手を払うと前方に歩き出した。白のとっくりのセーターに赤のジーンズといううしろ姿が、あれよあれよという間にオオハラの大机の横まで進んだ。 オオハラも気配を感じたのだろう。万年筆を置くと、あごをしゃくり白髪をばらけさせて顔を向けた。彼はそのまま動かない。ミヨもいつの間にかオオハラに向かい合って、動きを止めていた。 大伯父と姪の子との意外な初対面に、僕は血の絆を感じないわけにいかなかった。しかもミヨは、ジーンズのポケットから青い毛玉を取りだすと、大叔父の机の上に乗せたのである。 大叔父は目の前に置かれた不思議な物体に目をむけたらしく、頭をかすかに動かした。 「ミヨか?」 ごつごつした手が毛玉に伸びたが、方向を変えてミヨのおかっぱ頭にふれた。 言葉をしゃべらない子どもだと、探偵から聞いていたかどうかは知らない。でもオオハラは返事は不要というように、円を描きながらおかっぱを撫でた。それからその手をもったいなさそうに離すと、途中で毛玉にさわり、もとの机の下の位置へと戻した。 「可哀想な子や」 この言葉は、目にしたばかりの子を憐れむためでなく、即刻に別れを告げるためのものだった。もったいなさそうに戻した手も、別れのための彼なりの小道具だった。その手が毛玉に立ち寄った理由については、よくわからない。ただの好奇心と思われる。 「親が悪いばっかりにな」 オオハラはそう言って別れのシーンを終えると、背筋を伸ばしてようやく僕に顔を向けた。 「これや」 書いたばかりの一枚の紙きれを、彼は僕につき出した。立って取りに来いということか。僕は彼の傲慢な演技に合わせるよりも、その紙が何かを知りたくて、立ち上がって前に進んだ。 「手形や」 ちっぽけな油の染みた紙には、ゼロを幾つも並べた数字が打ち込まれていた。ちょうど一週間前に、幾度となく読んだ数字なので、すっと読めた。二億円。 「心配いらん、不渡りやない。裏をみてみ。イチカワ先生の会社がちゃんと、裏書人になっとる」 なるほど、べたべたと押された印鑑の一つに、太平洋建設らしきものがある。イチカワ議員の会社か。余計に危ないではないか。 「決済は来月一日やけど、松竹銀行で割り引けば、九十八パーセントで現金化してくれる。ナミヒラによおく言うといた」 どういうことだ。年三割の利子で現金を貸したのに、借りた額の手形で返済して割引率を自慢するという神経に、僕は呆れた。 「立ってなくていい。座り」 なおさら呆れて、立ったまま馬面をつくづくとみた。 「これで返済は終わりや。その代わり、辞表を出してくれんか。正直いうてな、警察ににらまれてる人間に、大学にはいて欲しくない」 なんという奴だ。カネに窮して僕の世話になったのに、しかも姪の起こした事件を僕のカネで始末させたのに、警察沙汰に巻き込まれそうになっただけで、とたんに僕の首を切るのか。 「君の抱える大金かて、もとはクミコのものやろ」 ナミヒラだ。彼以外にこのことを洩らす人間はいない。 この野郎! 当時流行の表現を使えば、僕はほとんどぶん殴ってやりたい気持ちだった。ナミヒラを殴りたかったか、オオハラを殴りたかったかは確かでない。でも僕は、友だちのかみさんとは違う。殴りも泣き出しもしないで、少々声をあらげてこう言った。 「辞表は出しません。僕をやめさせる権利は、あなたにはないです。それでも強引にやめさせるなら、どうぞやってご覧なさい。裁判になるでしょう。そしたら、あなたが僕にやらせたことを、新聞社にだって組合にだって、一切合切ぶちまけてやる」 話ながら、少しヤバイ気がしだした。ちょうど便器の蓋をみつめて、あのとき探偵と交わした脅迫のし合いに似ている。この場合、どちらの強気がとおるのだろうか。 だが迷う必要はなかった。オオハラは十分に脅迫されてしまい、馬面の口を馬のように上下に大きく開けてがなりはじめた。 「お前、そんなデタラメがとおると思うか! 俺を舐めるんやない。裁判? 新聞社? 組合? 俺が握りつぶしたる」 馬面がいかに解任された大臣と親しくても、僕の対抗手段を握りつぶすことはできないはずだ。馬はいったん口を閉じ、ぶるんと武者ぶるいした。だがもう一度開けたとき、あんぐりと途中で止まった。 「すみません」 鼻にかかった秘書の声に振り向くと、和菓子とお茶を二人前乗せた盆が運ばれていた。彼女は僕が呼び出された理由など知らないから、きっと一週間前と同じ客に同じ接待をしに現れたのである。 秘書はお茶と和菓子を前屈みにゆっくりとソファのテーブルに置いたあと、残り一人分を大机の方に持ってきた。ちょうどミヨが邪魔になったので、僕はこの子の手を引いて自分の側に寄せた。 オオハラは余計な邪魔をされて不機嫌そうだったが、好物の和菓子が近づくにつれて表情を変えた。小さくて上品なおはぎが手元に置かれると、物欲しげな視線を向けた。だがさすがに、前回と状況が違うのを忘れなかった。 秘書がドアを閉めたのを確かめると、オオハラは顔を上げて、僕の反論をもう一度握りつぶしにかかった。ぶるんと口元を震わせて体勢を整えるや、彼はがばっと口を開いた。 そのときだった。僕の横から細い腕がするりと伸びて、馬の口に毛玉を放り込んだ。ちょうど思い切り息を吸うタイミングだったので、緑の玉はのどの奥へと鮮やかに吸い込まれていった。 ヒィー、ヒィーと、馬のいななきを押しつぶしたような音を立てると、オオハラはのどを両手で締めつけ首を大きく左右に振った。ヒィーと今度は一回だけ鳴いて立ち上がり、真っ赤な顔をいっぱいに歪めてうつむいた。 「すみません、忘れました」 うしろから秘書の声がする。僕が振り返ると、彼女は和菓子用のフォーク二本を左右の手に持ったまま、放心状態にあった。 ヒィーとまた音がしたのでオオハラをみると、片手を首から放して椅子の肘掛けに手をかけている。ヒィーとつづけて鳴こうとしたが、もう鳴けなかった。体をうしろに回転させながら、ふかふかの絨毯に彼は崩れ落ちた。 僕は机の横から回り込んで、丸まって動かない彼をみた。反射的に秘書に目を向けると、彼女は床をみつめ天井を見上げてから、僕を凝視した。 「ぎゃっ」 そう一声上げて、フォーク二本をつかんだまま彼女は逃げ出した。 僕は冷静に頭をめぐらせた。オオハラが死ぬなら、僕にとってよいことだ。しかも、とっておきの目撃者だってできた。問題はこの毛玉をどう説明するかである。僕はミヨがさきほど机に置いた青い玉を取り上げると、彼女のジーンズのポケットに戻した。ちょっとのぞくだけで、赤、ピンク、黄色と、まだまだ残っていた。 しゃがんでオオハラを観察した。顔は探偵から渡されたコクボの写真のように、下に向いているのでよくみえなかった。片手はのどにかけられており、もう片手は体の下になって背中の方にねじれていた。グレーの背広の肩に手を掛けて揺すったが、動き出すことはない。背中と肩に両方手を掛けてさらに大きく揺すったが、反応はない。 まさか、得意の演技ではあるまい。気持ちよくはなかったが、背中に耳をつけて音を聞いた。なにも聞こえない。人間はこんな簡単に死ぬものか。騙されているのではないか。僕は気づいたときには、オオハラの肩を両腕で床に押しつけ、体を上向かせていた。涙とよだれで汚れて白目を剥いた顔をみたとき、彼の死を実感した。 どこか遠くから、廊下を駆けてくる数名の足音を聞いた。先頭は事務長だった。彼はどういうわけか、死顔の頬を思い切りつねってから、馬乗りになり人工呼吸をはじめた。男性事務員ふたりが僕の横にしゃがんで、「理事長!」「頑張って!」と懸命に声をかけた。 部屋がいつの間にかひとで埋まったとき、僕はミヨを放っているのに気づいて、彼女の手を取り廊下にでた。救急車が到着して担架が運び込まれるのをみると、「来るべきは警察なのに」と心でつぶやいた。 そして警察が来た。案の定、僕はミヨを横に連れたままで質問攻めにされたが、別室で金切り声をあげる秘書が決定的な味方になった。 事務長も質問されたらしい。だが、理事長の頬をつねる必要があったかどうかについて、問い正す刑事はいなかった。 » » 次を読む |