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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その三十

でも、僕を綺麗とみなさないひとがいた。

電話を切って仕事部屋に入ってから、一時間もしないうちに玄関のチャイムが鳴った。クミコとミオは駅前のスーパーに買い物に出ていたので、僕がインターコムで応答するしかなかった。

「すみません、山部さん」

いんぎんでへつらうような言い方なので、セールスマンかと思った。

「大阪府警の者です。ちょっとお話をうかがわせてもらえませんか?」

隠れたいというより、一刻も早く質問内容を知りたくて、僕は玄関に走った。

ドアを開けると、ネクタイを締めたコート姿の男二人が並んで立っていた。

「お休みのとこ、失礼します。玄関に入れてもろてもよろしいか?」

セールスマンの物言いをした中年の男だが、口調は変わった。銀行員とも郵便屋とも違い、町内会費の取り立てに来た隣人の話し方でもなかった。恐くもやさしくもなく、冷たくも暖かくもない。これが刑事というものか。そう思いながら、僕は二人を玄関に入れた。

「はじめまして。私は曾根崎署のマミヤいいます。こちらは同僚のコガネです」

マミヤは四十代、コガネはせいぜい三十というところか。

「実はですね」

マミヤは床上に立つ僕をちらりと見上げた。獲物をうかがうような切れ長の目に、僕ははじめて恐さを感じた。マミヤは視線を自分の胸元に移すと、コートの下から何かを取りだした。

「この男を知りませんか?」

そう言って彼は、僕に写真を渡した。

正面をむいてかしこまった探偵の顔写真だった。

大きな歯車がまわりだすのが、僕にはわかった。止めることのできない大きくて組織だった動きだ。止めようとあがくのは愚かだと感じた。歯車の動きをじっと観察して、どこでどう巻き込まれるのが一番ましなのか、みさだめるしかない。

「さあ、どっかでみた気もしますが、ちょっと」

首をかしげてみせた。

「本当に知りませんか?」

またあの目でちらりと見上げた。

「みた気がするのですが、思い出せません」

くすっと、マミヤが笑った。笑うというよりも、口元を笑いの形にして息を吐いたという方があたってる。

「思い出せませんか?」

笑いを消すと、僕に目を据えて動かさない。

「いますぐには、ちょっと」

マミヤは視線を横に移し、首をかしげてみせた。

もしかして、と僕は気をゆるめずに考えた。このひとたちはこんな演技をずっとしてきたんだろうか。あまり気持ちのよいひとたちではない。

「わかりました」 彼が言った。「もしも思い出したら、署の方に連絡いただけませんか?」

「もちろんです」

「すみませんな。お休みのところ、突然お邪魔しまして」

ふたりはドアをあけて背中をみせた。ところがマミヤはもう一度振り向いて、念を押すような素振りでまったく別のことを訊いた。

「オオハラ・クミコさんとは、どんなご関係です?」

驚いてはいけない。警察は同居人のことくらい調べているはずだ。

「一緒に暮らしてます。結婚はしてませんが」

余計なことをいってしまった、と後悔してマミヤをみると、二度も深くうなづいている。

「いま、お会いできますかな」

きたな、と思った。

「買い物に出てます」

「わかりました。それでは、外で待たせてもらいますよって」

マミヤはそう言うなり、外に出てドアを閉めた。

なんてこった。クミコは何にも知らずに帰って来て、突如刑事に声を掛けられるわけだ。警察の聞き取りには慣れているだろうが、現場の証拠隠滅と死体の処理について、あらかじめ受け答えの打ち合わせておくべきだった。

僕は廊下を何十回、いや百何十回と往復した。玄関で折り返す際、いつも耳を澄ませて外の様子をうかがったが、しんと静かでひとのいる気配さえない。

百何十何回めかは知らない。ともかく廊下の突き当たりまで歩いて振り返ったとき、ドアが開いてクミコとミヨが入ってきた。僕が駆け寄ったのはいうまでもない。

「どないした?」

ミヨの手を放して、スーパーの袋二つを両手に分けながらクミコが平然と訊く。

「刑事が外にいなかった?」

「うん、いたよ」

「何か訊かれたかい?」

「写真みせられて、このひと知ってるか訊かれた」

「それで?」

僕は息をのんだ。

「知らん言うた。知らんひとやよって」

「それだけ?」

「それだけやった」

よかった。これからさっそく打ち合わせだ、と僕はいさんだ。

けれども打ち合わせとは、すればするだけ予想外の状況に対する適応能力を奪うらしい。打ち合わせをするほどに、僕らの中には大きな歯車に噛みあう小さな歯車がしっかりとできてくるので、噛みあわせの狂いが少しでも生じると、あっという間に大歯車によって噛み砕かれてしまう。

そんな怖さを、僕はほどなく味わうことになった。

日曜日がすぎて月曜日がくると、大学に出かけて、つつがなきを得た。翌日の火曜日は、僕を理事に推挙する理事会が開かれるはずだった。ところが当日になっても、理事会の「り」の字も感じさせる雰囲気がなかった。

午後五時、オオハラの秘書が帰る寸前まで待って、僕は彼女に電話した。

「急遽延期になったんです」

なんだ、そうだったか。ではいつに変更されたか、と僕は訊いた。

「それがまだ未定なんです。理事長がお忙しくてあちこちに出かけてるもので、予定も立てられないんです」

僕は礼を言って電話を切った。オオハラには二十億円の取引をすませた翌日に、ふかふかの絨毯を踏みながら事後報告をしておいた。話を聞いた彼が、なんとも不可思議な笑みを浮かべたのを覚えている。

「ええなあ、二十億円か」

オオハラは姪の窮地を救う値段の巨大さよりも、巨額な金を引き出した姪の窮地の方を羨んでいるようだった。

以来、彼をみていない。よほど忙しいのだろう。そう思って帰り支度をはじめたとき、研究室のドアを叩く音がした。

「はい」と返事をすると、ぬっとドアが開いて、土曜日のふたりが立っていた。

「どうぞ、お入りください」

親切心ではなく、廊下に長くいられるとまずいので僕は言った。

研究室には窓際の事務机のほかに、中央に四角いテーブルがある。おもに学生の指導をするときにもちいている。ふたりを中に入れると、そのテーブルがどんと構えているので、当然どうぞお座りくださいとなった。

「いやあ、お帰りのところでしたか。失礼しました」

マミヤは研究室をじろりと見まわし、僕のカバンとコートが事務机に乗っているのをみると、まず詫びを入れた。そして土曜日ほどではないが、いんぎんな口調で話しはじめた。

「ところで先日の男ですが、もう一度写真をみてもらえませんやろか」

言ったときには、すでにコートの下から例の写真を取りだしていた。

「ちょっと思い出せません」

数秒の間をおいて、僕は答えた。

「そですか。なら、この男はどうです?」

マミヤはカードを切るように、ぱっともう一枚の写真をだして、正面に坐る僕に向けて置いた。

どう答えよう。僕は迷った。肌が白っぽくて輪郭はふっくらしているが、写真は間違いなくコクボだった。

「さあ、思い出せません」

「ホンマですか?」

マミヤは、テーブルに並べた二枚の写真を順にとんとんと叩いてみせたあと、あの獲物をうかがう目で僕をみた。

「実は両人ともごく最近に死亡しました。そしてこちらの男の手帳には」 マミヤはそう言って、探偵の写真の方をまた叩いた。「あなたの名前が書かれてました。一月七日水曜日、つまり死亡の前日の欄にです。なにか、関係あるんやないですか?」

「知りません」

動揺した。あの晩、ホテルのトイレのドアを閉めて、ふたりでささやき合いの争いをしたのを思い出した。工員ふうの男たちの身元がどこに書かれているかと僕が正すと、探偵はあちこちに書き散らかしたので覚えていないと答えた。彼は仕事のメモを、スケジュール帳にも記していたのだ。

「先日は確か」 マミヤは僕から目を離さずに訊いた。「どこかでみた気がする、といいはりましたな」

黙り込むしかなかった。

「カネをつうじて知り合ったんとちゃいますか?」

きいん、と耳鳴りがした。いんぎんな口調と鋭い質問の対比で、マミヤは僕をめまいさせた。

「実はね、あなたの名前の横には、『十億、十億』と記されとるんです。なんの意味やろ? あなたと十億、十億の関係。それで思い当たるのは、一つしかない。カネです。昨年の八月にあなたは、二十五億五千万円ほどの利益を土地売却でお上げになった。いやはや、たいしたもんや」

とにかくここは耐えることだ。余計なことを口にすると、あとで取り返しがつかなくなる。僕はぐっと奥歯をかみしめた。

「でも巨額の利益を生むには、それだけの資金がなければいけない。なるほどあなたには、いまから一年余り前、フィリピンから二十億円の振り込みがあった」

マミヤはふっと息をつくと、ふたたびとんとんと指で音を鳴らした。

「こちらの男、知りませんか? あなたの同居人、オオハラ・クミコさんの雇用者で、彼女と昔一緒に暮らした男です。あなたとクミコさんがフィリピンに出た昨年の十一月寸前に、同じようにフィリピンに行った男です。それからもう一つ、四億円の脱税容疑で検挙される寸前だった男です」

マミヤは黙った。僕ももちろん、ひと言も口をきかなかった。

「一方に、行方不明の四億円。他方では、ゼロから二十億円に跳ね上がったあなたの副収入。そして両方が、同じ時間と場所と人物とでつながってる。これについて、なんぞおっしゃりたいこと、ありませんか?」

首だけ振ってみせた。大丈夫だ。警察は疑念をもってはいるが、まだ十分な証拠を握っていない。僕はそう素早く判断して、自分を勇気づけた。

「おい」

マミヤの声が急に低くなり、乱暴な言い方になった。

「はい」

年若の刑事でコガネという名前の男がそう答えて、胸ポケットからもぞもぞと大きな手帳を取りだした。

「ではすみません。先週水曜日、一月七日に何をなさったか、思い出す範囲でできるだけ詳しく話してもらえませんか」

手帳に書いたセリフを読むように、年少の刑事は頁から目を離さずに僕に告げた。

アリバイか。僕は用意していた内容を、できるだけゆっくり記憶をたぐるふりをして話した。コガネが確認しながらメモをとる間、マミヤは腕をくんで僕のうしろの本棚に目を向けながら、話に耳を傾けていた。

僕が「C'est la vie」を出てタクシーを拾い帰宅するまでを話し終えたとき、マミヤは本棚の一角を指さして言った。

「ちょっと、そこの本を貸して頂いてよいですかな?」

僕は振り向いた。学術書ではなく、一般書がごちゃごちゃと積まれた一角だった。かつて1LDKの狭いマンションに住んでいた頃、僕は廊下まではみ出しそうになった一般書の一部を研究室に移動させたのである。

マミヤはテーブルを回って僕の後方まで来ると、平積みにされた文庫本から一冊を取りだした。何の本かは、僕にはみえなかった。ポルノなど、少なくとも研究室には置いてないはずだ。おそらく推理小説だろう。

「推理小説がお好きなんや。それにところどころ線を引いてはる。やはり学者さん、違いますな」

いわれるとおり。僕には好きな表現や興味を引く事例に出会うと、つい線を引いてしまう癖がある。昔、美智子にからかわれたものだ。

「これ、お借りしていいですか?」

「何て本ですか?」

「『ブラウン神父の童心』」

事件と大いに関係ある本ではないか。だったら余計、貸せないとはいえない。

「すみませんな。いえね、あなたがみたことある気がするいうた男も、これと同じ本を持ってまして、しかもまったく同じ箇所に線を引いとるんですわ。偶然ってあるんやな」

でもマミヤは明らかに、偶然の証明のために本を借りるのではなかった。

「実いいますとな。この殺された写真の男、私の元同僚なんです。推理小説好きでね。やっぱ探偵にあこがれてたんやな。二年前に警察やめて、私立探偵はじめまして。死亡したあとで事務所を調べに行ったら、なんと机の上にこれと同じ本が置いてあったんです。あなたは鉛筆、彼はボールペンと、線の引き方は違いますがね。ホンマ、殺風景な部屋で、からっぽの金庫だけが目立つ事務所で、この本は目立ちましたよ」

僕が『ブラウン神父の童心』の話をもちだしたとき、探偵はすでに読んで知っていたのだ。きっと彼は電話を切ってから、指摘された箇所を読み直して線を引いたのではないか。それにしても、抜けた男だ。手帳といい、今度の本といい、不利な手がかりばかり残している。この先、何がでてくることか。僕はそう思いながら前に向き直った。

「おい、誰ゆうたか、あの名前。チャンバラやないな」

「チャンドラーです」

コガネはこの種の会話に慣れてるらしい。

「そや、チャンドラ。奴はチャンドラがとくに好きでね。そのチャンドラとかの言葉をよく引用しました。『男は強くなければ生きていけない。だが、やさしくなくては生きていく資格がない』 俺まで覚えてしもた。チャンドラの言葉が好きなくせに、というか好きだったからか、えらい恐妻家やった」

マミヤは僕の正面の席に戻った。おしゃべりをつづけるにつれて、関西弁が強くでた。

「でも実際の捜査に推理小説は禁物。奴はよくそれをごっちゃにして、トンチンカン言うて上司を怒らせてもうた。手がかりがみつかると偽装工作やいうし、アリバイがとれるとアリバイのある奴こそ怪しいなんていうてね」

あのとき、推理小説を持ち出した僕を「ボケ!」と怒鳴ったように、きっと彼も怒鳴られたのだ。

「でも一度だけ、まぐれ当たりがあったんです。やはり焼死体が発見された事件でした。女の焼死体やったけど」

マミヤに目を向けると、すでに僕に視線を据えていた。

「彼がどんな推理したかわかりますか? ろくに証拠もそろわんうちに、いいよった。殺しの犯人とホトケを焼いた犯人とは別や。殺したのは夫の宝石屋で、死体を焼いたのはそいつの愛人や。なんと、奴は見抜きよったんです。大手柄たてて、府警の本部長から表彰状をもらいました。われわれは『まるで推理小説の探偵やな』、いうて奴をからかった。まぐれ当たりでしか、犯人逮捕できひんいうてね。おや、脱線しましたな」

脱線どころか、レールの上に僕を引き込もうとしている。

「話を戻しますと、あの事件では、女の死体を女が運んで焼いた。われわれは、惚れた力やいうて感心しました。けど、もし死体が男やったら、惚れた力ですまなかったかもしれませんな。肉体的なハンディを克服するために、それこそカネの力を借りにゃいけなかったかもしれません。ほかの誰かをカネで雇って、ホトケを焼くいう方法です」

マミヤは真相を見抜いてる、と僕は確信した。ただ彼は、証拠が足りなくて僕を揺さぶっている。そうふたたび言い聞かせて、僕は奥歯にいっそうの力を入れた。

「お邪魔しましたな。きょうは、これくらいにしましょう」

明日もあるってことか。少しずつボディ・ブローを加えるようにして僕を弱らせ、一挙に落とそうという気だ。でも確かに、僕は疲れた。思えば、年末にコクボの話を聞かされて病気で寝込んで以来、立てつづけにパンチを食らってきたのだ。

重い足取りでやっと火葬場のとなりにたどり着くと、クミコがやけにはしゃいでる。

「警察来たんよ。ううん、午前中。いろいろ訊きよった。うち? 平気や、慣れとるし。でもあしたはな、警察署まで来てくれいうねん。ミヨ、どないしょ? 保育所が近くにないと、こういうとき困るわ」

警察が署への同行を求めるとは、彼女の供述書を作りたいためか。それとももっと深い理由で、特別な取り調べをおこなおうとしているのか。僕には大変に気になる事柄だった。

でもクミコが気になる事柄もわかった。いくらミヨが黙ってじっとしてる子でも、警察に手を引いて連れて行くには抵抗があるだろう。

「心配ないよ。僕が大学に連れて行ってちゃんと面倒をみるから。あしたはちょうど授業がなくて、学生の個人指導だけだし、時間があれば、広いキャンパスで遊ばせてやるよ」

「でも」

クミコの困った顔は、大嫌いな伯父のいるところに大事な娘をいまさら近づけたくない、と語っていた。

「大丈夫。オオハラはどうも僕を避けてる気がするから」

「ホンマ?」

クミコが言った瞬間に電話が鳴った。悪いことに、オオハラからのじきじきの電話で、しかも明日に大学で会おうという内容だった。


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