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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その二十九

探偵が約束を果たしたことは、意外にも翌々日にわかった。彼は二度と僕に会わないし、僕を恐喝もしない。なぜなら、彼は死んだのである。

「もう、イヤ。お店のトイレで客が死ぬのみたなんて」

「なにいうてんの、あんた。前の晩には、わざわざ国道まで死体をみにいったくせに。ひとが多くてみえなんだ言うて、悔しそな顔してたくせに」

エリと別の子の会話を、僕は黙って聞いた。まさか、あの男が翌日の晩にこの店に遊びに来るなんて、誰が予想したろう。巨額のカネを手にした彼はまず、ぱっと遊んでみようと思ったのだろう。それにしてもなぜ、「C'est la vie」なのだ?

「ホンマ嬉しそやった。ずっと来たい店やった、いうてたもんな」

「それが裏目に出たんやないの。なあ、エリ?」

僕の両脇の女の子たちがそう言うと、向かい側に坐るエリは煙草の煙を吐くなり、ぷんとそっぽを向いて言った。

「もう、その話、せんといて」

聞きたい。でも、あの男に特別に関心がある素振りなど、みせてはならない。どうしよう? カタミを持ち出せばいい。

もともと僕が今夜単身でこの店に来たのは、カタミのせいだった。きょうの昼過ぎ、僕の研究室にカタミの秘書が電話してきて、カタミ弁護士が今夜僕と「C'est la vie」で会いたい、との旨を伝えた。ところが夕刻になってふたたび電話がかかり、店に行く時間的余裕がないかもしれないので、相談は後日にしようと訂正した。それでも僕は、彼からの伝言が気になってわざわざ足を運んだというわけだ。

右に座った女の子に、なにくわぬ顔で訊いた。

「で、夕べはカタミさんもいたの?」

「そう」

彼女の返答は語頭にあまりに力が込められていて、ウッソーに聞こえるほどだった。

「カタミ先生、お客さんの死に立ちあったんやもん」

「どういうこと?」

うまくいった。これなら自然に話を聞き出せる。

「先生、夕べはさんざんやった」 右の子が話だした。「あの客、酒癖悪くてからみよるねん。しかも私らに対してでなく、先生にな」

そういえば、あの探偵をオオハラに紹介したのはカタミなのだ。探偵がカタミの話や噂を聞いて、この店で遊ぶことを夢にみつづけたとしてもおかしくない。探偵はカタミに世話になりながらも、カタミに嫉妬を感じていたのでないか。しかも刑事あがりの彼は、カタミが綺麗なふりをしてあこぎな金儲けをする人物と知っていたろうから、秘められた反感はなおさら強かったはずだ。

「どこで聞いたか。二百万円のゲームを知ってて、カタミ先生にやれやれとせがむんよ」

「先生も困ってはったな」

左の女の子が脚を組み替えながら、言葉をついだ。

「あげくにあの客、自分でやる、言い出したんや」

ありうる。ようやくあこがれの店に来た彼は、嫉妬の対象だった男を目のあたりにして、その男の金にあかした遊びを、自分の金で横取りしようとした。

「誰かゲームの誘いに乗ったの?」

さりげなく問いを投げた。

「誰も乗らんわ。カタミ先生の専売特許やもん」

左の子が言うと、向かいにいたエリが立ち上がって別のテーブルに行った。

「ひとり例外がおったがな」

「そうそう。カネと死体の大好きな子が」

左右の女の子たちはさっそく、いなくなった子を話題にして盛り上がった。

「センセ。エリがいつか、カタミ先生の賭けに乗ったとき、いはったな?」

僕はうなづいた。

「あの子、がめついけど賢いやろ?」

右の子の言葉にどう答えるか迷う間もなく、左の子が言った。

「賢いとはよういわんわ。ズル賢いいうねん」

「そや。ズル賢いやろ?」

余計に答えづらくなったが、がんばって話題を引っ張った。

「ズル賢いって、夕べのことと関係あるの?」

「あるある。大ありや」

「あの子、客をカモにしよった。いつか知らんけど、ふたり女子トイレに行ってゲームしよって、誘ったんや」

「わかった。この前の手を使ったんだ」

思わず僕は言った。小鳥がさえずるようにして、エリが薄い唇を上下に開いた姿がまぶたに浮かんだ。

「ちゃうねん。そこがあの子の賢さや」

「ズル賢さ、いうてるやろ」

左の女の子はいまの時代に珍しく、こだわりのある子のようだ。

「とにかく、あの子な。客にどんなゲームさせた思う? センセ」

さあ、と僕は当然首をかしげた。

「あの子、客の話聞きながら、この客はゲームを知らんて読んだ」

「私かて、わかったわ」

「でも、あんたはよう思いつかんかったやろ? あの子みたいに」

「だから、ズル賢いいうてんねん」

どんなルールを持ち出したのかを聞いた僕は、左の女の子には悪いが、つくづくエリが賢いと思った。確かにカタミのゲームを最初に聞いたときには、僕自身も食パン二枚を水なしで食べるのにあんなに時間が必要とは思わなかった。エリはそれを身をもって実感しただけあって、盲点をついたのだ。

「あの子、ルールを逆さにした。つまり、男がパン二枚を三分で食べきれたらエッチ。食べきれなければ、彼女に二百万円払う」

「それで、黒服のお兄ちゃんにこっそりパンを買いに行かせて、女子トイレに置かしよった」

「札を握らせたんやで、きっと」

「ちがうて。からだで釣ったいうてるやろ」

どちらだったかは別にして、探偵は自分の勝率が高いと踏んで、きっと頑張って食パンを飲み込んだのだろう。

「うちら、いうてもまだ若いやろ。けど、あの客、年齢いってんのに無理したんや」

「それにしても、エリはもっと早うに、うちらに知らせに来るべきやった」

「本当。あの子、二百万に目がくらんで、三分が過ぎるまでほっときよった」

「きっと相手がもがき苦しんでる前で、二分十秒、二分二十秒と声上げて聞かせたんや」

想像しても気持ちのいい風景でない。

「エリがやっと知らせに来ると、カタミ先生飛んで行きはったけど、時すでに遅しや。のどに手突っ込んだり、人工呼吸したり、手尽くしはったのに」

なるほど、それで死に立ち会ったというわけか。でもこれは重大事件だ。僕にとってだけでなく、カタミにとっても一大事だ。あの二十億円はどうなったのか。場合によっては、あのカネが不審を呼んで、警察が動き出す恐れだって十分ありうるではないか。

いったいカタミは、きょう一日どうしていたのか。店に来る時間がなくなったのは、なぜだろう。

「そやけど、死体ひとつ出るって、大変なことやねえ」

「エリが警察にしつこく訊かれるのは自業自得やけど、カタミ先生が気の毒や」

「今夜、来ひんのも警察に時間とられたせいかも」

右の子も左の子も、僕より賢かった。

「センセ、今夜はゆっくりできるん? 金曜日やで」

「するしかないね」

僕はカタミが遅くに現れるかも知れないこの店で待つか、カタミの所在を確実につかめる明日の朝を待つしかなかった。

結局、翌朝に電話でつかまえた。

「きのうは秘書から電話を差し上げながら、お会いできなくてすみませんでした。いやあ、警察に繰り返し話をさせられた上に、供述調書まで作らされましたよ。お陰でこちらの肝心の仕事は大幅にズレ込んで、夜遅くまでかかったということです。それで?」

重大事を話しているのに、「それで?」はないだろう。だがさすがにカタミだ。

「ああ、そうですか。心配なんですね、あのカネの行方が。僕も僕なりにいろいろ考えたんですが、彼のかみさんに賭けることにしました」

「探偵の奥さんにですか?」

妙なことを言うものだ、と思って訊いた。

「あの夫婦は昔から知っててね。亭主は夢想家で、女房は現実主義者。当然、現実主義者の方が強いわけで、わけても女性なもので強いですから、亭主は苦労してました。まあ今度のカネは、あの男が恐いかみさんから自由になるためのものだったんだと、僕は理解してます」

「ということは」

何かを言いかけたが、言葉が出てこない。

「かみさんにカネの二十分の一でもくれたあとに、余生をひとり勝手に生きるつもりだったと思うんですよ。仕事やかみさんから解放されること、というよりも現実から解放されることが、あの男のささやかな、いや大いなる夢だったんですよ」

「それで、カタミさんがその恐い奥さんに賭けるというのは、どういう意味ですか?」

「役立つものは絶対に手離さない女でね。最初はそれが亭主だったわけです。でも一生うだつの上がらない刑事とわかってからは、実入りのいい私立探偵に鞍替えさせた。本人は乗り気じゃなかったけど、しぶしぶ警察を辞めて事務所を開いたわけで、正直、仕事はぱっとしなかった。最近では、電話でたまたまかみさんがでるたび、いよいよ亭主に見切りをつけようとするのがわかりましたね。でもその男が死んであれだけのカネを残したのだから、さぞや狂喜してるでしょう。おっと、話がずれました。つまり、あの女は役立つものをつかんだら、絶対に離さないということですよ」

「警察に報告しないということですか?」

カタミのさりげなく自信たっぷりな物言いに、僕は質問するのも気が引ける思いだった。

「警察に行くより先に、僕のところにくるでしょうね。相続の申告をすれば七十パーセントをもってかれるだけじゃなく、警察にも目をつけられる。ま、それは避けたいから僕に相談に来る。あるいは、同じ理由で来ないかもしれない。いずれにせよ、カネは抱え込むはずですよ」

僕は思い浮かべた。妻や仕事から解放されるために、あれだけ危険な依頼を引き受けた男。そしてせっかく二十億円を手にしたのに、たったの一日しか生きられなかった男。あこがれの高級クラブのトイレで、女の子を目の前にして冷たく秒読みされながらもがき苦しみ死んでいった男の姿をである。

「思えば、可哀想な男でしたね」

カタミがぽつりと言った。

「一生懸命に助けようとなさった、と聞きました」

「ううん、そうですかね」 カタミはいわくありげに言った。「ま、どっちにしても助からなかった気がしますがね」

僕はカタミのほのめかしに気をとめるよりも、あの二千本の札束がいまどこにあるのかに思いをめぐらせた。おそらくは大半がまだロッカーの中に眠っており、一部はかばんの中か事務所の金庫に保管されているのだろう。ロッカーの鍵はどこか。事務所の金庫かも知れないし、あるいは銀行の貸金庫かも知れない。どっちにしろ、男を支配した妻は金のありかを容易につきとめるはずだ。

「安心なさい」 カタミは電話の終わりに、いつものありがたい言葉をかけてくれた。「あなたも私も、綺麗なままですよ」


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