Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その二十八 JRの改札を出ると、今度は地下に降りて地下鉄の四つ橋線に乗った。ひとつ目の肥後橋で、カタミの紹介する税理士を訪ねるためだ。上得意の彼が、税理士の多忙なスケジュールの中に強引に押し込んでくれたアポイントメントだった。 おかげで僕は、探偵が証拠を隠滅し死体を運び去る重要な時刻に、アリバイをつくることができた。ちなみに大学を出てからそれまでの時間は、年末に鑑賞した同じ映画を観たり、本屋をのぞいたりして過ごしたことになっていた。 税理士といっても、彼は大きな会社の経理を手がける公認会計士であり、立派な事務所を構えていた。初対面の僕に、彼はつぎつぎに節税対策を紹介した。「資産管理の仕事を奥さんに担当させるという名目で、彼女への給与として毎月十五万円を経費で落としましょう」「借地人の立ち退きにかかった費用も、まだまだ加えられますよ。オーストラリア旅行もその一つにカウントできるかも知れません」「あいにくと私は、東京で発行された領収書は集めることはできませんが、関西エリアならいろいろとってきてあげますよ」、など並べて如才ない笑みをつくった。 税理士を目の前にしながら、僕はみたことのないコクボのマンションへと気持ちが飛んだ。コクボの部屋の正面、斜め上方、ベランダ側につぎつぎと想像のカメラを設置してはレンズをのぞき、廊下や非常階段や路上に停めたBMWの風景を移動カメラで追いかけた。 「ということで、よろしくお願いします」 僕は深々と頭を下げ、彼に見送られて事務所を出た。腕時計で時間を確認すると、六時十五分とまずまずの出来だった。 四つ橋線でふたたび大阪に戻った。西から東へと長い地下街をゆっくり移動して、ちょうど七時に東側の喫茶店に着いた。真四角な店をみまわしたが、探偵はまだ来てない。どちらか先に着いた方がここで飲み物を注文し、もうひとりが店の入り口に姿をみせるのを待つ、という筋書きだった。 コーヒーをときどきすすりながら、僕は待った。七時十五分。七時半。七時四十五分。遅い。店の客はすっかり入れ替わって、僕の存在がひどく目立つ気がした。八時をまわったとき僕はいよいよ、カタミと夕食に待ち合わせた日本料理屋に移ろうかと思った。あまりに遅れた場合には、デパートのレストラン街にあるその店に来るよう、打ち合わせしてあった。 八時十分。伝票を片手に席を立ったとき、探偵が入り口にあらわれた。こわばった顔をしており、まぶたの端にぴくぴくとけいれんが走るのが、遠くからでもわかった。 店から五メートルほど歩いた幅広い地下道の壁際で、僕らは前後して立ち止まった。目の前には、ひとびとがせわしなく行き来していた。 探偵は振り向きざま、白手袋をはめた手で僕に数枚のポラロイド写真を渡した。 「年明けの渋滞で、ひどい目に遭うた」 電話で聞くとおりの野太い声で、彼はつぶやいた。コートからはガソリンの臭いがかすかにしたが、これ以上神経質にさせてはいけないので黙っていた。臭いについては、仕事を完了した直後に、注意してやるつもりだった。 写真は五、六枚あったと思う。即刻破り捨ててゴミ箱に捨てたので正確には言えないが、最初にみたのは証拠隠滅の前の写真で、背中を丸めてうずくまるコクボと早速に対面した。背面から撮ったために、白茶けた首すじやあごをみるだけですんだ。次には、証拠隠滅の途中ないしは終了後に彼の部屋を撮影した写真が数枚あった。柱も床も畳もぴかぴかに光っていた。 最後の一枚は、もっとも強烈だった。どこか途中で車を停め、トランクを開けて撮影したらしい。布団袋のような濃紺の布にくるまれた細長いかたまりが、あちこちに凹凸の陰影をつけて映っていた。それは平べったくぴかぴかの車には、とても不釣り合いな荷物にみえた。 「ガソリンは?」 僕はけいれんをつづける横顔に向かって、質問をぶつけた。 「写真撮ってから、急いで撒いた。大丈夫や。今度エンジンかけるときに、発火しないかぎり」 最初の報酬を渡すときだ。僕は近くのゴミ箱をみつけて写真を始末すると、男の立っている場所に戻り、ロッカーの鍵五個を手渡した。それから先に立って歩きはじめ、ロッカーのある場所へと向かった。 探偵から離れた四角い大きな柱の影で、僕は彼がロッカーの一つ一つに頭を突っ込み、かばんの中味を確かめる様子をさりげなくうかがった。ゆっくりと時間をかけて、探偵はロッカーからロッカーへと移った。ようやく調べ終えると、僕の方に近づいてきた。 「十一時半」 落ち着きを取りもどしたのか、覚悟を決めたのか。彼の声はとてもずしりと響いた。 僕はカタミの待つ料理屋へひた走った。時間が経ちすぎて、コース料理を注文する余裕がなくなった。一品物でなにを注文しようか。それより、なにがのどを通るだろうか、と考えた。 このときになって、「悪うました」のふたりやガラガラ声の痩せ男やサングラスの運転手の顔が次々と頭に浮かび、ポラロイド写真の一枚一枚と重なって、吐き気が僕を襲った。足が動かなくてやっと柱の影にまわり込むと、僕は両手を柱にかけて吐いた。といっても、出てきたのはいつかと同じによだれだけで、嘔吐ならぬ嘔気でしかなかった。早く店に行かなくては、と夢中で体を起こすと、僕は早足に歩きはじめた。 幾度となく襲って来る嘔気と懸命に戦いながら、エレベーターに乗りレストラン街に着き、店ののれんをくぐった。 正面にカタミの姿があった。店の女将らしきひとを前に立たせて、悠長に杯を傾けている。 「遅れてすみません」 「やあ、あなたですか。いつもこうだ。本屋で本に熱中してるうちに、気がついたらこんな時間、てわけでしょう?」 そう言うと、彼は女将に僕を紹介した。機を逃さずに少しでもアリバイを補強する彼の才覚に、僕はあらためて感心した。と同時に、そんな彼の前に坐ったとたん、いつ知らず嘔気が消え去ったのに気づいた。 「もうすぐ十時。閉店時間ですね」 「出ましょうか。ここは僕が払います」 「そうですか」 カタミはいとも簡単にそう言うと、勘定を払う僕を残して先に店の外に出た。 一緒にエレベーターに乗り、地上に降りて北新地まで歩く二十分余りの間、彼はほとんど話もせずに、ときおり鼻歌などを歌っていた。「お陰様で順調です」と経過報告などしようかと思ったが、彼の望んでるところではなさそうだ。かといって、報告を聞けば聞いたで、「よかったですね」と如才なく答えるだろう。カタミとはそういう男だ。 晴天の日の夜は冷えも厳しく、ふたりの吐く息が白く流れて消えた。いよいよ北新地が近づいてくる。カタミの近くにいるとはいえ、僕は全身がぴりぴりと緊張してこわばるのを感じた。 新地の路地に入ったが、車が燃え上がったという様子ひとつない。黒服に迎えられて下りるらせん階段は、僕には地獄への階段のように思えた。 「大丈夫。きっと、これからですよ」 みるとカタミが立ち止まり、言葉をかけて微笑んでいる。僕が異様な気配をみせて、せっかくのアリバイづくりを台無しにしないよう、気を配っているのだ。しっかりせねば、とうなづいて彼と一緒に店に入った。 「嬉しいわ、また来てくれたのね」 一昨夜みたばかりの顔は、たとえエリでなくても思い出せた。 「そういえば、この頃エリをみないね」 カタミが彼女に訊いた。 「エリはきょう、久々に出勤してきたの。でも物見高い子やね。さっき、BMWが燃えて、ひとが焼け死んだゆう話を聞いて、飛んでったわ」 闇に突き落とされる思いだった。僕が二十億円の特別デラックス・コースを指定したのは、無関係な人間を巻き込まないためだった。なのに、狭い路地に停めた車が燃え上がれば、巻き添えを食うひとがでる。なぜそのことに、気づかなかったのだ。 頭を抱えてうずくまりたかった。罪のない誰かをわざわざ二十億円かけて殺した愚か者を、心で呪った。 「どうしたの、センセ?」 左に坐る別の子が心配そうに訊いた。「顔色悪いよ」 「山部さんは繊細なひとでね、ひとが死んだなんて話聞くと、恐くなるんだよ」 カタミがまた、サポートしてくれた。 「でも、どこで燃えたんだい?」 「そこの国道二号線よ」 二号線といえば歩道だって広いのに、何で歩行者が巻き添えを食ったんだろう? 待てよ。もしかして、と思った。そのとき、エリが店に帰ってきた。 「すごいで。青かったBMが真っ黒焦げ。大騒ぎや」 「運転してるひとが焼けた?」 二秒に満たない時間だったが、僕にはスローモーション・フィルムに映った。左に坐った質問者の右手を握り、一緒に答を待とうとした。でも実際には手を握らないうちに、エリがけろっと答えていた。 「ちゃう。トランクや。トランクにひとが入ってたらしい」 「隠れてたんかいな?」 右の子が質問したとき、僕は左の子にほとんど抱きつこうとしていた。 「わからん。警察がいっぱい来て調べてる。テープをぐるり貼られて、みんながみに来よるから、全然見えんようになってもうた」 正面のカタミをちらりとみたときに、目が合った。あいかわらず冷静な顔で、「簡単ですよ」と言っているふうに思えた。 「センセ、もう帰るの?」 「うん、今夜は気分がすぐれないものでね」 実に爽快な気分で、僕は十一時十分に「C'est la vie」を出ると、JR大阪駅に向かった。冷たい夜気が気持ちよく、北風さえ背中を押して僕を味方した。 十一時二十五分、緑の窓口の入り口に着いたとき、探偵はもう待っていた。目で合図をし合うと、僕は先ほどと別の場所のコインロッカーへと歩き出し、探偵があとにつづいた。 ロッカーまできたとき、コートのボタンを一つはずして、僕はスーツの裏ポケットに手を入れ五つの鍵を取りだした。五つは片手は余るので、両手をあわせて探偵に向けた。彼は中から一個を選んで取ると、札に記された番号の場所へ行った。その間、僕は離れた柱にもたれていた。 残りの十億円と証拠資料とを、どのように確認し合い渡し合えばよいのか。この方法をめぐって、僕らは前夜の電話で二十分は議論したと思う。十億円も証拠資料も確認に手間取る。それは僕のアリバイの空白を広げてしまうし、ふたり一緒のところを目撃される可能性を高めてしまう。そこで、カネについては、探偵が五つの鍵の中から一つをランダムに抽出して確認することにし、証拠資料については駅近くの一流ホテルに、確認のための適当な場所を考えていた。 探偵はロッカーを閉めて振り返った。白色光に照らされたせいか、晴れ晴れとした顔にみえる。まぶたのけいれんなど、思い出しようもなかった。今度は彼が先に歩き出してホテルに向かった。 バブル期を象徴するそのホテルは、中に入ればスモークグラスの壁がまばゆく、十数階分の吹き抜けは見上げる人間を圧倒した。男は回転ドアをくぐると、右手にある深緑の大理石の壁の隙間に消えた。数秒遅れで僕もつづいた。 さいわい、僕と探偵のほかに誰もいなかった。ふたりはわれがちに小さな仕切りの一つに入ると、内側からしっかりと鍵をかけた。 狭い空間に一緒に閉じこめられると、探偵の体の大きさがあらためてわかった。彼はさっき僕がしたように、コートのボタンをはずしてスーツの裏ポケットから小封筒を取りだした。僕はそれを受け取って中味を出した。でも、数枚の写真とネガ、薄汚れたノート一冊しかなかった。 写真はコクボのマンションらしき建物を、いくつか別角度から撮影したものにすぎず、ノートは探偵の使い古されたメモ帳で、ぐじゃぐじゃの字やら図やらが各頁に記してあった。こんなもののために大枚をはたいたのかと一瞬思ったが、そうではなく証拠の隠滅や証言の予防や死体の処理を含めたコースであることに、あらためて気づいた。 でもたとえば、工員ふうの二人の男の身元は、メモ帳のどこに出てるのだろう? ささやき声で訊こうとして顔を上げたとき、らんらんと輝く探偵の目に出会った。 なんというか、場所が場所なだけに身の危険を感じてびびったが、探偵は舌なめずりをして僕に体を寄せてきた。危ない。逃げようとしたが、すでに僕の耳には彼の熱くニンニク臭い息がかかっていた。 「完璧や」 男のささやきは震えていた。彼はひと言そう耳打ちしただけで体を離し、輝きつづける目で僕をみつめ直した。 「わが仕事人生の最後を飾るに、ふさわしい出来映えやった。あの焼け具合、写真に撮ってみせられんのがホンマ残念や」 彼は外に十分届くほどに音量を上げて、僕から眼を離さないまま、こっくりこっくりと二度うなづいた。僕が質問を思い出さないうちに、彼はごつごつした大きな手を伸ばしてきた。 「鍵や。あと四つ。鍵や」 声が大きすぎる。僕は指一本を立て唇につけて、シーッと発した。 探偵の目は、何をぐずぐずしているんだという苛立ちと怒りを帯びて光った。 「工員ふうの男ふたりは? このノートのどこに書いてあるんですか?」 今度は僕が一方的に体を寄せて、やや背伸びをして耳打ちした。 探偵はノートをもぎ取って開くと、親指の先にべっとりつばをつけて頁をめくりだした。最後の頁までめくっていくと、一瞬の間をおいて今度は逆にめくり返していくのがわかった。しかし指の動きは、途中で止まった。 僕は探偵の顔をみた。彼の目はノートでも僕でもなく、天井に向けられていた。白目をぎょろっとさせて、どこに記録したかを思い出してる様子だ。 僕は不安になった。肝心の最後の最後にきて、受け取るべき証拠資料に不備がでたのだ。なんということ、と天井を仰いだとき、またあのニンニク臭い息がかかった。 「信じてください」 男は必死で僕の耳にささやいていた。 「信じてください。いろんなとこに書き散らかすよって、すぐにはわからん」 今度は僕が顔を入れ替えて、耳打ちした。 「それじゃ、あなたの仕事は終わってない。資料を全部渡してください。でないと、あとの鍵は渡せません」 探偵は顔と体を離すと、ふたたび僕に向き合った。目を見開てこちらをみつめ、首を何度か振った。哀願しているようにも、嘆いているようにも思えた。 やがて、彼はゆっくり体を寄せると、唇を僕の耳につけた。 「あんたとはもう逢えん。わかってくれ」 恋人どおしの別れのようだが、理解はできた。警察を警戒すれば当然そうなる。 とすれば、手切れ金の交渉をするしかない。僕は彼の顔の反対側に耳を寄せて言った。 「では残りの鍵は渡せません」 彼は僕がしたのと同じ動きをもっと素早くして答えた。 「そりゃ、あんまりや。あんたがそう言うなら、俺は残りの資料で脅迫したる」 驚いた。資料を手元に残した場合は自分を訴えてくれ。そうこの男は電話で言い切ったではないか。再度の恐喝をしない保証があるのか、と僕が電話で正したときだ。 どう言葉を返そうかを思案しながら、僕の視線はふたりの片足がそれぞれ反対側から当たっている堅い物体の上を這った。便器の蓋である。 ようし、こう言ってやろう。僕は顔を入れ替えて、耳打ちした。 「脅迫したら、あなたがヤバイですよ。今度こそ僕は、警察に訴えます」 すると探偵は、ただちに顔の位置を入れ替えて逆襲した。 「訴えろや。あんたは死体処理を依頼してその証拠を残した。依頼は殺人を認めたいう証拠や」 しまった、と思ったがすでに遅かった。僕の脳裏には再度、「悪うました」のふたりやガラガラ声の痩せ男やサングラスの運転手たちの顔が浮かんだ。それにもう一つ、カタミの顔も付け加わった。 仕切り全体がぐらぐらと揺れはじめた。がんばれ。しっかり決着をつけるんだ、と僕はまばたきして視線を固定した。便座の蓋が、これほどに羨ましくみえることはなかった。便座の蓋になりたい、とさえ思った。 「寄こせや」 探偵はそうささやくと、顔と体を離した。 僕は蓋を見据えたまま、返すべき言葉を探した。だがどうしても、一つをのぞいて思い浮かばなかった。仕方ない。探偵に体を寄せ顔を寄せて、僕はそれを伝えた。 「この先、また恐喝しないという保証はあるか?」 ちっと舌を鳴らしながら、探偵は顔を入れ違いにして耳打ちした。 「言うたろ、電話で。あんたと同じ危ない橋を、俺も渡るて。残りのカネを寄こせ。それで俺は向こう岸に着く。あんたは反対側に着く。たがいに二度と逢わん。逢いとうなくなる」 裏ポケットから鍵四つを取り出しながら、僕は思った。終わらせる方法はこれしかない。でも本当にこれで、終わりなんだろうか? 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