Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その二十五 気を揉むとはこのことだった。午後二時までにはまだ三時間もあった。新幹線で東京に行ける長さだ。なぜもっと早めに時間を設定しなかったのだろう。きっと、こちらの神経をまいらせて交渉を有利に進めようという魂胆だ。 とにかく、恐喝の原因をつくったクミコが現在どうしているかを知りたかった。 「お弁当、食べてくれた?」 彼女は電話を受けると、昨夜からの沈黙を解いて呑気な質問をした。 「これから食べる。のどを通ればだけど」 「そんな。縁起でもないこと、いわんといて」 彼女の息づかいが聞こえた。 「のどにつめて死ぬなってことかい?」 恐喝で追いつめられたためか、僕らしくもない挑発的な言葉が口をついた。 「言うたやろ」 クミコの口調が突然変わった。「あんたには関係ない。いっさい、知らんでとおしって」 これで彼女は、コクボの死に立ち会ったことを、すすんで認めたことになる。 「そうも言ってられなくなったんだよ」 僕ははっきりと言った。「目撃者が出たんだ。そいつは僕のほかにも、もうひとり別の人間を脅迫してる。ふたりを一緒に同時に脅迫してるんだ。もうひとりって、誰のことだかわかるかい?」 僕は沈黙したクミコに、伯父の名を告げた。 「ほっとき。あんな奴」 彼女は吐き捨てるように言った。 「そうはいかない」 予想した言葉に、僕も反応した。「君は今度こそ、警察で厳しい取り調べを受けなきゃならない。そうなって欲しくない点では、僕も君の伯父さんも一緒だ。だから目撃者は、僕らを一緒に脅迫している」 「うち、大丈夫やて」 目撃者がなにをみたのか、どんな脅迫をしているのかも訊かずに、クミコは応えた。僕は少しシニカルになった。 「どうして大丈夫だと言える? また誰だかを呼び出して、刑事たちの前で、あの毛玉芸をやらせる気かい?」 「芸は、うちがみせたる」 なにを言い出したか、と思った。 「泣いてみせるよって」 それが答だった。登美ヶ丘の駅に僕を呼び出すために、電話で鳴り響かせた轟音が彼女の得意芸であり、自分の言い分を聞かそうとコインロッカーの前で炸裂させた轟音も同じ技というわけだ。 「男にどつかれ、どつかれして、磨いた技や。滅多みせへん」 どちらの意味だろう? ムネオカの暴力に耐えかねて、クミコが必死で身につけた技なのか。それともムネオカは僕をだますために、彼女にこの技を仕込んだのか。 どちらでもよい気がした。というより、どちらにせよ同じ結果になったのだ。 「ムネオカはひょっとして」 僕は訊いた。「君の得意芸を止めようとして、毛玉の芸を君にみせたのかい?」 「そや」 あっけらかんと、クミコは言った。「夕べのコクボも一緒やった」 なんということか。ムネオカやコクボに責め立てられた末に、クミコは究極の号泣を発揮し、男たちは彼女の気分を変えようと毛玉の芸をみせた。その結果、ふたりとも毛玉をのどにつまらせて死んだわけか。 でもこの説明で、警察が納得するだろうか。刑事たちはクミコの轟音を聞いても、ふたりのように毛玉芸をはじめたりはしない。まして、毛玉をのどにつめて死んでくれるわけでない。 「うち、大丈夫やて」 僕の懸念を聞いて、彼女は同じ言葉を繰り返した。 「いくらでも泣きつづけるよって」 「かぎりがあるんだよ。声にも涙にも、体力にも」 「わからんよ、やってみな」 これはだめだ、と思った。とにかくきょうは外に出ないように、誰が来ても戸を開けないように、と注意してから電話を置いた。 とたんに電話が鳴った。 「山部先生、理事長室にすぐ来てください、早く」 オオハラが倒れたような秘書の物言いに、僕は全力で理事長室に走った。 土建屋は両手で大事そうに電話を抱いて、大机の横に立っていた。 「クミコの婿がいま来たさかいに、待ちよ」 息を切らして部屋に入ってきた僕に、彼はそう言って受話器を渡した。 「もしもし」 元刑事の私立探偵の恐喝犯に、おそるおそる言葉をかけた。 「カネは用意できたか?」 野太い声で意気込んでいるが、威圧感がない。僕は息を静めながら、冷静にしぶとく交渉しようと構えた。 「その前に聞かせてください。クミコが殺したという証拠でもあるんですか?」 「うぉっほん」 探偵は咳をした。僕の質問を聞いて、これはいけるという咳だった。 「山部さん。俺はな、警察がムネオカの死でどんだけ証拠を集めたかにつうじとる。指紋や微物鑑識やDNAの照合をやってな。あんたの嫁さんの皮膚組織と血液が、ムネオカの口内でみつかったことも知っとる。彼女の指に噛まれた傷があったことも知っとるんや。しかも彼女の着衣からは、問題の毛玉の繊維が検出された。警察がせっかくここまで証拠を集めたのに引いてしもうたのは、ムネオカの大学時代の同輩がみせた手品があったからや。担当の検事も慎重でな、公判の維持に自信がなかったそや」 専門用語らしきものをまじえた自信たっぷりの言い方に、僕はすでに腰が引けてきた。追い打ちをかけるように、彼はつづけた。 「でもいくら慎重な検事やて、まったく同じ不審死が同じ人物のいたとこでもう一度起こったとなると、目の色変えよるで。おまけに、俺のナマ証言が加わるんや」 いよいよ恐喝かと思った僕に、探偵はさらに大きなパンチを見舞った。 「証言者は俺だけやない。理事長から聞いたと思うが、工員ふうの男ふたりの身元も俺はつきとめてる。なぜや思う? ムネオカの不審死の際、現場らしき場所からえらい轟音が響き渡ったそや。今回かて同じ。ただ、前回は轟音の正体をようつかまなんだから、証言の意味がなかった。でも今回は違う」 探偵はまた咳をした。自信と威圧に満ちた咳だった。 「正体不明の爆音が再度、不審死の前後に聞こえたことを考えたら、俺にぴんとくるもんがあった。わかるか? いつぞや刑事時代に、少年一課の刑事と酒を飲んだときや。そいつは言った。『夕べはまいったで。売春で補導した娘が、信じられん泣き方をしよる。たいていの泣き方には慣れとるが、あんなのは聞いたことない。第一、人間の出す音とも思えんくらいや。しかも、たいていは放っておけば泣きやむのに、いつまでたってもやまんのよ。半時間、一時間しても、まだ爆音を発しよる。刑事たちも補導された他の娘たちも、みな気分が悪うなって、頭抱えるわ、吐くわ、のたうちまわるわ、地獄やった。一時間してまわりがへとへとになった頃、さすがに声が枯れ果てたらしい。でもまだつぶれた声で、不気味な動物みないな声で吠えよる。声帯がいかれる思うて心配したで』」 間違いない。クミコだ。彼女はあの得意芸を、ムネオカと知り合う前にすでに身につけていたわけか。 「その刑事の話では、娘の異音をついにとめたのは、刑事部長やった。騒動を聞きつけて部長みずからがお出ましになった。音のぬしをみると、なんと知人の誰やらの姪っ子や。それで部長が娘の本名を呼んだら、いっぺんに音をとめたらしい。俺がこれから刑事に聞けば、娘があんたのいまの嫁さんやいうことが、きっとわかる。俺はそう確信しとる」 僕は正面に立つオオハラの顔をみつめた。探偵がなにをいったかも知らずに、彼はのほんと外をみていた。 「どや、山部さん。これでわかったやろ。も一つ、加えておくわ。あんたの嫁さん、少しおかしいんちゃうか? 最近の警察には、FBIのプロファイリングもどきのことする連中がおる。いうたら悪いが、嫁さん、プロファイリングでも引っかかるかも知れんで」 絶望寸前で、受話器を握りつづけるのもやっとだった。それを知ったのか、オオハラは僕の手から電話をひっつかんだ。 「おい、お前な。恐喝がどんな重い罪か、よう考えろや」 さっきと違って、やけに威勢がいい。でも、長くはつづかなかった。探偵の言葉に、うんうんとうなづいて、肩を落としていくのがわかった。オオハラはもう一度、僕に受話器を向けた。 「山部さんか」 「はい」 「これで、ようわかったろ? 俺はいうたらプロや。仕事の価値は知ってる。値もはるが、それだけの仕事はする。もう一度、考えてみ。今度こそ、午後三時に電話するわ」 探偵はすっかり得意げで、長い歌でも歌い上げた調子で電話を切った。 僕とオオハラはふかふかの絨毯の上で向かい合った。 「あの刑事くずれめ。恐喝をしたものの不安でたまらなくなって、早くに電話寄こしよった。けど、あんたの疑問に答えるうちに、すっかり自信つけたんや」 「それでも午後二時を三時と間違えてましたが」 「てことは、まだつけいる隙ありいうことか」 オオハラはどんな状況下でも、支出の極小化を考えつづける。 けれでも僕は、すっかり追いつめられていた。メモにあった「クミコ危うし」の文字が、頭の中でちかちかと輝き、ぐるぐると回り出した。 「二時になる前に、また来てくれや」 僕は気もそぞろに部屋をでた。研究室にとぼとぼと戻る途中だった。 「あの殺し屋、しぶい演技やったな」 「でも、殺し方はえぐいで」 廊下ですれ違う学生の会話に、どきりとした。映画の話をしてるのだろう。 でも、そうだ。 映画でなくても、本当にあるのかも知れない。プロとしての殺し屋が、いないだろうか。邪魔者を完璧にかたづけて、しかも決して捕まらない殺し屋を、雇えないだろうか。カネならいくらでも出せる。 どうやって手配するか? 聞ける相手はひとりしかいない。カタミだ。 研究室に戻ると、彼の法律事務所に電話した。秘書が出て、弁護士は車で移動中だと伝えた。さっそく自動車電話の番号をプッシュすると、カタミが電話をとった。 「夕べは、ずいぶんとお飲みになってましたね」 悠長な挨拶を耳にた僕は、「簡単ですよ」の言葉が聞けるよう祈念した。でも問題は、どう相談の主意を伝えるかだった。 クミコが巻き込まれた不審死や、カタミの紹介した探偵の豹変と恐喝までは、時間をかけて打ち明けた。しかし、次の言葉が出てこない。 「それでどうやったら、彼をですね、つまり、彼がいるので大変に困ってるわけですけど、どうやったら、ですね、彼をいなくできるのかについて、なにかうまい方法をお知りなら、つまり、教えていただけないかと思いまして」 コ・ロ・シの三音は、この語を本当に必要とする話者を困らせる残酷な音だ。 「カネを払うしかないじゃありませんか」 カタミにあっさりそう言われると、僕には返す言葉がなかった。 「やはりカネを払うんですかね」 「タダですまそうとお考えですか?」 「いえ、払う用意はあるんです。でも誰か、もっと払うにふさわしいひとがいないかと思いまして」 「たとえば?」 ダメだ、とあきらめたとき、カタミが察してくれた。 「ひょっとして、映画に出てくるようなひとですか?」 「はい」 僕は受話器にしがみつて、言葉を待った。 「ねえ」 カタミはとても親しげに声をかけた。「僕もあなたも綺麗なままでいましょうよ。あれは頼まれる側はもちろん玄人ですが、依頼人の側も玄人でなきゃいけません。いろんなことを処理できる立場のひとです。たとえばあなたの場合、相手は恐喝の証拠を必ずなんらかのかたちで残してるはずです。カメラやメモやビデオってとこでしょうが、ほかにもあるかもしれない。警察は探偵の持ち物を徹底して調べるでしょうし、証拠がみつかると当然、あなたたちが疑われる。しかもあなたの口座からは、たとえば、ううん、二億円とかが落とされている。となれば」 カタミは綺麗でいる大切さを教えただけでなく、綺麗でいる難しさも教えてくれた。僕の心は鉛のように重くなった。 » » 次を読む |