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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その二十三

一日も経ずして無事に戻れたというのに、彼女は少しも嬉しそうにみえなかった。それどころか気むずかしく不機嫌でさえあった。とにかく、僕をみるなり一言を告げただけで、まったく黙ってしまった。

寝床に入っても、背中を向けつづけて朝を迎えた。朝になっても、僕をいっさいみることなく、コンビーフのサンドイッチと紅茶の朝食を用意して食卓に出した。そして、卵焼きとウィンナーソーセージとほうれん草のおひたしらしき弁当を詰めると、カバンの横に置いた。

僕はクミコにもミヨにも見送られることなく、門を出て大学に向かった。もちろん、手など振るわけがない。もしかしてと道路に出るとあたりを見渡したが、ひなびたカローラの姿はどこにもなかった。

大学では、あと一週間すると理事会が開かれるはずだった。その理事会で、僕は理事に推挙されるだろう。考えれば、すべて順風満帆だった。クミコもミヨも五体満足なままに家に帰って来た。僕になんの心配があろうか。いまいましい税金の問題を除けばである。

気を取り直して曇天の寒空の下を、胸を張って歩いた。大学に到着して研究室に入ったとき、電話が鳴った。

「山部先生、理事長がお会いしたいそうです」

鼻にかかった秘書の声がろうろうと響いた。

「やあ、そこに坐りよし」

新年の挨拶を交わしたあと、秘書とうって変わったがらがら声で、土建屋オオハラは言った。

間の抜けた馬面にふさわしい、バカでかい理事長室だった。この部屋で彼は、小ずるく計算高く田舎臭い計画を、いろいろとめぐらしてきたのだろう。事務官や教員や業者を呼びつけては、ぶ厚い絨毯を踏ませて、ふかふかのソファに坐らせる。そして身動きできないほど深くまで身を沈ませたあと、正面の大机から建設現場で鍛えた迫力満点の大声で脅しをきかせてきたはずだ。

でも僕は違う。同じ絨毯を踏み、同じソファに坐っても、二億円の貸し手なのだ。

「よおくみると、ええ男やな、先生」

僕の容姿をほめる人間に、ろくな奴はいない。

「クミコのこと、よろしゅう頼むわ」

息が止まりかけた。声のぬしをみれば、あのとぼけた顔で大椅子に背をもたれて、ほどほどに頭を下げている。

「あんたが一緒に暮らしてるのは、わしの姪や」

オオハラ・クミコ。僕は海外旅行の際に何度か耳にしたり書いたりした彼女の姓の由来を、いまはじめて理解した。クミコはこの男の姪であり、この男はクミコの伯父なのだ。

「驚いたやろ。わしかて、同じや」

オオハラはいつの間にか立ち上がると、背面にある大きな窓のそばに寄った。野暮くさいグレーのスーツを着こんだ彼は、なんと僕に白髪の横顔をみせている。クミコと似てもにつかないその顔を、彼は自分でみたことがあるのだろうか。

「弟も嫁もはよう死んでもうてな、わしがまだ小さかったクミコを引き取って育てた。でも母親似というか、ともかく変わり者で、苦労したわ」

オオハラはこちらを向き、両手を順手にして窓枠に置くと、体をもたせてポーズをつくった。この男の不釣り合いな趣味は、クミコとの不釣り合いな組み合わせと重なって、僕を十分にめまいさせた。

「医者に勧められてな、施設に入れたわ。ちいそうて、すばしこうて、何度も脱走した。警察まで動員して大変やったわ。一度、警官に追いつめられて、クミコのやつ、踏切を越えて特急電車に飛び込んだんや。まだチビやったから、助かった。電車までよう届かんかったわけや」

いっそ死んでくれたらよかった、とオオハラは思ったに違いない。いまも思っているに違いない。

「十八になって、医者とも相談した結果、あいつの好きにさせることにした。勤め先と住むとこまで用意したんやけど、すぐに姿をくらましよった。わしは、カネつこうて私立探偵まで雇うて探したけど、みつからんかった。どこでどうみつけた思う? 警察や。府警の刑事部長がわしの知り合いで、連絡をくれたんや。あいつ、悪い男にひっかかりよって、売春させられてたんや。まったく、オオハラの家のつらよごし、してくれたわ」

僕は、熱いタオルでよごれた顔を拭いてくれたクミコを思った。

「仏の顔も三度いうが、わしはもちろん、仏でない」 余計なことを言う男だ。「二度まで仕事と住まいの面倒をみてやったが、あいつ、また行方をくらましよった。あとは知らん。そのまま今日まで来たわけや。あんたと暮らしているのをみつけるまでな」

でも、どうやってみつけたのか。

そのとき小さなノックが聞こえた。まさかクミコではあるまいと思ったが、入って来たのは秘書だった。三十に手が届こうかという彼女は、太めの体をうやうやしく縮めながら両手で盆を運んだ。お茶と和菓子を一つずつ、僕の前のテーブルと理事長の机の上に置いたあと、さらに体を縮めるようにして出て行った。

「悪いけど、先生のこと、調べさせてもろうた。あたらしく理事に据えるのがどんな男か、どんな金持ちか。わしには理事長として知っておく義務があるんでな」

「どんな男か」と「どんな金持ちか」は、素直にはつながらない。ちょうど大学の理事長と土建屋の社長とが、自然にイコールで結ばれないのと同様である。でもつながらない二つを堂々と結ぶところに、オオハラは今日の地位を築いた。

ずずっと、お茶をすする音がした。彼はいつの間にか机に戻り、片手に茶碗をもち、もう片手で和菓子を持ち上げていた。とても和菓子が好きらしい。

「カタミの紹介で、私立探偵を雇うたんや。刑事上がりの男や」

言われて、思い出した。コクボからあの話を聞かされた直後に、グレーのコートを着こんだ白髪の男が柱に隠れるようにして立っていた。きっと彼に違いない。

「というわけで、本当はきのうの朝にその男から連絡を受けて、あんたとクミコのことを知った。あいにく、わしが会社に出る日やったから、あんたと話すのは今日になってもうたけど」

オオハラは和菓子をいつ口に放り込もうかと考えるように、一瞬の間をおいた。

「そや、子どももできたんやてな」

僕の子ではありません。そう言おうとして口をつぐんだ。彼にミヨのことなど、話したくもなかった。

「あんた、相当儲けてるそやないか」

菓子を一口で飲み込んでしまうと、オオハラは大椅子にもたれて話題を変えた。油断すまいと僕が身構えると、あっけらかんと彼は言った。

「ま、朝から呼び立てしてすまんかった。とにかく、学園のこと、クミコのこと、よろしゅう頼みます」

例によってほどほどに頭を下げてからもとに戻すと、しゃべろうとも動こうともしない。話は終わった、出て行けとの仕草だろう。でもいままでのポーズとはずいぶん違うし、誰をどう意識したポーズなのか、さっぱりわからなかった。

やはりこの男は僕にとって、異人だった。クミコの伯父であるかないかにかかわらず、僕にもクミコにも縁遠かった。たとえ彼が父親だろうと他人だろうと、僕らとは似ても似つかないし、関係すら築けない人間に思えた。

ところが、僕はこの男と、とても深い関係を築くしかなかった。しかも、たった一時間後にである。

「山部先生、理事長がすぐ来てくれと言ってます」

受話器で聞く秘書の声は、いつもと異なり気ぜわしかった。

「そこに坐りよし」

ふかふかの絨毯を踏むと、オオハラが言った。一時間前の出迎えと違うのは、彼が大机の横に立っており、しかもやけに丁寧な口調で告げたことだ。

僕は勧められたとおり、ソファに深々と腰掛けた。でも、オオハラはなかなか話をしようとしないし、体をゆっくりと左右に揺すっている。どう切り出してよいか、迷っている様子だった。

「あんた、クミコと子どもを守るために、力になってくれるか?」

おかしなことをいう。彼にこんな質問を受けるゆわれなどなかった。

「そやろ? 可愛い女房と子どものためや。せっかく築いた家庭を守るためや。『愛情はカネよりも尊い』 実は、わしは密かに、この言葉をモットーとして生きてきた。どんなときでもな」

この男の口からアイジョウという響きを聞くのは、奇妙だった。愛情はカネより尊いという言葉以上に、奇妙だった。

「たったいま、刑事くずれから電話があってな。とったときから、きのうの電話とえらい感じが違う。あいつ、探偵から恐喝犯に変わりよった」

僕がいくら鈍い男でも、クミコの昨夜以来の不可解な態度を思い浮かべないわけにいかなかった。

「きのうの朝、あいつはわしに電話を寄こしてから、クミコと子どものあとをつけたらしい。わしに電話した段階では、『山部の家の近くに張りついてる男がいます。そいつのことを調べ上げてから、調書を書いて送ります』、言うんや。もちろん、そうしてくれと頼んだ。少なくともサツではなさそやから、カネがらみの男やろ。ならば当然調べなあかんさかい、わしはそう返事した。だが、とんでもない裏目にでよった」

探偵は目につかないようにコクボの動向を追った。そして、クミコとミオを車に乗せた彼を追跡したのだ。

「なんでもな。風采の上がらん男で、いつもサングラスをしてたらしい。そいつはきのう、あんたが勤めに出かけたあとで、あんたの家に行き、クミコと子どもを連れ出したんやて。クミコは怯えた顔で子どもの手をしっかり握って、そいつの車に乗ったんやて。探偵の奴、おかしい思うてタクシーを拾い、あとをつけたわけや」

理事長室にノックがして、秘書がさきほどと同じ盆をもって扉を開けた。

「いらん」 オオハラはにべもなく告げた。「いまは菓子など食べとうない」

僕がお茶だけ欲しいと言うと、土建屋も同意して、秘書の盆から自分の茶碗を取った。

彼はずずっと音をたててすするときも、机の横に立ったままだった。片手をついて飲む姿は、いつかどこかの映画でみた気がしなくもなかった。

オオハラは探偵の報告を復元した。

男はクミコと子どもをつれて、門真市にある五階建てマンションの駐車場に車を入れると、建物の一室に入った。郵便受けと表札から判断すると、彼は「コクボ」という名前らしい。探偵は金属の扉に耳をあてて中の様子をうかがったが、男の金切り声ばかり聞こえてきたという。

マンション正面の喫茶店で、探偵はずっと出入り口を見張った。しかしクミコも男も現れないままで、時間が経って日が暮れた。気がつくと、工員ふうの男ふたりがマンションの前で立ち止まり、上を見上げている。

間もなく、彼らは店に入ってきた。席に着くなり、首をかしげて言葉を交わしたという。

「なんやねん、あの奇怪な音は」

「ひとの声かなあ」

探偵が彼らの会話に耳をそばだてていると、マンションの入り口からクミコが子どもの手を引いて出てきた。ふたりは駐車場には向かわずに、まっすぐ道を歩いてマンションから遠ざかったという。

「つまり、クミコが不貞を働いたという脅迫ですか?」

僕は、オオハラのうなづくのを覚悟して訊いた。

「そやったら、どんなにええか」

しょんぼりした彼の横顔が、突如、白髪鬼のそれに変わった。

「男を殺したんや」

土建屋のささやきは、部屋いっぱいに反響した。


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