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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その二十二

寝室の天井は市立図書館の天井と違い、気持ちを整理しようとみつめるには適していない。

僕は仰向きになると、男の一語一語を思いだし、この一年余りの間に自分が経験したことをあらためて振り返った。でも、ますますわけがわからなかった。

男の言ったことがみんな本当だ、と仮定してみた。彼の話はつじつまが合っている。僕は何かことが生じるたびに、つじつまの合うかどうかで話を判断してきたけれど、どれもが信じられないような、ふわふわと宙に浮いた話ばかりだった。本当のようなウソのようなそんな出来事を僕に信じさせたのは、図書館で確認したとおりに札束の山であり、通帳に記載された巨大な金額だった。

けれども、さっきの男の話はいままで聞いたどんな話よりも、本当に聞こえた。そして彼の話は、僕が一年余りの間に生きてきたウソのような毎日を、しっかりと地に着けてくれるように思えた。

クミコは最初に出会ったときから、僕にウソをついたのではないか。亭主に先立たれて娘を抱えて生きてる、という話からして疑わしい。もしかして、あの男と出会う以前にすでに恋人か亭主がいたのかもしれない。

そもそも彼女と僕との出会い方が、不自然すぎる。どこか不気味で常識を逸した彼女の言葉は、いま振り返れば、僕の職場を訊きだして電話をするための演技だったのではないか。彼女は連絡先をつきとめて僕を呼び出し、男から持ち逃げした金をみせて、会社のそばまで僕を連れて行った。そして狂言を演じたのかもしれない。つまり、自分でパトカーを呼んでからすぐに会社を逃げ出し、僕をあのマンションに連れ帰るという芝居だ。

あれは本当に、男が彼女に買い与えたマンションなのか? いいや、ムネオカの住みかだった気がする。ともかくあのマンションで彼女は僕に、自分は社長の他殺体をみつけて、警察を呼んだと告げた。でもそれはウソだ。殺人事件の記事など新聞に載ってなかった。クミコは死体目撃の話を本当らしくするために、別の死体発見の記事が出たのをみてから、僕に二度目の電話をかけたのだ。身元確認が困難な死体の上がるのを、今か今かと待っていたに違いない。

二度目の電話はなんのために寄こしたのか? あの電話の直後に、僕は社長の息子と名乗る人物と受話器をつうじて話をした。ひょっとすると、あの人物がムネオカだったのかもしれない。そもそも社長が死んでないとすれば、相続人になった息子など存在するはずがないのだ。待てよ。そうすると、癌や犬神教や猫神さまなど、ウソのような本当のような話は、全部デタラメで、ムネオカとクミコの作り上げた話になる。

ムネオカは電話で社長の息子を演じて、僕をフィリピンに行かせた。なんのためにか? 奇術部の先輩から盗んだ四億円を元手にして大もうけした巨額の金を、僕の口座に振り込む伏線としてか。とすれば当然、あの手紙もムネオカが書いたわけだ。

でも、どうして僕の口座になど振り込んだのか。本人の名義にするとヤバイ理由があって、僕の名義を利用したのかもしれない。そう考えれば、クミコが通帳と貸金庫の鍵をもって家出したのも、当然の筋書きになる。ところが彼らは、即刻に定期預金を解約すべきだったのにそれをしなかった。僕が解約を差し止めてからも、銀行へ解約に来た形跡さえない。おかしい。わけがわからない。

もっとわからないことがある。おそらくクミコは、ムネオカが急死したので戻ってきたのだろう。でも彼女は、二十億円でも四十億円でも僕の好きにしていいといっている。いまのこの生活をつづけられたら、十分幸せだといっているのだ。彼女がウソをついてるとは、とても思えない。

本当にわからない。通帳にしっかり記入されたあの巨額の大金は、どこでどのようにして、名義上も実質上も僕のものになったのか?

「おそば、冷めてまうで」

クミコが寝室の扉ごしにのぞき込んでいた。

「あの」

一言いいかけて、僕は口をつぐんだ。彼女にどう訊けばいい? 

疑念は僕ひとりの心にしまい込むには、大きすぎるほどに膨らんでいた。かりにしまい込めたにしても、すぐ傍の道路にはあのカローラが停まりつづけて、サングラスの男が目を光らせているだろうし、彼は必ずクミコを連れ去りにくるに違いない。クリスマスが過ぎ正月休みが過ぎて、僕が大学にかよいはじめる日に、彼は玄関のチャイムを鳴らすか、道路で待ち伏せするかして、彼女を連れ去るはずだ。

だから、早く彼女に訊くのだ。あの男の話は、はたして本当なのか。本当とすれば、なぜ僕はいま、四十億円の正当な所有者になったのか。

「どないしたん?」

まずは、そばを食べてからだ。

「おいしい?」

うん、もうほとんど食べ終わりそうだった。

「急に箸を止めてしもうたけど、大丈夫?」

いや、苦しい。胸が締めつけられる。精神的なものに違いないが、どうしようもなく苦しい。

僕は夢中で、近くのソファに体を丸めて転がった。

「どないした? どないしたの?」

クミコと一緒に、僕もあわてた。

どうなるのかと思ったとき、苦しさできつく閉じたまぶたに、淡い影がかかるのがわかった。クミコの柔らかい唇が僕の唇を押した。くらっときて唇を開きかけたとき、彼女は僕から顔を離して言った。

「熱い。熱があるで、あんた」

クミコの用意した氷枕に頭を乗せ湯たんぽを抱いて、僕は眠りに眠った。

目を開けて幻のような現実がみえるたびに、これは夢だと信じようと目をつむった。クミコはあのカローラの前をとおって、いまも買い物にでかけてるかもしれない。でも大丈夫だ。すべては夢だから、いつか醒めたときにゆっくりと思いだそう。

「クリスマスケーキ、買うてきた。ミヨと二人で食べて、あんたの分は冷蔵庫に入れといた」

いつか目を開けると、廊下の電灯を背中に浴びたクミコのシルエットが、かげろうのように揺れていた。僕も一緒に揺れながら眠った。

「カタミさんから、電話あったで。風邪で倒れてるいうたら、お大事にいうてた。急ぎの用やないさかい、いつかまたかけるそや」

何十時間ぶりのトイレから戻ると、僕は子守歌のようにそれを聞いて、ふたたび眠りについた。

「ジュースばかり飲んで、いつまで経ってもようならんよ。もういい加減、おかゆ食べてもらわな」

目を開けると、クミコの彫りの深い顔が近くにみえる。僕が体を横向きにすると、彼女はミヨに食べさせるようにスプーンを僕の口に運んだ。かゆがのどを通り、ゆっくりと胃に降りていく。

「早う、ようなってもらわんと。正月になってまうで」

正月の一語で、僕は長い夢が終わったのを知った。

「話があるんだ」

何日ぶりかで発した声は、自分のとは思えないほど澄んでいた。

「なんやの? いそがんと、食べてからにしいな」

そばの時の二の舞はもうご免だった。

「ミヨを連れてネギを買いに行った日、男に会ったんだよ。君に裏切られたっていう男に」

スプーンの動きが止まった。

彼女は表情のない顔で、何かつぶやきながら宙をみた。コ・ク・ボ、と繰り返してるように思えた。

「ウソはもうご免だよ」

僕が言うなり、クミコは土下座した。横向きのまま肩肘をついた格好で、僕は彼女の髪が床に広がるのをみた。

「本当のことを話してくれ」

彼女が頷いてなんべんも頭を上下させるたびに、髪の毛が波打った。

僕はサングラスの男と出会ったこと、彼から話を聞いたこと、彼の決意してることをかいつまんで明かすと、自分の憶測と疑問点をごく短く要約して伝えた。クミコはその間、ずっと土下座をしたままだった。髪のほつれ目からのぞく耳たぶが赤みを帯びても、頭を上げようとしなかった。

何日ぶりかで現実に復帰した僕は、頭にも体にも疲れはなかったが、久々に使うのどに鈍痛を覚えながら、言葉を繰り返した。

「本当のことを話してくれ」

クミコは土下座でもう一度うなづくと、下を向いたまま話しだした。聞こえにくいので頭を上げてくれと伝えたが、わずかに上がっただけだった。

「あんたの言うたとおりです。コクボの隠し金の話を、うちがムネオカにぽろり洩らしたせいで、こないなりました。みなムネオカの計画です。あんたにどない近づいて、どない勤め先を聞き出すのか、みなムネオカがうちに教えました」

「なぜ僕を選んだ? なぜ僕なんだ?」

声はまだ澄んでいたが、ひしゃげていまにもつぶれそうだった。

「ムネオカはなんや、いろんなことしてカネ儲けとった。あんたの大学にも出入りして、ある日、あんたをみたんやそうです」

それで僕に目をつけたわけか。不遇で軽くて、だましやすく御しやすい男と判断して、僕にねらいをさだめたわけだ。

「うち、ムネオカのいうたとおりにしました。あんたに電話して、カネをみせて、マンションに連れてって。しばらくして、また電話して。フィリピンに行って、帰って。またしばらくして、手紙みせて、一緒に銀行行って。一緒にあんたと住んで」

さすがに僕は、身も心も病み上がりなのを感じて、いや、まだ病みつづけているのを知って、ぐったり仰向けになった。

彼女が熱いタオルで僕の顔を拭いてキスをしたのは、ムネオカの指示に従っただけか。通帳とカードと印鑑を僕に託したのも、彼の指示だったわけか。灯りのともる部屋の横の寝室で寝ることも、彼が命じたわけか。それから、「やさしいひとやね、あんた」も、当然言われたとおりのセリフだったわけだ。

「ご免。堪忍。うちもつらかったんよ」

クミコは敬語を捨て、声をあらげた。

「あんた、やさしいひとやったさかい。ムネオカの読みどおりに動くのみると、つらかったんよ。けど、どうしようもないねん、うち。あいつがどんなにワルかて、よう離れん。さからうと、とたんに殴られ、煙草の火押しつけられて、ミヨまでぶたれるんよ」

天井の板目の模様がゆがみ、僕は大きく息をした。

「うち、あんたと暮らすの、楽しかった。あんたとホンマに、一緒になれたらと思うた」

僕は思い出した。二十億円の通帳を手にしてふたりで入った喫茶店で、クミコは確かに僕のやさしさを誉めて、「あんたみたいな男と一緒になりたかった」と言って肩を震わせて泣いた。

「ムネオカは税務署や警察の目をごまかすために、あんたの口座にカネを入れた。あんたのことは、『専門家で英語ができて、ごついカネ儲けても、目つけられにくい奴や』言うてた。あんたにカネ振り込んだあと、ムネオカはカネを取り上げるチャンスを狙ってたんよ。いつも昼間にうちを呼び出して、あんたの様子を訊いた。あいつ。うちにあんたと暮らせ言うたくせに、あんたと暮らしてるいうて殴るんよ、むちゃくちゃやった」

クミコには、両手で顔を覆って泣く癖がある。でも僕が横向きになって体をベッドから乗りだしたとき、彼女は床についた両手を外側に滑らせて、床を舐めるばかりの格好で背中を震わせた。

「とうとうあの日、ムネオカはこの家に来よった。うちに印鑑と金庫の鍵を出させたあと、ミヨと一緒に車に乗せたんよ。これであんたとお別れや。そう思うと寂しかった。ホンマ、罪つくりや思うた。あんたに悪うて、申し訳なかった。でも、うちはいつもこうで、ムネオカがいるかぎり仕方ないんよ」

だとしてもなぜ、ムネオカは当日に預金を解約しなかったのか。あるいは、解約差し止めとなった預金に近づこうともしなかったのだろうか。

「ムネオカはよりによって銀行行く途中で、道に飛び出した猫をひいてもうたんよ。縁起かつぎのあいつが、一番の大凶いうていつも話してたことを、自分でしてしもうた。急遽、その日は銀行ゆきはとりやめ。でも、ホンマの大凶やった。あいつはその夜に、死によった」

なるほど。クミコはムネオカの考えた犬神教の話を実際の出来事に結びつけることで、猫神さまの話を作り上げた。そして一ヶ月余りのブランクを埋めたわけだ。

「葬式は内輪ですませたけど、警察がなんやいろいろうるそうて。コクボの言うとおり、ムネオカは得意の毛玉をのどにつめてもうて死んだけど、警察はうちが殺ったと疑いよった。毎日、あれこれ訊きに来て、あげくに警察署にまで呼びだすんよ。ミヨとうちの傷痕みて、暴力ふるわれる女が思いつめて殺したと疑うんよ。やっと誤解が解けて『ご苦労さん』言われたとき、うち、真っ先にあんたのとこへ戻ろう思うた。許してくれんかったら、どないしょ。でも戻りたい。戻ってみよ。そんで戻ったら、あんた、許してくれた。やっぱり、やさしいひとやねん」

クミコはすでに、床に這いつくばって泣いていた。

僕は腕を伸ばして体に触れようとしたが、少しのとことで届かない。でもその必要はなかった。彼女はひざまずいて起きあがるなり、僕の体にしがみついた。

「堪忍な。堪忍な」

病み上がりの皮膚に容赦なく、彼女の爪がくい込んだ。しばらく下を向いてこらえてから顔を上げると、驚いたことにミヨの顔と出会った。いつの間にか彼女は寝室に入って、母親のうしろに立っていた。

母親も娘も決して離すまい。そう僕は思った。

「お正月やね、あんた」

場違いにめでたい話題に唖然としたが、彼女の悲壮な決意をあらわす言葉だとわかった。

「楽しく過ごそ、三人で。これが最後かも知れんから」

「待てよ」 僕はクミコの髪を撫でミヨをみながら言った。「大丈夫だよ。あのコクボとかいう男に、明日にでも一緒に詫びを入れに行こう」

クミコは突っ伏した顔を上げて、泣きはらした目で僕をまじまじとみた。

「なに言うてんの、あんた。コクボが私を許すわけないやん」

「どうして? カネは十億でも二十億でも払おうじゃないか」

四十億とは言わなかったが、交渉の用意はもちろんあった。

「アホやね、あんたいうひとは。コクボはなんぼカネを積まれても、よう許さんよ。あんたがカネを積めば積むだけ、うちへの恨みが大きうなって、うちはそれだけいたぶられなあかんのよ」

彼女は僕をみつめて、子どもをさとすあの口調で言った。

「とにかく、君をひとりじゃ行かせない。僕がついていって、土下座でもなんでもするよ」

「だからアホやいうんよ、あんたは」 クミコは悲しそうに首を振った。「あんたがうちをかばえば、コクボは余計にうちが憎くなるんや。それこそ、うちを本気で殺そとするで」

どうやって殺すのか、とは訊きたくても訊けなかった。

「ならば、君はここに引っ込んでるといい。僕ひとりで話にいってみるよ」

「わからんひとやね」 クミコはもう一度首を振った。「あんたが頑張る分だけ、うちの身が危のうなるんよ。コクボはあんたには用がない。はっきり言うて、邪魔やねん。うちと二人だけの問題としてけりつけたいんよ。さ、もうわかったやろ。うちが出てく。ミヨを連れて、あのひとに逢うてみる。この子を置いて死ぬわけにいかんから、ふたりで出ていくよって」

「行かせない」 僕の方がクミコにしがみついていた。「君とミヨのふたりだけなんか、絶対に行かせないよ」

「アホ!」

クミコは身を起こして叱責した。

「うちが生きてここに帰ろう思うたら、ミヨとふたりで行くしかないんよ」

僕にはもう、言葉がなかった。

「とにかく、ミヨを連れて会いに行く。どれだけあいつのとこにいなあかんか、なんぼカネを払えばあかんかは、様子みて決めるよってに。それも、うちに、考える力が残ってたらの話やけど」

いままでつきあった数少ない女の子とクミコとの間に共通点があるとすれば、話の最後に僕をうんと心配させる一句を入れることだった。

こうして僕らは年の瀬と正月を、三人で思い切り寄り添って過ごした。正月のための買い物に行くにも、元旦の初詣に出かけるにも、三が日にデパートを歩くときにも、三人一緒だったし、距離さえ縮めればサングラスのコクボと四人一緒だった。

「何日、何ヶ月、何年かかるかわからんけど、うちらが生きて戻ったら、きっと、迎えてくれる?」

一月四日の日曜の晩、僕はクミコを抱き寄せて思いきりうなづいた。

「うちの体がどないなろうとも、抱いてくれる?」

今度はうなづくかわりに、力一杯抱きしめた。

翌朝、僕は涙で見送るクミコとミヨとに手を振りながら門を出た。道路にでると、カローラが間近に停まっていた。サングラスと目があった。

「よろしくお願いします」

「失せろ、バカ」

深々と頭を下げる僕に、コクボが吐き捨てるように言った。

一月五日の深夜、僕はべろべろに酔っぱらって家にたどり着いた。新地の店をハシゴして、締めくくりに「C'est la vie」で大枚をはたいた。カタミと一緒に、新年初日のお客としてちやほやされて、福袋まで渡されて家に帰ったのである。

酒は浴びるほど飲んだのに、意識はもうろうとなるどころか、かえって冴えわたっていた。クミコは今頃、どんな扱いを受けてるのか。眠ってるだろうか? 拷問を受けてるだろうか? 五体満足か? それともひょっとして、コクボの脳をとろけさせてるのか? それでもいい。とにかく、生きて帰ってきてくれるならば。

いつかと同じで、玄関の灯りがついていた。もしやと思ったが、家を去るクミコの心遣いだと考え直して、胸がつまった。

鍵を開けて玄関のドアを引き、誰もいない家の中に入った。廊下を通って居間に出た僕は、深酒の怖さを思い知った。クミコとミオがくっついて座り、こたつの一辺にそろって足を入れているのだ。

「コクボがどないしたか、あんたは聞かん方がええ。いっさい知らん、言うんやで」

クミコが突き放すような目で、僕を見上げた。


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