Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その二十一 僕に動揺はなかった。むしろこれまでずっと隠れていた彼女の過去が、ようやく霧が晴れるようにみえてくる気がして、男の話を待った。 「石油ショックの頃、東京で会社をつぶしてな。俺は関西に逃げてきた。タクシーの運転手から出直したぜ。ようやくまた会社を起こした頃、クミコと知り合った。スナックでな。一目みて好きになったよ。変わった子だったけどな」 男の声は細く甲高かった。気のせいではなく、彼は声を震わせていた。 「一緒に暮らしたよ。でもあいつは、ある日突然に消えた。しばらくして、また現れたけどな」 僕の経験に似ていた。 「ほかに好きな男ができたんだよ。俺の大学の後輩で、クラブまで一緒だった男さ。しかも、俺の商売仲間とくる。ざまあないぜ」 全然似ていなかったが、男は先日死んだばかりの石原裕次郎を意識してる様子だった。 「ムネオカってんだ、そいつの名は。けんかっ早いくせに、妙に小ずるくって、それがまた可愛い後輩だった。やくざな道に入ったらしいが、悪いことして東京にいられなくなって、関西に来ていた。コネを作ったりつかったりが得意な男でな。総会屋やら不動産の斡旋やら金貸しやら、いろいろやってたよ。正直、俺が会社を起こすときには力を貸してくれた。俺だってもちろん」 感情が高まりすぎたらしく、男は小さく深呼吸した。 「力になってやったさ、ムネオカのためにな」 道路にはときおり自動車がとおり、歩行者の姿がみえた。でも彼は車の前方に顔を向けたまま、動かそうとしなかった。 「クミコはある日ひょっこり、俺の会社に現れた。『ご免、堪忍な』といって、顔中涙で濡らしてたよ。俺はぶん殴ろうとしたが、できなかった。クミコにもそれはわかってたんだ。あいつはそれを知ってて来やがったんだよ、俺のところに」 男の声は、限界近くまで震えた。話はこれからというのに、大丈夫かと僕が心配するくらいだった。男は言葉を切って、感情の制御につとめた。 「でも、あのときのクミコの姿をみれば、俺でなくても殴れなかったかもな。手や足のあちこちに青あざがあって、火傷のあとまでついてる。訊けば、煙草の火を押しつけられたっていう。まさか、ムネオカが女にそんな暴力をふるう野郎だなんて、思ってもみなかったぜ」 まさか。クミコの火傷や青あざがこんなふうにできたなんて、しかもこんなふうに知らされるなんて、思ってもみなかった。けれども男は、僕の呆然とした顔などみることもなく話をつづけた。 「俺はね、ひととおり話を聞いてから、言ってやったよ。『いいんだぜ、俺はもう怒っちゃいない。戻ってきな』 するとあいつは、両手で顔を覆って泣き崩れたんだ」 忍び泣きモードでも号泣モードでもない、第三のモードがあったのだ。 「しばらくして、あいつは言った。『ようできんのよ、それは。お腹に赤ちゃんがいるんよ、あのひとの赤ちゃんやねん』 言われてクミコをよくみると、確かに妊娠腹だ。俺はさすがにガクッと来たけど、それでもよ、それでも言ってやったんだぜ。『かまわない。産みなよ。お前と一緒に引き取って、面倒みてやる』 俺はそう言ったんだよ。『ムネオカのことは心配ない。俺が出てって話つけてやるから、安心して俺のところに戻りな』って、そこまで言ってやったんだよ」 男の声が、ふたたび激しく震えはじめた。もう一度深呼吸をして、高まりを抑えている様子だ。 「『やさしいひとやね、あんた』 クミコは涙を拭きながら言った。『赤ん坊は実家に産みに行く。産んだら必ず、あんたのところに来る』って」 クミコの口癖を見ず知らずの男から聞かされて、僕は動揺した。 「実家ってどこですか?」 「知るかよ!」 男も動揺していた。「クミコは来たんだよ、本当に。赤ん坊つれて。こいつを連れて。いま俺の横に坐ってる可哀想なこいつをだ。またもひょっこり来たんだよ、会社に。働かせてくれって、頼みやがった。もちろん、俺は言ったさ。『今日からでもいいんだよ。赤ん坊の面倒みながらでも、事務仕事はできる』 クミコがなんて言ったと思う? え? 『でも、うち、あんたとよう暮らさん。ムネオカが実家まで来て、泣いて謝るから、うち、あのひとのとこに戻ったんよ。でも、心細いんよ。あんたがいないと寂しいんよ。あんたの顔、みにきたらあかん?』 さすがの俺だって、呆れたぜ。呆れながら許したバカには、もっと呆れるがな!」 男はほとんど絶叫していた。 「それでどうなったかって? いいとも、教えてやろうじゃないか。よく聞けよ、え? クミコは毎日のように会社を手伝いに来て、俺は可哀想なあいつに給料の倍額を渡した。あいつの腕には、またあたらしく青あざができるようになって、青あざが赤ん坊にもできるようになった。赤ん坊は二歳、三歳になっても言葉をしゃべらなくって、四歳、五歳になっても、笑うことひとつしなかった。それで俺は五年の間に、あいつとキスを何度かしただけで、あいつになんでも話すようになってたんだよ。このバカ男!」 脳がとろけそう、とバカ男は言ったに違いない。 「税金逃れで貯め込んだカネとその隠し場所まで、あいつに話したぜ」 めまいがしだした。車内と外の風景がたがいに逆方向にまわりはじめると、僕は吐き気をこらえて訊いた。 「なめし革の大きなカバンですか?」 「そうよ」 男はハンドルにしがみついた。 「俺がフィリピンに出かけたときさ。あいつ、カバン持ちだしやがった。しかもどこに持ってったと思う? え? ムネオカのとこだよ。ムネオカとふたりで、とんずらしやがった。引っ越したんだよ。俺はあの二人をどんなことしたって、必ずみつけてやろうと思った。でも、なかなか、みつからねえんだ」 話がみえたようで、みえなくなった。 もちろん男は、僕にお構いなくどんどんと先にいった。 「いくらだと思う? え? 四億だよ、百万の札束が四百本。それがそっくり消えたんだ。訴えようたって、訴えられねえ。俺がどんな気持ちだったか、わかるかい?」 話がいよいよ、わからなくなった。 「もちろん、わかりゃしねえよ。俺はな、いっそ毛糸の小玉を飲み込んで、死んでやろうと思ったよ」 僕こそ、のどを締めつけられた。 男はハンドルに突っ伏したが、なおも甲高い声で下を向いたまましゃべりつづけた。 「ムネオカにとって、俺は奇術部の先輩だ。俺の得意芸はトランプだが、あいつには、特別な得意技があった。毛糸の玉を飲み込んで、そっくりそのまま出してみせるって芸当だ。ばかばかしいほど下品な芸だが、不思議と面白い。まったく、みせてやりてえよ」 すでにみている。話もみえてきた。 すると、あの青年実業家が、ムネオカだったのか? いや、違う。「奇術は男の誠や」と言い切った男が、ムネオカのはずがない。そういえば、彼は同輩が毛玉をのどに詰めて死んだと言った。警察が奇術の力を信じないので、自分が実演してみせたと言った。死んだ同輩というのが、もしかしてムネオカなのではないか。 「あいつがクミコをずっと手元に置けたのは、女をぶん殴るたびに、あとで毛玉の技みせたからさ。あんぐり口を大きく開けて、自分を滑稽な笑いものにして、機嫌をとるんだ。俺は知ってんだ。なぜって? あいつはそうやって、俺たち先輩の機嫌をとってたからさ」 話が途切れた。男は突っ伏したまま、体を震わせていた。 間もなく、かすれ声で彼はつづけた。 「俺だって、あの芸をどんだけやりたかったか。マジな話、何度もひとりで練習してみた。でも、もうひとつうまくいなかい。のどに引っかかるんだ。あと少しってとこで、毛玉を吐き出しちまうんだ。まったく!」 男は体を起こしてこぶしを握り、思いっきりハンドルを叩いた。車が揺れた。 「そのムネオカがよ、よりによって、死んじまった。俺がみつけだす前によ、得意芸をクミコとミヨにみせる途中で、毛玉をのどに詰めて死んじまった。なんてこった。俺のマネすることはないだろうに。え? 奇術を気安くみるからさ。奇術部員だったくせして、奇術を舐めるからさ」 男はもう一度ハンドルを叩いたが、揺れは少なかった。最初の一撃がこたえたらしい。 「ある晩、北新地をぶらついてたら、クラブの後輩に会ったのよ。ムネオカはどこにいるか知ってるかって訊くと、最近死んだって答えた。どうして知ってんだ? 俺は訊いた。奴はクミコから連絡が来たっていう。警察はクミコを疑ったらしい。ムネオカを殺ったんじゃねえかってよ。そこでクミコは自分の嫌疑を晴らすために、そいつに電話して毛玉芸を警察に披露してくれって頼んだのよ。俺からとんずらしたあとも、ムネオカとクミコはそいつと連絡をとってたんだ。どうやら、三人一緒に悪いことやって儲けてたらしい。おれの四億円だって、きっとその悪いことにつぎ込まれたに違いねえんだ。俺はそいつの太い首締め上げてみたけど、とうとう口を割らなかった」 男は両手をハンドルに置き直し、背筋を伸ばして前方を注視した。 数秒の沈黙が不気味だった。 「ムネオカの奴、俺が半殺しにする前に死にやがって。バカな奴だ、女の前で奇術の安売りなんかしやがって。だがよ、死人をいまさらぶん殴っても仕様がねえ。そうとも。そうだよ、な? 俺にはムネオカよりも、ずっと前からぶん殴るべき相手がいたんだ。殴って殴って、半殺しにして、それでもまだ足りないくらいに、殺してやりたい奴がよ。俺の後輩をたぶらかして、奇術の安売りをさせたあげくに死なせた女さ。俺の愛情を逆手にとってカネを持ち逃げしたあとで、男ふたりをつかってさんざ儲けた女さ。その女がいま、やっとみつかったんだ。え? 俺がどんな気持ちかわかるかい? どんな気持ちかがよ」 男ははじめてうしろを振り向いて、自分の胸を叩いてみせた。顔を真っ赤にして、胸を叩きつづけた。 「俺がどんな気持ちか」 息苦しさに涙をうかべながら、彼はなおも叩いた。「わかるだろ?」 男は体を前方に戻すなり、思い切り咳き込んだ。息が止まるかと不安になるほど、激しい咳がつづいた。 ようやくおさまったとき、彼は息を切らしながら、僕をふたたび振り返って言った。 「俺にクミコを寄こしな」 はあはあと荒い息づかいで、男は切れ長の目にあの怯えを浮かべていた。追い込まれた人間が何をしでかすかわからない不気味さが、そこにはあった。 「クミコはいま僕と暮らしてます」 「わかってるよ。だからお前に話してるんだろが」 男は息も絶え絶えだった。気の毒にと感じながら、僕は言った 「カネはお返します。四億円でも、それ以上でも。とにかくお返しします。だからクミコを許してやってもらえませんか?」 「カネはもちろん、返してもらうぜ」 彼は息をついた。「でもそれでけりのつく問題じゃない。わかるだろ? 許せねえんだ。このままじゃ、死んでも死にきれねえんだよ」 殺しても殺しきれない、と言ってるように聞こえる。 「クミコは可哀想な女ですよね。許してやってもらえませんか?」 僕の言葉を聞いて、男は後部座席に体を向けたまま、頭だけを前方にひねった。何を言おうか考えている様子だった。 「お前にそう言われると、あいつが余計に憎くなる。お前のようなやさしい男をだまくらかして、食い尽くすだけ食い尽くすクミコがよ」 「食い物にされるのは僕の勝手じゃないですか」 きっと僕は、こわばった微笑を浮かべていたはずだ。 「お前のような奴がいるかぎり、あの女はいつまでものさばりつづける。それどころか、いい気になって、男を踏みつけ踏みつけして、得意満面で生きていく」 ひょっとして、この男と僕は同じ問題で悩んでるのかもしれない。 「ひよっとしてな」 僕はどきりとした。 「ひょっとして、あの女はひとだって殺すさ。俺はもしかして、ムネオカは本当にクミコに殺されたんじゃねえかって、思うことがある」 でもクミコは僕に、二十億円、四十億円を好きに使っていいと言ってくれている。 「『やさしいひとやね、あんた』 この言葉にだまされるんじゃねえぞ。俺がどんな目にあったかを考えろ。わかったら、クミコを渡しな。お前のためだぜ」 「でもクミコを」 混乱の極致で、僕は訊いた。「どうするつもりですか?」 「どうするもこうするもねえ。半殺しにするまでよ」 ごくりとつばを飲んだ。理由がどうあれ、暴力はやめてほしい。考えるだけで、胸が悪くなった。 「渡しませんよ」 気持ち悪さをこらえて、僕はどうにか言った。 男は僕の目をのぞき込むと、にやりと笑って目尻のしわを思い切り寄せた。 「ダメだな、お前」 首を振ってそう言うと、うつむいて考え込んだ。 「わかったよ。せいぜい、クリスマスを楽しく過ごしな。正月も一緒に祝いな。ただし、クミコを逃がすんじゃねえぞ、いいか。俺がずっとここで見張ってるから、バカなことは考えるなよ」 わけのわからない言葉だが、サービス精神に富んだ脅迫であるのは明らかだ。男は僕をみくびり、手中にした獲物をゆっくりとながめて、楽しもうとしてるように思えた。 「わかったら、いきな。ミヨを連れて帰りな。帰ったらクミコに、このことを話すんだ。俺がずっとここで見張ってるって。それで正月休みが終わったら、いよいよあいつを連れて帰るって、いってやんな」 わかった。男はクミコをいまから怖がらせて怯えさせるつもりだ。 右手でミヨの手を引き左手にネギをさげた僕が、それからどんな気持ちで近くの家に戻ったかは、察していただけるだろう。 僕はゆっくりと歩いた。考える気力を失って、頭の中は真っ白だった。道路から小道に入る際、グレーのコートを着た白髪の男が電柱の影に立っているようにみえたが、気もそぞろでよく覚えていない。 「どないしたん? えらい遅いから心配したんよ」 クミコは心配そうに僕の顔をみた。 「あんた、蒼い顔してる。風邪でも引いた?」 こっくりうなづくと、僕は寝室へ直行してベッドに倒れた。 » » 次を読む |