Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その二十 「このひとに見覚えありませんか?」という一句が添えられた顔は、石膏にかつらをかぶり、眉や目や唇の部分に色をつけた身元不明者の復元像だった。駅の階段を上った僕は、なんとはなしに斜め横の壁に目をやったときに、気味悪いこの顔と出くわしたのだ。 なぜ足を止めてポスターの文など読みはじめたのかわからない。おそらく「淀川」の二字が目を引いたのだろう。 昭和六十一年十月に、淀川で溺死体として発見。推定年齢は四十代で、中肉中背。右目横にほくろ。のどぼとけ付近にひもイボあり。右奥の欠損歯にブリッジ。 ひっかかった。去年の十月といえば、社長の腐乱殺体が上がった月だ。いくら淀川が大きいといっても、同じ月に幾つも死体が上がるはずはない。このポスターでは溺死とある。しかも死体は、身元不明のままなのだ。 時計をみると、すでに午後四時半。大学に引き返すのはさすがにおっくうだが、近くの市立図書館が確か午後六時まで開いていた。僕は改札をでて、図書館に向かった。 「去年の十月ですと、縮刷版になりますね」 図書館員の女性はそう言って、開架のひとすみを指さした。僕はすぐに去年の縮刷版をみつけてとりだし、傍の机に坐って開いた。 十月の朝刊と夕刊のページをつぎつぎにめくると、淀川の死体の記事をみつけた。かつて大学図書館の書架で目にしたそれだった。 僕はさらに頁をめくりつづけ、別の死体発見の記事を探した。十月の新聞は、残り十日、五日、三日となったが、二番目の死体は出てこなかった。残り二日、一日となって、ついに翌月の日付に変わった。もしかしてと翌月の数日分を調べたが、やはり出てこなかった。要するに、報道された死体発見は例の一件だけなのだ。 僕はページをめくり返すと、もう一度その記事を読んだ。 六日の昼過ぎ、淀川の土手で遊ぶ子ども三人が、川に死体らしきものが浮かんでいるのをみつけて近くの柳橋派出所に届け出た。午後三時、警察はこれを死体として確認した。死体は四十代、ないし五十代の中肉中背の男性で、腐乱が進んでいることから死後相当の時間が経っているとみられる。警察は死因を調べるとともに身元捜査に乗りだしている。 記事の内容はポスターの説明と一致している。きっとその後の検屍によって、死体の特徴がいっそう明らかになり、死因は溺死だとつきとめたのでないか。もしそうならば、死体は社長だったというクミコの話はウソになる。 それとも、もしかして報道されない別の死体発見があったのだろうか? 考えにくいことだが、特別の理由があれば可能性はなくない。 警察に問い合わせば、確かめられる。でも淀川でほかに死体が上がったかどうかを、どう尋ねたらいいのだろう。教えてもらうには、事情を話してこちらの身元も明かす必要がある。事実を話すと、いもずる式に二十億円の話につながってしまう。作り話をしようか? しかし、僕の知り合いをどう思い浮かべても、ポスターの顔によく似たひとが最近行方不明になった例はない。 動揺した僕は、図書館の天井を見上げて考えを整理しようとつとめた。 淀川で上がった死体は社長とまったく別人で、身元不明の男であり、死因が絞殺でなく溺死だった、と仮定しよう。するとクミコが僕にした話はウソだらけで、ことによるとほんとど全部がウソなのかもしれない。 彼女は、腐乱死体の身元がわれて社長とわかったときに、警察が事情聴取に来たと言った。社長の死体は彼女が最初にみつけたが、警察に通報してパトカーが到着するまでのわずかの間に、何者かが運び出して川に放りこんだのだろうと語った。だが、いずれもクミコが僕に話し、僕がそれを信じたにすぎない。 同様のことは、ほかにもあった。そう。四億円のカバンの由来と行方だ。 でも、と夢中で首を振った。あの件については、僕は相続人になった社長の息子と直接に電話で話したはずだ。彼は四億円のために、僕にクミコを連れてフィリピンにいくよう頼んだ。僕らをだました彼だったが、結局はガンに冒されて新興宗教にはまったあげくに、四億円で儲けた二十億円をクミコに残した。たくみな脱税法や名義人に僕を選んだ理由については、彼自身が手紙に残している。 だから大丈夫。たとえ四億円の由来や、社長の死因や、淀川の死体発見がみんなウソだったとしても、その後の出来事の信憑性は、社長の息子によって保証されている。 けれども、これですっきりかといえば、そうではない。どこかにひっかかりがあった。犬神教の狂信、ミヨの拉致、猫神による乗っ取り、神殿からの追放と、どれもウソのような本当のような話ばかりで、依然としてうさんくさい。 頼りになるものといえば、なにか? やはりこの目でみた四億円の札束と自分で手にした二十億円の通帳である。クミコに贈られたカネとはいえ、僕の名義に振り込まれて、管理も僕にまかされている。この話にまったくウソはない。 たとえクミコがウソをついたにしても、彼女はカネに無欲で僕にすべてを任せきっている。たとえ社長の息子の話が本当でないにしても、僕にとてつもない力を与えてくれた。それで十分ではないか。クミコがどれだけのウソをついてるにしても、いまの僕には関係ない。恐ろしすぎるほどの強運を与えられたからといって、疑心暗鬼にかかってはいけないのだ。 僕はしっかとうなづいて立ち上がると、縮刷版を開架の本棚に戻し、図書館を出た。 「お帰り」 いつもの笑顔で、クミコが迎えた。暖かい家中に、夕食の焼き魚の匂いが漂っている。 「きょうも一日、変わりなかったかい?」 「ミヨがな、珍しくおしっこちびりよった。寒うなったから、始終『しっ、しっ』と言わなあかんな」 三人揃って、食卓についた。クミコは例によってスプーンで、ミヨの口に食べ物を運んでいる。 「大阪湾で釣った魚やけ、安う買えた。誰も買わへんから、魚屋のおっちゃんエライ喜んでたわ」 僕は焦げ気味の魚に箸をつけながら、訊いた。 「ところで、淀川に社長の死体が上がったと君は言ったけど、あれは本当なのかい?」 クミコはスプーンの動きをとめて、ちらっと僕をみてから答えた。 「忘れたわ。うち、アホよってに。もしかしたら、大阪湾やったかも知れん」 きっと彼女には僕の知らない才能がある、と思った。 翌日の土曜日は、北風ながら好天気だった。 執筆中の論文にひとくぎりつけて居間に行くと、クミコが僕に言った。 「お昼にそばゆでようと思うんやけど、ネギ切らしてしもうた」 「だったら、僕が散歩がてらに買いに行ってくるよ。そうだ、天気もいい。ついでにミヨも連れ出して、陽に当ててやろう」 「やさしいひとやね、あんた」 「君こそ、やさしいよ」 こうしてミヨにファミリアのダッフルコートを着せ、自分はバーバリーのレインコートを羽織ると、僕は彼女の手を引いて路地を抜け表通りにでた。 はじめの角を過ぎたとき、反対側に停車する古ぼけたトヨタのカローラから、サングラスの男がこちらをみているのに気づいた。最近は幼児趣味の変態が多いから、ミヨの周辺に気をつけるようクミコに言おう、と僕は思った。 スーパーの袋にネギをぶらさげ、ミヨの手を引いて帰ってくる途中、またカローラが目に留まった。ただし今度は家から少し遠い場所で、さきほどと反対側に停めてある。僕らが歩く歩道の側だ。サングラスの男はハンドルに両腕をかけて、ふたりの来るのを待っているようにみえた。 「やあ」 男は車から降りると、後部座席のドアを開いてそう声を掛けた。 厚い下唇を突き出し、こけた頬に無精ひげを生やした小柄な中年男だ。誰だか思い出そうとしたが無駄だった。 「『はじめまして』と言おう。乗りなよ」 どう答えようかと戸惑う間に、彼は片腕を伸ばしてミヨの頭を撫でた。 「ミヨ、どうだ、元気か? 可哀想に、まだ口がきけないのか?」 驚いて男の顔をみると、彼はサングラスをはずして僕を見返した。 ひとを脅すよりも脅かされているような、怯えた目が動いた。切れ長の目尻には、何本も深いしわが刻まれている。額の禿げ上がり方からみて、四十代後半というところか。 「乗りなよ。話があるんだ」 キツネにつままれたみたいに突っ立っていると、彼はなんと両腕でミヨを抱え上げて助手席に置いた。 「大丈夫。誘拐なんかしないよ。乗りなって」 男は助手席のドアをロックして閉めると、僕を後部座席に坐るようあらためて指示した。車の前方をまわった彼は、反対側のドアを開けて運転席につこうとしている。僕はうしろに乗り込むしかなかった。 「ドアを閉めな。話があるんだ」 気は進まなかったが閉めた。 「俺が誰だかわかるかい?」 僕は黙って首を横にふった。ルームミラーに映ったわけではないが、僕の答を知っているらしい。 「俺はな」 男はエンジンをかけないままでハンドルを握り、前方を直視して言った。 「クミコに裏切られた男さ」 » » 次を読む |