Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その十九 それでも悩みは、翌朝起きるなり復活した。僕は二十億という数字にため息つきながら、家中のクーラーをつけたり消したりして、「困った、困った」と歩き回り一日を過ごした。 ふと、名案が浮かんだ。そもそもはじめの二十億が僕に転がり込んだのは、外国の幽霊会社と名目上の顧問料を使ったからだ。もしかすると、柳の下に二匹目のドジョウがいるかもしれない。 「ううん、二度目となるとね」 カタミは運転手付きのベンツの後部座席で、前に向けた頭を横にかしげた。 「あなたの場合には、すでに法外な顧問料を手にしてるでしょ。わずかの間にまた同じ手をつかうのは、いくらなでもやりすぎって気がします。あなたが疑われると、私にまで火の粉がかかるんです」 カタミはそう言いながら、麻のジャケットの肩口を本当に手で払った。 「やるとすれば、あなたが会社をつくるんです。少々面倒で、忙しくなると思いますが、本気でやるなら、いくらでも詳しいひとを紹介しますよ」 そこまではちょっと、と僕は尻込みした。 ベンツが停まった。角刈りの額に年齢相応のしわを寄せたカタミは、降りしなにくりっと少年のような目を光らせた。ちょうど、「C'est la vie」の真ん前だった。 「今夜は奢ってもらいますよ」 そう僕につぶやくと、彼は先にらせん階段を下りていった。 ひさびさにみる女の子たちは、あいかわらずはなやかで美しかった。とくに夏場とあって、彼女たちの白い肌が大胆で高価な衣服の色つやに磨かれて妖しく光っていた。 カタミと同じテーブルに坐ると、早くも女の子たちが集まってきた。 「久しぶりやね」 みたことある顔に違いなかったが、声を掛けられて思い出す顔ではなかった。先日のエリをのけば、この店の美女たちは結局、誰も印象に残らないほど似たり寄ったりではないか。そう思ってぐるりとまわりを見まわした僕は、絶対に見間違えない顔とでくわした。 若くもなければ女のものでもない、わが大学の理事長の顔だった。目をしばたいたが、間違いない。土建屋はいま、「C'est la vie」にきている。 彼は、二つとなりのテーブルに坐っていた。いつもどおり田舎くさい馬面をして、冴えないグレーのスーツを着ているが、やけにちんまりとみえた。こちらと顔が合うと、にこっと嬉しそうに笑った。おかしい。いったい威張りくさったあの男が、僕の顔など覚えているのだろうか。と思う間もなく、笑いの意味がわかった。 「カタミ君」 理事長は片手を上げて、おいでおいでをしてカタミを呼んだ。 カタミは数秒の間は無表情でいたが、誰が呼んでいるのかがわかったのか、あるいははじめからわかったがようやくあきらめたのか、ゆっくりと立ち上がり理事長の方に向かった。 「どう、元気でやってるかね」 建設現場で鍛えたに違いないがらがら声が、ここまで響いた。でもカタミが真横に腰掛けると、なにやら低い声で神妙な話をはじめたようだ。 二人ともこちらのテーブルをみている。というより、僕をみている気がした。いや、気のせいでなかった。両人は揃って、僕の方に歩いてきたのである。 「紹介するまでもないですね、山部さん。オオハラ理事長です」 理事長は立ち上がった僕に向かって、こくりこくりと頷いた。驚いているような、誰だかを思い出そうとしてるような様子だった。 言ってやりたかった。六年前のあなたに、K大学へ転出する割愛願いを却下された山部です。お久しぶりです。もっとも、僕の顔などに興味はないでしょうが。 「山部さん。昨晩、電話で話したこと覚えてるでしょう」 カタミは、立ったままで言葉を継いだ。 「理事長にちょっと用立てしてやってくれませんか?」 耳を疑うよりも、待ち望んだ言葉をやっと聞く気分だった。まわりに聞こえる大きな声で、もう一度言って欲しかった。 「年利三割の条件で、二億ほどお願いできませんか」 カタミの言い方はものを頼むというより、強要に近かった。たんまり儲けさせてやったのだから、おれの顔に免じて貸してやってくれ、と迫っていた。これが彼のやり方に違いない。ひとにかけた恩は徹底して回収する。恩がさらなる恩を生みだし、いっそうの儲けを彼にもたらすのだ。 「いやあ、センセに面倒かけて申し訳ありませんが、このところ工事の注文取るのに、なにかと入り用でして。しかもご存じのとおり、総選挙です。とくに今回はわが学園がイチカワ先生のために、ひと肌脱がにゃいけませんで、なにぶんよろしゅう」 理事長はほどほどの笑顔でほどほどに白髪頭を下げて、僕に言った。 おのが会社の建設受注、イチカワ議員の六選か七選、それに学園の繁栄とが、すべて必然的連鎖で結ばれていて、誰かから借りる二億円にかかっているかのようだった。イチカワ議員といえば昨年、大臣として不穏当な発言をして日本中を騒がせており、次期選挙の得票数で目にものみせようと息巻いてるはずだ。 「ええか、戦後日本ではじめて解任された大臣やで。辞任やなくて、解任や。骨があるやないか」 大学の事務員のひとりは、いつか帰りの通勤電車で部下に向かい、下卑た大声でそう話していた。 わが学園では、イチカワ議員の選挙時期になると、各事務室に選挙ポスターを貼りだす。さすがに教室に貼られたり、研究室に配られることはない。でも去る日曜日には、イチカワ議員支援の決起集会が大学の講堂で開かれて、事務員が総出でハチマキ姿の勇姿を披露して、雄叫びを三度上げたという。きっと理事長はイチカワ議員のとなりに立って、うやうやしく舞台から会場へ向かって一礼をしたに違いない。少なくとも、いま僕に頭を下げたよりは、ずっと深く下げたことだろう。 「ということで、あとはお二人、大学か会社ででもご相談ください」 カタミはそう言うなり、僕らにかまわず座った。「会社で」をつけ加えただけ、彼には良識があるというものだ。土建屋といえば当然、絨毯ふかふかの理事長室に僕を呼び出すに決まっている。 僕は無骨な田舎者と二人で、こんな場所に立ったまま残されたので、さすがに困った。幸いにも田舎者は、そそくさとテーブルに戻っていった。 「君たちは、『黒人狩り』なんてしないの?」 「やあだ、先生」 「でも、イイって話だろ?」 「もう、ホンマ、エッチなんやから」 カタミの質問よりも女の子たちの応答の方が、ずっとやらしく聞こえるのは不思議だった。 「先生、ちょっと」 気がつくと、店を出ようとする理事長が手招きしている。カタミでなく僕に向けてであることは、ぞんざいな腕の振りから明らかだった。 僕はカタミを真似て、数秒の間無視してから立ち上がった。長く感じたが、きっとカタミがしたよりも短かったろう。 「先生には、すぐに教授になってもらい、理事にもなってもらうよって」 建設現場で鍛えた耳打ちが、僕の鼓膜にびんと響いた。 「はい」 思わず返事をして土建屋を見送ると、「教授」「理事」という音が遠ざかる彼の背中にかぶさってこだました。 ドラマの一幕を目にしている気分だった。それは二十億円の通帳をつくった日に、ナミヒラから理事長の名前を聞いて想像したあの光景とは違った。派手派手しさはなかったけれど、見せ場であることには変わりなく、染み入るような味わいがあった。 やがて夏休みが明けるとすぐ、学科主任の教授の部屋に呼ばれた。僕のために教授昇進審査委員会がつくられた、との報告を受けた。昇進人事は十月の教授会で提議され、十一月の教授会では承認の選挙がおこなわれた。十二月の第二週、僕は教授任命の辞令を理事長から手渡される折りに、そっと耳打ちされた。来年来月の理事会では一人の理事が任期切れを迎える。後任候補として、「山部教授」を推挙する。そうオオハラは伝えた。 昭和六十二年の十二月の末、つまり二十億を手にしてからちょうど一年が経ったとき、僕は教授の椅子に座り、理事の椅子まで用意される身分になった。たった二億円で、しかもあとから儲けた二十億のうちの一割を仕方なくつぎ込んだだけで、こんなに偉くなったのだ。さらにつけ加えると、二億円は消えたのでなく、二億六千万円となって手元に返ってくるはずだった。カタミへの仲介料を引いたにしても、ゆうに五千万を越す儲けがまた生まれるのである。 カネの力とはこういうものか、と思った。カネがよいことを起こし、そのよいことがさらにカネを生む。カネは僕をタチモトと出会わせ、マルキとのつきあいを生み、さらにカタミと親しくなる道を開いた。カネは僕を講演上手にし、大学の会議の論客にした。カネは僕の助教授の肩書きを光らせ、教授の肩書きへと書き換え、さらには理事の肩書きを付け加えようとしていた。きっと今後は、講演上手で論客で教授と理事の肩書きをもって、カタミと親しいこの僕に、ますます巨額のカネが入ってくることだろう。 そういえば、と考えた。カタミが女の子相手に興じているゲームだって同じではないか。金持ちの彼は、二百万円を手放すことなく、今夜も勝ちつづけるのだ。 ところで、二億円を引いた十八億円については、全額を定期預金として積んでおこう。当面はそうするしかないな。気がつくと僕は、またカネの心配をしはじめていた。 考えれば十八億円は、半分を譲渡税としてもっていかれるだけでなく、利子についても税金をとられるわけか。なんてこった。ろくな贅沢もしてないのに、カネばかりもっていかれる。カネの工面に気を取られて、最近では推理小説を読む余裕だってありゃしない。 大学から帰る電車の中で、僕はきっと険しい顔をしていたことだろう。金持ちには、油断や満身の余裕はない。ほんのいっとき、ひそかに胸の内で、にんまり顔を浮かべるだけだ。 でも帰宅の途中、僕はとんでもない顔に出会ってしまった。その顔は若くもなく女でもなく、理事長の顔でもなかった。生者のものでも死者のものでもなかった。 » » 次を読む |