Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その十八 ということで僕は、ミヨについては来年に小学校にかよいだすまでは、様子をみることに決めた。焦ることはない、時間をかけようと覚悟した。 医者に相談して以来、僕は心の中では、ミヨの言葉や感情は時間が経過すれば自然に治るのでないか、と思うようになった。それにうまくすれば、クミコの記憶も戻ると期待した。心の傷は次第に癒されていき、やがて面倒なあの謝り合いの儀式もなくなるかもしれない。いつの間にか僕は、明るい展望をもつ男になっていた。 明るさは運を呼ぶ。やがて僕には、思いもよらないツキが転がり込んだ。 クミコとの結婚や、ミヨの治療を別にしても、時間のかかるのを覚悟した問題が、僕にはほかにもあった。すでにふれた、一千坪の貸し地が生むカネである。カタミの説明を聞いていたので、僕は五年、十年の単位で気長にかまえていたのだが、意外なことが起こった。 土地を買って間もない初夏の頃、僕は大学の研究室でカタミから電話を受けた。 「立ち退きを拒否した男が、すごいことを言い返したんでしょうね、きっと」 カタミは朗々と話した。 「でも、浅はかなチンピラですよ。いくら腹が立ったとはいえ、借地人を刺し殺してしまうとは。刃物をみせることさえタブーなのに、信じられませんねえ。まったく最近は、若い者の教育がなってないからこんなことが起こるんですよ。警察の取り調べで余計なことしゃべらないように、よおく言い聞かせたらしいので、心配はいらないでしょう。大丈夫。あなたも僕も綺麗なままです」 そう言って彼は電話を切った。 受話器を置く僕の目には、本棚に並ぶ専門書の背表紙の一つがやけに大きく飛び込んできた。 『凶器としての言語』 若者がこの本を読んでいたはずはない。なにしろ、ちょうど昨日献本されたばかりの新刊で、著者は僕がいつも会議でやりこめる老教授だった。ひとの恨みはなるたけかうな、という処世訓どおり、悪いことが起こってしまった、と僕は思った。 ところが一週間後に、またカタミから電話がかかった。 「こういうことって、あるんですね」 感心した口調だった。「他の立ち退き拒否者たちが、びびってしまったらしいんです。このぶんだと、すぐに話がつくはずです。一千坪が綺麗さっぱりとした土地になります。簡単ですよ」 ひさびさに聞く簡単ですよに、目がしらが熱くなった。人生へのかぎりない感謝を、はじめて味わう気がした。 夏休みを迎えて、僕たち三人が「オーストラリア・自然と動物の豪華旅行」という不正確な日本語の旅に出ようという前日、カタミから連絡が入った。 もうすぐあの土地が更地になる、と彼は伝えた。この噂はすでに東京都内の不動産屋に流れている。引っ越しや取り壊しを待ちきれない業者たちが、毎日何本もの電話をカタミの事務所にまでよこすという。 「売値も売る相手も僕にまかせてもらえますか?」 「おまかせします」 僕らは旅行に出た。コアラ、カンガルー、ワラビー、ウォンバット、タスマニアン・デビル、ポッサム、襟巻きトカゲから、毒蛇・毒蜘蛛の類にいたるまで、動物という動物を片端からみて帰った夜、さっそく電話が鳴った。 「三十億で売れましたよ」 僕は言葉を失った。旅行ボケか暑さボケにかかったようだった。 三億円が三十億円に化けるということが現実に起きて、いま僕はその現実を生きている。神秘的でどこか間の抜けたあの動物たちをみている間に、このことが起こったのだ。少し前の女の子たちの言葉を借りれば、「ウッソー。信ジラレナイ」と叫べばよいのか。 でも間もなく、カタミの丁寧で無駄のない説明は、現実を信じるべきものに変えた。 「最初にことわりましたように、こちらの取り分はあわせて、十五パーセント、つまり四億五千万です。あなたには二十五億五千万が残りますが、忠告を入れておきましょう。最近は税率がアップしたので、あなたの短期譲渡利益には五割も税金がかかります。二十五億五千万から三億を引いた分、つまり二十二億五千万の半分がもっていかれることになりますよ」 十一億七千五百万円がそっくり税務署に行く。まぎれもないドロボウだ、と僕は数字を頭ではじき出しながら思った。 「もちろん政府は別の選択を用意してます。都心から離れた土地に再投資すれば税金はゼロです。どうします? すでに建っている賃貸マンションを何棟か買い取ってもいいですが、利回りはいいところで、四パーセントでしょう。もちろん、土地もマンションもあなたのものになるわけですが」 四パーセントといえば、ナミヒラがつけてくれる利子よりは少ないが、それでも大したカネだ。僕はカタミにそう伝えた。 「ううん」 彼はもってまわった言い方をした。「二十二億五千万の約四パーセントは、うんと、九千万か。一年で九千万の収入ということになりますよ」 きっと電卓を叩いたのだ。僕はナミヒラのいつかの動作を思い出し、表示された数字がみえる気がした。 九千万。確かにナミヒラはあのときも、カタミが告げた数字とぴったし同じ数字をゼロを連ねて僕にみせたはずだ。ということは、月に平均して七百五十万円、日にすれば二十五万円が別にあたらしく生まれる勘定になる。つまり、七ヶ月の間に日ごとの収入を二倍に膨らませたわけだ。一晩寝て起きるだけで五十万円か。悪くない。 「僕はそれで十分ですよ」 本当は十分すぎると言いたかった。「年間、九千万円入れば、十分です」 「でもね、これは利子と同じじゃない。利子の場合は、二パーセントの分離課税ですむけれど、不動産所得となれば合算所得として計算されます」 「ということは?」 僕は金持ち固有の悩みを、ようやく開示される気がした。 「累進課税ですよ。年間所得が二千万円を超えると、最高税率として八十パーセントがかかります。大学の給料とあわせて、おそらくあなたの所得の六割以上は、税金として消えるでしょうね」 がんと一発食らった気分だった。でももしかして、やっと金持ちの仲間入りができたのかもしれない。そうも思った。 「ということは」 僕はなんとか言葉をつないだ。「どうしたらいいですかね?」 カタミは、電話越しにくすっと笑うような無礼者ではない。あくまで礼儀正しく、説明をつづけた。 「たとえば先日のように、困ってるひとにお金を貸すという手があります。ただしリスクは大きい。いくらのカネをどれだけ高い歩合で貸せるかは不確かです。先日の場合は、相手がたまたまあと二千万、どうしても足りない状況だったので、不特定の超短期で五割を要求できました。でもいつもそうとはかぎりませんよ。第一この場合には、あらかじめ五割の土地譲渡税が引かれてしまうことを、忘れてはいけません」 では、どうしろというんだ。僕はご馳走を前にして、口をからからにされた状態になった。 「僕があなたなら、カネを分けますね。都心から遠いマンションに投資して、確実に低利回りでカネを手にするのと、税務署に払った残りを現金で寝かせて、ウルトラ・ハイの利益をものにするのとに、二分するんですよ」 なるほど。ではどちらをどの割合にすればいいんだろう? 「さあ」 さすがにカタミは、肩でもすくめている様子だった。「納税はずっと先です。それまで適宜、状況をみながら判断されたらどうですか」 困った。 僕がぶつぶつ言いながら、蒸し暑い深夜に家中を歩き回ると、クミコは心配そうにみつめた。 「ええんよ、うちのカネやいうて気がねせんでも」 なるほど、と僕は心で叫んだ。また、忘れてた。これはクミコのカネなのだ。 たとえ僕が忘れても、クミコはずっと覚えているだろう。だから・・・と歩きつづけて考えた。だから、どうなるんだ? 一瞬、不穏な考えが頭をよぎった。でも、すぐに正当な道をみつけることができた。クミコの意向を尋ねるのだ。 「税務署は、ドロボウや」 彼女のこの一言で、僕の悩みは深まるばかりだった。 「大変そやね。お茶入れよか?」 例によって、思いやりのある言葉をかけてくれた。 「いいよ。旅行から帰ったばかりで、君だって疲れてるだろ。もう休もうか」 「やさしいひとやね、あんた」 「君こそやさしいひとだよ」 何度この会話を繰り返しても、のどに何かがひっかかる感じがとれないのは、どういうわけだろう。 「あんた」 クミコは寝室の暗闇の中で尋ねた。「あの二十億円、どないしたん?」 不愉快な質問だった。先ほどした説明を、まったく理解していない。それに、まるで僕を横領呼ばわりする言い方ではないか。 少し怒気を含んだ口調ながら、僕はもう一度ゆっくり噛んで聞かせるように経過を説明した。いまや最初の二十億は、二倍に膨らんだことを強調した。 「ご免な。うち、アホよってに、難しいことようわからんのよ」 だからといって、謝り合いはもうご免だ。僕は心でそうつぶやくと、黙って背中を向けた。 クミコは意外にも、「ご免な、堪忍な」の大攻勢をかけることはなかった。かわりに、僕の背中にぴたりと身を寄せてこう囁いた。 「あんたの好きように使うてええんよ、お金」 膨らませた二十億のことか。それとも、あわせて四十億全部か。僕は欲を刺激されて、耳をそばだてた。 「うち、今のままの暮らしができたらそれでええ。あんたさえいてくれたら、ええねん」 わかった。彼女は、四十億円分すべてを指している。 「カタミさんはね、土地を売った儲けは分散してつかったらどうかと言ってる。いや、自分ならそうするってさ」 カネは好きに使えとあらためて言われて気をよくした僕だが、今度の二十億円の処遇にはやはり困った。 「ホンマ、税務署いうのはひどいとこやね。社長があんなことした気持ちがようわかるわ」 不思議な気分だった。僕らには毎日、カネが貯まっていく。でもそのカネを楽しんで使っているかといえば、そうではない。デパートでの買い物や高級レストランでの食事は、なければないですむ。旅行についても同じだ。コアラや襟巻きトカゲをみたからといって、とくに幸福になったわけではない。 第一、僕らにはこんな大金が必要とも思えなかった。クミコの料理は、弁当と似たり寄ったりの質素なものだったが、まずくはないし毎日食べても飽きなかった。洋服や靴についてはいろいろと揃えたので、これ以上特に欲しくはなかった。むしろ収納のスペースが次第に乏しくなって、一着買うと一着を捨てなければならない状態になりつつあり、どれを捨てるかで悩むのもおっくうだった。住まいを何とかしようかとも考えた。でも、まさに住めば都といおうか。煙でも流れてこないかぎり、わざわざ新居をみつけ引っ越しする気にはならなかった。 「お金持ちって、どうやってお金を使うんやろ?」 クミコが僕の気持ちを察したみたいに、そう訊いた。 「うち、あんたさえいてくれたら、ええねん」 彼女がいとおしくて、僕は体を反転して抱き寄せた。 » » 次を読む |