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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その十七

クミコが戻ってきてから、僕は三人の将来を真面目に考えるようになった。

クミコと正式の結婚は当然、真っ先に頭に浮かんだ。ハワイへの豪華旅行の際に、彼女とミヨのパスポートをみて、同姓を名乗る親子だと知った。でも急いで決断をくだす必要はないので、一緒の暮らしをつづけて様子をみる方が賢明な気がした。

それよりも気になったのは、ミヨの状態だった。彼女は事物や生き物に関心を示して、しばしば対象に近寄ったりながめたりするようになった。でも言葉については、あの一言をのぞいてまったく話さないままだ。感情表現も、皆無に近かった。排泄の欲求も空腹も訴えることがなかったので、まわりの人間が気にとめないと、垂れ流しのまま餓死するに違いなかった。

彼女が確実に自分の意志をあらわす場合は、二つだけだった。ひとつは、暗闇に出会うと立ち上がってじっと動かなくなることであり、それを感情表現といえるかどうかは疑問だ。もうひとつは、例の毛糸の毛玉への執着だった。クミコは、かつて毛玉を無理に取り上げようとして、指をちぎれるくらい噛まれたという。

いずれにせよ、このままいけばミヨは、クミコや僕がいなくなったあとには、施設に引き取られるしかない。第一、来年の四月になれば義務教育の年齢に達するから、普通の小学校にかようか特殊学校にかようかの決定を、いやでも迫られることになる。

親なら当然、できるだけの治療を受けさせる。でも、クミコは違った。

「イヤや。医者にさんざかよったのに、ええこと一つもなかった」

こういって、専門医にみせるのを拒否した。

僕はかつて喫茶店でふたりに出会ったときに、彼女が医者への不満を口にしたのを思い出した。それにしても、別の医者はいくらでもいるではないか。

当時は自閉症という病名が世間の注意を引くようになった頃で、素人向けの本も出版されていた。僕はさっそく一冊を買って症例を読んだが、わかったのは、かつて専門医がクミコに述べたように、よくわからない病気だということだった。具体的な症例があまりにさまざまだったので、はたして一つのカテゴリーとして成り立つのか、とさえ思われた。

それでも紹介された症例の多くでは、いくつか共通の特徴があった。言葉をしゃべらないことがそれだ。特殊なモノに対する異様な執着も上げることができる。でも奇異なことに、ミヨのように周囲に広く関心を払うという態度は、少なくとも本を読むかぎりでは、自閉症児にみられなかった。

「僕のガールフレンドの子どもが、六つになるというのに、まだ口をきけないんだ。誰かいい医者を紹介してもらえませんかね」

マルキに電話すると、翌日電話をくれた。僕はその医者をひとりで訪ねるしかなかった。

脂ののりきった年齢の彼は、本人をみないことには、と予想どおり首をひねった。けれども僕がかいつまんで子どもの状態を説明し、本で読んだ症例と比較して疑問を述べると、首を縦に振った。

「なるほど」 そう言ってから、彼は訊いた。「で、口をきかなかったり、感情をあらわさなかったりするのは、生まれて以来ずっとなんですね?」

念を押す彼の言葉に、僕はひそかに自分の愚かさをののしった。

「生まれてからずっとこうかて、医者は訊くけど、私、アホやから覚えてへんのよ」 あのときクミコはそういって僕を呆れさせたはずだ。

母親の言葉をそっくりそのまま、僕は医者に伝えた。

「ううん」 彼は慎重に言葉を選びながら言った。「たとえば可能性としてですよ。生まれたときには問題なくても、なにかで精神的な傷を負って以来、言葉や感情を出さなくなることがあるんですよ。緘黙症です」

とっさに、ミヨの父親の死と毛糸の玉が思い浮かんだ。

「では、その精神的な傷を母親が僕に隠してるってことですか?」

「かも知れませんし」 医者は冷静につづけた。「あるいはまた、お母さん自身も深い心傷を負って、前後の記憶を失った可能性があります」

つまり、クミコとミヨは過去のあるとき、ともに大変に衝撃的な出来事に出会ったために、かたや前後の記憶を失い、かたや言葉と感情表現を失ったということか。

クミコの自虐的な謝り方、火傷のきず、ふたりの腕の青あざは、その出来事と関係あるのかもしれない。こう考えれば、彼女たちの異様さや暴力の痕跡も説明できる。

僕は心に思い浮かべたことを、臆せずに医者に話した。

「なるほど」 彼は同じ調子でつづけた。「込み入ってるようですな」

腕組みして黙り込んだ姿をみて、僕は当初の悩みごとがとてつもなく大きく深い謎へと姿を変えたのを知った。

「私は正直、どうアドバイスしていいか迷ってます。でも、まずは子どもに会ってみたい。やはり直接に当人とあわないことには始まりません。それから、うん。いまの時点で話をしても仕様がないんですんが、もし緘黙症だとすると、あまり心配する必要はないかもしれない。たいていは一定の時間が経てば、言葉と感情を取りもどしますから」

僕は全身の力が抜けて、椅子からずり落ちそうになった。医師の言葉に救われたのである。

ただし、大きな問題が残っていた。

「母親は子どもを医者に診せようとしないんですよ」

「でしたね」

「いっそ、母親の方をここに連れてきましょうか?」

なんだか、患者の代理というよりも斡旋をしてる気分になった。

「それはヘンでしょう」

医者が言った。やはりおかしいか。

「記憶の切断があったとしても、当人がそれで苦しんでるわけでもないし、日常生活には問題がないのでしょう? だったら、やめておきなさい。こういっちゃなんだけど、記憶喪失には、これといった治療法などないんですよ。治療して治らない場合もあれば、治療しなくて治る場合もある。治療して治った場合でも、もしかしたら治療と関係なしに、自然に治ったのかもしれない」

「それじゃあ」 僕の胸に疑念が浮かんだ。「自閉症には、これといった治療法があるんですか?」

「いまの段階では、ありませんね」

いともあっさりと、医者は答えた。

「では緘黙症が自然に治って、自閉症が現在のところ治療法なしとすれば、子どもを急いで連れてくる必要はなくなりますね」

「そうですね」

さらにあっさりした物言いだった。

「でも、さっき先生は、子どもに会いたいとおっしゃった。なぜです?」

医者はそんなこともわからないのか、という呆れた目で僕をみて言った。

「私が自閉症を研究してるからですよ」


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