Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その十六 「ご免な。堪忍な」 もちろん、クミコの言葉である。 「あんたにどれだけ連絡したかったか。でも、どう仕様もなかったんよ。ミヨを人質にとられて、見張りつけられて」 クミコは涙をぬぐい、傍のソファで眠っているミヨの方に目をやった。ミヨはいまも変わらず、まぶたを半分あけたままの眠りだ。 僕とクミコは、居間の食卓に向かい合って座っていた。 戻ってきたふたりをみると、僕は一ヶ月以上も放ったらかしにされた恨みが、知らずのうちにこみあげてくるのを感じた。だから、クミコが話し出しても、黙っていた。 「社長の息子がきたんよ。ここを探し出して」 彼女は、僕が耳を傾けているのを疑わずにつづけた。 「カネを返せ、いうねん。実はその前にも、一度この家に押しかけてきよった。でもそのときは、『カネはどうなってる?』と聞いただけやった。うちが貸金庫開いて通帳をみせたら、納得して引き揚げたんよ。お金が全額定期になってて、うちらが全然手つけてへんよってに」 そうだったのか、と僕は思った。それでクミコは、僕に黙って銀行の貸金庫を開けたわけだ。 「でもなぜ、僕に話さなかった?」 「あいつが言ったんよ。『山部には絶対に話すな。約束を守れば、必ずナオミ叔母の本当の連絡先をお前に教える』って」 クミコにかぎっていえば、なさそうでありそうな話だった。きっと彼女は、ナオミにカネを届けたい気持ちを呼び起こされたのだ。社長の息子がなぜカネを欲しがり、どうやって約束を保証するかについては、深く考えなかったに違いない。 「でもあいつ、あの日に突然こわい顔してやってきて言うた。『カネがいる。いますぐ、あのカネを下ろせ。でないとミヨはどうなっても知らない』 あいつ、ミヨを保育所から連れ出して隠したんよ。うち、おろおろしてもうて、夢中で印鑑を出して貸金庫の鍵もって、あいつの車に乗ったんよ」 クミコの涙はすでに乾いていた。彼女はあの彫りの深い顔を僕に向けたまま、ゆっくりとつづけた。 「あんたにどれだけ電話をしたかったか。けど、あいつが目離さへんし、ミヨを人質に取られてるから逃げることもできひん。考えてみれば、お金はもともとあいつがうちにくれる、言い出したもんやから、仕方ないいえば仕方ない。ただし、ナオミさんの分については、いよいよカネ下ろすときに取り返そうと思うた。あんたもそれで、納得してくれるやろ、と。うちら、カネなんか要らん。そやろ?」 うしろめたさを悟られたくなくて、僕はできるだけ大きく頷いた。 「でもな、おかしなことが起きたんよ。うち、あいつに、『なんでいまになって、くれたお金を取り返すんや』て訊いた。そしたらあいつ、『犬神さまの神殿が乗っ取られる瀬戸際や』いうねん。そのときや。道ばたから猫が飛び出しよった。あいつ急ブレーキ踏んだけど、間に合わんかった」 クミコの話を再現すると、とても曲がりくどくて長くなるので、ここからは僕が標準語で要約してみよう。 道ばたから飛び出した猫は、車のうしろで、道路にへしゃげて死んでいた。社長の息子は血相をかえて車を飛び出した。血や内臓のべったりついた死骸を抱き上げた彼は、犬のように吠えたという。 「なんてことしたんだ、このおれは。犬神さまは、このところ猫神の力が増してきたと信者に警告を垂れている。猫神を怒らせないよう注意しろ、とおっしゃってる。だのに、おれはなんてことしたんだ。ああ、これじゃガンはもうすぐ体中に広がってしまう。どうすりゃいんだ。どうすりゃいいんだ!」 彼は道路の真ん中で泣きつづけた。 そのとき、クミコは懸命に頭を働かせたらしい。彼女は男に言った。 「ミヨはな、猫神さまのお遣いや。あんたがミヨを誘拐したから、猫神さまが怒って、あんたに罰が当たったんや」 男はそれを聞くと、猛烈に怒り出した。クミコは下手な嘘をついたことを悔やんだが、男はなぜもっと早く知らせなかったか、と怒ったのだ。 死骸に頬ずりする男にクミコは言った。 「それをもって、すぐミヨのとこに行こう。猫神さまのお遣いやから、あの子に頼んで猫神さまの許しを乞うんよ。それがなによりも、犬神さまに尽くす道やで」 男は死骸を抱いたまま車にもどった。 彼は大阪ヒルトンホテルの最上階に部屋をとっており、ミヨもそこにいるらしかった。ホテルの駐車場に車入れたとき、クミコは気をまわして言った。血まみれ、はらわたまみれの猫の死骸抱を抱いた格好では、ホテルのロビーや廊下を歩けない。 ではどうしようか、と迷う男に、彼女は彼がもってきた大きなバックを指さした。札束と容器の関係につうじた彼女は、それがカネを持ち帰るためのものだと察知した。 男はクミコの指示にしたがいバックを開くと、猫の死骸をうやうやしく抱き上げて中に置いた。 最上階の一室で、クミコはミヨの無事な姿をみて涙を流した。 男はミヨの前に猫の死骸を入れたバックを置くと、ひざまづいて両手をあわせて祈った。 「ミォ、ミォ」 ミヨがそういったので、クミコはすかさず猫神さまが怒っておられる、と男に告げた。男はいよいよ狼狽して、「どうすりゃいい?」と訊いたという。 ミヨがそのまま黙ってしまったので、クミコは「ミヨ、ミヨ」と呼んだ。ミヨは例の動作をした。つまり、まわれ右して男に背中を向けて、「ミォ、ミォ」とつぶやいたのだ。 「猫神さまは、本当にお怒りや」 男は頭を抱えたまま、ひれ伏した。 「ミヨにとんでもないこと、してくれた。そういうて怒ってはるんや。もうええ。このまますぐ東京に帰り」 クミコが決然と告げると、男は両手に抱えた頭をさらにひれ伏し、でんぐり返しをしそうになった。 だが彼はしっかと起きあって、部屋の電話の受話器をとった。東京の犬神神殿を呼び出したらしい。大先生に事情を説明した彼に、クミコにもわかるほど大きな罵声が飛んだ。 「神殿はいまにも乗っ取られる、とおっしゃってる。一秒でも早く、カネをもち帰らなきゃダメだ」 「ミヨ、ミヨ」 クミコは娘を呼んで、あの動作を繰り返させた。 「ほら、猫神さまがあんたに話しかけとる。そのバックは穢れた、というてはる。バックだけやない。バックに入れようとしたものすべてが穢れてると」 男は混乱した。混乱してうずくまった彼に、クミコは懸命に説いた。犬神さまと猫神さまのどちらが、いまガンを治す力をもっているのかをよく考えるべきだ。犬神の神殿はもうすぐ猫神に乗っ取られるだろう、と。 彼女は裏切りをそそのかしたのである。改宗とはそんなものかも知れない。男は可哀想に迷いに迷い、悩みに悩んだ末に、もう一度受話器をとって、犬神教の大先生を呼び出した。 しかし会話の様子がどうもおかしい。男は言葉に詰まりながら、必死で訴えだした。 「なんですって? 猫神の遣いなら、ここにいますよ。嘘と思うなら自分でみてください。あなただって信じるでしょう。大変立派な女の子です。ひと目みれば、誰だって猫神のお遣いだと思いますよ。え? 女の子の保護者? 彼女もいます」 クミコは男から受話器を渡された。 大先生と呼ばれる人物にしてはおそろしくがらの悪い声が、彼女にすごみをきかせて命令した。 「おい。その場を動くな。いまから三時間ちょっとの間の我慢だ。逃げ出してみろ、必ず見つけ出して半殺しにしてやる。警察に通報しようとか、誰かに連絡しようとかも、考えないことだ。それこそ、いのちの保証はなくなるぞ。いいか、おれたちはプロなんだ。でも言うことさえきけば、絶対に悪いようにしない」 クミコはわけがわからなかったが、ともかく声の主が大変に恐ろしい男だ、ということは見当がついた。 「わかったら、そこにいる馬鹿を呼べ。とっとと追い出してやる」 やはり大変に恐ろしい男なのだ。社長の息子は電話を切ったとたん、バックも死骸も放って逃げていった。 クミコはミヨの手を引いて逃げようか残ろうか、迷った。 「ホンマ、こわくて、どうしていいかわからんかった。あの四億円をみつけたときみたいに。でも、あんたを呼び出すわけにいかん。で、うち、パニックになったんよ」 きっと彼女は、ホテルの最上階であの号泣を響かせたに違いない。長いこと響かせてから、ついに失神したのだ。 クミコが正気に返ると、すでに東京からきた男たち三人が、ミヨの頬を軽く叩いたり、手をつねったりしていたという。彼女は懸命に娘の名を呼んだ。そのとき、ミヨが例の反応をすると、男たちが満足げにうなづいた。 男たちは母と娘を東京に連れ帰ると、猫神の遣いとその母親として丁重に扱った。豪勢な部屋を与え、欲しいものは何でも買ってくれた。でも監視は、必ずどこかについていた。ふたりは夜昼の数時間だけ、決められたつとめを果たした。訪れた信者たちの前で、クミコが娘の名を呼び、娘はいつもの反応を繰り返したのだ。するとふたりの横にはべる老人が、有り難そうにその意味を翻訳して、信者に聞かせたという。 クミコは一ヶ月もの間、ミヨを連れて無事に逃げることばかり考えたが、機会はみつからなかった。だがある日、警察が来て彼女たちふたりを署に連れて行った。警察はクミコからいきさつを聞いたあとで、母娘の処遇を考えた。結局、婦人警官を同伴させて新幹線に乗せ、この家まで送り届けたという。 僕はクミコの長い話を、どう受けとめてよいかわからなかった。 なんだか、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、信じがたい話に聞こえた。 でも、なるほど、とうなづけるところもあった。いつかタチモトだかマルキだかに聞いた話を思い出したのだ。地価の高騰を止めるために、政府は最近、土地譲渡税の率をアップさせた。そこで地上げでボロ儲けをしてきた暴力団関係者は、税金優遇を受ける宗教法人に目をつけはじめたという。彼らは宗教法人をつくるか、乗っ取るかする。そして宗教法人を介して土地売買をしたり、事業の利益を宗教法人に寄付して、たんまりと裏金をつくるのである。 ただし、乗っ取りは自然にみえなければいけない。宗教法人のクーデターは、あたらしい宗教指導者が現れる場合にだけ、ホンモノにみえるはずだ。警察や税務署の追求をかわしやすい。 犬神の神殿が猫神に乗っ取られるなど、この条件にぴったりのシナリオではないか。乗っ取り屋たちは、猫神の遣いを求めていた。ミヨとクミコのふたりは、まさにはまり役だったのである。 とすれば、警察に通報したのは、乗っ取られた側の誰かだ。児童保護法違反とか詐欺法違反とかで、警察を動かしたのだろう。そしてクミコとミヨは、無事に家に帰ってきた。 つじつまは、あっている。 夜は深まりすぎるほど深まったので、僕は最後に一つだけ、どうしても訊いておきたい質問をした。 「毛糸の玉のことだけど」 気のせいか、クミコの顔がこわばったようにみえた。 「ミヨはまだ、持ってるの?」 「うん」 クミコがうなづいた。「猫神の信者の前でも、ずっと離さんかった」 「毛玉はなにに使うんだい?」 これが質問の真意だった。 「あれはね」 クミコがしんみりと答えた。「死んだ亭主が大事にしてた、手品の道具やねん。あの子にとっては、きっと思い出の品なんや」 「それで、亡くなった君の夫は」 僕は途中で、ごくりとつばを飲んだ。 「まさか、手品の最中に死んだとか」 「アホ言わんといて」 クミコの怒気を含んだ意外な言葉に、僕は戸惑った。 「死因は病気。もう何年も昔のこと、あまり思い出したくないんよ」 » » 次を読む |