Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その十五 「そんなことですか。簡単ですよ。名義人が印鑑をなくし貸金庫の鍵をなくしたんだから、ちょっとした手続をすませば大丈夫です」 カタミの名刺をとりだして電話すると、前回同様のやさしい口調で答えてくれた。 「ただちょっと、込み入った状態でして」 僕は最低限の事情を説明した。同棲相手で貸金庫を共有する女が、鍵を持ち出して行方をくらましたこと。彼女が金庫をあけて通帳やカードをとりだすかも知れないこと。そのために定期預金を解約差し止めにしてあること、を順を追って話した。 「簡単ですよ」 カタミのこの言葉は霊媒師の呪文のように、僕にかかる災難を吹き払った。 「何がなくなっても、紛失届けをだしてつくり直せばいいんですよ。預金の差し止めだって、あなたが解除すればいい。名義人があなたであり、あなたがホンモノのあなたであるかぎりは、問題ありません」 そうか、と僕は目の覚める思いだった。 おろおろすることはないんだ。カネがどんなにいわくつきであろうと、日本の法律をパスして僕が名義人になってしまったかぎり、僕のカネなんだ。 僕のカネ! 天にも昇る心地で、そう心で叫んだ。 「なんなら、うちの事務所から若いのを送りますよ」 やって来たのはもちろん、ヤクザでもタレントでもなかった。活きのよい弁護士で、ナミヒラを相手に悠然と依頼主の要望と権利を説いた。 一週間も過ぎた頃、僕はあたらしい印鑑と通帳の持ち主になり、別の貸金庫の借り主になっていた。 銀行から帰ると、僕はくつろいた気分で居間のこたつに足をいれて、テレビをつけた。黒猫が人恋しそうに、そばにやってきて坐った。 「そうか、寂しいか?」 僕はミォに話しかけた。ミォは泣こうともせずに、大きくあくびした。 何を考えてるのかわからない。僕と同じだなと思った。印鑑も通帳も金庫の鍵もあたらしく手にした今、僕には待つべき人間などいるのだろうか。 大学から夕食の総菜を買って帰宅するたびに、僕はもしかすると玄関の鍵が開いていないか、クミコたちが戻っていないかと思って、扉に手をかけた。でもはたしていま、本当に彼らを待ち望んでいるかと訊かれれば、迷わずうなづく自信はなかった。だからといって、火葬場のとなりから引っ越そうとも考えなかった。引っ越せば、もう彼女たちに会えなくなる気がした。 やがて月末を迎えると、定期が満期になった。僕は利子分と三億円を差し引いて、あらたに二ヶ月満期の定期預金をつくった。 「三億円あれば、そっくり一区画の貸し地を買い上げてしまいましょう。場所は東京都区内ですが、立ち退き拒否者たちがうじゃうじゃいる土地で、みなバラバラの契約期日で建ってるから、思い切り買いたたけます。簡単ですよ」 そうあって欲しい、と僕は思った。たとえ簡単にいかなくても、三億円が一区画の貸し地に変わるだけで損はしない。 「それから利子のことですけどね」 僕が「C'est la vie」用に当て込んでいるカネだった。 「過去の利子分とあわせるとずいぶん貯まったことでしょうから、二千万ほど用立てしませんか? 緊急にカネをかき集めたい奴がいて、二千万でも貴重なんです。そのかわり、半月もすれば五割増しで返りますよ」 なんて言ってよいかわからなかった。でも、もともとはカタミと試しにつきあうために出費を覚悟していたのだし、この二千万で今後のつきあい方が決まる。彼も僕も、たがいの利用価値をある程度計ることができるわけだ。 大学が新入生を迎える四月の半ば、はたして僕は東京都区内にある一千坪の貸し地の所有者になっただけでなく、一千万円の報酬の受取人にもなった。 「よかったですね」 カタミはどうでもいいようにぽつりと言った。 「また、カネが必要なひとがいたら、助けてやってください」 正しい表現だった。僕にはカネの必要など確かになかったし、ひとを助けたことも否定できない。 その助けた相手に、僕は「C'est la vie」で出会った。 「先生。先日は大変にお世話になりまして」 近寄ってきたのは、青年実業家とでも呼びたい颯爽とした好男子で、下品さのかけらもなかった。 「一緒に座りませんか」 カタミが青年に声を掛けた。僕が高額の報酬を受け取ってお礼の電話をした折に、彼は「それでは今夜、『C'est la vie』でお逢いしましょうか」と誘ってきたのである。おそらく、今夜は僕の招待ということだろう。でもこの青年も一緒となると、さて勘定はどうなるのか? 大金を手にしながら、ケチくさいことを考えてはいけない。でももしかしたら、金持ちとはこういう人間をいうんだろう、と思った。僕も立派な金持ちというわけか。 「こいつの会社は、危ない橋ばかり渡るんですよ」 カタミは今夜もYシャツの襟もとを開いてネクタイの輪をぶらさげたが、丁寧な口調は崩さなかった。 「先生にいわれたら、危ない橋もホンマもんですわ」 青年実業家は笑いながら、胸を張っていた。 彼ひとりが増えた分だけ、ラウンドテーブルには個性的な美人がふたり加わったので、さすがに人口密度が高くなった。でもみんなカタミに気を遣うせいか、彼ひとりの弱々しい標準語が流れている。明らかに、彼は主役なのだ。 「やっとこ上場したと思ったのに、まだまだ危なそうだな」 青年は今度はさすがに胸も張らず笑いもしないで、真顔で答えた。 「でもお陰さんで、もう大丈夫ですわ。先生、いやこちらの先生も、今夜はわしの奢りやよってに、飲みましょ、飲みましょ。大いに飲みましょ」 居酒屋のコンパで学生が挨拶するような調子で、青年はグラスを上げると、一挙にヴァレンタインの十二年物をストレートで飲み干した。つづいてカタミが飲み干し、僕も休み休みではあるがグラスを空けた。 「いやあ」 青年は口をぬぐいながら言った。「毎晩こんなこと繰り返したあげくに、会社つぶしたらどんなに楽か」 青年にはもはや上品さはなかったが、真実味がでていた。彼は女の子たちが呆れるピッッチで、よく飲んだ。でも口数は決して多くはなく、テーブル全体はカタミの言葉をみながありがたく分け合い、味わうようにして、会話が進んだ。 「そろそろ、やりましょうか?」 カタミは、少年のような眼差しをまわりの女の子たちのひとりひとりに向けながら、静かに訊いた。 「今夜は、うちが挑戦する」 僕の右横で、ソヴァージュの髪型の子が手を上げた。みると、切れ長の目に整った鼻をして、うす目の唇を真一文字に結んでいた。 「なるほど。エリはずっと挑戦したがってたものな」 カタミはやさしそうにそう言うと、手を上げて近くの黒服を呼んだ。 間もなく、黒くてがっしりとしたカバンが届けられた。彼はそれをひざの上に立てると、ズボンのポケットから鍵をとりだしてほんの小さく開けた。札束を一つつかんでテーブルに置き、つづいてもう一つをとりだして最初の束に重ねた。二百万円を取り出すいつもの儀式を、女の子たちは真剣な顔をしてみつめている。 僕はあの茶色で薄皮の大カバンを思い浮かべて、目の前のカバンにいまいくら入っているのかと考えた。 素早い動作だった。カタミは札束をわしづかみにすると、頭の上にかざした。 「ワアアア」 テーブルの女の子たちがいっせいに声を上げた。前回に聞いた合唱は、自然な感情の発露というよりも、厳粛な儀礼の一過程だったのだ。 カタミはカバンを自分の横のソファに置き、札束をテーブルに降ろした。エリとい名前の子がグッチのパースを抱いて立ち上がり、コンビニに向かうべく階段を上っていった。店内にはあのとき同様に、緊張したどよめきが起きている。 食パンを買って戻ったエリは、ふたたび僕の横に坐ると、包装を解いてパン二枚をとりだした。前回と同じ厚切りパンだ。エリは二枚をテーブルに並べるのではなく、大きなトランプカードのように重ねて寝かせた。 カタミが腕時計をはずすと、他のテーブルから客や女の子がまわりに集まってきた。だが、今夜の僕は特等席に座っていた。エリは武者震いするように、ぶるっと肩を揺すった。薄い唇は、先ほどよりもさらに細く長く結ばれている。 カタミは、できるだけ多くの者に時間をみせようと、時計をテーブルの真ん中に押し出した。 「いいかい? この長針が十二を指したら開始だ」 みながかたずを飲んで見まもる中、カタミの声はいっそうにか細くなっていくように聞こえた。 「十秒前」 カタミが朗読調で時間を告げる。「五、四、三、二、一、ゼロ」 きゃっ、と女の子数名の悲鳴が上がると同時に、一枚目をつかんだエリの両手は、目にも留まらぬ速さで独特な動きをはじめた。右手はパンをひきちぎって口に放り込み、左手はパンを指で揉むようにして休みなく上方に動かす。口から戻った右手がちぎりやすい位置へと、パンをずらすのだ。エリのこの繊細で素早い動作は、まるでレース編みの早業にみえた。 「十秒」「二十秒」、とカタミは十秒刻みで時間の経過を告げる。 エリの運動量のわりには、パンの消えていく速度がゆっくりなので、僕は横でみながら間に合わないだろうと思った。ほかの者たちも同じらしく、女の子の悲鳴と男客の檄があちこちから飛んだ。 「一分」 カタミがそう告げたとき、エリはまだ一枚目の半分を越えたところだった。 「一分半」 エリはそれから十秒近く遅れて、二枚目を手にした。 「がんばれ」 「間に合わんで、もっと早う」 周囲の興奮をよそに、エリは冷静に自分のペースで、パンを飲み込んでいくようにみえた。だが、時間はどんどんと経過する。二分が経ち、二分半が経った。 「スピード・アップ」 「ダッシュや、エリ」 あと二十秒。あと十秒。 エリの指の間からは、パンの残りがわずかにのぞいてみえる。ペースは変わらない。落ち着いている。練習を積んだな、と僕は思った。でも間に合うのか。 「止め」 カタミはそう告げて、人差し指をエリに突き出した。エリの口の動き、のどの動きがぴたりと止まった。 店内は、しんと静まりかえっている。 「よおし」 カタミは変わらずやさしい口調で言った。「口を大きくあけて」 エリは薄い唇を開くと、小鳥がさえずるように上下に目いっぱい口をあけた。 カタミは立ち上がり、両腕をテーブルについて腰をかがめた。こちらに向かい頭を突き出して、エリの口の中を調べている。 「舌を上げて。よし、下ろして」 正面から、上から、下から、くりっとした目で食い入るようにのぞき込んでいる。 やがてカタミは背筋を伸ばして腰を下ろすと、静かに言った。 「合格」 拍手と歓声が起こった。 カタミは手元の札束に手を掛けてから、エリに向けてテーブルの上を滑らせた。エリは笑顔でそれを手元へと引いた。 「待った!」 そのとき、青年実業家の一声がみんなを静まらせ、エリの手を止めた。 「あんた、それはあかん」 青年は立ち上がり、ゆっくりエリの横まで近寄づいた。僕にとっては、ちょうど彼女をはさんだ反対側だった。 「それはあかんで、あんた。おれの目はごまかせない」 「なんの文句やねん」 エリが受けて立った。 「おれが女だったらな。お前の上あごと奥歯の間に指突っ込んで、かき出してやるのに」 ごおっと、低い海鳴りのような音が起こった。青年はエリを斜め上からじっとにらみ、エリは背筋を伸ばした姿勢で宙をみていたが、誰も声をかけようとしなかった。 「返し!」 青年がどすのきいた声で命じた。「返しよ。そのカネ、先生に返し」 エリは動かない。青年はふっとため息をつくと、もとの席に戻ってテーブルの前に立った。 「やりたくないんやけど」 彼はえび茶色のスーツの裏ポケットに手を突っ込み、何かを一つかみ取りだした。 まさか。僕の目は吸い寄せられて、そのまさかを確信した。 片手いっぱいに乗っかっている。色とりどりの、小さな毛糸の玉だ。 「大学時代に覚えた奇術や。カタミ先生もみててください」 彼は片手いっぱいの毛玉をいっぺんに口に放り込んだと思うや、両頬を膨らませてもごもごと動かした。唇はしっかり閉じられて、口元だけが激しく上下左右している。 青年は見せ物としての奇術の精神に忠実で、両目を思い切り見開いてシロクロさせることも忘れなかった。 間もなく、頬の膨らみはなくなり、顔中の動きも止まった。青年はあんぐりと口をあけると、腰をかがめ、顔を思い切り前に突き出し、ゆっくりと時間をかけて体を一回転させた。できるだけ多くの人に、口の中をみてもらいたかったのである。 僕もみた。中には毛玉の影さえみえなかった。 「カタミ先生」 青年は腰掛けると、念を押すようにカタミに向けてもう一度大きく口を開いてみせた。 「わかりました。ありがとう」 酒息を嫌ったか。カタミはろくにみもせずに答えてから、エリに鋭い目を向けた。 その間、青年はうわあごと奥歯の間に手を突っ込んで、唾液に濡れてひしゃげた毛玉を一つ一つとりだしては、片方の手に乗せていった。 「やりたくはなかったんですけど」 回収を終えた毛玉を感慨深そうにながめながら、青年はつづけた。 「奇術部の同輩がこの手品が好きで。でも最近、誤ってのどに詰まらせて死によった。まだ若いのに、アホな死に方しよって。おまけに警察は、奇術の力を信じない。きょうはそいつのために、おれ、なつかしの小道具をとりだして、警察署で実演してきたんですわ」 一同、僕を含めて言葉を失った。 「おい、あんた」 青年は視線をエリに移して言った。「奇術はペテンやない。カネをネコババする道具やない。奇術はな」 青年は言葉に詰まった。 「奇術はな」 くしゃくしゃに閉じたまぶたから、涙が二筋流れていた。 「奇術は男の、その、なんや、誠や。真心や」 そういうと青年は、毛玉を握りつぶしたこぶしを目に当てて、おいおいと泣き出した。 泣き声で静寂が破れると、あちこちでささやき合い、論じあう声が聞こえた。 エリは椅子を蹴って立ち上がり、走り出した。ぷんと彼女の香水の匂いが漂った。逃げたのでなく、トイレに向かったのである。自分の妙技が悪趣味な奇術につながるのを目にして、きっと気持ち悪くなったに違いない。 彼女の近くに坐った女の子が札束をそっと手に取り、名残おしげにとなりの子に渡した。となりからとなりへ、物欲しげな顔から顔へと札束が移動して、カタミへと返った。 誰もがほっとした様子だった。 「終わりにしましょう。今夜はこれで」 カタミはカバンを閉じて、僕に言った。立ち上がりしな、青年の肩に手を置いて、小声でささやきかけた。きっと、礼とねぎらいの言葉をかけたのだろう。 「今夜は、ここの勘定は僕が持ちます」 カタミは二百万を取りもどして、ほっとしたようにみえた。エリへの権利を放棄したか、それとも先送りしたのかについては、わからない。 夜の新地には、春のなま暖かい風が吹いていた。カタミに別れの挨拶をすると、僕はなぜかとても寂しくなった。 二百万が、二千万が、二十億円が、なんだというんだ。「奇術は男の誠や。真心や」と断言した青年の姿が、目の前に浮かんだ。彼の手のひらいっぱいに乗った、色とりどりの毛糸の毛玉が、なつかしく、いとおしくさえあった。 火葬場行きのタクシーなどに、乗りたくなかった。でもほかのどこへ帰るのだ。 僕は帰った。家にともる灯りをみつけたとき、ひとだまかと疑りながら玄関の扉を引いた。 » » 次を読む |