Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その十三 自分の鍵で玄関を開けたなんて、いつ以来だろう。僕はぼんやりそう思いながら着替えをすますと、こたつに入ってテレビのニュースをみた。クミコたちはきっと、夕食のために足りないものをどこか近くに買いに出かけたのだろうと思った。しかし、三十分がたち、一時間が過ぎると、さすがにおかしいと感じはじめた。 どこに行ったのか? 僕は家の中をみてまわった。荒らされた様子はなく、ふたりの衣装も持ち物もそのまま残っていた。 待てよ、と思い台所に行った。電子レンジの上方に小さな棚があり、スバイスの瓶が並んでいる。その一つを手にとって振ったが、音がしない。蓋をあけるとやはり空だった。この空瓶には、いつも「山部」のあの三文判を入れているのだ。 僕は居間の奥のオーディオセットに走った。レコードがびっしり詰まった扉を開けて、一枚のアルバムをとりだした。厚紙のケースのどこを探しても、レコード以外の中味はなかった。このアルバムにはいつも、貸金庫の平べったい鍵が入れてあった。 ナミヒラの助言にしたがって、僕は通帳とカードを銀行の貸金庫にしまい、印鑑は台所のスパイスの空瓶に隠しておいた。そして貸金庫の鍵は、このアルバムにはさんでおいたのである。 とっさに、左右の似た形のアルバムも引き出して広げると、隙間に手を入れたり、揺すってもみた。入れ場所を間違えたわけでない。印鑑と一緒に、持っていかれたのだ。誰に? クミコ以外に考えられない。 僕はのどをからからにして電話の横のメモ帳をとると、震える手で「サシスセソ」の頁を開いた。受話器を上げて、松竹銀行支店長のダイヤルインの番号を押した。午後七時過ぎだが、きっとまだナミヒラか支店長代理が残っていて、電話をとるはずだ。 「もしもし、松竹銀行登美ヶ丘支店のナミヒラですが」 「山部です」 僕はほとんど叫んでいた。 「これはこれは、先生。いかがお過ごしですか? このところご無沙汰しておりまして」 ナミヒラの悠長な話しぶりに、僕は半分胸をなで下ろした。 クミコはまだ、大型定期を解約してカネを下ろしてはいない。あれだけのカネを解約するとなれば、支店は大騒ぎになったろう。まして彼女は名義上、カネの所有者ではない。ナミヒラがそんな重要な問題を知りながら、悠然とかまえていられるわけがないのだ。 「実は」 僕はクミコが消え、印鑑と貸金庫の鍵が消えたことを伝えた。 「なるほど」 ナミヒラは僕以上に事情につうじた者のように、そう言った。 「ご心配は要りませんよ、先生。定期はすぐに解約差し止めにします」 「では」、と僕は訊いた。「クミコが貸金庫を開けて通帳とカードをとりだしたかどうか、調べていただけますか?」 「はあ」 ナミヒラはなにか考えている。「奥様が貸金庫を開けにいらっしたかどうかは、いまお調べできます。でも貸金庫の中味となると、金庫を開けにゃいけません。ご存じのように金庫は、銀行側とお客様側の二つの鍵で開けるわけでして、お客様側の鍵がないとなると、いろいんな手続きが必要です。どうですか。ここは一つ、奥様の今後の動向をみながら、少しお待ちになってみては」 クミコが家に戻るかもしれない。ナミヒラはそうみてるわけか。 「とりあえず、奥様が貸金庫を開けにみえたかどうかを調べさせていただきます。ご自宅からですか? では折り返し連絡を差し上げます」 僕は電話が来るまでの間、ミヨのように回れ右を繰り返した。 「山部先生ですか?」 ナミヒラは間もなく電話をかけてきた。「奥様は、本日はおみえになってません」 ひっかかる言い方だ。まるで別の日に金庫を開けに来たみたいではないか、と思って僕は訊いた。 「正直申し上げて、いらっしゃってます」 どういうことか? カネに執着せず、銀行の手続も面倒くさがっていたクミコが、僕に黙って貸金庫を開けに銀行に出向いてたわけか。そういえば、昼間に長く家をあけることがしばしばあった。 「何回くらい行きましたか?」 「それはちょっと」 ナミヒラの顔が金貸しに変わるさまがみえた。「ま、奥様は先生と同様に貸金庫の借り主なわけでして、いくらご夫婦とはいえ、私どもがわざわざご報告するわけには」 違う。ナミヒラはやはり、あのカネの本来の所有者がクミコだということに、こだわっている。自分がいわくつきのカネを預かり、危ない橋を渡っているのをいよいよ感じて、なるたけふたりの争いにかかわらないように身構えているのだ。 「ご安心ください、先生」 警戒を解くような、特別に柔らかい物言いだった。 「通帳とカードと印鑑がどこにあろうと、定期は先生のお名前で解約できないまま、次に満期がくるまで、いままでどおり利子を生みつづけていきます」 そう、僕は安心してよかった。というよりも、心配する権利など、もとからなかった。二十億円とその利子は、みんなクミコのものなのだ。 「じゃ、もしも彼女が定期を解約に来たときは、教えてください。僕名義の預金なんですから」 「わかりました」 僕は受話器を置くと、へなへなと居間に座り込んだ。 なてことだ。両手で頭を抱えて、腹の底からうなり声を出した。 僕を巧妙にだましたクミコが、憎らしかった。僕の生活をさんざんにかき回し、火葬場まで連れて来てから、ぽいと捨てるとは、あまりではないか。 彼女は最初、二十億円がどんなものかわからなくて、ともかく僕にカネを預けたのだろう。でも僕が彼女にブランド品を着せ、ハワイの豪華ホテルに泊まらせ、最近ではときどきお洒落なレストランなどに連れて行くにつれて、カネの価値がわかるようになったのだ。 スーパーでする数千円の買い物とデパートでの数十万円の買い物、スーパーで買う数百円の総菜とレストランで味わう数万円のご馳走が、どんなに数字は違っても同じカネのなせる業だと、クミコは気づいた。そしてその数字が二十億という桁外れの額にまでつながっていることを知ると、彼女は印鑑と金庫の鍵をもって家を飛び出したのである。 結構だ。もともと彼女のカネなのだから、僕に文句をいう筋合いはない。でもひどいじゃないか。こんなに仲良くなってから、何にもいわずに出て行くなんて。ちゃんと気持ちを伝えて、出て行くことだってできたろう。まさか僕がカネの猛者で、彼女に通帳や印鑑を渡すのを拒む、とでも考えたのか? 僕は胸の奥に、チクリと痛みを感じた。拒まないにせよ、「ちょっと待て」と止めるくらいしただろう。僕はいつか喫茶店で通帳と印鑑をクミコから突き返されて以来、自分の名前で自分が管理するあのカネが、クミコのカネであることをずっと気に病んできた。どうごまかしても、あのカネが欲しかった。本当は欲しくて仕方なかったのだ。 うめきはおさまり、ため息にかわった。僕は、なんて情けない男だ。クミコを憎む資格などない。むしろ彼女は、あのカネで僕を救い、僕を変えたではないか。ハワイの豪華旅行がなければ、新地を闊歩するタチモトたちの姿はみれなかったし、だとすればJCでの講演が好評を得ることはなかった。「維新の会」で講演することもなければ、新地のクラブのあちこちに行くこともなかった。大学の講義や会議では、僕はおとなしくてうだつの上がらない学者のままだったはずだ。みんな、クミコのお陰ではないか。 思えばクミコはやさしい女だった。いつも僕への感謝の気持ちをもち、なにかというと僕のやさしさを誉めて、自分の無知を謝っていた。不遇とはクミコのためにある言葉だろうに、彼女は決して暗くはなく、しかも軽くもなかった。 そういえば、彼女はいまどうしてるのだろう。心配になってきた。黙って家を出たのはよいが、預金を下ろすこともできないままに、ミヨと一緒にどこかで眠らなければいけない。きっと、社長に買ってもらったあのマンションに戻ったのだ。 そのとき僕は、ミヤーという声を背後に聞いた。クミコでもミヨでもない。黒猫ミォの声だとわかって、僕は振り返った。 「ミヤー」 ミォははっきりと、僕になにかを訴えていた。 空腹なのか、と立ち上がって台所に行くと、黒猫用の器にキャットフードがまだたくさん残っている。食べ物が欲しいのではない。では、なにを伝えたいのか? 「ミヤー」 もう一度、僕に向かって泣いた。 ミォの銀目をのぞきこんでいるうちに、いやな話を思い出した。エドガー・アラン・ポオの『黒猫』である。 僕はもちろんポオの主人公と違って、女を殺したり壁に塗り込めたりはしない。でもミォはポオの物語の黒猫のように、殺しのあったことを伝えているのかもしれない。 背筋に悪寒が走った。「うち、恐いんよ。犯人はまだつかまってへん」、とクミコは言っていた。犯人は彼女の居場所をつきとめ、ミヨを人質にとってカネを要求したのかもしれない。金庫の鍵と印鑑を手に入れたあとで、無用になった母娘をすでに片づけた可能性だってある。どこで? 先ほど家の中をみてまわったかぎり、壁のどこにも異常はなかった。すると、マンションかもしれない。 警察に届けようか、マンションに様子をみにいこうか、と思案しながら、僕は結局なんの行動も起こさなかった。警察に届ければ、あれこれと事情を聴取されて、あっという間に二十億円の七割が消える。マンションに様子をみにいけば、もしかするとクミコたちの無惨な姿を目の当たりにした上で、警察の聴取を受けなければいけない。 僕はナミヒラのいうとおりに、しばらく様子をみることにした。クミコは殺されたと決まったわけではない。それに、家に戻ってこないともかぎらないのだ。 » » 次を読む |