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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その十四


クミコは月曜日に消えた。でも僕には同じ週の木曜日に、マルキから依頼された講演があった。彼が理事をつとめる「ひのきを愛する会」で話をするのだ。いまさらキャンセルというのも気が引けて、梅田近くの小さな会館で演壇に立った。

クミコの消息が気になっていたせいで、僕は大変な失敗をおかした。ひのきをけやきと間違えてしまったのである。実際、僕は両方の木を見わけられないほどの無知だが、けやきのことは少し調べていた。けやきを誉め上げて講演を締めくくると、しんとした会場にまばらな拍手が鳴るだけだった。

「センセ」 マルキが引きつった顔で寄ってきた。「ご免、とんでもない間違いをしてしもうて」

マルキはいかにも困ったように、大きな体をもぞもぞさせて小声でささやいた。

「おれ酔っぱらうと、ときどき、ひのきをけやきと言い間違える癖があるらしい。いつか理事のひとりに注意されて、だいぶ気ぃつけてるんやけど。よりによって、センセに頼んだときに、なんてこっちゃ」

「気にしないでいいです」 僕はこともなげに言った。「僕が間違ったことにするから」

マルキの顔がぱっと明るくなった。

「ありがとう。だったら、懇親会場でマイクまわすから、自分が間違えたというスピーチしてもらえんやろか? ね、センセ、このとおりお願いや。おれの顔つぶさんために、どうかお願いや。あとで、たんとお礼を弾ませてもらうから」

マルキは平身低頭で、強引に頼んできた。

もっと本当らしい話をつくれ、と文句をいう読者がいたら、僕はいいたい。これは本当に起きた話なのである。世の中にはときどき、マルキのような信じられない間違いをするひとがいる。たとえば僕は、妹の名前で娘を呼んでしまう母親を知っているし、イギリスに暮らしながらポンドをドルと呼びつづけた邦人とも親しい。しかも彼らは、ごくふつうのひとである。

「いや、よう謝ってくれた」

マルキは会館を出るなり、そう言って僕の肩に手をかけた。僕の理解するかぎり、この動作は親密さの表現ではあるが、尊敬をあらわすものでない。でもけやきの間違いは、間違いなく僕に由来していたので気にしないでおいた。

「今夜は、特別にええとこ、行きましょ。おれも滅多行くことはできない店やけど。今夜は別や」

ふたりは北新地のなじみの路地を、南へ向かって歩いた。

「マルキさん」

黒服の若い男が、声を掛けた。

「よ、元気か? 久しぶりやな。今日はこのお客さん、連れてきたで」

男が立っているのは、あるビルの地階へと降りるらせん階段の入り口だった。どうやらここが、目的地だったらしい。

「C'est la vie」という横文字の名前のクラブだった。店内は三十畳はあろうかという広さで、ラウンドテーブルもソファもフロアも、みんなたっぷりと場所をとってあった。黒服の男たちがきびきびと歩きまわり、どの客も両手に花いっぱいの状態で、気持ちよさそうに酒を飲み言葉を交わしていた。なるほど北新地の中でも、特別にランクの高いクラブのようだ。

マルキと僕が大きなラウンドテーブルに案内されると、さっそく女の子が六人ばかりやってきて、僕らを対座させる形で間に入った。六人それぞれの綺麗さに、僕は早くも目を奪われた。これまでクラブでみた女の子も綺麗だったが、この店の子とは格が違った。たとえば六人は、みな違った髪型と髪の毛をしていた。カットといいカーリングといい、ずいぶんと高級な美容院にかよっているらしい。

化粧もアクセサリーもマニュキアも、各人各様に輝いていた。なかでも一番個性的なのは服装で、いずれも別種のドレスを着ていて、僕にはチャイナ・ドレスくらいしか名前が浮かばなかった。なぜか当時は相応のクラブに行くと、どこでもチア・ガールのように一様にはつらつとした美女がそろっていたが、この店は違った。別格とはこういうことをいうのか、と僕はひそかにうなづいた。

サービスにしても、熱いおしぼりが出されただけでない。黒服のひとりは、ブランド品のネクタイが蛇みたいにうじゃうじゃ泳ぐ箱をもってきて、二本ほど好みのものを選んでくれという。ゲームでもはじまりそうな雰囲気だったが、新客への奉仕にすぎない、と彼は笑った。

三十代の男ふたりと二十代の女の子六人は、グラスを傾けて和気あいあいと話しはじめた。五分もしないうちに、僕にはわかった。この子たちの会話能力は、タチモトに最初に招待されたクラブの女の子たちと変わりはしない。ひとり当たりの話す頻度が減っただけ、おとなしく上品にみえるだけだ。会話の機知も言葉づかいも似たり寄ったりだし、誰がなにを話しても同じに聞こえる。

僕はカネの威力を、あらためて思い知った。まさにカネとは、同じ女の子をこうも別な姿に変えてしまうのだ。カネにこだわらない方がおかしい。

「センセ、ちょっと席をはずします」

マルキは立ち上がり、向こうのテーブルに歩いていって、客のひとりに挨拶した。角刈りで血色のよい少し年配の男が、マルキと真顔で話しだした。マルキは腰を曲げて頭を掻いては、さかんにうなづいてみせた。得意先か、山持ちの息子か、そんなところだろうと僕は思った。

意外にもその男は席を立つと、マルキをしたがえて僕の方に歩いてきた。マルキがあとから来るために、僕らは数秒の間、初対面どおしで黙ってみつめあうかたちになった。

「センセ、ご紹介します。JCOBで大阪弁護士会役員のカタミ先生です」

僕は立ち上がった。男は小柄ながら、格闘家みたいながっしりした体型をしていた。寒さの残る三月なのに、上着を脱いでYシャツの胸元をはだけ、ネクタイの輪っかを垂らしていた。もちろん背広のズボンははいていたはずだ。でも僕には、ステテコ姿だったような記憶がある。

酒のまわったとろんとした顔に、くりっとした目が光り、僕を見据えていた。名刺を交換して、よろしくという挨拶を交わしていると、マルキが僕の横に近寄って小声で言った。

「カタミ先生が、センセと二人だけでお話ししたいんだそうです。よろしいでしょうか?」

断る理由がないので、僕はうなづいた。

「そな、あちらへ」

マルキはそういって、僕を見送った。

僕はわけがわからないまま、とにかくカタミのうしろをついていった。カタミは短い足で大幅なステップを踏んで、どんどん反対側の壁の方に歩いていく。

黒服の男が横から駆け寄った。淡いペイズリー柄の壁紙が一面に貼られた中央に、よくみると銀色の取っ手が飛び出ていて、男はその取っ手を引いた。

僕は吸い込まれるように、カタミと一緒に中へ入った。

店の明るさと大差ない、ほの暗くて小さな部屋だった。ただでさえ狭いのに、四方にはダンボール箱や発泡スチロールの板があらっぽく積み上げられて真ん中に迫っていた。椅子ひとつなかった。

「先生」

ドアが外側から閉まると、カタミはか細い声で丁重な口調で僕に話しかけた。

「このところ、ずいぶんとお金を儲けたそうですね」

恐喝だ、と僕は確信した。

「怖がらなくって大丈夫です。私はなにも、悪いことをしようとするんじゃない」

男はあいかわらず丁寧な言葉づかいで、完璧な標準語をしゃべった。

「まだお若そうだし、もっともっとお金が貯まるようにお手伝いしようかと思うんです。簡単ですよ」

カタミは視線をそらして横を向いた。斜め上からみる彼の下唇は、厚く柔らかくうるおっていた。

セールスでもお節介でもない。ただ情報通の自分はあなたと出会ったついでに、もしよければと思ってうまい話を持ちかけたまでのことだ。そう唇は語っているようにみえた。

僕は黙って立ったまま、カタミのもちかける話を待つことにした。

「借地借家法って、知ってますか? 東京人なら、たいていが聞いたことのある法律ですよ。関西には昔から借地が発達しなかったせいで、なじみが薄いんです」

カタミは腕を組んで、ふたたび僕をみつめた。聞く気があるならつづけます、という態度だった。

「この法律は借地人を守るための法律なんだが、守りすぎる難点があります。この法律に泣かされた貸し主は、数え切れなません。借地契約は借り方に有利なだけでなく、契約期間が二十年とやたら長いんです。借地人にどいてもらおうたって、ちっとやそっとのカネじゃ動こうとしない。とくに小さな貸し地があちこち入り組んだ土地には、地上げ屋だって寄りつかないんですよ。でも、あなたは、まだお若い」

カタミの独特な話術に引き込まれた僕だが、わけがわからなくなって彼をみた。

「だから、そんな問題ぶくみな土地を安く買い叩いて手に入れれば、五年、十年と経てば地価は何倍、何十倍にも膨らんで、あなたは末は財閥というわけです。簡単ですよ」

ますます不可解な話だった。この弁護士は酒のために、早くもボケが来てるのではないか、とさえ感じた。そのときだった。彼はみる間に、ぴたり着地を決めた。

「あなたを財閥にする、特別な弁護士たちがいるんです。違法行為を働くんじゃないんですよ。あなたも弁護士も、綺麗なままです。私ももちろん、綺麗です。第一、私のホームグランドはここ大阪。でも東京でやりにくい話が、逆にこちらにまわってきたりする。うまくできてる。話はどこをどうまわっても、ちゃんと仲介料と顧問料をさっ引くので、誰もが恨みっこなしです。ご安心なさい。儲けの十五パーセントをみんで分け合うだけですよ。あとは全部、あなたのもの。だから儲けが大きければ大きいほど、あなたも弁護士たちも喜ぶ。どうですか? 話に乗りたければ、どうぞ。乗りたくなければ、こんな部屋早く出ましょ。暑くって仕方ない」

僕はとても興味を持った。

地上げの利益は、四・五パーセントの預金利子どころではない。もちろん、二十億の全額をつぎ込むのは危険だ。でもカネの一部を分散させてカタミのいう土地に変えれば、やがては何倍、何十倍となって返ってくる。

問題は、いまの僕に印鑑がなく貸金庫の鍵も開かないことだ。

「もう出ましょ」

カタミは汗で滲んだシャツの背中を向けて、取っ手をまわり外に出ようとした。

「あの、すみません」

思わず声を掛けた。

「とにかくこの部屋を出ましょう」

僕はカタミのあとについて出ると、彼と並ぶようにして壁際に立った。あちらこちらに大輪の花が開いたように、女の子たちの輝くさまはみごとだった。

「どうぞ」

カタミは用件を言うようにうながしたが、目の前の光景にみとれてるようにもみえた。

「カネはいますぐ動かせないんです」

率直に、僕は言った。

「いまじゃなくたっていいですよ」

「どれくらいの金額を、いつ頃までに用意したらいいんでしょうか?」

彼は僕の方を向くと、あの不思議な魅力の唇を動かした。

「いつでも、好きなだけの額で、どうぞ。物件はごろごろしてます。簡単ですよ」

彼はそういうと、足早にもといたテーブルにもどった。取り残された僕も、仕方なくマルキのいる方に向かった。

「ワアアア」

間もなくして、女の子たちの合唱が起こった。カタミのテーブルからだ。みると彼は、黒いカバンをひざに置いて開き、何かを握って高くかざしている。

「はじまりよった。カタミさんのいつものゲームや」

マルキは体をよじって、カタミをみつめている。みわたせば、まわりの客や女の子たちも、カタミにというより、カタミのかざしてるものに注目していた。

あれは札束ではないか、と僕は思った。マルキの横にいた子が、ラメ入りのミニドレス姿で立ち上がり、ハイヒールの長い足をもてあまし気味に動かして、らせん階段を上っていった。

「近くのコンビニまで、食パンを買いにいったんです」

マルキはもとの姿勢にもどると、正面に坐る僕に説明した。

「食パン二枚を水っけなしで三分間で食べられたら、二百万円があの子のもの。食べられなきゃ、すぐトイレに行ってカタミさんとエッチです」

僕が言葉もつげずに黙っていると、女の子たちが話し出した。

「三分で食べた子は、まだひとりしかいないの」

「私もいつか挑戦してみよう」

「あんたエッチするの?」

「ミズハがいうには、舐めてあげるだけやて」

ラメ入りのミニドレスが戻ってきた。手にさげたスーパーの小さな袋はなんとも不釣り合いだったが、二百万円のためならどうってことないのだろう。

彼女はカタミの横に座ると食パンをとりだし、皮をはぐように袋を剥いて二枚をつまみ出した。厚切りパンの二枚が、縦向きで左右にテーブルの上に並んだ。

カタミはパンの横に札束を置いてから、腕時計をはずした。

さあ、これからが勝負だ、と思ったとき、女の子や客たちが彼のテーブルのまわりに集まって取り囲んだので、さっぱりみえなくなった。僕のテーブルでも、マルキと女の子たちはいつの間にかいなくなって、輪の中にまじっていた。たったひとり残った子は、煙草をとりだして火をつけると、ふっと煙を宙に向けて吐いている。彼女もまた開店休業にして、ゲームの進行に耳をそばだてていた。

歓声と悲鳴と拍手が、波のように寄せては引いた。最後に決定的な大きさで悲鳴が上がると、騒ぎが急におさまり、客も女の子もそれぞれのテーブルに戻っていった。

どうなったのか? 問題のテーブルがみえるようになると、ちぎれたパンの一片が放り出されており、札束は手つかず置かれたままだ。カタミも女の子もいない。

「カタミさんは?」

マルキは僕に、先ほどの壁の方を指さした。みるとカタミは女の子の手を片手で引いて、銀のノブに残りの片手をかけていた。さっきの部屋だ。

暑くはないか? 僕は心配した。

「カタミさんとの話、どないでした?」

マルキは女の子六人と黒服ひとりに見送られて店をでると、僕に訊いた。

「正直にアドバイスさせてもらいます。カタミ先生はあのとおり、すごいひとです。カネ儲けの手口をあれこれ知ってはる。現ナマの余裕さえあれば、おれかて先生に預けてカネを倍々に増やしてもらうんやが。なんせ会社のカネは右から左へと出て行く状態やし、カタミ先生の儲けの手口は特別よってに、銀行でローンを組むこともできひん」

なるほど、と僕は確信を深めた。カタミ先生ともっと仲良くなろう。いままでみた若旦那衆とはずいぶんと違う。きっとカネ儲けをはじめ、ほかのことでも学ぶことが大いに違いない。

でも、あのひととつきあうのに、どれだけカネがかかるのか?

「きょうは散財させました。参考のために知りたいのですが、さっきの店ってどれくらいかかるものでしょう?」

「おれが招待できる店やから、高いゆうても知れてますが」 マルキは値段を訊かれて嬉しそうだった。「ひとり一回で、十万てとこです」

十万円か。僕は夜空というより、ビルの灯りやネオンサインを仰いで考えた。朝起きるごとに、僕にはあたらしい二十五万円が入ってくる。ただし利子は、定期を満期解約して更新するとき、はじめて僕の口座に振り込まれるのだ。定期の解約を差し止めたいまの状態では、利子を下ろすこともできない。

やはり、印鑑と貸金庫の鍵が欲しい。


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