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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その十二

大阪JC理事長との出会いは僕を変えた。

タチモトというその男は、研究室に電話をかけてきて、僕に会いたいと告げた。

「ハワイでお願いした講演の件ですけど、よろしく。ついてはその前に一度、JC役員たちをまじえて、先生と打ち合わせをしませんか?」

断る理由など、僕になかった。

「では、全日空ホテルのロビーで、木曜日の夕方七時というのは、どうです?」

大阪全日空ホテルは、大阪一番の高級歓楽街である北新地のすぐ近くにある。ホテルで待ち合わせした僕らは、その北新地にある割烹の一軒に入った。格式ばらない気楽な店だったが、カウンターの目の前に並ぶネタの数々は板前と同様に、特別に活きがよかった。

カウンターもテーブルも、客で溢れかえっていた。おそらく彼らの多くは、会社のカネで飲み食いしていた。

「らっしゃい。毎度」

店長らしき年配の男が、タチモトに挨拶した。タチモトは手を振ると、カウンターの奥に向かった。彼の予約で、一番端に三つ席がとってあった。タチモトは僕を真ん中の席に招いたあと、先ほどホテルで紹介したミヨシというJC役員を奥に入れて、自分は手前の席についた。こんな店で、こんなふうに坐ったことなど、いままであったろうか。

僕は感激しかけたが、二十億円預金の正真正銘の名義人であることを心で言い聞かせて、冷静になった。いまは松竹銀行だけでなく、デパートに行っても旅行代理店に行っても、ちやほやされる身分だ。大学の格だけはどうしようもなかったが、それでも助教授の肩書きがあるお陰で、いまここに坐っているのである。

「先生。新地にはよう来はるんですか?」

ミヨシはスポーツ刈りを好み、目をくしゃくしゃする癖があるらしい。

「まあ、たまですけど」

見栄をはるのは、偉くなった証拠だ。

「面白そうなご専攻ですね」

僕は少しばかり、肝を冷やした。

当時流行しはじめた冷酒を口に運びながら、タチモトとミヨシは僕に、仕事や景気や趣味について訊いた。ヤバイ突っ込みはなかったが、面白い会話でもなかった。でも、かたや三十人規模の不動産会社、かたや五十人規模の運送会社を親から引き継いでいるふたりは、彼らと僕とが同じ考えを共有しているのだと信じていた。

世の中には、カネより大切な男としての理想がある。でもカネ儲けとその理想とは両立するはずだし、僕らは現実に両立させている。だから彼らは仕事の合間をぬってJCのために活動し、僕だってJCの講演を謝礼抜きで引き受ける。彼らはこれを当然の前提にして、自腹を切って僕を招待していた。

ご馳走でお腹がふくれ、冷酒で酔いがまわるにつれて、ふたりは無口な僕を無視してJC仲間の話題で盛り上がった。

「先生、もう一軒行きましょう」

断る理由もないので、僕はふたりの後をのこのことついていった。ペンシルビルの何階かに、彼らがよくいくクラブがあった。店のママは和服をいきに着こなし、女の子たちはいずれも綺麗どころだった。ボックス席の一つにとおされると、男の数だけ女たちがやってきた。僕は両側を彼女たちにはさまれて、熱いおしぼりを一番最初に渡された。

こんな店にこんなふうにして坐ったことは、いままで僕にはなかった。でも熱いタオルと顔との出会いは、遠くない昔にあった。あの夜クミコから受けたサービスを思いながら、僕は両脇で「先生、先生」と騒ぎする女の子たちを交互にみつめた。

ふたりとも照明のせいか、ぴかぴかに輝いてみえた。ともにセミロングの髪を真ん中で分けて垂らし、その先をふっくらとカールさせている。スカートからのぞくすらりとした足は、ガニ股ではなかった。ふたりはそろって、店のロゴが入った立派な名刺を僕に渡した。やがて向かいに坐るタチモトとミヨシがJC仲間の当店での失態を話題にすると、身をよじらせて笑った。それからずっと、JC仲間がどんなに個性的かを、客と女の子たちとで披露しあった。

「先生。講演の方、よろしくお願いします」

タチモトとミヨシは頭をさげて、深夜料金のタクシーに乗る僕を見送った。結局、講演の打ち合わせなど、ひとつとしてでなかった。

僕はキツネにつままれたように、火葬場に向かった。

「どやった? JC」

クミコは嬉しそうに僕を迎えて訊いた。

「おもろいとこやろ?」

「ああ」、と僕は答えた。「確かに」

JCメンバーは礼節をもって、講演者の僕を迎えてくれた。大阪しにせの一流ホテルの会議室で、彼らは総勢二十人ほどで僕を待っていた。誰もが仕事帰りか、仕事の途中に駆けつけた中小企業の若旦那だった。

僕は用意した数枚のメモをみながら、日本企業のロックフェラー・センター買収の文化的意味について、知ったかぶりをして話した。

知ったかぶりといっても、知識をみせびらかしたり、新説を息巻いたのではなかった。誰もが新聞やテレビや雑誌で知っている話題を、いまさら自分で話すのも恥ずかしいなどとは思わずに、正々堂々と自信を持ってわかりやすく整理しただけだ。専門的知識は動員しなかったし、創造性のかけらさえ発揮しなかった。ただ学者の肩書きで紹介されたあとで、聴き手の思っているとおりのことを話す。それだけだった。

講演を終えて拍手が起こると、何人かが名刺をもって近づいてきた。

「いや、いいお話、聞かせてもらいました」

「あらためてお聞きすると、なるほどと思います」

「さすが、学者の話や」

お世辞があるにせよ、好評に違いなかった。僕はつまり、聴き手の期待していたことを裏切らずに話したわけだ。念のため、JCの名誉のためにつけ添えれば、彼らは趣味も教養も良識もそなえた良き聴衆である。

僕にどうしてこんなことができるようになったのかは、わからない。二十億円の効果には違いない。でも、あの夜タチモトとミヨシが、当たり前のように自分たちのことを堂々と話題にしながら新地を闊歩した姿をみなければ、この講演ぶりは実現しなかったろう。僕は彼らから、なにかとても重要なことを学んだのである。

「となりの部屋に夕食を用意しております。みなさん、どうか山部先生を囲んでご歓談ください」

タチモトの言葉で、メンバーのほとんどが隣室に移動した。テーブルをつないで長方形が作られており、僕は長い一辺の真ん中に坐らされた。ホテルの従業員数名が、飲み物と一緒にオードブルを運んできた。一同わきあいあいとした雰囲気で、タチモトの挨拶もなしに乾杯しあい食事がはじまった。大声で話す者などひとりもなく、おっとりとした会話があちらこちらで弾んでいた。

「先生、こんどうちとこで講演お願いしますわ」

右隣に坐る男はそういうと、背広の裏ポケットに手をつっこんだ。名刺をとりだすとみた僕は、タイミングをはかって同じ動作に移った。このところ、習得した動作だ。

「仲間と一緒に、『維新の会』いうのつくってます。」

ひと月前の僕なら、名前を聞いてびびったろう。でもいまは、どうということもなかった。若旦那衆は、名前にもお坊ちゃんなのである。

「いまの時代は、ちと冒険せにゃいけません。商売いうのはあたらしいことしてやっと生き残れるわけやし、ましていまは激動の時代やよってに」

マルキという大木のように大きくてがっしりした彼は、ひのきの特製風呂を開発中だという。

「みな贅沢になったさかい、なるたけ香り高い風呂をつくろう思うてます。はやりのパウダーなんて、すぐ飽きますわ。ホンモノ志向の世の中です」

なるほどとうなづく間もなく、僕の反対の左隣に坐る男が、口いっぱいに食べ物を頬張ったまま話し出した。

「センセ、どう思います? マルキのやってること。うちとこはパウダーで、ホンモノの香りを追求しとるんです。こだわりの時代の消費者は、ハーブや木や花やと、いろんな香りを求めて楽しむいうのに、このマルキは、新材のにおいを一日でも延ばそう、とあがいとる」

モノを頬張ったままでよくこれだけ話せるなと思って彼をみると、なんと高笑いまでしはじめた。

「センセ」 マルキが応酬した。「こいつは、ホンモノいうても、ホンモノのなにかを知らん奴です。つまらん女のいる店にばかり出入りしよって」

「おまえの行くあの店かて、なんや」

「勘定をひとに払わせといて、よういうわ」

「それはお前かて、同じや」

ふたりは好敵手というより、じゃれあいを演じてるようにみえた。ともあれ、両人とも僕に向かって、「センセ。このあと、飲みにでかけましょや」と誘った。

僕はこうして、あたらしく知り合った男たちとあたらしい店に出かけ、綺麗でぴかぴかの女の子たちから、熱いおしぼりを渡されて顔を拭いた。一同の屈託ない話につきあい、最後には「よろしくお願いします」と言われながら、新地の路地をところせましと埋めるタクシーの一台に乗って、火葬場に帰った。

「維新の会」では似たホテルの一室で同じような講演をした。ただしちょっと工夫して、「大学でもこれと同じようなことが言えまして」という一節を入れて、あることないことを紹介した。講演は、前回にも増した好評を得た。

「なるほど、勉強になりました」

「やはりそうなんでしょうな、先生」

名刺の交換、会食、歓談とつづいて、「こんどは、うちとこで講演お願いしますわ」とメンバーのひとりに声を掛けられた。「どうですか? これから一軒」と誘われて、またのこのことついていった。

たどり着くとそこは、先日タチモトとミヨシと来た店であり、女の子たちは「センセ、毎度」と微笑んで熱いおしぼりを持ってきた。僕の前回の講演を聴いたというJCメンバーがちょうど居合わせて、僕らに同席した。一同はJCだか「維新の会」だかの誰かの話でまた盛り上がり、僕は最後に例の「よろしくお願いします」の見送りをうけて、同じ目的地を運転手に告げた。

万事がこんな調子で進んだ。僕はどこかに招かれて話をし、ご馳走を食べて酒を飲み、綺麗な子のいる店に連れて行かれて、誰やら聞き覚えのある人物の話に一緒につきあった。いつも似たような聴き手を前に、誰でも知る話を披露して「なるほど、先生」と喜ばれたが、特別な尊敬を受けてるわけではなかった。彼らはみないい加減で、それでいて真面目であり、しかも適度にやさしかった。

僕はさして嬉しくもなければ、むなしいとも感じなかった。ただいつの間にか、自分が知らないうちに変わっていくのがわかった。というより、世界が変わってきたのだ。同じ絵柄で別な組み合わせのジグゾーパズルを、あたらしくみる思いだった。目の前の同じ世界が、まるで違う成り立ちで現れてきた。

この新種のパズルでは、僕があれだけこだわった不遇や軽さの問題は、存在さえしなかった。才能があるのに認められないといって苦しんだり、不幸なのにそれにふさわしい重さを感じられないと悩んだりすることは、別世界の話題であり、ここでは場違いだった。

あたらしいパズルの断片は、もっと単純でわかりやすくつながっていた。それだけに取り扱いを間違えてはいけないが、気をつけてさえいれば万事がうまく運んだ。何かに似ている、と僕は思った。

二十億円の定期預金である。支店長代理は月末になると僕の住まいを訪れて、変動したレートを説明しながら、今度は何ヶ月の定期預金として更新すべきかをアドバイスした。僕はわかりやすい説明を理解し、助言に従うだけでよかった。

世界が変わったことは、大学が変わったことも意味した。僕はいつの間にか、ぼそぼそ声の専門的な講義をやめて、学生の誰もが知ってそうな話題を、恥ずかしげもなくしゃべりつづけた。会議の席では非常識な教授たちの発言に対して、当たり前の意見を堂々と述べた。老教授たちは驚き、中にはいきり立つ者もいたが、僕は自分の思うことを臆せずに繰り返した。ちょうどタチモトやミヨシのように、自分の話はどんなに凡庸であろうと、胸を張って表明すればいいのだ。そんな僕の発言に、教授たちは発言を撤回したり部分的に訂正したりした。

「なるほど、おっしゃることはごもっともですが」

とくに、この接頭句を付け加えるテクニックを学んでからは、恐いものがなくなった。

「あんた、この頃、活き活きしてるで」 クミコがある晩、居間で僕をみつめて言った。「うち、幸せや」

僕は彼女の肩を抱き寄せた。

「ミォ、ミォ」

そばでミヨがつぶやいた。

こんなものか人生は、と僕は嬉しくも悲しくもなく思った。

でも人生は、こんなものではなかった。僕にはやはり、悪いことが起こるのである。

ある日、クミコとミヨが忽然として消えた。


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