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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その十

こうして僕はクミコとミヨと三人で、日当たりの良い庭付きの一軒家に、昭和六十一年の大晦日から暮らすようになった。とんでもない間違いをしでかしたかもしれない、という思いはあった。火葬場のとなりに住むことではない。彼女たちと暮らし始めたことだ。

クミコはときどき沈み込んだり忍び泣きモードに陥ったけれども、総じて幸せそうで、「やさしいひとやね、あんた」を繰り返した。彼女は僕を幸せにするために、灯りをこうこうとつけた部屋のとなりを寝室に選んでくれた。

煙のでにくい焼却設備が開発されたいま、新居の欠点はミヨを預ける保育園が近くにないことだった。でも、かわりに主婦業に専念できるようになったクミコが、家でずっとミヨの面倒をみた。

母親は娘を幸せにするために、三が日のご馳走で黒猫を餌づけた。一週間後には、その黒猫を小脇に抱いて家に入れた。以来猫は、外への出入りを気ままに繰り返している。

ミヨはあいかわらず無表情で、いつもあのちゃんちゃんこを羽織っていた。でも、「ミォ、ミォ」の言葉を一日数回は口にできるようになった。猫に呼びかけてる様子だけれど、自分を名乗ろうとしているふうに聞こえなくもない。いずれにしても黒猫は、ミヨの母親から、「ミォ」というまぎらわしい名前を与えられた。

僕は新年の一週間が明けると、ふたたび大学にかよいはじめた。ぼそぼそとした口調でかわりばえのしない授業をし、非常識家ぞろいの会議ではぼんやり窓の外をみていた。あいかわらず、不遇にして軽めの男に違いなかった。

でも以前と同じかと問われれば、もちろん違いはあった。大学食堂のフライ物のランチは、クミコ特製の卵焼きとウィンナー・ソーセージとほうれん草のおひたしが詰まった弁当に変わったし、帰りの電車で推理小説を読むのは一緒だが、地下街の食料品売場をこそこそと歩き回らなくてもよくなった。何十年ぶりかで、「いってきます」「ただいま」の挨拶を口にできたし、鍵を置いて外に出ても大丈夫な身分にもなった。

不遇で軽めの男は、きっと少しだけ幸せになったのだろう。ただし、不遇に慣れきった身には、ほんの少しの幸せでも落ち着かないことがある。わけてもこの幸せには、落ち着きを邪魔するに十分な理由があった。

大学での僕は、運転手つきのベンツに乗り込む理事長の姿と出会うたびに、いつか銀行でナミヒラを前に空想したことを思い起こした。カネは使い切れないほどあったし、寝て起きるたびにさらに二十五万円がふえていく。でもそのカネは、僕の名義で僕が管理しているのに、僕のカネではないのだ。

そうやって割り切れない思いで家に帰ると、クミコの笑顔が僕を迎えた。

「どやった、お弁当?」

一日として変わらない原始的メニューにもかかわらず、不安そうに必ず訊いた。もしかして、とあるときとんでもない疑念が頭をよぎった。卵焼きとソーセージとほうれん草の組み合わせが特殊な毒物を生んで、クミコはそれが僕の体内に蓄積されていくのを確かめているのではないか。

そういえば、昼間は長時間にわたって家をあけることが多いみたいだ。買い物に出たと本人はいうが、本当は僕の夕食に入れる毒物を調達してまわっているのではないか。

もちろん、この疑いはばかげていた。なぜなら、僕が死んでも相続人には七割近くの相続税がかかるし、クミコはすでに七割の贈与税の支払いを惜しいと感じて、カネの名義変更を辞退している。しかも結婚してない今の状態では、彼女が相続権を主張することは難しい。なによりも、彼女は結婚を迫ろうともしないのだ。僕はばかげた疑念をしりぞけて、夕食を口に運んだ。

でも食事を終えると、また別の疑念が浮かんだ。もしかしてクミコは、相続税についても、内縁関係の相続権についても、まったく無知なのではかろうか?

授業の準備をするために、居間から勉強部屋に向かった。

「ご苦労さん、頑張ってや」

僕を見送るクミコの屈託ない笑をみると、ひどくうしろめたい気分になった。この疑念はきっと、僕自身の奥に潜む悪魔のしわざなのだ、と思った。パートナーの死をひそかに願うのは、もしかしてこの僕ではないか。僕は自分のそんな気持ちを、彼女の気持ちにすり替えようとしている。なんのために? もちろん、彼女を殺す理由をつくるためだ。

ああ。僕は染みのついた勉強部屋の天井を仰いだ。こんな疑心暗鬼の世界から自由になりたい。自由になるには、どうすればいいんだ?

クミコかカネか。どちらかをきっぱり捨てることだ。どちらを捨てる? 当然、カネじゃないか。クミコからの愛情をいっぱいに受けて、カネについてはすべて彼女のものだと割り切り、ささやかなおこぼれにあずかればそれでいいのだ。

僕は少し気持ちが軽くなり、授業の準備を早めに終えて居間に戻った。クミコはテレビに見入り、高笑いを上げるところだった。下卑たネタでひとを笑わせる番組だ。ワンパターンのオチを何度も繰り返すたびに、観客が笑いクミコが笑った。

どうしてこんな女と一緒にいるんだろう? 突然、彼女との距離がぐんと開くのを感じた。

「仕事終わったんやね、お茶入れよか?」

クミコは僕に気づいて、暖かい物言いをした。

やさしい。このやさしさがあるから一緒にいるのだ、と僕は頷いた。ならば今後のために、お互いの趣味について率直に話し合おうではないか。

「ご免な」 クミコは、話を聞く以前にすでに謝っていた。「気に入らんなら、チャンネル替えるなり切るなりして。うち、どうでもええさかい」

「待てよ」

僕がそう言っただけで、彼女は顔を両手でおおった。

「堪忍して。お願いやさかい」

僕はあきれ、声をあらげて訊いた。

「なぜ君が謝るんだい?」

「怒らんといて、お願いやさかい」

確かに僕は怒っていたので、お願いを受け入れた。

「悪かった。君が謝らなくていいことを謝るから、つい」

「ご免な」 まだ謝るのをやめない。「うち、難しいこと、ようわからんのよ」

「いいや」 僕にも謝るしか手がなさそうだ。「僕こそ、ご免。もう怒らないようにするよ」

「ご免な」

クミコはまた謝ったが、ここで怒っては同じサイクルになってしまう。ぐっと我慢して、僕は穏やかに言った。

「謝らなくっていいよ」

「うち、難しいこと、ようわからんのよ」

ダメだ。またぐるぐる回りの問答だ。

「もう謝りあうのはよそう」

「ご免な」

「うん。ご免」

僕はなんとか頑張って謝り合いをつづけた。

「やさしいひとやね、あんた」

「君こそ、やさしいひとさ」

謝り合いが誉め合いに変わってほっとしたが、振り返れば何をどう解決したわけでもなかった。

その後、僕はクミコの複雑な過去に思いをめぐらせるようになった。彼女には絶対になにかある。あの火傷のあとだって、尋常じゃない。きっと、誰かに無理矢理つけられた傷痕だろう。でももしかしたら、と疑り深くなっている僕は考えた。自傷行為の可能性だってある。

彼女は不思議な人格だ。忍び泣きモードと号泣モード。たいていは不自然なほどに防衛的だが、たまに度肝をぬくように攻撃的になる。自分をはげしく責めさいなむ裏側で、相手を強く攻めたてるエネルギーを蓄えてるかのようだ。

「ミォ、ミォ」

庭先ではミヨがひとりぽつんとたたずんで、つぶやいていた。そういえば、とまた猜疑心を発揮して、僕は考えた。この子の腕のあちこちにあった青あざは、母親がつけたのかも知れない。人格障害の母親をもったこの子は、可哀想に感情を消し言葉を消すより仕方なかったのではないか。

そう思うと、ミヨがとても身近に感じられた。

「ミヨ、ミヨ」、と僕が彼女に呼びかけたときだった。

「ミォ、ミォ」

彼女は回れ右をして、つぶやいた。

反応した。生き物といえばあの黒猫にしか関心を示さなかった彼女が、いまはじめて人間に反応した。しかも、僕の声に応えて僕の方を向いたのだ。

「ミヨ、ミヨ」、ともう一度呼びかけた。

「ミォ、ミォ」

同じ反応に、僕は歓喜した。二度目の回れ右で背中を向けなかったら、もっと喜んだだろう。

飛び上がってクミコの名を呼んだ。

「どないした?」

クミコは驚いた様子で、エプロン姿で駆けつけてきた。

「みて見ろ」 僕は言った。「ミヨ、ミヨ」

「ミォ、ミォ」

ミヨが回れ右をしてこちらを向いた。クミコはみるみる目をうるませて、自分で呼びかけた。

「ミヨ、ミヨ」

「ミォ、ミォ」

背中向きにならなかったら、母親はきっと娘に抱きついただろう。でも、クミコは僕に抱きついてきた。

その翌日、大学にいると電話が鳴った。

「よお、元気か?」

かつて僕が大学で平手打ちを食らった原因をつくった男だった。

「あいかわらず忙しくって、日本中を飛び回ってるけど、新大阪で降りる暇もないんだ。突然、お前のことが気になってな。いつかは迷惑かけたけど、おかげさまで先週、おれは再婚したよ」

やっと環境整備を終えたわけだ。

「お前にいま、現ナマで二十億あったらどうする?」

僕はどきりとしたが、旧友の質問に他意はなかった。

「たとえば、の話だけどさ」 環境コンサルタントはつづけた。「おれのまわりの奴らと酒飲んだときにそんな話になると、みんな、事業を拡大するだの、財団をつくるだのと言ってる。要するに、組織のボスになりたいのさ。貧しい発想だぜ」

ほっとして、僕は黙ってつづきを聞いた。

「俺にそんなカネあったらさ。南の小さな島でも買って、ボートも買って、それで若い女の子二人でも連れて出かけるさ」

先週再婚したばかりなのに、と少しあきれた。

でも参照すべき発想ではあった。僕はすでに女の子ふたりを連れていたし、二十億円だって手にしていた。


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