Go! home
Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

« « 表紙へ «« 前へもどる


その九

「ほら」

ふたたび隣の喫茶店に入ってから、通帳とカードと印鑑をクミコに差し出した。

「なんやね?」

クミコのとぼけた顔を、はじめてみる気がした。

「君のものだ。大切にしまっておくといい」

「イヤや」 彼女は、決然と拒否した。店の客や従業員が振り返るほどに、澄んだ声が響き渡った。「うち、イヤや」

「そういったって、こんな大金を僕が預かるわけにいかないよ」

僕は思いきり低い口調で、彼女をさとした。

「君にはもう面倒をみてくれる社長はいない。だから、社長の息子が親の意志をついで君に残したこのカネを、大切につかうんだ。君と子どもの一生のために」

クミコが両手で顔をおおった。号泣モードのはずはないから、僕はおとなしく彼女の言葉を待った。

「やさしいひとやね。あんたって」

肩を震わせて泣いている。

「うち、あんたみたいな親に育てられたかった。あんたみたいな男と一緒になりたかった」

一緒になりたかった? 僕はふと思った。彼女の亡夫や社長も、アイマスクをして寝たんだろうか。あれは困る。でも、と思い直した。ホテルと違って部屋が二つ以上あれば・・・・。

「ね、一緒に住も。三人で一緒に住も」

クミコは両手をのけて、涙に濡れたおなじみの顔で僕をみつめた。ピンクの口紅を引いた唇が、つややかに光った。

「いまから、家探しにいこ」

僕は首をかしげた。あのマンションで十分広いはずだが。

「うち、恐いんよ。犯人はまだつかまってへん。早く、あそこ出たいんよ」

確かに、恐い。クミコと一緒にいること自体が、恐いはずだ。

「ほら」

通帳とカードと印鑑を僕の手もとに押し返して、彼女が言った。

「はよ、いこ。不動産屋へ」

クミコは両手をテーブルについて上体をこちらに伸ばすと、僕に唇を重ねた。

クミコと一緒にいるかぎり、あの夜と同じキスがいろんな場所で味わえる。僕はそれがわかって席を立った。

「年の瀬ですからな、物件はかぎられておりまして」

不動産屋は年齢不詳のやけに面長の男で、メガネをずり落としそうにして来客をみた。

「おまけにご存じのように、このところ値段は上がる一方でして」

彼は図書館で調べものをするように、分厚いファイルの頁を一枚一枚めくりながら考え込んでいる。

「ええと条件は、三人が二つの部屋に別れて寝る間取り。それと、一日でも早く引っ越せる物件、でしたな?」

こんな単純な条件なのに、なぜ考え込むのか。

「なにせ、年の瀬ですからな。売買契約となると、年を越してからになりそうで」

「賃貸や」 クミコは男の言葉をさえぎって言った。「そな、賃貸でええ」

男はほっとしたようにうなづいてから、別のファイルを持ってきた。

「すると問題は、三人が二つの部屋に別れて寝る間取り、だけですな」

好景気の年末には、賃貸マンションの空き部屋はほんとうに少なかった。

「単身者用のホテル風マンションは、このところ何軒か建って、空きも多いんですが。二部屋以上になると、新築の物件も古い物件もすぐにふさがってしまうんですよ」

僕らを日産サニーに乗せて案内したのは、幸いにして気さくで若い社員だった。二件ほどみてまわったが、どちらも感心しなかった。一件は相当古そうなマンションで、3LDKとはいえ、実質上は大部屋ひとつになってしまう間取りだった。もう一件は新築だったが、玄関寄りの部屋が薄暗くて、クミコはミヨが恐がりそうだと心配した。

ミヨの無表情な顔しか知らない僕は、彼女の恐怖をどうやって判断するのか尋ねた。

「立ちんぼで、動かなくなるんよ」

なるほど、マニラの夜に聞いた性癖だった。

「そうですねえ、ほかにあるのは」 若者は助手席からファイルをとりだし、ぱらぱらと頁をめくった。「一軒家なんて、どうですか?」

悪いアイデアではない。なにせ一晩寝起きするだけで、二十五万円の身分なのだ。

「もっともたいていは、借り手に法人を指定しているので、個人のお客様用の物件は、少ないんですが」

若者はある頁をめくったところで、爪を噛んでいた。

「ううん。日当たりも風通しもよい家があるんです。ちょっと遠いんですが、庭もついてて、間取りの条件もクリアです。ただ」 数秒おいて、彼は言った。「場所が」

確かに朝日も夕日も当たる小さな家で、庭には柿の木とかえでとケヤキが立派に育っていた。だが陽のあたらない北側は、とくべつに影ってみえた。異様に高いタイル貼りの壁がそびえ立っており、壁の向こうから北風の日に煙が流れてくるのがみえる気がした。

「最近では、煙をなるたけ出さないように設計されていますが」

若者は、壁を見上げながら言う。

焼き肉の煙ならいいのに、と僕は思った。

「じゃ、ほかを探しましょうか」

若者は庭をよぎり外に出ようと歩き出した。

「待って」

クミコが小声で止めた。彼女は庭の南端に視線を向けている。

赤いオーバーコートを着たミヨの後ろ姿がみえた。

「あの子、じっと立ってるんよ」

「それじゃ、ここはやはりダメってことだ」

「ちゃう」 クミコが声をひそめて言った。「みてや、あそこ」

南側の垣根沿いに冬枯れしたつつじの根本に、何かがひっそりうづくまっている。小さな黒猫だ。ミヨはわずか二メートルにも満たないところに近づいて、猫に見入っている。

「はじめてや、こんなこと」 クミコの声は低くかすれ、震えていた。「あの子が、生き物に関心もつなんて」

僕はふと、向こうにみえる黒猫を、マニラのホテルでみつけた幾つもの毛玉と比較した。

「嬉しいわ」 クミコは涙を手の甲でぬぐうと、僕を振り返った。「ここにしよ。な、ええやろ?」

突然で意外な決断に、僕は戸惑った。

黒猫が始終出てくれば話は別だが、そうでなければ意味がない。それにいったん生き物に興味をもったミヨは、他の猫や動物にも関心を示すかもしれない。なにもこの黒猫でなくてもいいはずだ。

「あの猫、餌づけしたる」

クミコはガニ股を広げて、腰を下げ前屈みの姿勢になると、ミヨの斜めうしろから黒猫に近づいた。「ミヤー、ミヤー」と巧みな物真似をしながら、間にちっちっと舌を鳴らして猫の気を引こうとする。ニセ毛皮を着こんだエクセントリックな彼女は、化け猫に似てなくもなかった。

クミコはミヨの真横まで進んで、動きを止めた。猫は彼女たちふたりを前にして身をかがめると、小さな声で鳴いた。

「ミヤー、ミヤー」

クミコが応えると、猫はまた鳴いた。

「ミォ、ミォ」

聞き慣れない声がした。猫の声でもクミコの声でもなかった。

クミコは黒猫をよそに、ひざまづいてミヨを抱きしめていた。


» » 次を読む