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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その七

「ありがとう」

クミコはスチュアーデスからヘッドフォーンやおしぼり、飲み物や食事をうけとるたびに、頭を下げてこの言葉を繰り返した。

「飛行機って気持ちええんやね」、と聞き慣れない誉め方をしたかと思うと、「マニラってバニラと関係あるん?」、とおかしな質問をする。

マニラの国際空港は、その年の二月に独裁者マルコスが追放されてから、ベニグノ・アキノ空港と命名されていた。マルコスに暗殺されたといわれる愛国者アキノ氏を讃えたるためであり、アキノ氏の未亡人コラソン・アキノは現在の大統領になっていた。

入国審査を三人そろって順調に終えたあと、荷物検査ではフィルム二本を要求されただけですんだ。三人それぞれにトイレで用もたした。あとはロビーで待つナオミ叔母と会うだけだ。僕とクミコは機中であらためて彼女の写真をとりだして、もう一度容姿を頭に焼き付けていた。

ロビーは思ったほどに混んでなかった。すぐにみつかるだろう。そう思いながらあたりをみまわすが、ナオミらしき中年女性はいない。

「出口を間違えたのかな」

そうつぶやいてクミコをみると、うつろな表情でぼんやり外をながめている。

「ここでじっとしてて。絶対にミヨの手を放すなよ」

僕はロビーを端から端までみてまわった。いない。どこをみても、彼女とおぼしき人物はいなかった。

ヘンだな、とひとりごとを言ってクミコの方に戻ると、男がふたり強引な誘いをかけている。ひとりはトランクを動かし、ひとりは彼女の肩を抱いて連れて行こうとする。

「待て!」

僕は男たちをとめた。

「ミスター」 クミコから手を放した大柄の男が、黒い口ひげを光らせて胸元からカードをとりだした。「みてください、私の身分証明証です。あやしいタクシーじゃありません。どのホテルにお泊まりですか? お安くしときます。ホテルまで二十ドルです」

ロビーの蒸し暑さと男の身分証明書と二十ドルという適正価格のために、僕はうなづいた。男たちはそれぞれ一つずつトランクを手にさげて車に向かった。

「叔母さんを捜さんの?」

外のまぶしさに目を細めて、クミコが訊いた。

「君は彼女の住所も電話番号も持ってきたんだろ?」

「うん、会社の住所かて持ってるよ。銀行の名前も口座番号も全部一緒に。社長の息子がみんな書き出してくれた」

年代物のトヨタ・クラウンが発車して三分と経たないうちに、僕はわけがわからなくなった。さきほど身分証明証をみせた男は助手席から振り返って、倍の料金を告げた。

「おかしいじゃないか」

僕が怒ると、彼はどすのきいた声で言った。

「ミスター。私はちゃんとした身分証明証を持ってるんですよ。イヤならこの場で降りてもらいます」

男はもう一度、身分証明証を僕にみせた。みたところではじまらない。外の風景を眺め直すと、僕はここで降りても楽しくないことを知った。

「お客を安心させよと、何度も身分証明証みせはるんやね」

クミコがそう言って、クッションのきかない座席にもたれた。新大統領のシンボル・カラーである黄色の垂れ幕が道路の分離帯に並んでいたが、僕を勇気づけはしなかった。

ホテルにつくと、さらに落胆が待っていた。クミコと僕には、別々の部屋が予約されていた。社長の息子は常識家らしい。彼はダブルベッドルームの二部屋を、同じフロアにとっていた。

僕は自分の部屋に荷物をおくと、クミコの部屋を訪ねて、社長の息子から渡されたという紙を受け取った。さっそくナオミに電話をかけると、英語をしゃべる男がでた。だが、ナオミなどまったく知らないという。ためしに彼女の住所を伝えると、彼はそんな地名はマニラに存在しないと断言した。 「ほんま?」

キミコは僕の英語力を疑るように、眉をしかめた。

「セヴ島に友だちがいるけど、そんな地名だったと思います」

夕刻のベッドメーキングに来た娘は、愛くるしい目をして答えた。

「その友だちの住所、確認できないかな?」

「住所は知りません。ずいぶん会ってないし、誘拐されたって噂です」

「なんやて? ねえ、なんやて?」 クミコは恐い顔をして僕に通訳を求める。「そのなんとか島いうとこ、行ってみよ。な、飛行機の予約してや」

「待てよ」

僕は不機嫌になり、紙をもって彼女の部屋をでると、エレベーターで一階に降りた。

「この地名、知りませんか?」、とレセプションで訊いた。

クロークで訊き、ベルボーイにも訊いた。ティールーム、みやげ物店、旅行代理店、床屋でも、つぎつぎにスタッフをみつけて訊いたが、どの答えも要領を得なかった。最後に、「ホテル付きのタクシー運転手は信頼できる」とガイドブックに記されていたのを思い出して、当人たちに尋ねたが誰も地名を知らなかった。

状況が読めてきた。ここに一緒に記載された会社や銀行についても、質問してまわらなくてはいけない。ただし、その前に一つだけ確かめたいことがある。僕はクミコの部屋に戻ると、のんびりとテレビを観ている彼女に訊いた。

「君は確か、ナオミさんに何度も電話したが、英語をしゃべるひとばかりでるといってたよね。それって、本当にこの番号なのかい?」

クミコはしばらく質問の意味がわからなかったらしいが、やがて首をかしげて答えた。

「うち、アホよってよう思い出さんわ」

「ならば」 テレビの音に苛立ちながら、僕はつづけた。「ナオミさんの電話番号はどうやってみつけた?」

「社長がメモをくれてた。自分の身になにか起きたときの連絡先として、うちに渡してくれたんよ」 なにかを思い出して、彼女は言葉を切った。「そや。いまは息子が持ってるわ。あのひと、会社や銀行の説明しながら、叔母さんの住所と一緒に紙に書き写したんよ。メモは、あのとき渡したままや」

それからクミコは、まるでおさなごが親に問いかけるように僕をみつめた。

「どないしたん? いったい、なにが起きたん? あんた、説明しいひんから、さっぱりわからんよ、うち」

僕には状況が読めた。クミコの問いに答えるのももどかしくて、紙をもったまま部屋のドアをあけた。

「大事な紙やねん。なくさんといてや」

クミコの澄んだ声がむなしく響いて、僕は廊下を走りエレベーターに乗った。さきほどと同様に、一階のあちこちを質問してまわると、やはり思ったとおりだ。誰もが同じ答を返した。会社については、記された住所はあり得るが名前は知らないという。銀行についても同じだった。

僕はタクシーの運転手たちの返答を確認して、入り口の正面に立ち並ぶ椰子の木をみあげた。熱帯の夕焼けの空いっぱいに、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。

フロントの電話でクミコを呼び出すと、僕はミヨを連れて玄関に降りてくるように言った。

「叔母さんと話せたん?」

クミコは僕をみるなり、嬉しそうに訊く。

「それどころじゃないよ。君の大切な四億円、どっかに消えちゃったらしい」

彼女は精一杯に目を見開き、数秒の間をおいて叫んだ。

「ウソ、ウソや。大ウソや!」

彼女の声が、吹き抜けの天井高くこだました。

「ウソかどうか。もうすぐはっきりする。さあ、あのタクシーで会社のある場所に行ってみよう」

クミコは動揺しながらも、子どもの手を引いて車に乗るとき、神妙な顔で身分証明証をみせてもらうよう僕に助言した。車に乗ってからはずっと、お経を読むように「ウソ、ウソや、大ウソや」を繰り返した。

タクシーはしばらくすると、大通りを曲がり脇道に入った。両側には、二階建て、三階建ての小さなビルや商店がつづく。ジプニーと呼ばれる乗り合いトラックがやっとすれ違う広さだ。

運転手は車を止めると、歩行者のひとりにタガログ語で話しかけた。住所を訊いているのだ。歩行者は首を振り、先方を指さしてなにか答えている。車がまた走り出した。今度は運転手が首を振った。

「ウソ、ウソや、大ウソや」のお経がさらにつづく中、運転手は何度か歩行者に尋ねることを繰り返した。そしてしまいに車を停めてため息つくと、アメリカ人が映画でやるように、両手を広げ肩をすくめてみせた。これならクミコにもわかったようだ。

「ウソ、ウソや。大ウソや!」

口調が変わったと思う間もなく、彼女はぎゅっと目をとじてのけぞった。

「泣くのはやめろ」 僕は落ち着いた口調でつづけた。「明日は銀行に行ってみよう。なにかわかるかも知れない」

わかるはずなどないと確信しながら、僕は言った。クミコは両手で顔をおおい、小刻みに体を震わせはじめた。可哀想でみてられなかった。

「な、明日は銀行まわりしよう」

僕は思わずクミコの肩を抱いたが、彼女の背筋はとても堅く、こちらに傾こうともしなかった。

「ホテルに戻ってくれ」

僕は肩から腕をどけると、運転手に告げた。アメリカ映画のジェスチャアを思いっきりしたい気分だった。

クミコの部屋に戻ると、東京に国際電話をかけた。

「モウ一度、番号ヲ御確カメニナッテ、オカケ直シ下サイ」

やはりそうか。社長の息子が彼女に寄こした連絡先は、実在しなかった。

「ウソつき、ウソつきや、大ウソつきや」

彼女はベッドに腰掛けたまま、語尾変化させたお経を繰り返した。顔をおおう両手をときどきぱっと開くと、いつも大粒の涙が流れている。涸れ果てないか、と心配するくらいだった。

「こうなったら、みんな警察にぶちまけたろ!」

クミコの言葉に、僕はどきっとした。彼女が体をはって止めていた情報が堰を切って流れ出せば、当然僕がどう協力したりサービスされたりしたかもわかるだろう。クミコの様子をうかがうと、悪いことに両手を開いた今度の顔には、涙でぬれながらぎらぎらした憎しみが満ちている。

「まだ、ウソつきと決まったわけじゃない」 僕は苦しまぎれに言葉をつないだ。「なにかの事情でこうなったのかもしれない」

「たとえばどんな事情やの?」

「経営してる会社が急に倒産したとか。あるいは、乗っ取られそうでカネが必要になったとか」

「どっちにしろ、泥棒やないの」

「ううん、そうとは言い切れない。本人に返す意図があれば、まだ泥棒と断言できない」

屁理屈も理屈のうちだが、このへんでやめないとボロが出そうで、僕は黙った。

クミコはふたたび両手で顔をおおい、声を絞り出すように言った。

「うち、どないしたらいいねん? うちが悪いんや。あのときカバンを持ちだしてしもうて。素直に警察を待ってたら、社長かてむごい姿にならんですんだんや。ナオミさんかて、税務署にさんざぶったくられても、カネをそっくり失わんですんだはずや。みんな、うちのせいや」

確かにクミコのいうとおりだった。でも僕は窮地に追い込まれる中で、救いの道をつかんだ。クミコと僕をともに救うには、社長とナオミさんの気持ちを訴えるしかない。

「でもね」 僕は言った。「社長もナオミさんも、君が懸命にしてくれたことに対しては、感謝こそすれ非難はしないよ、きっと。ふたりは、それを台無しにした息子や甥っ子の方を嘆くはずだ。君はふたりの気持ちを考えて、できるだけのことをした。だからもう、自分を責めてはいけない」

クミコはしばらく動かなかった。それから、顔をおおったまま背中をぴんと伸ばした姿勢で、ぽつりとつびやいた。

「あんたって、やさしいひとや。いいひとや」

僕らは、ルーム・サービスで夕食をとって一緒に食べた。クミコとミヨはシャワーを浴びるという。僕が部屋に戻ろうとすると、クミコが止めた。

「裸でいるときに誰かが入ってきたら恐いねん。待っててや」

僕はテレビの前のソファにもたれて、ふたりがシャワーを終わるのを待った。

ミヨの薄手のジャケットがベッドの上に放り出してある。胸のポケットから、なにか赤いものが飛び出しているのをみて、僕はミヨの胸ポケットの膨らみを一日中、目にしてきたのに気づいた。なにを入れてるのか? 多少のうしろめさたはあったが、子どもの持ち物という気楽さで、ソファを立って赤いものに近づいた。

それはふわりとした固まりで、緑や黄色の同じ固まりと一緒にポケットに突っ込んであった。赤い固まりをつかんだ瞬間、毛糸の玉とわかった。巧妙に巻かれた小さな玉で、弾力はあるがつぶれるほどに柔らかくはない。

僕は思い出した。なんばの小路で一緒にクミコを待っていたとき、無理矢理手を引こうとする僕に抵抗してちゃんちゃんこのポケットから出したのは、この玉の一つだったのではないか。手首に青あざをつけた小さな手に、ぎゅっと握りしめていたのは、これだったのだ。でも、なぜまた毛玉なんかを、大事に持ち歩くんだろう。

自閉症の子が特定のモノに異様な執着を示す話を、どこかで読んだり聞いたりした気がする。あの子は自閉症と違うかもしれないが、とにかく口をきかないし人間に関心を示そうとしない。それでいて、こんなわけのわからないものを大切にしてるわけか。僕は赤い毛玉をもとどおりポケットに押し込むと、ソファに戻った。

ふたりがバスルームから出てきた。髪を濡らし顔を光らして、いかにも湯上がりの姿だ。でもノースリーブのネグリジェであらわになった四本の腕には、あざや打ち身のあとがいくつもあった。いったいこのふたりは、どんな暮らしをしてるんだろう。クミコの手のひらの火傷とあわせて、僕は暴力の影を感じないわけにいかなかった。

「そな、おやすみ」

クミコは硬い表情でそう告げた。別々に眠りましょうという意思表示だった。

「おやすみ。明日の朝、部屋に電話するよ」

僕は彼女の柔らかそうな唇をみつめてから、自分の部屋に戻った。

シャワーを浴びてベッドにもぐり込んで灯りを消したとき、ノックの音を聞いた気がした。気のせいかと思い直したが、また聞こえる。起きあがって扉の前に立った。

ドアスコープをのぞくと、ネグリジェ姿のクミコとミヨがいた。

「お願い、一緒に寝かせて。恐いんよ」

ふたりを中に入れたとたん、「灯りつけて」とせっぱ詰まった声がした。

「ミヨがな。暗くすると寝床を出て、ずっと立ちんぼうやねん」

好都合じゃないか、と思ったが、灯りをつけた。

三十分後、こうこうとした灯りの下で、三人はダブルベッドに並んで眠っていた。僕は機内でもらったアイマスクをつけて仰向けになり、クミコは僕の片腕を両腕で抱いて横向きになって目をつむり、ミヨは僕と同じ仰向けの格好だが、まぶたを半分開いたままで、それぞれの眠りに落ちていた。


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