Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その六 翌朝、僕は自分の部屋でまっさきに新聞を開いた。殺しの記事はまだでてなかった。一日中待ちつづけて、夕刊がきた。だがそれらしい記事はない。 どういうことだ? すべてあの女の作り話ってわけか。僕は深い憤りを覚えると同時に安堵した。昨夜の出来事は、警察に届け出なくたっていいのだ。 でも違うぞ、と思い直した。あのカバンには確かに大金が入っていた。女が嘘つきだとすると、あのカネはどう考えればいい? 大金泥棒ではないか。やはり、警察に伝えておくのが順当だ。 当然ながら、気が進まなかった。報告すればきっと、あの夜に受けたサービスまで話すはめになる。それによく考えてみるに、カネの由来については、話がとてもよくできていた。話が本当ならば、社長のカネを彼女がネコババしたことになり、きっと社長が訴えるに違いない。もしかすると、もう訴えてるかもしれない。 待てよ、とさらに考えた。彼女はなぜパトカーなど呼んだのか? 泥棒が警察を呼ぶのはヘンだ。もしかしてあれは、痴話げんかの果てに、男につらあてをしたんじゃないか。そう仮定すると、僕をマンションに誘ったり、僕にサービスしたことも、すべてつじつまがあう。カネの問題はその場合、ふたりの間でとうに解決済みというわけだ。 僕はこんな具合に気持ちを落ち着けて、大学にかよった。今までどおりの不遇な身だったけれど、殺人や大金泥棒という物騒な出来事に巻き込まれたあとでは、不幸せで軽い毎日が有り難かった。 けれどもやはり、僕には悪いことが絶えずやってくるらしい。半月ほど過ぎたある日、研究室に電話が鳴った。 「クミコよ」 息づかいを聞いただけで彼女とわかった。今度は何だ? 「どないしよ。警察が毎日来よるんよ」 「なぜ、君のとこに来る必要があるんだい?」 僕は嫌みいっぱいの口調で応えた。 「新聞読まへんの?」 「え?」 「私も字みるのがおっくうで、まだ読んでへんけど。月曜日の夕刊やて」 「なにが出てるんだ」 「淀川で死体が上がったんや。それが社長とわかったそうや。うち、警察が来たからに、ずいぶん日が経ってくるもんや思うたけど、違うんや。社長あれから、川に投げ込まれたんや」 クミコは黙り込み、電話から息づかいが聞こえた。もしかして? でもそれは、号泣モードとも忍び泣きモードとも違う、怯えきった彼女だった。 「犯人、きっとうちの顔みたはずや。あのとき、事務所にいたんや。警察に通報したんで、うちが飛び出してすぐ、社長の死体を背負うて逃げたんや」 背筋に寒気が走った。 「心当たりはないか?」 「犯人だよ。誰が殺ったか、心当たりは?」 「あれば、とうに警察に言うとるわ」 怯える彼女の、怒気をはらむ声だった。 「カバンはどうした?」 僕は話題を替えた。 「何度もフィリピンの妹さんに電話してるんよ。でも英語のひとしか出ぇへん。どないしよ?」 通訳してやってもいいけれど、とひとのよいことを考えてやめた。恐い事件にかかわりたくなかった。 「待って」 そのとき、クミコが言った。「誰か来た。きっとまた、警察やろ」 確かに電話ごしに、チャイムが鳴っていた。クミコは受話器をおいて、玄関の扉をあけにいった様子だ。かすかだが、彼女と誰か男とが言葉を交わしてるのがわかった。 「ご免な。電話、いったん切るわ」 そう言って、クミコは受話器を置いた。 僕は図書館に走った。書庫の片隅に立つと、積み上げられた一ヶ月分の新聞の中から、十月六日の月曜日の夕刊を引っ張り出した。テレビ欄の頁をめくり裏側に目を走らせたとき、確かにみつけた。「淀川から腐乱死体」という小見出しだった。 昨日の昼過ぎ、淀川の土手で遊ぶ子ども三人が、川に死体らしきものが浮かんでいるのをみつけて近くの柳橋派出所に届け出た。午後三時、警察はこれを死体として確認した。死体は四十代、ないし五十代の中肉中背の男性で、腐乱が進んでいることから死後相当の時間が経っているとみられる。警察は死因を調べるとともに身元捜査に乗りだしている。 なんてことだ。僕は天井を仰いで考えた。こうなると、クミコの身が本当に危ないかもしれない。さっき来た男は誰だろう? 警察に通報しよう、と思ってからとどまった。すべてを報告するはめになるのが、やはりイヤだった。いずれ証言をとられるかもしれないが、そのときはいまのこの気持ちを正直に話せばいい。刑事罰になることは、何もしでかしていないはずだ。 もしかして、とさらに考えた。クミコが警察に、なにもかも話すのではないか。警察の追求は厳しいし、彼女は犯人に怯えている。先日警察に通報した声紋をとられれば、彼女であるとすぐわかる。そうすればきっと、逃げ出した理由を詰問される。彼女には今のところ、あのカバンの中味を返すあてがないから、真相を打ち明けるのも時間の問題に違いない。 「山部先生」 振り返ると書庫の入り口に、若い女性図書館員が立っていた。 「外からお電話が入ってます。緊急の用事で、是非ともお話したいんだそうです」 きっと交換手に無理をいって、大学のあちこちに電話を回させたのだろう。そんなことするのは、警察に決まってる。僕はすでに受刑者の気分で、図書館員の机の上に置かれた受話器をとった。 「山部ですが」 「よう、先生か」 野太い声だった。「いまな、クミコと話したんだ。四億円のこと、あんたのこと、すべて聞いたよ」 無礼な物言いだが、刑事のがらの悪さは伝え聞いている。 「おやじの死にざまについても聞いたよ」 なんだかおかしい。 「ナオミ叔母の相続の話はもちろん、おれだって知ってる。小さい頃、ずいぶん可愛がってもらって、おれにとっては大切な叔母さんだ。だからカネは、安心しておれにまかしな。絶対に届けてやる。クミコには、いまそう言ったところだ。ま、おやじが死んでおれにも大金が転がり込んだしよ。運が向いてきたってわけさ。おやじにもナオミ叔母にも苦労はかけたが、その間につけた力で、いまふたりの願いをかなえてやるよ」 事情が飲み込めてきた。僕を強引に呼び出したのは社長のどら息子で、親が死んで遺産が転がり込むから意気揚々としている。気をよくした彼は、なにかヤクザな方法であの四億円を叔母に送ってやる、と息巻いてるのだ。でも、本当に信用できるのか? 「クミコはな、おれの誠意をまだ疑ってるらしい。おやじからよほどの悪口を聞かされたんだろうよ。それでおれは、言ってやった。お前はバカで話にならない。もっと頭がよくて頼れる男を呼び出しな。おれがそいつに話をしてやる」 頼れる男? 僕は耳を疑った。 「先生、聞いてるか?」 「はい」 「早い話がこうなんだ。おれはこの四億円を何本かにばらして、あちこち動かしたあと、いくつかの会社の口座に入れる。そのいくつかの会社からフィリピンのある会社にカネが振り込まれると、ナオミ叔母は向こうで全額をそっくり受け取れるって寸法さ。わかるだろ、先生?」 詳しくは想像さえできないが、大意ならわかる。 「でもよ、クミコのバカは、自分の目でみないかぎり信用できないんだと。『じゃ、行ってみて来いよ。ナオミ叔母が銀行の通帳をみせて喜ぶ姿をみて来いよ』 そうおれが言うと、『英語ができひん』ときた。先生、これでおれの頼みたいことがわかったろ?」 クミコを説得することか? 違う。きっと彼女のために英語の通訳となって、一緒にフィリピンに渡れってことだ。ばかな。でも男は案の定、旅費と滞在費を払うという。 「フィリピンまではちょっと遠いな」 僕は言った。「でも、国際電話で通訳するくらいならできますよ」 「あのな、先生。本当にナオミ叔母かどうか、どうやって確かめる?」 「僕が英語でナオミさんを呼び出して、彼女にクミコと日本語でしゃべらせたらどうです?」 「どうやってホンモノの叔母だってわかる?」 「ならば」 僕はため息をついた。「ホンモノかどうか、確かめる方法があるんですか?」 「ないよ。な」 男はけろりと答えた。「だからクミコは相手をみるまで信用しないんだよ」 みることは信じることか。でも僕には、どう返答してよいかわからなかった。 そのとき突然、キスの感触がよみがえった。二週間後、僕はクミコとミヨとともに、機上のひとになった。 » » 次を読む |