Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その五 「待っててや。すぐ戻るさかいに、待っててや」 日の暮れかかるなんばの街の小路で彼女を見送ったことが、僕には後日悔やまれてならない。やはり、最後までついていくべきだった。なのに僕は臆病にも、もめごとにかかわるのをなるたけ避けようとした。もしや、社長が戻っていて、彼女を泥棒として訴えていたら? もしや、事務所に警察が張り込んでいたら? 僕はそれが不安で、彼女をひとりで行かせてしまったのだ。 事務所の入居するビルの近くに、ミヨとふたりでぽつらんとたたずんだ。「手を握ってて」と彼女に頼まれたが、ミヨが何度も手をふりほどくので、あきらめて傍にいるだけにした。 表情のない子だが、意志はもっているようだ。その手は柔らかく冷たく、そして白色の街灯の下では手首に残る青あざが目を引いた。 幸いに、子どもは動かずじっとしている。僕は彼女が入ったビルに視線を向けて、下から上へ、上から下へと何度もなぞった。八階建ての古いビルで、各階のあちこちに灯りがともっていた。いま窓の一つに、あたらしく灯りがついた。きっとあれが事務所だろう。女はカバンを社長の机の上にでもおいて、一目散に逃げ出してくるに違いない。 日はすっかり暮れて、外はひんやり冷え込んできた。まだか。僕は子どもに目をやりながら、早くしろと足踏みした。灯りはついたままだが、彼女はとおに部屋を出たはずで、もう出てきていい頃だった。 遅い。なにかあったのだ。 遠くにパトカーのサイレンが聞こえたとき、僕は『繁栄の世に犯罪はびこる』という新聞の見出しを思い出して、じっとしていられなくなった。 ビルの入り口に向かおうと、子どもの手を強く握って引いた。ふりほどこうとするのを、無視して引っ張った。小さな体には意外な力が宿っており、僕はなかなか前に進むことができない。子どもをみると、おかっぱ髪を揺すって抵抗しながら、ちゃんちゃんこのポケットに片手を入れて何かをつまみだしている。 小さな握りこぶしの中味をみようとしたときだった。サイレンがぐんと大きくなって、異様に近づいたことに僕は気づいた。三十メートルほど前方の大通りをみると、なんとパトカーが右折してこの路地に入って来る。 幼児誘拐と思われたら大変だ。僕は即座に子どもの手を放し、パトカーとビルの両方に背中をむけて立った。子どもと向き合う格好になった。 パトカーが来た。小路一帯を一挙にライトアップしたと思うと、車は吠え立てるサイレンを突如強引に黙らせて僕の背後で停まった。ドアの開く音、外に踏み出す足音が、すぐ近くで聞こえる。無線の通信音がせっぱ詰まるようにがなりたてている。 どこに来た? 僕をつかまえにきたのではなさそうだ。あのビルか? きっとあのビルで何か起きたんだ。とすれば、女のいる事務所以外に考えられない。 まさか。僕は回れ右して、パトカーのまぶしいライトをいっぱいに浴びた。というより、目前の人影を照らし出すライトを浴びた。みるとその人影は、いつのまにか僕の真うしろに立ったいた彼女だった。 「行こ。はよ、行こ」 女はそう言うなり僕の横を過ぎ、子どもの手をつかんで足早に歩き出した。 わけがわからなかった。わかったのは、彼女の片方の手にあの大きなカバンが下げられていたことだ。僕はあわててふたりのあとを追った。 「どうした? 何があった? なぜカバンを返さなかった?」 彼女は唇をきっと結んだまま、精一杯の歩幅で歩きつづける。 小路をぬけ大通りに出たところで、僕は立ち止まった。つきあう必要などないのだ。女の後ろ姿をみると、左上腕は子どもを引っぱるために持ち上がり、右肩はカバンの重みで垂れ下がっている。ガニ股がきわだった。 「来て。はよ、来てよ」 彼女は立ち止まり、振り返って僕をみた。 「君についていく義理なんかないよ」 僕がそう答えると、物わかりの悪い子どもをさとすように言った。 「困ったひとやね。いまここで説明してる暇はないんよ。おいで。とにかく、ついておいで」 そう言いながら子どもの手を離すと、車道に向かって手を上げる。すぐにタクシーが停まり、後方のドアが開いた。 「はよ、来て。ほら、家に帰ろ」 世の中には愚かな男がいる。僕は彼女に拾われた子どものように、ミヨの横にすべりこんだ。 一家の大黒柱を失ったにしては、彼女は意外に立派なマンションに住んでいた。少し古びているといえ、2LDKはゆうにある広さだった。 彼女は玄関の横の畳間に僕をとおしてから、腰をおろして真横にカバンを置いた。 「しっ、しっ」 部屋の入り口に立ったままの子どもにそういって、廊下を隔てた向かいのドアを指さした。すると女の子は、そのドアを開けて中に入った。 「おしっこさせるんよ」 自分で用をたす能力はあるのに、用を思い出す能力が欠けているのか。そう心でつぶやくと、なにか僕自身の比喩のような気がした。 「でもミヨを事務所に連れていかんで、ほんま、よかった」 女は顔を両手でおおった。 忍び泣きモードに入るのかと思った瞬間、彼女はぱっと両手をあてけ僕を直視した。眉間にしわを寄せたけわしい顔に、いままでみせたことのないぎらついた瞳が光っている。 「社長が殺された」 え? 耳を疑ったが、女のささやきは部屋いっぱいにぴんと響いて残った。 「うち、よう信じんかった。何度もみた。けど、ほんまに殺しやねん。ネクタイで首絞めて。社長の首があんな細うくびれるまで。ひどい話や」 ちょっと待て。思い出を語るんじゃないんだぞ。僕は動転した。驚きと呆れと怒りが入り交じり、ぐるぐる回り出して、叫ぼうとしても声がでない。 大変な厄介ごとに巻き込まれた。いや、まだ大丈夫。一一〇番を呼ぼう。僕は懸命に、畳の上の電話に手を掛けた。 「もう電話したんよ」 受話器にかけた僕の片手を両手で押さえつけて、女が言った。「電話したから、パトカーが来たんよ」 「じゃ、なぜ逃げたんだ!」 泣くとも叫ぶともつかずに、すっとんきょうな声を上げた。 「カバンを抱えてたからやん」 「カバンを抱えて?」 興奮と混乱のきわみで、僕は息をのんだ。「カバンを抱えて、なにが悪い。警察の来るのをじっと待つべきだろうが!」 「あんた、気を落ち着けなあかんわ」 お前が落ち着いてるのが、大問題なんだ。そう言おうとして言葉に詰まった。 自分はいま、謎の大金をみせつけられた上に、殺人事件にまで巻き込まれている。顔全体がかっとして、部屋全体がゆらゆらと揺れた。 「大丈夫? 落ち着きや」 怒鳴ろうとしたが、のどがからからで音が出なかった。声を振り絞ろうとのどに手をあてたとき、吐き気がこみ上げてきた。なんて理不尽で情けないことか、と思ったが遅かった。 受話器を握ったまま両手を畳につくと、僕は四つんばいになって嘔吐した。というより吐く物がないまま、よだれを糸のように垂らした。 「落ち着き。な、落ち着きよ」 女は母親のようなやさしさで僕の背中をさすり始めた。 「うちかてショックなんよ。悲しいんよ。可哀想に社長、もう生き返らんのよ、絶対。『クミちゃん、元気?』なんて、もういうてくれへんのよ」 慰めなんていらない。一刻も早く警察に通報するのだ、と僕は当然叫びたかった。でも確かに、通報するためにはまず自分が落ち着く必要がある。そして落ち着くためには、仕方ない。女の介抱を受けるのだ。涙でにじむ目で畳をみつめながら、僕は夢見るようにそう思った。 「うちかてな、本当いえば恐いんよ。自分も殺される気がして、恐いんよ」 背中をさすりながら、悠長な口調で女はつづけた。「でも心をしっかり持たなあかん。こんなときこそ、しっかりせなあかん。そう言い聞かせてカバンを持ち帰ったんよ」 カバンの話がでて、さらに吐気がこみあげた。 「大丈夫。落ち着くんよ」 女はいっそうやさしく、いっそう悠長な調子でつづけた。「あんた、やさしいひとやねん。うちが札束みつけて気ぃ狂いそうになったとき、受けとめてくれた。今度はうちがやさしくしたる」 あろうことか、僕は泣き出した。不遇をかこつ自分、その上に大変な事件に巻き込まれてしまった自分がぶざまで、哀れで情けなくて、しかもそんな境遇のばからしさに感極まって、ひっくひっくとしゃくり上げた。 「大丈夫? あのな、カバン持って来たの、こういう訳なんよ」 理由を聞かなければ、と夢見ごこちに思った。あとで女を怒鳴りつけて警察に通報するためにも、まずは話を聞かねば。 「社長な、ええひとやった。ええとこのボンボンでな。この春、お父さんが死にはって、たいそうな財産を相続したんよ。でも税金が大変で、財産の半分以上もっていかれてしまうんやて。泥棒やな、税務署いうとこは」 泥棒はいまお前がしてることだ。そう叫びたかった。でも落ち着きを取りもどすまでは、と思って辛抱した。 「社長にはたったひとりキョウダイがいてな、妹なんよ。それもフィリピン人の金持ちと結婚して、なんでも向こうに住んではるんやて。そんで社長、うまいこと考えたんよ。妹さんの相続税をゼロにする方法!」 女はわがことのように興奮して、声をあらげた。 「妹さんは日本に帰って、相続のお金をたんまりもらうんや。けど、お金をそっくりフィリピンに持って帰れば、日本の税務署はどうしようもない」 つまり、カバンの札束がその金ってわけか。でもフィリピンじゃなくて、日本に置いてあるのはなぜか? 女はまるで僕の疑念を読んだように、言葉を継いだ。 「ただし、大金やさかい、いっぺんに持ち出すわけにいかん。かといって、何回かに分けて持ち出すのも無理なんやて。税務署が飛行場に通報してるらしいわ。でも七年たてば時効やて。つまりそのとき、お金は堂々と日本の銀行からフィリピンの銀行に送れるそうや。社長が知恵しぼったあげくにこの案を妹さんに話すと、妹さんは『兄ちゃん、それでいこ』いうたんやて。社長、えらく喜んでた」 当然だろう。その分、自分の取り分が増えるんだから。 「『嬉しいのは、妹がわしを信用してくれたことや』、て言うてた。『七年後の話など、よう信じんのがふつうや。とくにわしのように事業をしてると、いつ何が起こるかわからん。そのわしに四億円そっくり預けるいうんやからな』 そう言うて喜んでたわ。ま、妹さんの名前は今後七年間、銀行でも証券会社でも使えんよって、社長のアイデアを受け入れるかぎりは、カネを誰かに預けなあかんわけや」 四億円。僕はカバンの膨らみに目をやった。では社長の死体を発見した女は、なぜこのカネを持ち帰ったのか? 「あんたかて、わかるやろ。妹さん、それに殺された兄さんの気持ち。税務署に取り上げられたら、どんなに無念か」 なるほど。嘘にも本当にも聞こえるが、ともかく話は終わった。 僕の涙と吐気もいつの間にかおさまっていた。あとは警察に連絡するだけだ。疲れ切った体がじんとしびれており、背中を撫でつづける女の手が心地よかった。 いっそ、このまま眠ってどこか遠くへ行ってしまえるなら。ふと僕は思った。この部屋からも大学からもずっと離れたどこかへ、関西からも日本からも、いやこの世からもずっと離れたどこかへ行ってしまうことができれば。 「待って」 女が声をかけた。「いま、熱いお湯にひたしたタオル持ってくるよって。顔ふいたげるよって」 女は立ち上がって部屋をでた。 僕は四つんばいのまま頭を上げると、いつの間にかミヨがちょこんと坐っているのを知った。あいかわらずの無表情で、上を向いて天井のどこかをみつめている。 ゆっくりと体を起こし、ぐるりと畳部屋を見まわたす。真ん中に置かれた大きなカバンをのぞけば、水玉模様の薄っぺらなカーテンと、安物のタンスと、手元の電話器があるだけだ。ずいぶんと殺風景で、母子ふたりで住むには広すぎる気がした。 おかしい。僕の胸に、ふたたび疑念がよぎった。社長ははたして、脱税の重大な秘密をただの従業員になど話すだろうか。 「どないした? まだ気分悪いん?」 僕は涙やよだれで濡れた顔を上げて、タイトスカートの彼女をみた。引き締まった体の線に、彫りの深い神秘的な顔が美しかった。 女はひざまずくと、目の覚めるようなブルーの熱いタオルで僕の顔を拭いた。こんなサービスを受けたことなど、僕にはいまだかつてなかった。泣きはらして火照った顔の上を、熱いタオルがやさしく這った。すべてを忘れてこの気持ちよさにひたれたら、と思った。 「気持ちいい?」 僕は素直にうなづいた。 「そな、もっと気持ちようさせたげる」 甘く澄んだささやきが聞こえて、僕の耳たぶに息がかかった。ふわっと気が遠くなった瞬間、タオルがとれて別の淡い影が僕の顔をおおった。熱く柔らかい彼女の唇が、僕の唇をとらえた。差し込まれた舌の大胆で甘美な動きに、僕の脳はとろけた。 「とろけたらあかん。社長も同じこと言うたけど」 十分後、女は乱れた髪をうしろにすいて束ねながら話した。 「あのひと、うちのためにこのマンションも買うてくれた。だから恩返ししたいねん」 » » 次を読む |