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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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三日を経た午後、研究室で電話が鳴った。

「クミコよ」

澄んだ響きを聞いて、僕は唖然とした。職場も名前も明かさなかったのに、どうして居場所がわかったのか。というよりも、声を聞く前にどうして僕が電話にでるとわかったのだろう。

「お願い、来て。いま美保丘の駅前にいるの。ね、来て」

ひどくせっぱ詰まった様子で、彼女は訴えた。

僕は時計をみた。午後の三時だが、授業も卒論指導もすでに終わっていて、会議の予定もなかった。駆けつけることはできる。

でも、と当然ながら僕は思った。駆けつける義理などない。だがその瞬間、アシカか何かの動物が全身で吠え立てるような轟音が、耳元で炸裂した。女の号泣だった。

鼓膜を突きやぶるほどに甲高い音だった。駅前の公衆電話の前で、女がどれだけ大声を張り上げてひとを驚かせているのかを想像して、僕は狼狽した。

「泣くな!」 受話器の上部を耳から離し、受話器の下部に向かって思いきり怒鳴った。「黙れ! でないと、行かないぞ!」

ぴたりと音はやんだ。女の荒い息が、ここまで聞こえてくる。

しまった、と思ったがもう遅かった。十分後、僕は仕方なく駅にいた。

「どうしよう。ね、どうしよう」

女はそういうなり、両腕に抱いた薄茶色の大きなカバンを僕に向けた。駅のコインロッカーと柱の間の目立たぬ場所に、僕と彼女と例の女の子が立っている。

「みて。ね、みてよ」

女の声は上ずり、ピンクの口紅を引いた唇がぶるぶると震えた。中をみろということか。平底型のカバンはなめし革製で、めいっぱいに膨れており、手に持つとずしりと重かった。僕はカバンを床に置いてしゃがむと、上部の留め金をぱちんとはずした。

ちらりとみただけで、中味が何かわかった。それが信じられなくて、カバンの口を大きく開けた。

「ダメ!」 女はとっさに叫ぶと、自分の口を手のひらでふさぎ、その手を浮かせてささやいた。「ひとにみられるで」

「みられて悪いのか?」 僕は彼女を見上げて訊いた。「札束がいっぱい。どうしたんだよ?」

ヤバイことに巻き込まれるのは、もちろんご免だった。

「社長から預かったんよ。お金だなんて思わんかった」

嘘をついてる。札束の山を目の前にした僕は、かっと熱くなった顔で、再度女に視線を向けた。

なんといおうか。あらぬことに、下から見上げたタイトスカートの彼女は、緊張して体をこわばらせ、ガニ股さえも色っぽかった。当然、僕には立ち上がる必要があった。

「本当のことを教えてほしい」

今度は上の位置から彼女をにらんで、問いつめた。

「ホンマやて。社長が、『クミちゃん、ちいと出かけてくる。みててくれんか』、て頼んだんや」

「嘘だ。鍵もかけてないカバンの見張りを、君に頼んだりするもんか」

僕はほとんど怒鳴っていた。

「どこからか電話がかかったんよ。そしたら社長、急に血相を変えて飛び出してった」

「嘘だ。それじゃ社長は、君がいる間にも鍵を開けっ放しにしてたことになる」

「嘘やない。信じてや!」 女も声を張り上げている。「うちが出勤したときに社長、このカバンをあわてて閉じたみたいやった。それからすぐ、電話がかかったんよ」

「OK」

話が本当っぽくなるにつれて、僕の声もうわずってきた。

「でもなぜ、君はこのカバンを持ち出したんだ?」

「いつまで経っても社長、帰ってきいひん。ミヨを保育所に迎えに行く時間がきたんよ。事務所の鍵かてみつからへん。それでカバンを持って事務所を出たんよ」

「待った」

ついに尻尾をつかんだと思ったとき、声のうわずりが消えた。女の子の名前がミヨだという確認もとばして、僕はいさんで先をつづけた。

「いまは三時半。ということは、保育所のお迎え時間は午後の二時頃ってことになるじゃないか」

女は僕の追求を拒否して、頭を左右に振った。それから目をつむってのけぞると、全身全霊をこめるみたいな深呼吸をして正面を向いた。

乱れ髪のかかる顔が真っ赤に染まった瞬間、あの爆音が炸裂した。しまった、と思ったが遅かった。

「黙れ!」 僕は反射的に叫んでいた。ひとの注目を引くのが恐くて必死だった。「話を聞いてやらないぞ!」

ぴたり、と号泣はやんだ。でも女は肩を上下させて息を切らしており、いつ轟音を発するかわからなかった。

おそるおそる顔をのぞきこむと、どんよりと涙をためた瞳から一筋のせん光がもれたようにみえた。

「なんでや」 女は上目づかいに僕をにらんだまま、息をついた。「なんでうちのこと、信用しいひんの?」

綺麗な顔がゆがんだ。目がぎゅっと閉じられ、まつげの間から涙がしたたり落ちる。これは先日と同じ泣き方で、爆音モードではなさそうだ。

「誰が今日だと言うた?」

「じゃ、いつの話だ」

「きのうよ。きのうの午後のこと、話してたんやないの」

「わかった。でもきのうだとすると」 話はふたたび本当っぽくなったが、まだまだ嘘が多そうだ。「君はなぜこのことを警察に届けなかった? 今だって、なぜ人目をはばかる必要があるんだい?」

僕こそ人目を気にしてる、と思ったけれど口には出さなかった。

「知らんかったんよ。ついさっきまで」 女は涙を流したまま、しんみりした口調でつづけた。「今朝、事務所に行ってみたけど鍵はかかってないし、きのうとそっくりそのまま。もしかして、社長が帰ってまたどこかに出てるかと思うて、お昼過ぎまで待ってたんよ。でも社長の姿はいっこうにみえないし、やはりヘン。そやから、そっとカバンをあけてみて・・・」

女は感きわまって、目をつむった。あぶない、と僕は思った。爆音モードか。それとも、忍び泣きモードか。

「恐かった」

幸いに、忍び泣きモードだ。彼女は顔を両手でおおい、全身を小刻みに震わせていた。顔にかかった手のひらを目の前にすると、はっきり火傷のあとだとわかった。

「とても恐かった」 彼女は顔をおおったまま、かすれ声で言った。「いてもたってもいられんかった。カバンを抱いて外に飛び出たんよ。ミヨが心配で、保育園にいったら無事でいる。それでこの子の手をつかむと、夢中であんたに会いに来たんよ」

つじつまは一応、あっている。

「信じてくれた? これでうちのこと、信じてくれた?」

「質問がある」

思わず僕は尋ねた。

「なあに?」

「なぜ僕に会いに来た?」

「やさしいひとやと思うたから」

愚かにも僕はこのひと言で、ぐらりと心が動いた。いかに不遇だったか、軽かったか、わかるというものだ。

「信じてくれた? これで信じてくれた?」

「もうひとつ、訊きたい」

「なあに?」

「どうやって僕の居場所がわかった? 僕の声を聞く前に、僕が電話にでることをどうしてわかった?」

「だって、美穂丘にある大学は一つだけやって聞いたし」 彼女は顔をおおったまま、ゆっくりとしゃべった。「電話の交換手に企画社会学の先生いうたら、『山部先生ですね』って、すぐ研究室につないでくれた」

僕には不明瞭に発音する癖があり、交換手はもちろん職業柄はっきりと話す。「企画社会学」は「比較社会学」の誤りだったが、山部という名前は正確だ。つまり僕は、女に勤め先と名前を知られた上で、事件に巻き込まれてしまったのだ。専門名だけは知られずによかった、など思うわけがない。

「信じてくれた? これでホンマに信じてくれた?」

僕はうなづくしかなかった。両目をおおう彼女にみえていないことも知らずに、うなづいた。

「信じてくれた? 信じてくれた?」

彼女はそう繰り返し聞くので、僕もまたうなづいた。事情はわかった。一緒に交番に届けよう。

「ついてきてくれる?」 彼女の問いに、僕はもう一度余分にうなづいた。「このカバン、会社に返しにいこ」

僕はうなづかなかった。でも彼女には、まだ僕がみえてなかった。

なんば駅に向かう快速電車に三人ならんで坐りながら、僕は背をまるめて大カバンを抱きかかえた彼女の手のひらを何度もみた。 「警察とかかわるなんて、絶対にイヤ。疑られるなんてまっぴらや」

彼女の断固とした言葉が、まだ耳の底にこだましていた。この言葉と火傷のあとがどこかでつながるのかもしれない。僕はそんなことを考えた。


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