Go! home
Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

« « 表紙へ «« 前へもどる


その二

あの日、僕は『存在の耐えられない軽さ』を閉じて、終点の「なんば」駅で電車を降りた。上りのエスカレーターを二度乗り換えて、地下街にでた。

時計をみると、午後六時。1LDKのひとり住まいに戻って夕飯をつくるのはおっくうで、かといって単身で外食するのもわびしかった。

とりあえずコーヒーを飲もう。僕は間近の喫茶店に入り、もう一度『存在の耐えられない軽さ』を開いた。主人公の不幸せにどっとのめり込んだが、彼が女たちに妙にもてるのを知って裏切られた気分になった。

主人公の不遇は、女たちがひらひらすることで軽くなる。でも僕は、女っ気なしで彼よりも不幸なのに、彼と同じくらいに、いや彼以上に軽いじゃないか。

「ご免なさい」

澄んだ女性の声がした。見上げれば女がひとり、幼子の手を引いて立っている。

彫りの深い面長の美人だった。ボディコンと呼ばれる体の線を強調したスーツもよく似合う。

「ええかしら?」

なにを訊かれているのかわからなかったが、うなづいた。連れの子どもはおかっぱ頭で、性別不明だった。この子がいなければ、僕はもっと大きくうなづいたろう。

女は頬笑みをつくり、子どもと一緒に正面に腰掛けた。僕はまわりをみわたして、ようやく質問の意味を理解した。店内はいつの間にか満席で、彼女はテーブルをはさんで僕と合い席するしかなかったのだ。

ウェイトレスが注文をとりにきた。女は頬にかかる髪を払いながら、カプチーノとグレープフルーツ・ジュースと告げた。ともにバブル期に日常化した飲み物だ。

彼女は僕に、あらためて微笑みをつくった。きっと僕も微笑んだはずだ。頬笑みを交わすふたりの外側で、子どものきょとんとした目が異様に光った。

よくみれば、女も異様だった。ベージュのスーツはテカテカの安物で、袖山から糸がほつれ飛び出していた。薄化粧の美顔なのに、ピンクの口紅をどぎつく引いている。微笑みは凍ったように崩れないし、瞳はどんよりとうつろだった。

僕は子どもをみた。やはり、おかしい。デニムのジーンズに緑のTシャツ。その上に、からし色をした季節はずれのちゃんちゃんこを羽織っている。こづくりで色白の丸顔は整っているが、目だけが不釣り合いに大きかった。どこかをじっとみているのに、どこをみてるかわからない不気味な目だ。

「難しい本を読んでるんやね」

テーブルの上の本をみて、女が言った。頬笑みを崩さないまま、くちびるだけを動かしている。

「僕にもよくわからないんです」

女にもてる主人公。しかも恵まれた地位をわざわざ放り出す主人公なんぞに、どうして多くの読者がつきあうのか。本当にわからなかった。

くすっと女が笑った。とりつくろった頬笑みの下から、本当の笑いがこぼれたように感じた。

「男の子ですか?」

迷いながら僕は訊いた。

「女の子!」

恐い顔をして彼女は答えた。

「かわいいですね」

動揺すると嘘をつく癖が、僕にはある。

「ホンマ?」 彼女は嬉しそうに娘をみて、ぽつりと言った。「でも、口をきかんのよ、この子」

僕は返答に窮したまま、いくつか深刻な病名を頭に浮かべた。

「脳波もおかしいの、医者が測ったんやけど」

まるで、八百屋が大根の目方を量ったようにいう。

「なにしてはるの?」

え? 質問の意味がわからなかった。

「私はね、このすぐ近くで働いてるんよ。社長と私だけのちっちゃな会社。亭主に先立たれて、この子抱えて、苦労してるねん」

なるほど、職業を訊いているわけか。でも偶然に同席した男に、ずいぶんと立ち入った話をするものだ。それに、さきほどまでの不自然な笑みを、また浮かべている。

彼女は僕の警戒をみすかし返答をうながすかのように、どんよりした瞳をこちらに据えた。

「あんたは、どこに勤めてるん?」

僕は勤務先の名前でなしに場所の方を、いくぶんぼやかして伝えた。

「へえ、登美ヶ丘やね。郵便局員?」

なんでまた! 首をふる僕に、彼女はたたみかけるように質問を放った。銀行員? 本屋の店員? 市役所の役人? 教師? へえ、どこで教えてはるの? 大学? 偉いんやね、なに教えてはるの?

「聞いてもわからんわ」

専門分野の名称を耳にした彼女は、笑みの硬さを消してくつろいだ表情を浮かべた。綺麗だ、と僕はあらためて思った。

年齢はおそらく、二十代後半。どこか古代の巫女を思わせる独特の顔。卑弥呼のようだ。ヒミコ。

「クミコよ」

驚いて彼女を見つめた。どよんとした瞳が正面の僕に据えられている。その横では女の子が大きな目を見開いて、母親と同様に前方をみていた。

親子といっても、ふたりは似てない。でもやはり彼らは、組み合わせの異様さによって、特別な絆で結ばれた親子のようにも思えた。


» » 次を読む