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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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これはバブルと呼ばれた時代の物語である。

「バ」「ブ」「ル」。最初の二つの破裂音は、くちびるを心地よく刺激する。でも三番目の「ル」は、外にはき出すのか、のどに飲み込むのか、はっきりしない。僕にはまるで、キスの快感のあとに窒息が待ちかまえような、あやしい音の連鎖に響く。クミコの引き起こした連続殺人について物語るには、まさにぴったりの言葉だ。

あの事件を記憶するひとは、いまでも少なくない。当時は週刊誌やテレビのワイド・ショーで、さかんに取り上げられた。「美女をとりまく男たちが遂げた謎の窒息死」として、死者たちの関係に注目が集まり、クミコの国外逃亡が話題になった。でも僕の知るかぎり、彼女のキスの絶妙さに言及した推理は、ついに登場しなかった。

だからいま、僕が書こう。これはクミコと僕の身に、本当に起きたことである。

最初の死者が出たのは、昭和六十二年の四月、まさにバブルの真っ最中だった。三十代の健康な男が、突然に窒息死を遂げた。警察は不審の念を抱いてひそかに捜査を進めたのだが、犯人の確定には至らなかった。

第二の死は、十ヶ月近く経った昭和六十三年の一月に起きた。それからは、十ヶ月の間に蓄積されたエネルギーが火を噴くように、第三、第四と続々と不審死がつづいた。

とはいえ、クミコの名前がスクープされたのは翌月、つまり昭和六十三年の二月のことで、時すでに遅く、彼女はとうに海を渡っていたのである。



その一

僕がクミコと出会ったのは、はじめの事件が起きる半年ほど前だった。その頃、日本は一人当たりの国民所得で、アメリカを抜いて世界のトップに躍り出た。ご存じのようにこれは数字の魔術であり、地価の異様な上昇が投資と消費の熱を一挙に煽った結果、全国各地にカネ離れのよい人間たちを生みだしたことによる。でもカネは世界中どこにいっても、やはり同じカネだ。ちまたに溢れたカネは、ニューヨークやロサンゼルスをはじめ、世界各地にこぼれ出て、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を世界に知らしめた。

で、そんな威勢のよい時代に、僕とクミコの出会いがどんなだったかを知ってもらうには、まず僕がどこでどう暮らしていたかについて、イメージしてもらう必要がある。

バブル時代が到来して、みんながどんどんと舞い上がっていく頃、僕は関西の小さな私大で助教授 ──いまでいう准教授── をしていた。

その私大は丘陵をけずりとった造成地にそびえ立ち、付近の新築マンションにも増してぴかぴかだった。校舎は白とピンクのタイル貼りで、最新の「AV設備」を完備した教室があちこちにあった。各階のトイレでは、ホテルで出会うような大鏡が来客を迎えた。

大阪の地価は倍々に跳ね上がり、それにつれて造成ホヤホヤの住宅地も値上がりしていった。大学も同じである。都心の大学の偏差値が上がるにつれて、近隣府県の大学の偏差値が上がった。受験者数は、まさに倍々ゲームだ。学費、下宿代、旅費もなんのそので、各地から戦後ベビーブームの親たちが、第二次ベビーブームの子どもたちを連れて受験につめかけた。当然、大学は受験料でうるおった。

昔なら都心に住めたはずの人々は、いまや遠い新興住宅地に住むしかなかった。彼らはあたらしい地価を嘆いたけれど、結局はそんな高値の家の持ち主として満足した。大学だって同じだ。受験生も彼らの親も、都市辺境の大学の偏差値をばかばかしいと感じたが、結局はその新偏差値にうなずいて高い入学金を納めた。

カネぶくれ。偏差値ぶくれ。世の中も大学も、当然軽かった。

「浮かれたらあかん」

大学の理事長が声をあらげた。教職員組合との賃上げ交渉の場で、彼は一同に気を引き締めるように訓話を垂れた。本職は土建屋だ。日焼けした馬面と白髪を照り輝かせて、彼は馬のような大きな口を閉じると、自分の言葉にうなづいていた。でも新キャンパス建設でうまい汁を吸った土建屋の顔は、誰よりも浮かれてみえた。

耐えられないな。

僕は心でつぶやいて、帰りの通勤電車で本を開いた。いつもの推理小説ではなく、その日にかぎって本格小説だった。駅前の本屋で時間をつぶした折、奥の書棚に『存在の耐えられない軽さ』という一冊をみつけたのである。タイトルが目に飛び込むなり、衝動買いした。これこそ今の僕、今の世の中、と思ったからだ。

僕の目に狂いはなかった。翌年に映画が封切られると、予想どおりの大ヒットとなった。幸せな人はその幸福を軽く感じてしまうのが不安で、映画をみにいった。不幸な人は、自分の不幸を軽く生きてしまうことにやりきれなくて、やはり映画館へ足を運んだのである。

僕は当然、不幸な人として本を開いた。

うら若き助教授として赴任してから、すでに六年が経った。五年前の夏、つまりバブル景気の夜明け前に、僕は日本で二番目に偏差値の高い大学から、助教授としての誘いを受けた。誰もが知る西の雄、Q大学だ。

輝かしい将来の幕開けのはずだったが、デリケートな問題が生じた。タイミングが微妙だったのである。

当時、文系の学者業界には「ご奉公三年」という言葉があった。若い学者は小さな大学で最低三年は辛抱して、メジャーな大学からお呼びのかかるのを待つ。彼らは研究の実績を積み教育の腕を磨いて、メジャーな大学の助教授にふさわしい候補となる。

僕にお呼びがかかった。でも、ご奉公はまだ一年にすぎなかった。それでなにが悪い? 法律的には悪いことなどなにもない。でも業界の掟には、他の職場に転じるのを許す「割愛」という手続きがある。

メジャーな大学は小さな大学に、「このひとをください」と割愛を願い入れ、小さな大学は願いに応じるかどうかを決める。「ううん。失いたくないけど、ま、いいです。別の優秀な若手を、またご紹介ください」と答えるのが普通だ。でも、もし求められた人物のご奉公が足りなければ、小さな大学は業界の良識に照らして、堂々と割愛を出し渋ることができる。その場合にメジャーな大学は、弱い者いじめという悪評を恐れて、人材を無理に引き抜こうとはしないのである。

「割愛」は国立大学では教授会が決定する。でも私立大学は違う。とくに小さな私学となれば、理事会が大きな権限をもっている。土建屋の理事長の一言で、僕には割愛が下りなかった。

以来いままで、僕にはどの大学からも声がかからなくなった。メジャーな大学の数は知れてる。とくに僕の専門のポストとなればかぎられているし、メジャーな大学に移った学者は滅多ほかの大学に移ることはない。さらには教授と助教授の適切な年齢差というのもある。

僕はまわりを見渡して、どの大学のどのポストがいつ頃あくか、そのとき自分は助教授としてふさわしい年齢かどうか、を推し量ることができた。

空きはあるのか・・・・・・
              あるのか?・・・・・
                        無さそう・・・・・
                                 無い!?

某大学の井川助教授は胃が悪い。でもいのちに別状はなさそうだ。某大学の金為教授は研究費を流用しているらしい。でも、誰もマスコミにたれ込もうとはしない。某大学の古里助教授は故郷の大学に移りたいという。でも彼の恐いかみさんが許さないだろう。

悪いことはかさなる。僕には大学時代の恋人がいた。美智子という名のマリア・カラスに似た美人で、声はほんもののカラスのようだった。でも、卒業して銀行に就職した彼女と大学院に進学した僕との間には、時間差とカネの差と常識の差がみるみる広がって、一年足らずで別れた。

それから、やがて美智子が銀行をやめて大学院受験の勉強をはじめたとき、僕たちはまたくっついた。ちょうど、僕の栄転がつぶされた年だ。

ふたりはいつしか結婚を真剣に考えるようになり、不動産屋の前で物件の広告をみつめ、家具売場を歩いた。なにからなにまで、ばからしいほど高値だった。

「あんなぴかぴかでオシャレでなくってもいい。もっと安くならないものかしら」

夕方の寒空の下、美智子はふっと歩道で立ち止まり、しゃがれ声でつぶやいた。

大きな目をしばたいて、彼女は正面のビルの一角に視線を向けた。そこは名も知れない証券会社のオフィスで、老若男女が群がり、電光掲示板の株価の数字にみいっていた。

僕らのデートの回数は減った。美智子は修士論文の作成に専念している様子だった。

「山部君、かわいそう」

僕らが最後にあったとき、彼女はやさしくもつれなく言った。

半年後、美智子はまったく同じ言葉を、今度は正真正銘のやさしさをこめて別の男に贈ったらしい。妻に家出された四十代のP大学教授に向けてである。僕は学会の懇親会場で、彼女と再婚したばかりのその教授と挨拶を交わした。

山部君、かわいそう。今度は美智子の言葉でなく、僕が僕にかけたつぶやきだった。でもかわいそうな山部君は、さらにさらなる災難に見舞われたのだった。

二年後の秋のこと、僕のマンションに東京から旧友が訪ねてきた。中学時代からのつきあいで、気心のしれた男だ。

環境アセスメントの会社を起こした彼は、まさに羽振りがよかった。全国各地に続々とつくられるゴルフ場が、カネのなる木だった。この大木がいくらホンモノの森林を食い尽くし動物を追い払い、除草剤を垂れ流しても、住宅造成よりずっと環境にやさしい。旧友はそう口をとがらせて主張した。

彼は自分の生活環境もアセスメントするようになった。いまのかみさんは環境にやさしくない。ほかにずっとやさしいひとがいて、おまけに年齢も若いし、おれの環境評価を尊敬してくれている。だから環境の再整備をはかる、と彼は酒を飲みながら語った。

「確かにな」と僕は相づちをうった。「お前のかみさんは、こわいもんな」

たった一晩の語らいが、僕には二日酔いよりひどい顛末となった。旧友は東京に帰ったが、家には戻らなかった。動揺した彼のかみさんは、夫が消息を絶った最後の場所である僕の住まいを訪ね、僕の勤務先にたどり着いた。

すっかり頭に血が上った状態で、彼女は講義室から研究室に戻る僕をつかまえて詰問した。

「どこよ? 知ってるんだろ! あいつ、相談しに来たんだろ!」

僕がどう答えていいかわからないでいると、彼女はNTT株にも増して天井知らずに激昂した。

「女を泣かせやがって、この野郎!」

亭主に浴びせた言葉か、それとも僕に浴びせた言葉かはわからない。わかったのは、彼女がまだ泣いてなかったこと、それに泣く前に僕に思い切り平手打ちを食らわしたことだ。

泣き崩れた彼女の前には狼狽した僕が立っており、狼狽した僕を遠くとりまいて、学生たちや数名の教官が興味津々の顔でみつめていた。

彼女は大学から出て行った。でも僕は出て行くわけにいかないので、以来いわくありげな笑みやひそひそ話にずっと耐えている。話し下手と聞き下手が重なるせいか、説明するほど弁解に聞こえるらしい。

という具合で、僕は不幸だった。バブル景気が幕開けて、カネぶくれ、偏差値ぶくれの威勢のよい時代が到来したのに、僕は世の中に取り残されて、ひっそりと冴えない毎日を送る男だった。それでも悲しいかな、みんなと同じ時代を生きるしかなかった。つまり僕の不幸せは、みんなの幸せと同じように、残酷なほど軽かったのである。

クミコに逢う前の僕の状況がどんなだったか、およそかおわかり頂けたろうか。ならば、いよいよ出会いについて話そう。


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