第5回地球セミナー第5回地球セミナー 「音楽表現における越境−民族を超える音楽は可能か」
演奏・講演:レベント・アスラン氏

日時:1999年11月25日17:00−18:30
会場:特別応接室

配布資料:
「レベント・アスラン〜音楽表現における越境−民族を超える音楽は可能か 」

内藤正典著(*ここに掲載した配布資料の著作権は著者に属します。著者の承諾なしに引用・転載することを禁じます。)

 私と私のゼミの学生たちは、98年の3月にレベントと出会った。私のゼミでのフィールド・ワークでオランダを訪れた際、移民の音楽活動に関心をもつ学生がいた。トルコ出身の移民たちが、母国の、あるいは「トルコ人」としての民族的アイデンティティを維持しようとするときに、音楽がどのような役割を果たしているのかを調べたいというのだった。

最初に、トルコの音楽をオランダに紹介する―具体的には、トルコ出身の音楽家を招いてコンサートを催している団体を訪れた。しかし、そこはプロモーションを専門にしていて、直接、音楽活動をしていなかったので、アムステルダム市内で楽器屋と音楽教室を開いている人物を紹介してもらうことになった。

その楽器屋兼音楽教室がレベント・アスランの活動の場であるアスラン・ミュージックセンターであった。ミュージックセンターと名づけたことについて、レベントはこう語った。

「楽器やCDを売ることを生業にしているし、子どもたちに音楽も教えている。しかし、私は、ここが、音楽を媒介にして、あらゆる人々が集い、語り合い、癒しあう空間であってほしいと願っている。だから、楽器屋でも教室でもなく、音楽を中心にした集いの場という意味で、ミュージックセンターと名づけたんだ」

 店内には所狭しとCDや楽器が並べられている。店の奥は一段高くなっていて、ソファが並び、居間のようなスペースになっている。彼のミュージックセンターを訪れた人たちは、ソファにすわり、思い思いに楽器を手に取り、つまびき、レベントが用意してくれるチャイ(トルコ風の紅茶)を啜りながら、あらゆる話題のおしゃべりに興じる。

 集まってくる人びとには、トルコ人もいればクルド人もいる。アフリカやカリブからの移民、さらには、アゼルバイジャンからオランダに渡った人もいる。アゼルバイジャンの人は、サズ(棹の長い弦楽器でピックで弦をはじく)のような楽器を上手に演奏する。子どもが病気で、治療費を稼ぎ出すためにオランダでコンサートをしたいという。それをレベントが支援している。

集まってくる人たちのなかに、一人、足の不自由な若い女性がいた。他の人が奏でるサズに合わせて実に美しい声で歌う。障害をもつ彼女は、トルコにいたら、おそらく生計を立てることが難しい。そこで親戚をたよってアムステルダムに渡り、レベントは彼女を歌手として成功するまで支援しつづけようという。

レベントと私との対話は、音楽のことが中心だったが、そこには、「民族」と「国家」に縛られない音楽を実現したいという彼の強固な意志が感じられた。このことは、トルコ社会やトルコ人を知る者にとって、きわめて異例と言わざるを得ない。彼は、楽器の名前一つをとっても、「トルコのサズ」、「トルコのダルブカ」という表現を嫌悪する。広く中東・中央アジアによく似た楽器はいくらもあるのに、なぜ、いちいち楽器に民族呼称や国家の呼称を伴わなければならないのかと彼は問いかける。

 「民族音楽」という括り方のなかには、本来、音楽表現につきまとう必然性のない「境界性」が持ちこまれる。彼我を区別、識別あるいは差別してやまない「境界」が、政治や社会において、どれほど人間を苦しめてきたかを知りぬいている彼は、音楽の世界に国家や国民や民族の標識を持ちこむことを拒否するのである。

 彼が奏でるサズの響きや歌の多くは、アナトリアの大地から生まれた音楽である。なかでも、民衆のあいだに歌い継がれてきた物語り風の歌をレベントは好んで歌う。だが、その歌詞は、国家を称えるものでも、民族を鼓舞するものでもない。民衆のなかにあって、民衆のために戦った人物を称える歌ではあっても、人間への愛情が歌われているものに限られる。

一方、彼が小さな子どものときから親しんできたダルブカ(太鼓)に向かうとき、アナトリアの大地にさえ縛られることはない。彼が音楽において、民族や国家を越境するとはどういうことかを全身で表現してくれるのは、このダルブカの即興演奏においてである。

レベントによるダルブカの演奏は、飛翔であり、叫びである。太鼓は、もっとも人間の感情や情念を率直につたえる楽器のひとつだが、彼は、そこに、民族固有の表現や、国民音楽的表現を織りこもうとはしない。これぞトルコ風、という表現を誇示しないのである。もちろん、彼はトルコ各地の独特の表現方法を熟知している。アラブ地域に近い地方の奏法や黒海地方の奏法で奏でることもできる。しかし、彼の即興演奏は「境界性」を否定する。カリブの太鼓、イランの太鼓、インドの太鼓、そしてアフリカのさまざまな地域の太鼓。彼は五大陸を飛翔するように、自由に、さまざまな奏法を組み合わせる。店を訪れた人が持参の太鼓をたたき始めると、レベントもまた愛用のダルブカを膝にはさんで対話がはじまる。

そのときに彼は、自分はトルコ人であるからといってトルコ風の叩き方で応じたりしない。相手が西アフリカの太鼓を叩くとき、彼のダルブカは、相手を圧倒も、押しのけもしない。あらゆる奏法を縦横無尽に用いながら、それが彼自身の言葉となって、空気をふるわせるのである。

彼は、音楽における境界性を否定しようとする。しかしそれは、無国籍性を強調しようというのでもなければ、安直に、さまざまな地域の音楽表現を混ぜ合わせて、ワールド・ミュージックに仕立てようというのでもない。私が彼のダルブカの即興演奏に、体内から突き動かされるような感動を覚えたのはそのせいであった。たしかに、彼は、ときにトルコ風に、ときにインド風にダルブカをあやつってみせる。だがそれは、ダルブカという「トルコ」起源の打楽器が、彼の喉となり口となって、そこから彼自身の境界性を超越した言葉をほとばしらせているのである。

彼が否定しようとする境界性は、音楽における「民族」や「国家」の境だけではない。むしろ逆であろう。彼にとって、絶えず人間どうしを隔てる装置としてはたらく「民族」や「国家」の概念に対する強い懐疑と拒絶があって、それが彼の音楽表現に投影される結果となったのである。彼が、そう確信するにいたった顛末を、私がここで書くのは控えたい。ただ、彼が学生時代を送っていた1980年代のトルコの状況に関わっていることだけは確かである。

 三歳になる彼の息子はデヴリムという。デヴリムとはトルコ語で革命を意味する。だが、私はレベントを左翼青年という「枠」のなかに囲い込んでしまいたくない。たしかに、彼が社会主義について「夢」を語るとき、その語り口には熱いものを感じる。私はそれを聞いていて、戦後まもなく日本で民主化運動にのめりこみ、いつしか挫折を味わい、年を経て、そのころの「夢」を淡々と、自慢も、屈折もなく語れるようになった人々の語り口に似ていると感じた。

 レベントの情熱が、トルコに限らず現代世界における不公正を糺すことに向けられているのは確かである。しかしそこには、言葉だけが一人歩きするようなイデオロギーの言説はない。彼に、なぜ息子をデヴリムと名づけたのかとたずねた。すると彼は、自分の父親の話をはじめた。

 彼の父親はアンカラの庶民的な街で八百屋を営んでいた。まわりの人たちの信望厚い人物だったという。日暮れ時になると、方々から友人が集まってきて、いっしょに食卓を囲んだ。そんななかで毎日のように、夕方になると店の前に車が止まり、運転手がドアを開けると立派な身なりの紳士が降り立った。紳士は、上着を脱ぎ、シャツをまくりあげると、レベントの父親や近所の男たちといっしょになって野菜や果物を洗い始めた。そして食事の用意ができると、紳士も共に食卓を囲んだ。

 レベントの幼少時の記憶によると、毎日が、こんなようすだったという。後に、その紳士が共和国検事総長だったことを知って、レベントは、自分の父親が、なぜまわりの友人だけでなく、そんな人物からも愛されていたのかを考えるようになった。彼の父親は高い教育を受けたわけでもなく、財を成したわけでもない。レベント自身の言葉を借りれば、ただ、分け隔てのない他人への思いやりと、助け合いの精神に富んでいたにすぎないという。

 そしていま、レベントは父親の人生そのものが「革命的」であったと言う。彼によれば、革命とは、ときに銃を持ち、人民のために闘うものであるけれど、そうした乱世のなかにのみ革命があるわけではない。ごく日常の生活の中で、あらゆる人間と共にあり、敵視せず、差別せず、信頼される生き方−それが実現できるなら、それを革命的な生き方と呼びたい−彼は息子をデヴリムと名づけた理由をそう語った。私には、彼のこの言葉を思想的にプリミティブだと嘲うことはできない。

 トルコという国のここ二十年の変化をひとことで言い表すことはできない。急速な市場経済化による経済成長とその陰で拡大する貧富の格差。それは一方で拝金主義の横行と他者への思いやりを失わせ、望みを断たれた多くの民衆をうみだした。絶望は、東南アナトリアのような貧しい人々の多い地域で民族紛争の先鋭化をもたらし、都市での貧困層の拡大は、イスラム勢力の台頭をうながした。それらに対して、軍部は建国以来の国家の枠組と規範を掲げてしばしば介入してきた。それでもなお、緩やかではあるが民主化も進行しつつある。人によって、これらをどう解釈し評価するかは異なるだろう。

 だが、レベントには、これらの変化のなかで、受け入れることのできないものがあった。それが、人と人とのあいだに絶えず境界を設けて、他者を疎外するメカニズムであった。階級であれ、民族であれ、国家であれ、それらの境界が人間の疎外や差別をもたらすとき、レベントはそれを嫌悪するのである。
 

This session "Crossing the Border in Music" with Mr. Levent Aslan (Stichting Aslan Muziek Centrum, Amsterdam, Holland) was held as a part of the International Seminar at Hitotsubashi University.

It was sponsored by Ministry of Education Culture and Science and Hitotsubashi University.

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