全体会
いま,歴史研究に何ができるか
−マルチメディア時代と歴史意識−


委員会から

ここ4年ほど,全体会ではグローバル化をキー概念として,一方では資本主義,ナショナリズム,公共性などがいかに変容しつつあるかを歴史的に位置づけ,他方では「帝国」やアメリカ,イスラームなどを対象化する方法について検討を重ねてきた。その過程で,歴史認識とそれを形成する環境の激変に対して,歴史研究者がどのように向きあうべきか,またそのための視座をいかに養えるかが新たな問いとして浮上してきた。
今日,歴史研究をめぐる環境は危機的様相を深めている。新自由主義的政策の急速な進行にともない,専門的な歴史研究を支える制度的基盤が著しく減退している。また,「世界史」や「全体性」という認識枠組みがグローバル化のなかで切実さをいっそう増しているにもかかわらず,極度の専門分化の結果,対象とする地域や時代を異にする歴史研究者との対話が困難になっているという事態がある。
危機はそれだけにとどまらない。グローバル化にともなって新たなメディア環境が形成され,マルチメディア時代と呼びうる状況に突入した今日,歴史研究は多様なメディアによって発信される情報との競合にさらされるようになった。映画やテレビ,マンガやアニメ,そしてインターネットによって,種々雑多な情報が発信され,そうした情報から人々は歴史に関わる情報を意識的,無意識的に受容して独自の歴史意識を獲得している。もはや学校教育や啓蒙書に依拠することなく,人々は多様な歴史的主題にふれ,しばしば研究者の予想だにしない歴史認識を形成し自ら発言しているのだ。歴史教科書問題や靖国問題などをめぐる人々の反応も,そうした位相の中に置かれているのであり,そこでは歴史研究者が必ずしも主要なアクターとしての役割を果たしているわけではないことを認めざるをえないだろう。しかも今日のマルチメディア時代において,歴史研究者とて過剰な情報から無縁でいられるはずもなく,研究者自身がメディアからさまざまな影響を受けていることに自覚的である必要がある。もはや歴史の語り手と受け手という二分法はその自明性を失ってしまったと言えよう。
こうした歴史研究が直面する状況に対して,歴史研究者は何をなしうるのであろうか。この根源的な問題を考えるための足がかりとして,本年度の全体会では,過去のあり方を考察することを通じて,現在われわれが置かれている状況を相対化するという方法を取ることにした。すなわち,過去において,歴史の語り手と受け手とはいかなる存在であり,相互にいかなる関係を結びながら歴史を「実践」してきたのかという問いを立てることによって,マルチメディア時代に生きる歴史研究のあり方を考えるというものである。報告をお願いするのは,メキシコ植民地時代史の安村直己氏と日本近世史の若尾政希氏のお二人である。このテーマに関して,報告者がいずれも17〜18世紀を研究の対象としていることは決して偶然ではない。
安村氏には「権力・メディア・歴史実践−−グローバル化と植民地期メキシコにおける歴史の生産−−」と題して,植民地期メキシコにおけるインディオをめぐる歴史実践について考察していただく。メキシコにおいて,17〜18世紀は歴史叙述における西洋的な規範が支配的になった時代であった。「新世界」の歴史を書く権利はヨーロッパ人によって独占され,インディオは歴史実践の主体であることを否定された。けれども,スペインによる征服・植民地化の以前,先住民たちは伝承や儀礼などを通じて自らの歴史を語っていたし,征服後はヨーロッパの文字による歴史記述という方法を獲得していった。そうしたスペインによる征服後のインディオたちをめぐる歴史実践の諸相を,彼らの残した訴訟や請願といった史料を通じて解読していただく。
若尾氏には「歴史と主体形成−−書物・出版と近世日本の社会変容−−」と題して,近世日本における人々の思想形成と歴史意識のありようを考察していただく。この時代は,日本において初めて商業出版が成立した時代であり,新たなメディアの登場は,政治・社会だけでなく,個々人の思想形成にも大きな変容をもたらした。版本や写本として流通する書物は社会通念の形成に寄与し,人々の歴史意識もいわば書物を中心とした磁場のなかで形成されていく。こうした近世人の思想形成の諸相を,具体的な事例を通して読み解いていただく。
歴史の語り手と受け手の関係がダイナミックに変容した時代である17〜18世紀を対象にしたお二人の報告に対し,コメンテーターをエジプト近代史の加藤博氏にお願いすることにした。加藤氏はエジプトの一農村(アブー・スィネータ村)に関する一連の事例研究を通じて,村人たちが支配的な歴史叙述に向き合って自らの歴史を紡いでいく過程を考察してきた。19〜20世紀を対象とした一連の研究の成果をふまえたコメントをいただくことで,17〜18世紀とわれわれの生きる21世紀とがより立体的な形で架橋されることになろう。
過去における歴史の語り手と受け手の関係性をめぐるこうした考察が,マルチメディア時代における歴史研究の新たな可能性への一路となることを期待してやまない。(研究部)
〔参考文献〕
安村直己「植民地期メキシコにおける民族隔離法制と地域社会秩序−−ヌマラン村訴訟を中心に−−」歴史学研究会編『紛争と訴訟の文化史』青木書店,2000年。
同 「帝国における「中心」と「周縁」−−十八世紀メキシコにおける地域社会とスペイン帝国の再編−−」濱下武志・川北稔編『支配の地域史』山川出版社,2000年。
同 「交通空間としてのスペイン帝国における文化的混淆と「政治的なるもの」について」『思想』937号,2002年5月。
若尾政希『安藤昌益からみえる日本近世』東京大学出版会,2004年。
同 「近世人の思想形成と書物−−近世の政治常識と諸主体の形成−−」『一橋大学研究年報 社会学研究』42号,2004年3月。
同「「書物の思想史」研究序説−−近世の一上層農民の思想形成と書物−−」『一橋論叢』134-4号,2005年10月。
加藤 博『アブー・スィネータ村の醜聞』創文社,1997年。