大学院情報 在籍者一覧 / 学院論文 / message

卒業生からのメッセージ Message

No. タイトル 筆者 現職(執筆時)or 日付
1 「越境する学問」としての国際社会学 小ヶ谷千穂 横浜国立大学教育人間科学部准教授
2 移民にかかわって  真島まどか 弁護士法人 あると
3 国際社会学と出会って  田中志穂 認定NPO法人 難民支援協会(JAR)
4 国際社会学の学際性とディシプリン 南川文里 立命館大学国際関係学部 准教授
5 アメリカでのフィールドワークを振り返って 恵羅さとみ  2009.5.1
6 近くて遠いフィールドより―科学する力は一日にして成らず 宮川陽名 2009.6.1
7 フランス郊外でのフィールドワークから思うこと 村上一基 2011.7.1
8 機上にて―名も知らぬ2人の越僑 平澤文美 2011.8.1
9 Learning from Japanese-Filipino Children’s Experiences in Japan Jenny de Dios 209.12.1
10 日本から世界をみる、世界から日本をみる 崔ミンギョン 209.12.1

「越境する学問」としての国際社会学 小ヶ谷千穂

私が社会学部から社会学研究科に進学した1997年当時は、現在と大学院の体制もずいぶん違って大学院の定員も少なく、もちろん「国際社会学」としてのプログラムもありませんでした。むしろ梶田孝道ゼミに所属する、ということが国際社会学を専攻している、ということを意味していたと言えます。梶田ゼミに限らず、当時の社会学研究科は複数の所属ゼミを拠点としながら、どちらかというと個人単位で院生が研究を進める、という雰囲気がありました。他大学や他研究科で見られるような、「徒弟制度」「○○先生の弟子」といった上下関係が特に当時の梶田ゼミにはほとんどなく、今振り返ると修士課程に入った時点から自由に、しかし独立した研究者として研究を進めることを求められていたように思います。そうした中で、先生はもちろん、優れたそして大変に厳しいゼミの先輩たちとの出会いから多くのことを学ぶ機会に恵まれました。それぞれのフィールドに責任を持つこと、そして何よりも「越境する学問」としての国際社会学を研究分野にすることの厳しさとその可能性とを教えられたように思います。もちろん、研究を仕事にするとはどういうことか、という問いさえきちんとわかっていなかった当時の私が、諸先輩からのメッセージを正確に受け止められていたかどうかは別なのですが・・・。

「越境する学問」として国際社会学の厳しさとその可能性、と書きましたが、これは以下のようなことを意味しています。一つは日本の社会学の中でもとりわけ新しい分野である国際社会学が、「方法論的ナショナリズム」を越え、さらには既存の様々な研究領域を横断するような射程を持っていることと関係しています。新しく、かつ領域横断的な分野であるということは、その分学ばなければならないこと、批判の対象にしなければならない先行研究などがより多く存在している、ということを意味します。フィリピンをフィールドとして女性の国際移動とその送り出し世帯における意味付けについて調査したいと考えていた大学院時代の私にとっては、研究を始めるにあたって実にさまざまなハードルがありました。自分自身に地域研究的バックグラウンドが少なかったこと、ジェンダーの視点を国際社会学的領域の中で展開していこうとする日本の先行研究が限られていたこと、また当時の国際社会学における移住労働研究が、送り出し社会側への視点をあまり扱っていなかったことなどがそれです。もちろん現在でもそうした状況はあまり変わっていないかもしれません。

また同時に、これは特に最近になって強く思うことなのですが、「越境する学問」としての国際社会学はまた、研究に携わる者自体の「越境」を要請するものだ、ということです。これはたとえば国内外の複数の地域にフィールド調査に出かける、という物理的な「越境」行為だけではありません。特に移住者やその周囲の人々を研究対象とする「外国人調査者」としての「わたし」自身の位置、さまざまな運動体と関わることでの「研究」と「運動」の間の越境、さらにはフィールドで出会う人々との関係が深まる中で、彼女ら・彼らの「疑似親族」的な立場と研究者としての立場、といったさまざまな境界を自分自身の中で横断し往復し続けるということです。その中で経験するジレンマや、同時に味わう得難い喜びは、時として移住者やその家族が越境移動を通して同時に味わう困難と希望、ねじれと新たな可能性、といったことと重なっていくように見えます。どの分野も実際にはそうだとは思うのですが、国際社会学は何よりも「越境する人間」としての研究者の営みとそのポジショナリティを、その研究の中において常に問い続けてくる学問でもあるのではないでしょうか。

「国際社会学を専攻しています」とはなかなか胸を張って言えないような私ですが、一橋の国際社会学プログラム(とその前身)の良さは、なによりも既存の領域や方法論にとらわれない自由な発想を大学院生が持つことを可能にする環境であることだと思っています。今回、一橋の国際社会学がさらに体系化されたことで、常に既存の学問に批判的まなざしを向けてきた国際社会学がその精神をさらに熟成させると同時に、より多くの人たちに学問としての魅力を発信していくことを願ってやみません。実際、私の周囲でも、「国際社会学」という分野に強い魅力を感じている学生が少なくありません。現在、そしてこれから国際社会学プログラムで学ぼうとする皆さんは、今後さまざまな「越境」の経験の上に、すばらしい研究と社会へのかかわりを生み出されることでしょう。私も、そうした皆さんを見習って、細々とではありますが「越境」の経験の苦しさと楽しさとを常に味わい続けていきたいと思います。

小ヶ谷千穂
横浜国立大学 教育人間科学部 准教授

移民にかかわって 真島まどか

私が移民にかかわることになった原点は、約12年前のブラジル留学にある。日系人が10%を占める町に暮らしながらも、特別な思い入れもなく過ごしていたある日、どうしても祖父に会ってほしいと言われ、日系三世の友人に連れられ、車で5時間ほど離れた田舎に行った時のことだ。彼女は日本語が話せず、日本人の祖父はポルトガル語がまったく話せなかった。周囲は日系人がほとんど暮らさない小さな集落で、家族とすら会話が成り立たないまま、いつか日本に帰ることを夢見て何十年も生きてきた老人。日本人に会うのは何年ぶりだっただろう。病気でベッドに横になった老人の目から一筋の涙が静かに流れ落ちた。その深い孤独、ブラジルでの苦労、そして望郷の想いが伝わって、私は胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。

このような話は移民と関わればあちこち転がっているが、この時から私は日系人をはじめとするブラジルにおける移民に興味を持つようになり、イタリア移民二世のブラジル人の親友がアメリカに移住するとアメリカにおけるラティーノが気になり始め、ひいては在日外国人を依頼者の大多数とする法律事務所に就職することになるなど、移民との縁は深くなっていった。

なぜ私が移民に惹かれたのか。そして、これからも移民と関わっていきたいと思っているのか。それは、越境移動という行為には必ず数々の人間ドラマを伴うからに他ならない。越境を決意する勇気、異国で無我夢中で働くたくましさ、そして、立ちはだかる多くの困難、越境に伴う悲しみや苦しみ。経済的な理由で他国に移住する必要もない現代日本に暮らす私にとって、日常的に接することのない悲喜こもごものドラマの数々を共有し、困難を乗り越えようと明るくたくましく生きる人間の姿に強い感動を覚えること、それが移民と関わる仕事の一番の醍醐味だと思う。

前置きが長くなってしまったが、このように移民とかかわるようになった私が、実務を通して知った在日外国人現状や日本の入国管理政策のみならず、移民を巡る世界の実情がどうなっているのかを知りたい、マクロな観点で移民という現象を読み解きたい、と思うに至ったのはごく自然な流れであった気がする。一橋の講義は期待を裏切らず、講義数でもその内容においても非常に充実しており、とりわけ所属していた故梶田孝道教授、小井土彰宏教授の両ゼミは、様々な国の移民政策や移民をめぐる興味深い問題を扱っており、大きな刺激を受けるとともに、先生や先輩達から的確な指摘や示唆に富むアドバイスを頂くことができた。ただ、悔やまれるのは、社会学の基礎知識がまったくないまま入学してしまったことで、土台がないために応用にも限界が生じてしまった感は否めない(他学部や社会人出身者はぜひ入学する前に少しでも基礎知識を得ておくことを強くお勧めします)。

論文のテーマは大いに悩んだ。職務経験を通して知ったことをまとめるのはつまらない、中南米からの移民も多く、移民が社会問題となっている南欧をテーマとしてみたい、という思いが強かったのに対し、先生方は、絶対にこれまでの経験を使ったほうがいい、新しいテーマをゼロから始めるのは相当難しい、との意見だった。結局、「定住外国人強制送還についての法社会学的研究」というテーマで、日本で生まれ、もしくは幼い頃来日し、国籍国には生活基盤を有しない「善良でない」第二世代を、他の一般の外国人と同じレベルで送還することの是非を問うことにしたのだが、このテーマであれば、すでにある程度の素材を持っており、結論も決まっていた。にもかかわらず、素材をさらに充実させ、補充すべき点は新たに調査を行い、説得力のある構成へと導くのに1年数か月は足りないほどであった。

修士論文の作成過程では、30年以上も前、日本で出生した在日朝鮮人二世青年の強制送還を防ぐための運動に積極的に関わっていた日本人男性に話を伺い、当時の貴重な資料一式をお借りしたことなど、歴史を肌で感じるわくわくする出来事もあったが、全般的には想像していた以上にハードであり、途中ですべて投げ出したくなったことも一度や二度ではなかった。とりわけ、青年たちに「あなたは何者なのか」と問い、その過去を話してもらうことへの「権力性」には悩み、時々足がすくむ思いであった。しかし、どのように進めたらよいのか分からなくなってしまったときも、頼ることのできる相談相手が多数存在するのも一橋の強みである。担当教授はもちろん、講義を聴講した先生などにも厚かましく教えを請うなどして、多くの人に貴重なアドバイスや励ましを頂きながら、また、同じく苦労する同期と励ましあいながら、なんとか論文を形にすることができた。

早いもので実務に戻って2年半が経過したが、修士課程の経験は実務で十分活かされているといえるだろうか。残念ながら胸を張ってYESとはいえない。2年という期間はあまりに短く、ようやく国際社会学という学問の入り口に立った頃にもう卒業だった。しかし、少なくとも、1つのテーマを幾つかの関連する論点から深く掘り下げて社会学的考察を行った経験は、目に見える形ではなくても、復帰後の事件への取り組み方や依頼者や事案への眼差しの変化といった点に影響は与えていると思う。

現在は次々に舞い込んで来る目の前の事件の対応に追われ、アカデミックな世界は遠くなってしまった。とはいえ、修論シンドローム(!?)もようやく落ち着き、最近になって、国際社会学という興味が尽きない分野にもう一度向きあいたいという気持ちが湧いてきたところだ。在日外国人(とりわけ在留資格を有しない外国人)をめぐっては予断を許さない状況が続いており、「権利」としてではなく「恩恵」として在留が許されている外国籍の者については、社会状況の変化によって容易に在留が不安定になることを改めて実感する日々である。まったくもって喜ばしくはないが、私の修士論文のテーマもそんなに簡単に廃れそうにはない。いつか時が熟したら、もう一度このテーマに取り組み、研究をいかに実務に活かすことができるかを追求してみたい、そんな思いを心の片隅のとどめながら、今日も日本のラティーノたちにかかわっている。

真島まどか
弁護士法人 あると

国際社会学と出会って 田中志穂

「日本にいるフィリピン移住女性のことをもっと知りたい、彼女たちの置かれた背景をグローバルな視点から考えてみたい」 そんな思いで、一橋大学大学院社会学研究科に入学しました。以前に「社会学」を学んだことはなく、ましてや「国際社会学」という新しい分野がどういう経緯で生まれ、今なぜ必要とされているのかなど、当時の私は、あまり深く考えたことはありませんでした。

新しい視点をくれた「国際社会学」

「国際社会学」という分野からは、国民国家という枠組みを超えて思考するということを学びました。修士論文は「移民と帰属―滞日フィリピン女性の事例から」と題して、滞日歴10年から30年近くまでのフィリピン女性たちの帰属の意識や実態を考察しました。人の移動のグローバル化により、さまざまな出自を持った人びとの交流が日常になった現代において、一方的に帰属を問い/問われることのない社会の構築は可能であろうか。固定化された「われわれ(国民)」と「かれら」の境界を突き崩す関係性の構築はいかにして可能であろうか。そんな問題関心をもとに、フィリピン女性たちを追いかけ、彼女らの経験に耳を傾けました。

一番記憶に残っているのは、「やっぱり故郷はここかな」と、フィリピンではなく、30年近く暮らす町の名をあげた、ある女性の言葉です。いつかフィリピンへ戻ろうと思いを馳せていながら、母国の親は亡くなり、息子は日本で家庭を築き、孫も生まれる…。「帰りたくても帰れない/帰らない」そんな移民たちが、どう年を重ね、人生の最後を迎えていくのか。彼女らを社会の一員として国家はどう扱うのか。調査を終え、また、新たなテーマを見つけたような気がしました。

在学中は、苦しくもあり、楽しくもある日々でした。毎日、研究室にこもって文献を読みながら、研究対象であるフィリピン女性のことばかり考えていました。滞日フィリピン移住女性というミクロな穴を掘り下げていくと、期せずして、別の穴と繋がったり、それによって煮詰まっていた頭に新しいアイディアがひらめいたり、そんな一喜一憂の繰り返しでした。フィールドワークでは、調査対象者のフィリピン女性から母国の家族を紹介してもらい、フィリピンまで話を聞きに行くなど、調査を通じて、彼女らの越境的な日常を疑似体験できたことは、楽しい思い出です。

国際社会学は、現代社会のさまざまな事象に呼応するように生まれ、従来の社会学が自明視してきた概念を批判的に捉え直すという、非常に挑戦的なことに取り組んでいる学問です。修士課程を終えるころやっと、国際社会学の奥深さを少しだけ理解することができたように思います。

「移民」から「難民」へ

「日本にいる外国籍の人と関わる仕事がしたい」そんな思いで卒業後、縁あってたどりついた団体が、現在働いているNPO法人 難民支援協会(JAR / Japan Association for Refugees)です。今、私が仕事で関係しているのは日本にいる「難民」です。国境を越えて移動するという意味においては、「難民」は「移民」というカテゴリーの中に入るといえるかもしれません。当時、難民のことはほとんど知りませんでしたが、日本に暮らす外国籍の人びとに関わる仕事がしたいと考えていたので、両者の間に、あまり境界は感じませんでした。もちろん、難民は、迫害から母国を逃れ、国民国家により移動を強いられるという特徴がありますが、日本で暮らす上で直面する言葉の壁、就労の難しさなど、課題は重なります。

正解がない現実の課題に向き合い、どうするのかを選択し、行動し続けていくことがNPOで求められる仕事です。市民社会のアクターの一つとして、NPOが社会の課題解決に向けて担う役割は大きくなっていると思います。まだまだ組織基盤の強化が必要な団体が多いですが、今後、職業としてこの分野に関わりたいと思ってくれる人が増えてくれることを期待しています。

日々現場で実務に追われている今、修士論文を読み返してみると、抽象的な分析枠組みを使っての思考の痕跡(残骸?)を、非常に懐かしく感じます。学んだことを直接に生かす機会はあまり多くはないですが、難民の置かれた混沌とした現実に関わる上で、人の移動を取り巻く現象を越境的に捉える視点は不可欠かもしれません。今後、国際社会学プログラムをへて、NPO含めさまざまな場所で、グローバルな課題に関わる人たちが増えることを楽しみにしています。

田中志穂
認定NPO法人 難民支援協会(JAR)

国際社会学の学際性とディシプリン 南川文里

私は、アメリカ合衆国のエスニシティや人種をめぐる諸課題に焦点を当て、越境者やマイノリティを包含して構築される多文化社会がいかに可能であるのかを歴史社会学という観点から考えています。このような研究の原点は、学部時代のゼミナールでの経験があります。一橋大学社会学部/大学院社会学研究科は、社会学(sociology)というよりも、社会科学(social sciences)の総合研究の場と位置づけられています。私は、学部時代から梶田孝道先生の国際社会学ゼミで学びながら、辻内鏡人先生のアメリカ研究ゼミにもサブゼミとして所属してきました。もともとアメリカ社会に関心があった私にとって、エスニシティ研究や移民研究に取り組む国際社会学ゼミでその基本的な考え方を学びながら、アメリカの移民や人種をめぐる歴史的・地域的な背景を知りたいというのは自然な欲求でした。そして、「学際的」という言葉がまだ一般的とはいえなかった時代から、社会学だけでなく、歴史学、人類学、政治学、地域研究などの領域の専門家がハイレベルな講義を行っていた社会学部は、そのような私にはぴったりの環境でした。大学院に進学後も、さらに町村敬志先生の社会学ゼミにも所属し、国際社会学・社会学・アメリカ史の3つのゼミに学ぶという忙しい日々が、現在の私の研究の基盤を形作ってくれました。当時は、ほとんどの院生が複数のゼミに所属してディシプリンや専門分野を越えて学び、その学んだ成果を国際社会学に持ち込んでお互い刺激しあっていました。

もちろん、複数のゼミで専門領域が違えば、関心や立場も異なります。たとえば、私は卒業論文で、エスニック企業が可能にする新しいアメリカの成功像について論じましたが、アメリカ史のゼミでは、特定の移民の成功について語ること自体が、「成功できない」他のマイノリティへの差別や偏見を助長するのでは、と指摘されました。その指摘が、アメリカ合衆国におけるエスニシティ概念が持つ歴史性や政治性へと関心を広げ、現在の歴史社会学的な研究方法へと結びつきました。近年、社会学の世界では歴史社会学は一種の流行分野となっていて、学会に行けば「○○の誕生」などと題した報告が数多く行われています。ただ、私の場合は、大学院で歴史社会学を学んだというよりも、社会学と歴史学のゼミを行ったり来たりして、それぞれの先生や院生からの質問や指摘に答えているうちに、いつの間にか身についてしまった考え方であるように思います。総合的な社会科学の場としての社会学研究科という贅沢な環境と、学際性に開けた国際社会学というホームグラウンドがあったからこそ、現在の自分の研究スタイルがあるのだと思います。

また、研究者としてのキャリアを考えたとき、あちこちゼミや専門を越えて行ったり来たりした経験が思わぬ形で役に立ちました。それは、大学教員としての就職においてです。私の最初の就職は、アメリカ文化研究と語学(英語)の担当教員としてのものでした。英語が決して得意ではない私が採用されたのは、「地域研究」としてのアメリカ研究分野での業績によるものであったと思います。国際社会学の研究者は、多くの場合それぞれ研究対象とする地域の専門家でもあります。もちろん、地域研究は、ただその地域の研究をすればよいというものではなく、特定地域の政治・経済・社会文化などさまざまな側面に通じている必要があります。私は、幸運なことに他大学院のアメリカ研究者と交流する機会にも恵まれ、同世代の大学院生・若手研究者による研究組織の設立に関わったりもしました。また、国際社会学ゼミという場で、他の地域の専門家と意見交換することで、アメリカを相対化する「比較」の視点を身につけ、自分の地域研究者としての視野を広げることができました。2010年に現在の所属に移動し、国際関係学部で国際社会・文化関連の分野を中心に教えていますが、今も主たる担当分野は地域研究としての「アメリカ研究」です。このようなキャリア・トラックは、国際社会学を学んだ若手研究者にはめずらしくないようです。

最後に、ここまで国際社会学の学際性を強調してきましたが、私は、国際社会学の学際性を通して、社会学というディシプリンを強く意識し、その専門家でありたいという思いを強くしてきました。歴史学や地域研究の専門家と重ねた議論は、自分自身の関心の中核が、人間集団や社会関係を扱う社会学という学問にあることに気づかせてくれました。国際移民やマイノリティ問題から環境問題やグローバルな市民運動まで、国際社会学が扱う研究テーマのほとんどが、政治学・人類学・歴史学などの隣接領域の知見が不可欠なものであるのはいうまでもありません。しかし、だからこそ、国際社会学は、つねに、社会学が何を明らかにできるのか、社会学的な思考が切り開く可能性とは何かという問いに直面します。国際社会学は、現代の学際的な研究の最前線であるとともに、社会学という伝統的な一つのディシプリンの可能性を追求する場でもあります。一人でも多くの方に、国際社会学プログラムで、その豊かな学際性と社会学的思考の奥深さに触れて、現代世界が直面するさまざまな課題に果敢に挑んでほしいと願っています。

南川文里
立命館大学 国際関係学部 准教授

アメリカでのフィールドワークを振り返って 恵羅さとみ

長年、院生生活を送っていると、毎年、年度初めになると次年度の調査研究計画を立て資金獲得に向けた申請書を何枚も書き、夏季・冬季の長期休暇になるとフィールドの現場(私はアメリカの複数都市)に飛び込み無我夢中で走り回り、その他の時間は大学での講義・ゼミに参加しながら読むべき論文や研究書に埋もれつつ、自ら実施した調査研究を必死で整理し、なんとか次の学会・論文の閉め切りに間に合わせて報告する、という繰返しが当たり前のように1年の生活パターンとなっていることに気が付きます。また私の場合、日米比較研究を掲げてしまったために、日本にいる間も常に首都圏での労働組合や労働者を対象とする複数の共同調査に関わり続けることになり、気付けば年間を通じて引っ切り無しにフィールドワーク業務に首までつかっているような生活を送ってきました。その結果、一橋大学の修士・博士課程に在籍していた7年間を中心に、予備的渡航も含めると4度のアメリカ調査、5つの国内共同調査、加えて3度の国内外における指導教官の科研費調査と、これまでフィールドワークを実践する機会には恵まれてきたと思います。

振り返ってみると、大学院に進学するまで特に長期の海外経験もなかった私にとっては、本プログラムの目標で挙げられている4つの資質のどれをとっても、その後のフィールドワークの苦労を通じて学ばされたことの方が圧倒的に多いような気がします。そのことに感謝しつつ、ここでは、最初の頃の新鮮な気持ちを思い出しながら、これまでのアメリカでのフィールドワークで感じたことをいくつか紹介したいと思います。

私は、国際社会学のゼミなどで移民論を中心に学びながらも、修士課程は日本国内の労働調査に終始し、博士課程に入って初めて海外でのフィールド調査を計画し始めたので、その意味では、どちらかというと遅いスタートでした。当初は、多くの大学院生と同様、いかに海外でのフィールドワークの資金を工面するか、どのように現地でのコネクションを作るかという点がやはり一番の悩みでした。多かれ少なかれ、最初は皆、自己資金や外部資金の獲得に苦労しながら、予備調査を行ったりしてフィールドワークに必要なスキルや繋がりを作っていくのだと思いますが、私の場合、ある程度きちんとした計画に基づいてアメリカでのフィールドワークを実施できた契機は、2007年度と2008年度の一橋大学大学院社会学研究科による若手研究者研究活動助成金を受けたことでした。フィールドワークを現実化するためには、学術的・専門的知識だけでなく、幅広い情報収集力、自らの研究を客観視しより広い視野に位置づける力、実際のスケジュールや資金の制限内で最大限の成果を得るための企画・実践力、事務処理能力、そして様々なコミュニケーション能力が必要であることを痛感したと同時に、大学のプログラムの一貫として院生のフィールドワークをバックアップするという点では指導する側の姿勢や制度面から得たものも大きかったと思います。

2007年度のアメリカ調査では、準備段階で主に二つのコネクションづくりをしました。私の調査目的は、アメリカにおける移民労働者の組織化プロセスを分析することであり、調査対象は様々な移民団体・地域組織・労働組合だったので、まずインターネットやEメールなどを利用して個別に主要団体にインタビューを依頼しました。その際には、突然の海外からの依頼にも関わらず、地域的な移民支援団体などからは承諾が得られやすかった反面、官僚制的な組織構造を持つ労働組合はローカル支部であっても返答がくることはまずないなど、対応の差を感じました。並行して、重要な研究者に事前に個人的にアポイントメントを取り、また一橋大学に新設されたばかりのフェアレイバーセンターの繋がりからカリフォルニア大学ロサンジェルス校の労働センターにも紹介をしてもらいました。実際にアメリカでフィールドワークを実践した時に驚いたのは、第一に、どの団体・組織・研究者も横のネットワークですべてが緩やかに繋がっていること、第二に、その中でも、結節点となる組織や個人が必ずいて、そのキーパーソンをいかに掴むかが決定的であること、第三に、周到な準備も重要ですが、何と言っても現地での執念の大きさと得られる成果量はある程度正比例するのではないか、ということでした。書いてみると当たり前のことだと気付きますが、私の一人目のインタビュアーは、私の突然のメールに対して快く返答してくれた、サンフランシスコ郊外で1人で移民支援センターを切り盛りしている50代の女性でした。彼女は、メールのやり取りの中で、初対面にも関わらずサンフランシスコ市内での1泊2日の60人ほどが集まる地域会議に私を同行することを提案してくれました。その会議で、私は、事前にアポが取れなかったロサンジェルスにある移民ネットワーク本部の人たちと面識を作ることができ、また、ロサンジェルスに行った際には、その組織の事務所が大学の労働センターや他の重要組織に隣接していることなどを発見し、自然と中心的役割を担う組織や個人、自分の研究に重要である対象の全体像を把握していくことが出来ました。また、一度状況を把握できれば、海外調査における限られた時間を逆に利用し、人から人への紹介を通じて当日・数日のうちに多くのインタビューを実施することが可能であることは発見でした。特に、まったく事前のアポが取れなかった労働組合関係も、現地で紹介を依頼する際の熱意と人との繋がりを通じて可能となったものが多く、中には車を出して次の対象者の所まで送ってくれた人や、自ら紹介相手との時間を交渉して昼休み30分のインタビューをねじ込んでくれた人など、とても助けられることが多かったのを思い出します。最初のフィールドワークはすべてが驚きであり、当初想定していなかった調査対象へのインタビューや様々な参与観察など、現地で発生した可能性すべてに飛びつくことで身体で学んでいったという面が大きいと同時に、問題発見的であることが避けられないため、研究の前提や枠組みを問い直しを迫られることも多々ありました。

2008年度以降のアメリカ調査では、より計画的・戦略的にフィールドワークを実施していくことが求められる中で、やはり継続的調査ゆえの新たな発見がありました。調査対象との関係では、2回目、3回目の訪問になってくると信頼関係もでき、前回は踏み込めなかったような質問が出来たり新しい情報を向こうから積極的に教えてくれたりなどということがあります。国内調査での日常的・長期的な関係と違い、短期の海外調査では年に1~2回の訪問になってしまうのですが、ある移民組織で嬉しかったことは、3回目の調査依頼の際に、その期間中に代表である本人が不在であるにも関わらず、私が継続して質問してきた労働組合との協働に関する初会合がやっと行われるということで、そこへの参加を認めてくれたことでした。その会合への参加を通じて、労働組合側への新たな個別インタビューにも繋がり、運動の発展プロセスを継続的かつ多面的に観察することが可能となりました。また、違う例では、前年に訪問した施設が次の年には自治体の政策によって取り壊されていたり、新しい法律の市議会での議決に立ち会うことができたり、社会情勢の変化や運動の展開の速さに驚かされることもありました。調査の内容を深めると同時に、テーマや視角に広がりを持たせたり、海外での社会変動のプロセスを部分的にでも自ら経験できるという点は、やはり継続的なフィールドワークの醍醐味だと感じます。加えて、2008年度調査の渡航スケジュールの後半では、アメリカ移民政策をテーマとする小井土彰宏教授の科研費調査に加わったことで、自分の研究テーマでは見えてこない、より広いアメリカ社会像や視角を学ぶことができたことも大きな成果でした。特に印象的に残っているのは、ブッシュ政権末期の就労現場での取締りによって強制収容された移民女性の自宅で、そのつらい経験を娘の英語スペイン語通訳を通じて聞いたインタビューや、サンディエゴで元野球選手の移民支援家に移民が住む国境近くの渓谷を丘の上から見るために新興高級住宅地に連れて行ってもらったことなどです。それらは、私の主要な研究関心であった労働運動だけを調査していても見えてこないアメリカ社会の一面であり、個人的体験に触れることであり、私のそれまでの認識を決定的に変えるような経験でした。

それまで国内の調査に没頭してきた私にとって、これらのアメリカでのフィールドワークの経験を通じて、グローバルなそして国際比較的な視野から社会学の既存の理論・枠組みを批判的に検討していくことや、新たなテーマ・フィールドに飛び込む際の気概、また研究自体を継続していく発想力・現場感覚・実践力が身についてきたのだと感じています。実際、私にとって、国際社会学に必要とされる特定地域での知識と体験の蓄積はまだまだ途上ですが、日本だけでなく海外での調査実践と成果をまとめていく過程を通じて、将来に続く他のフィールドワークのための民間の外部資金や一橋大学以外での研究職の獲得、そしてより長期に渡る特定地域での調査研究に対する意識が培われてきました。大学院を出てみると、社会学の分野にはフィールドワークだけでなく、理論・学説研究、量的調査、他の質的調査等々、テーマに即した様々な研究方法があることを改めて認識させられますが、院生としてある程度自由な時間がある時期に、集中して特定の地域・異文化社会におけるフィールドワークを実践するということは、とても得難い経験であると思います。

惠羅さとみ
日本学術振興会特別研究員PD
(東北大学大学院文学研究科)

近くて遠いフィールドより―科学する力は一日にして成らず 宮川陽名

“When you are a ballet dancer you learn how to suffer. You learn to be in conditions that aren’t ideal, but you persist because you’re doing something you love and care about. I have a philosophy that science is art, that there is creativity involved, and devotion. You need artistry to be a scientist.”

--Kristin L. Laidre, PhD. (formerly a professional ballerina, currently a research scientist at Polar Science Center, Applied Physics Lab, University of Washington) , a quote from Smithsonian, May 2009.

PhD 取得を目指して留学先を選んだ今回の滞在は、メキシコと国境を接する南西部のアリゾナ州だ。 この地域およびアリゾナ州立大学を選んだ理由は、(1)スタイルの異なる優秀な移民研究者が多く所属しているため、(2)急速に発展中の都市(住宅バブルが弾け大不況に陥るまでは)であるため、(3)国内外から移住者が多いため、(4)学際的な志向が強く、資本主義社会のロジックを地でいくアメリカを象徴する大学運営および大学と地域の関係性を学ぶため、(5)晴天の日が多く、精神衛生上望ましいだろうと見込んだため、などである。その他、比較的物価が安いこと、道路の道幅が異常に広いこと、大自然が豊富にあることなど、この地域の特性やそこで暮らす人々の価値観を形作る地理的な条件や、また、アメリカ大陸州で最も遅れて合衆国に合流したこと、日系人強制収容所があったこと、ネイティブ・インディアン居留地が数多く点在すること、州の南半分は元来メキシコの領土だったことなど、複雑に緊張関係を伴う歴史的な条件も絡み合う。このようなフィールドが目の前に広がっていて面白くないはずは、ない。ぞくぞくするほど刺激的だ。かつての西部開拓者がとりつかれたように未開拓の荒野に挑んだ状況と自分が重なり、新しい領域を奪取し、そこにいち早く旗を立てることに思いを馳せる厚かましさまで帯びてくるから、まったく環境というのは不思議なものだ。

ただし、好奇心に導かれて浮き彫りになる現象を科学としての社会学という枠組みから分析するため には、色々な手続きを伴う。アメリカの大学院博士課程に在籍している場合、課程のどの段階であっても、フィールドに出る前には、適切な問題設定とそれに適当な調査法の理解、仮説設定、フィールドにて直面し得る問題の対処法を事前に把握し、計画書として文章にまとめ申請する必要がある。そこには、調査後の分析方法やアウトプットの見取り図もある程度描けていることも期待されている。そのほか、フィールドでは、日頃から培われた研究者としての価値観や倫理観(本質的には「研究者として」という限定的なものではなく、「一個人として」と言った方が正しい)が度々試されることになるため、普段から己の強みと限界を認識するとともに、鍛錬することを忘れず、感受性を研ぎ澄ませておく必要もある。

さらに、フィールドに出るためには、理解者(指導教官、教授陣、地域のゲートキーパー)、協力者(被調査者―地域の人(ゲートキーパーを含む)、近似な研究をしている大学内外の学者や大学院生)、所属研究機関内治験審査委員会の認定(Human Subject Research)、資金(学内外の研究助成金)など、様々なリソースが不可欠である。別の言い方をすると、調査をするためには、様々な人からの承認が不可欠と言うことである。どこで引っかかってもその関門を回避することはできず、そこを通らなければフィールドに出ることすらできない。したがって、日頃から自分の研究テーマを明確にしておき、指導教官だけでなく研究科のほかの教授たちにも話し、適切な批評から学ぶとともに、直接・間接的な理解と支援を予め得ておく必要がある。これはフィールドでの関係者との間でも同じことである。

改めて指摘する必要もないが、調査者は様々な看板を背負ってフィールドに出る。移民の家族を対象とする私が背負う看板は、外部者、社会学専攻の学生、女性、留学生、日本人であるとともに、アリ ゾナ州立大学の一員であり博士課程の院生でもある。その時々でプラスに作用する属性もあれば、ハンディとなる属性もある。また、どれほど気をつけていても調査者がフィールドに何かしらの形で影響を与えない調査などあり得ない。その影響はポジティブな場合もあればネガティブな場合もある。私個人の振る舞いひとつで、研究者、日本人、アリゾナ州立大学の院生に好意的印象を与えることもあれば、反対に、悪い印象を残すだけでなく、他の研究者の将来的なフィールドをも絶ってしまう可能性もある。フィールドでの個人の言動が、組織的なイメージを左右し、少し大袈裟に言うならば、科学の進歩の足かせになったり、政策の遅れの原因に貢献してしまう危険すら孕んでいる。それ故に、フィールドに出るまでのプロセスには各種調整作業が求められるし、人間的素質を様々な角度から観察されていることを実感する。

また、提案している調査研究は、学問領域の発展、研究科や大学、フィールドとなる地域にどのようなメリットがあるかを説得的に説明する能力が求められる。先に述べたようにフィールド調査は様々なリスクを伴う以上、承認をする教授陣も研究機関も資金源となる財団も明確なメリットを求める。一般的に、誰もリスクの高い研究に唯では投資しない。一定のリターンが得られると予測されるからこそ投資するのだ。なるほど露骨で「品」には欠けるが、非常にわかりやすいロジックであるのも確かである。魅力的な研究として解りやすく説明し、それが遂行可能であり、興味深い成果が期待できる研究として人々の共感を得られるようになるまで、何度も推敲を重ね、挑戦を続けて支援者を増やしていくしか心底やりたい調査を実現する方法はない。

結論として、アメリカの大学院博士課程に所属していながら、フィールドに出て博士論文をまとめたいのであれば、まずは、様々な障壁や制約を覚悟の上で、腹を決める必要がある。次に、肝が据わったら、後は地道に各方面と対話を重ね、セーフティネットを張り巡らせておくとともに、少なくとも 社会学専攻の普通の院生(つまり、量的方法論で研究をし、英語を母語とする院生)の2.5 倍は働くこと。そして、最後に、豪快さと繊細さに磨きをかけるよう、よく食べよく遊びよく動くこと。「知的労働者」といった肩書きは脇に置き、ベンチャー企業の立ち上げに奔走するエントレプレナーの感覚を身に着けましょう。

宮川陽名
アリゾナ州立大学社会学研究科博士課程在籍

フランス郊外でのフィールドワークから思うこと 村上一基

フランスでの留学生活も2年目が終わろうとしています。フランス郊外における家族と若者の問題を家族、地区、学校などの社会空間の配置からアプローチすることを研究テーマに、2009年にパリ第4大学の修士課程2年次(Master 2)に入学し、現在は同博士課程で博士論文執筆に向けた調査研究を行っています。

フランスに来て程なく、パリ南部に位置する郊外のとある地区でフィールドワークをはじめました。フランスに来てから今日まで、週の半分はフィールドワークを行い、帰宅するとフィールドノーツをつけたり、インタビューの書き起こしをするといった「野良仕事」を中心とした留学生活を送っています。日本での調査経験もほとんどなく、「調査論」を体系的に勉強してこなかったため毎日が手探り状態で、調査方法はもちろん自分のフィールドでの振る舞いや発言を振り返っては自己反省を繰り返す毎日です。

私が調査をしている地区は、高失業率、外国人人口や一人親家庭の割合の高さ、暴力の問題など社会的困難が地理的に集中している地域で、セグリゲーションや「ゲットー化」などの問題と結びつけて考えられてきました。留学1年目は地域の学習支援教室での参与観察や、アソシエーション関係者、学校、地域の住民に対してインタビューを行い修士論文を執筆しました。1年目はフィールドに慣れることの難しさや論文執筆という時間的制約で思うように調査ができない部分もありましたが、2年目からは1年目に築いたラポールをもとに、親や若者、学校教員などへのインタビュー調査を中心により腰を据えてフィールドワークを行っています。

私が扱っている「郊外問題」への関心はフランス社会では非常に高く、社会学の分野でも多くの研究がなされてきましたが、こうした研究では調査を進める上でのさまざまな困難が指摘されてきました。例えば、「閉じられた」世界である地区にフィールドワーカーとして入ること、調査に対する住民の警戒心を解き信頼関係を構築すること、地区の文化コードを学ぶことなど。そして先行研究の多くは鍵となる協力者との出会いや長期間にわたる調査を行うことによってこうした障害を乗り越え、地区の生活世界——特に若者の経験——を描き出そうとしてきたといえます。私自身も日々こうした困難に直面しながらも、それを乗り越え、住民の生きられた現実を経験的に理解できるように調査を進めているところです。

フィールドワークをはじめるにあたっては、留学前に一橋大学社会学研究科のキャリアデザインプログラムによる調査助成を受け予備的調査を行っていたことから、その伝手を使うことができました。当時、協力してくださった方はすでに退職されていたのですが、事情を話すとほかの方が快く受け入れてくださいました。しかし、地区センターの助力を受けフィールドワークをはじめたものの、若者や子どもの警戒心を解くことや、調査の趣旨を理解しインタビュー調査に応じてくれる方に出会うことは容易には進みませんでした。インタビューの約束をやっとのことで取り付けてもドタキャンされることは数え切れないほどあり、私自身のフランス語能力や住民の方の言語の問題もあり、コミュニケーションをとるのに苦労したこともありました。

そのため、アソシエーションのイベントや地区評議会など地区の住民が集まる機会にはできる限り参加し、特にイベントがないときも地区で多くの時間を過ごすようにして少しずつフィールドに馴染んでいくようにし、地区での暗黙のルールや身のこなし、予期せぬ出来事を避ける方法などを学んでいくよう努めました。そうしていくうちに、少しずつ地区の住民の方々と打ち解けていき、知り合いも増え、地区を歩いたり、地区センターやアソシエーションに行ったりすると私と年齢が近い若者をはじめ、子どもから大人までいろいろな世代の住民がいたるところで声をかけてくれ、挨拶をしたり近況を報告しあったり、若者と一緒に街頭に「たまったり」するようにもなってきました。そして、インタビューに応じてくれた方とは、自宅や地区センターの一室などで、長時間にわたって地区や家族生活に関するお話をうかがっています。

地区の住民と話していると必ず話題にのぼるのが「地区に対するスティグマ」です。地区に対する悪いイメージ、特にメディアによって与えられてきたイメージよって、「危険な地区」と捉えられていることを人々は口を揃えていいます。「イメージと現実の違い」を強調する人もいれば、「地区に住むことは容易ではない」と感じている人まで立場はさまざまですが、外部からの眼差しが住民と地区の関係に影響を及ぼしていることは、実際にフィールドワークをはじめて人々と話をする中でとても印象的なことの一つでした。地区の状況は良い方向にも悪い方向にも常に変化していますが、外部からもたらされるイメージは変わることなく付きまとっており、何かが起こる度にその地区の評判と結びつけられることになります。また、政治家は都市再開発やセキュリティ強化など地区の社会問題を解決することを重要な政策課題としています。住民はそれを評価するにせよしないにせよ、自分たちの地区に対してなされる政治や警察などの制度との関係——特に不公平なそれ——を敏感に感じ取り、社会における自分たちの位置や社会からの扱われ方を常に意識しているといえます。

日本人学生である私自身も地区の住民に対しては地区の外部から来た人間です。外見のみならず、振る舞い方や言葉などこうした異質性は常につきまとっています。「日本人学生がなぜこの地区のことを研究しているのか」と何度も聞かれ、「ここには見るものなんて何もない」と笑いながらいわれることもあります。日本人であることが調査を進める上で不利に働くこともありますが、自分の存在を覚えてもらいやすく、日本の文化や時事に関心を持って話しかけてくれたり、「力関係」がフランス人が調査するときとは多かれ少なかれ違ったりするなど、それが有利に働くこともあるといえます。「地区の肯定的な側面も描いてほしい」とお願いしてくる人もいますが、やはり自分が調査をすることによって与える「新たな外部からの眼差し」や「研究対象にされるということ」など調査をすることが地区の住民に対してどのような影響を与えるのか、スティグマ付与に手を貸しているのではないかと悩むこともあります。フィールドと調査者としての自分の関係については常に問い直していくことを心がけながら調査をしています。

ところで、調査を行っている地区に住むのはマリやセネガル、ガーナ、コンゴなどのアフリカ系を中心に、アルジェリア、モロッコ、チュニジアのマグレブ3国、トルコ、レバノン、コモロ、インド、バングラデッシュ、ラオス、カンボジア、中国などさまざまな地域から移動してきた人々です。「多文化な地区」という婉曲表現がしばしば使用されますが、いわゆる「フランス系」の住民はむしろ少数で、大多数が移民を背景に持つ人々です。移動を直接経験した人だけでなく、フランスで生まれ育った人も多く、若者世代はフランスで生まれ、まだ親の故郷に行ったことがない場合が大半です。それでもフランス人であることを大前提に(実際、大半はフランス国籍保持者)、「自分は○○人だ」といった表現が日常会話の中で頻繁に用いられ、良くも悪くも子ども同士や住民同士でお互いの出自を認識し合っています。

都市社会学的なアプローチが中心とはいえ、移動を経験した住民が大半を占める地区での調査は、国民国家と対峙し、ときにはそれと衝突しながら生きる住民、親族との関係を国境を越えて、また地域社会内で維持していくプロセス、そして国境との関係だけでなく、家庭内や地域内でも越境を経験し、そうした環境で育つ若者の生活を間近で見聞することであり、国民国家の枠組みを越えたアプローチの必要性を常に痛感させるものです。子どもの教育では、出身国とは違う環境・文化において、そして言語の問題を抱える中で、子育てとは何か、親のつとめとは何かをフランス社会が提示するそれらと向かい合い、それに適応したり、ときには葛藤したりする姿に出会います。こうした親は一部の政治家などから「教育放棄した」などと非難されることもありますが、学校や地域社会のアクターは、家庭での教育問題、親の役割をめぐり、とても活発な活動を繰り広げています。

フィールドワークをしていると、フィールドで起きることの、自分が直接目にし経験することの、そして人々の語りや経験の力強さ、問題の深刻さから、衝撃を受けたり、どのように理解すべきか途方に暮れ、その波にのまれてしまいそうになったりします。そうしたときに、これまで学んできた社会学の知識や先行研究がフィールドワークで経験したことの理解を深め、調査を進めることの助けとなることがあります。移住者が多く住む地区での調査では、必然的に国際社会学のゼミや授業で学んだことがそうしたことにつながり、これまでの研究を批判的に捉える機会になったことも多くあったといえます。

フィールドとの関係は一義的ではなく、関係が上手く構築できたり、思いがけない急展開で調査が進展することもあれば、何かをきっかけに調査がうまく立ち回らなくなってしまうこともあります。あるときは冷たく接され、急に調査に対して猜疑心を抱かれ調査協力を断られること、また仲違いしている人たちの間に挟まれることもあります。それでも、調査に関心を持ち積極的に協力してくれる方たち、そして「今日は○○にこないの?」などと私の存在を厭わずに親しみを感じて接してくれる人たちの存在に助けられて調査を続けてられています。

外国人として調査することは有利にも不利にも働き、なかなか思うように調査が進められないこともありますし、まだまだ未熟で勉強が足りない部分もありますが、フィールドでの知見を社会学的にいかに解釈していけるのか、どれだけの「社会学的想像力」をもって考察していけるのか。決して一筋縄ではいかないフィールドですが、なにより落ち着いて調査を行えている環境に感謝し、このフィールドワークを続けていきたいと思います。

村上一基
パリ第4大学・一橋大学大学院

機上にて―名も知らぬ2人の越僑 平澤文美

雲の上での話ですので、“フィールド”と呼ぶのはおかしいかもしれませんが、移民研究にたずさわる人にとって飛行機の中というのは存外面白い場所ではないでしょうか。
 私はここに、機上で思いがけなく出会った2人の“越僑”*について書いておきたいと思います。わたしたちは機内ではじめて会い、数時間のフライトの間話し、飛行機を降りて別れました。その時彼らは調査対象者として現れたのでなく、私も調査者ではありませんでした。私は彼らの名前も知らないし、彼らが私に話してくれたことが本当のことかどうかも知る由もありません。彼らは多くを語りませんでしたが私は語りの断片を拾ってきてはときどき思いを巡らせました。
 フィールドでは多くの人と出会います。出会ったというよりすれ違ったといった方が適切な場合も多いでしょう。あまりにも心もとない接触だったゆえに論文という形で発表される文書の中に登場願うことはかなわないのですが、忘れ難い印象を残して去っていく人も少なくはないのでした。

成田発ホーチミン市行 2008.2.29  

2008年の春、成田からホーチミン市へ向かう機上にて、私は彼女と出会いました。当時ベトナムへの留学を検討していた私は、大学の様子や住居など生活環境の下見も兼ねて、1ヵ月の予定でベトナムで語学研修を受けることに決めたのでした。それがはじめてのベトナムでした。
 飛行機に乗り込んでからというもの、私は隣に座っている女性の様子が気になっていました。機内は適度に暖かかったのですが、その女性は備え付けの薄い毛布だけでは足りないと見えて、黒いダウンジャケットを首まで引き上げて額を窓に持たせかけていました。その横顔があまりに蒼白だったので私は心配になり、温かい飲み物でももらってきますかと声をかけたのでした。「大丈夫。少し寒いだけなの」と彼女は力なく答えました。アメリカから成田を経由してのベトナム行きのため、ずいぶん長く飛行機に乗っていて疲れてしまったとのことでした。フライト時間だけでも合わせておよそ20時間、待ち時間も含めれば身体には相当こたえるでしょう。おまけにその日はホーチミン市行きの便が4時間近くも遅れての出発だったので、ほとほと疲れてしまったことは想像に難くありませんでした。
 彼女はしばらく眠り、起きた時にはずいぶん顔色がよくなったように見えました。私と目が合うと、少し微笑みました。彼女は色白でほっそりしていて、くせのある黒い髪を後ろでとめていました。歳は30代後半くらいに見えました。ちらりと見えたパスポートは合衆国のもので、ベトナム人にも見えませんでしたので、私はアメリカの中国系の人、そして服装と英語の発音からからアメリカ生まれではないだろうと思いました。
 しばらくすると彼女は取り出した紙の裏にボールペンで何かを書き始めました。「ヒロ…、ヒロ、ヒロキ…」彼女がメモを書きながら日本名らしきものをつぶやいたので、私は少し驚いて彼女の方に顔を向けると、彼女はそれを待っていたかのように「これは日本人の名前よね?」と書いていたメモを差し出しました。そこにはHiroで始まるいくつかの名前らしきものが並んでいました。彼女はたどたどしくはありましたが日本語を話し、私たちは日本語と英語を織り交ぜながらおしゃべりをはじめました。彼女は昔新潟にいたことがあり、少し日本語を勉強したそうです。当時親しくなった日本人一家の子どもがヒロキ君だか、とにかく名前の最初にヒロがつく子どもだったこと、新潟には数ヵ月いて、それからアメリカに渡ったとのことでした。彼女は今、アメリカで生活しており、2年に1度ベトナムに戻ってくるそうです。サイゴンでは5区―華僑が多く住む地区―に滞在する予定ということでした。
 自ら難民だったとは言いませんでしたが、日本にいた年代と話の内容から彼女はかつてベトナムに住んでいた華僑で、その後難民としてベトナムを出て、日本に一時滞在していたのではないかと思われました。1970年代末、中越関係の悪化により厳しい状況に置かれた中国系の人々は陸路中国へ、またボートピープルとして海外へと脱出したのでした。漂流中に救出され、日本に上陸したボートピープルは全部で1万人以上おり、そのうち約6割の人が日本でしばらく過ごした後、アメリカをはじめとする定住地へと旅立ったのでした。
 「新潟ではみんなやさしかった」、彼女は日本語でそうつぶやきました。アメリカに渡って以来、日本へは成田で飛行機の乗り継ぎをするものの、降りたことはないそうです。
 彼女はベトナム滞在がはじめての私のために、サイゴンでは白タク運転手につかまらないようにとか、私の泊まるホテルは高すぎる等々心配したりアドバイスをくれたりしたのでした。私が1ヵ月大学のベトナム語コースに通うと知ると、自分が落ち着く先が決まったら大学の事務室を通じて住所を伝言しておくから、ぜひ訪ねて来るように言いました。そしてはじめての地にもかかわらず深夜にひとり空港に降り立つという私の不安を察したのか、彼女は自分がタクシー運転手と交渉してあげるから、荷物を受け取る間待っているように、自分と一緒に空港の外に出るようにと、白タクの運転手との交渉まで買って出てくれたのでした。
 飛行機は午前をまわっての到着ゆえ、空港はさぞがらんとしたさびしいものに違いないと私は不安を感じ緊張していました。白タクで法外な金額を吹っかけられるだろう、いやこの時間に白タクがいたら良い方なのではないか等々、遭遇するかもしれないさまざまな場面を思い巡らし、どう対処しようか考えていたのでした。しかし、現実にはまったく思いもしなかった光景が広がっていました。空港から外に出たとたん、私はおびただしい数の人の熱気に圧倒されてしまいました。深夜2時をまわるというのに、外は家族や親族の帰還を待ちわびる人で溢れかえっているのです。腰の曲がった老人から乳飲み子までもが一家総出、親族総出で到着する家族を今か今かと身を乗り出して待っていました。彼らは花束まで抱えています。そうでした。成田やソウルは、海外在住ベトナム人の約半数が暮らすアメリカやカナダからベトナムへ向かう際の乗り継ぎ地となっており、それらベトナム行きの便の多くは夜に集中していたのでした。彼女のように、日本在住でなくても私が乗った便でベトナムへ帰って来た人も当然多くおり、タン・ソン・ニャット空港はゲートから出てきた家族を見つけて歓声を上げる人々や、再会をよろこび合う人々の声が渦巻いてそれはすごい熱気なのです。
 そんな高揚した状況の中、白タクの運転手が外国人めがけてわっと寄ってくるものですから、もしも彼女が交渉してくれなかったら、私のようなおのぼりは判断力もおぼつかず、あれよと言う間に車に乗せられていたことでしょう。彼女は大きなトランクを3つも4つも積んだカートに小柄な体をとられながら出迎えの人だかりを掻き分けて進み、タクシー運転手と交渉してくれました。そして私が乗ったタクシーが出るのを見送ってくれました。
 私たちはこのようにして別れた後、再会することはありませんでした。後に大学の事務室に聞いてみましたが、特に誰かから私宛てに連絡は入っていないとのことでした。
 彼女にとって日本は、アメリカでの再出発を前にしばらくの間過ごしただけの地です。当時彼女は10代だったかもしれず、自分の未来に寄る辺ない思いをしたでしょうし、新潟の寒さはサイゴン育ちの彼女にはこたえたでしょう。でも例の日本人一家との交流も含めて、彼の地には彼女の心を温めたような想い出もあるのかもしれない。ただ偶然隣りに座っただけの私にできる限りの親切をしてくれた彼女のやさしさに、私はそう思いました。

ホーチミン市発ソウル行 2009.10.25

彼とは2009年の秋、ホーチミン市発ソウル行きの機上で出会いました。その頃私はサイゴン留学中で、ソウルを経由して日本へ一時帰国するところでした。
 彼は窓側の2人席に座っていたのですが窮屈だったとみえて、飛行機が離陸すると、私がひとりで使っていた真ん中の4人席へと移動してきたのでした。風貌からは彼がベトナム人かどうか分かりませんでした。浅い褐色の肌、小柄で固太りという感じで、よく張り出したお腹、むちっと太い腕をしていました。歳は40代くらいで、肩に届くくらいの髪の毛は黒く天然に縮れ、くっきりした二重の奥の瞳も黒く愛嬌があり、何となく小柄なプロレスラーのような印象を受けました。後でベトナム人だと分かりましたが、マジョリティであるキン族のベトナム人には見えませんでした。
 私のような外国人がたとえつたなくともベトナム語を話すと、ベトナムの人たちは少し驚き、そしてよろこんでくれます。彼もそうで、私がベトナム語で話すとパッと表情が変わり、打ち解けた様子をみせました。ホーチミン市発ソウル行きの便も深夜便です。そのため、機内の照明は薄暗く、わずかにリクライニングするだけのエコノミークラスの座席でも多少リラックスし、私たちはどちらからともなく静かに話をはじめました。彼はアメリカ在住で、ソウルを経由してフィラデルフィアに帰るところでした。
 アメリカは1975年以降、合法出国計画**に基づいて移住した人も含めてベトナム難民を100万人以上受け入れてきました。アメリカへのベトナム難民第一波は1975年のサイゴン陥落直後にアメリカへ移住した人々で、その数およそ17万5千人、多くがベトナム南部の都市中産階級でした。その後第二波の難民は1978年以降、中国系ベトナム人が増え、1997年までの間に入国したボートピープルの数は推計で40万人を超えます。家族で移住した人が多かった1975年の第一波の難民と比べると、第二波の難民は独身男性が大多数でした。教育も十分ではなく、地方出身者が多かったと言われています***。
 自らそうは言いませんでしたが、80年代にひとりでアメリカへ渡ったという彼もおそらくは第二波の難民であったと思われます。アメリカでどんな仕事をしているかは言いませんでした。彼はアメリカに移住してから、プエルト・リコにも働きに行ったことがあるんだ、と言いました。「だから英語もスペイン語も話せるんだよ」と。しかし(私自身のことを棚に上げて言いますが)、少なくとも20年はアメリカに住んでいるはずの彼の英語はつっかえつっかえでおよそきれいとは言えず、文法も間違いの多いものでした。何より彼は自信のなさそうに英語を話すのでした。
 家族に会いにベトナムに戻って来たと言う彼に、私は「あなたはアメリカで家族はベトナムなの?」と通りすがりの図々しさでたずねました。親きょうだいの家族ではなく、妻や子の方の家族はどうしたのかというニュアンスを含ませて。「うん。でも別れたから―」彼は答えました。だからアメリカではひとりで暮らしているそうです。きょうだいたちがベトナムにいるので、数年に一度こうしてベトナムに帰ってくるのだと。アメリカへ渡ってから今まで、彼の人生は思ったように開けたわけではなかったのかもしれません。
 アメリカ越僑には成功者のイメージがあるようです。ベトナムのテレビや雑誌で紹介されるアメリカ越僑の企業家は少なくありません。日本在住の人からも、アメリカではどんな商売もできる、でも日本では料理店と中古品ぐらいだとか、アメリカのある高校では優秀な生徒の多くがベトナム人だ等々、アメリカはいかに自由で移民が成功できる環境があるかという話を何度も聞きました。確かにアメリカでは社会的上昇を果たした人も多いでしょうが、何しろ難民だけでも100万人を超える人数であり、単純に比較できるものではありません。成功者は目立つもので、実際には、特に第一世代については、ままならぬ人生を生きている人も少なくないはずです。
 在外ベトナム人委員会の発表によれば、2010年末の時点で留学生や研修生等もすべて含めて400万人以上のベトナム人が海外に居住しています。これらの海外在住の人々から寄せられる送金額は年間80億ドルにも上ると言われ、彼らの経済的貢献は計り知れないものがあります。そして年間のべ50万人の海外在住者がベトナムに帰って来ます。この中にはベトナムと居住国を頻繁に往来するような成功したビジネスマンもいれば、彼のように何年かに一度、持てるだけのお土産を抱えてベトナムに帰ってくる人たちも多く含まれています。
 難民の人たちが爪に火をともすようにして貯めたお金を、ベトナムの家族たちは最新モデルの携帯電話とか買うのに使っちゃうんだから。長年難民支援にたずさわってきた人がこぼしていました。ある2世の若者は、何ためらうことなくお土産を要求する親戚に閉口すると言います。久々に会っても、元気か?と聞いた次にはもうお金の話という具合なので、親戚の家に滞在するのが必ずしも心地よいものではないのだと。空港で帰国する家族を出迎える人々。私などはその光景を何度見ても熱いものが込み上げてくるのを禁じ得ないのですが、再会のよろこびの中にもポケットのふくらみに目を走らせることは忘れていない、ということなのでしょうか。
 深夜にタン・ソン・ニャット空港を発った飛行機は早朝のインチョン国際空港に到着しました。降り際、彼は「よい旅を」と手を差し出しました。日に焼けた、とても頑丈そうな手です。私は両手で、思い切り力を込めてその分厚い手を握り返し、ひとりアメリカへと戻っていく彼の背中を見送りました。



*越僑:さしあたって、ベトナム出身で現在の居住国の国籍を得るかそれに準じた居住資格を持つ人の総称としておきます。ただ登場する2人のうち1人は中国系と思われ、“越僑”と呼ぶべきか、本人にベトナム人としてのアイデンティティがあるかも定かではありません。
**合法出国計画(ODP: Orderly Departure Program):1979年UNHCRとベトナム政府との間で取り決められた「合法出国に関する了解覚書」にもとづきベトナムからの合法出国を認めようとするもの。既に外国に定住した家族との再会、米兵とベトナム人との間に生まれた子どもとその家族、また人道的ケースの場合に限り、ベトナムからの合法出国が認められた。ボートピープルが大量に発生した当時、漂流中に命を落としたり海賊に襲われるといった事件が多発したため、ボートによる脱出を減少させるべくこのような取り決めがなされました。
*** UNHCR, 2001, 『世界難民白書2000―人道行動の50年史』より。

平澤文美
ベトナム国家大学ホーチミン校・一橋大学大学院

Learning from Japanese-Filipino Children’s Experiences in Japan Jenny de Dios

As a first-year master’s student, it is a privilege to contribute to the Transnational Sociology program website and share my experience under this program.

I have been interested in Japanese culture and society and Philippine-Japan relations since my undergraduate days in Manila. In particular, it was the issue of Japanese-Filipino children (commonly referred to as “JFC”) that inspired me to do research and contribute to the body of knowledge on Philippine-Japan relations. Born to Filipino and Japanese nationals, mostly Filipino women who had previously worked in Japan, and Japanese men, these children’s predicament has garnered much attention in the last decade. The issue of their nationality is a particularly pressing one, as many are not able to acquire Japanese citizenship due to non-recognition by their Japanese parents. Many JFC in the Philippines and Japan face financial difficulties and discrimination for being children of mixed relationships and marriages.

The JFC are a social consequence of Filipino women’s migration to Japan since the 1980s, and their complicated situation warrants further investigation. I am fortunate to be part of the Transnational Sociology program at Hitotsubashi, and to be able to pursue my inquiry into the experiences of young Japanese-Filipinos who have migrated to Japan. Their presence in Japan questions who is considered “Japanese”. No longer an issue for their individual families, nor for just the Philippine or Japanese governments, they transcend categories of race and nationality as they change, and are changed by their new environments.

The aim of the Transnational Sociology program is to help students understand transnational practices at both theoretical and practical levels. Since joining the program as a research student, our professors have introduced me to a wide range of material dealing with transnational processes. Through these readings, the class discussions, and my own fieldwork, I am able to better understand the nature of transnational processes and how they are played out in the lives of JFC in Japan. We are encouraged to think critically about not only our own research, but also how these connect with the broader themes of ethnic diversity, multiculturalism and globalization.

While most of the classes are conducted in Japanese, I believe that this should not be an obstacle to having a fruitful academic experience in the program. Many of the materials assigned in class are written in English, and one can always be sure of the support of encouraging, accommodating professors and fellow students. I am confident that students from abroad will greatly benefit from this program, and Hitotsubashi University as a whole.

Jenina Rosa de Dios (Manila, Philippines)
Masters Program, First Year

日本から世界をみる、世界から日本をみる 崔ミンギョン(Choi Minkyung)

私と一橋大学国際社会学プログラムとの出会いは2007年春でした。当時私は韓国で修士課程(国際地域学・日本学)に在学しながら、文部科学省研究奨学生へ応募しようとしていました。大学院に進学してからずっと日本社会に生きる外国人のこと、特に日系人に興味を持っていて、それについて日本で勉強・研究できればと思い留学を検討していました。文部科学省の奨学生として志願する際には受入れ大学院を自分で探して提示しなければいけません。そのため私は片っ端から日本の大学院の中で自分が勉強・研究したいと思う移民やエスニシティに関するテーマを扱うプログラムを持つところを探しました。それが一橋大学でした。「国際社会学」という言葉の下で、独立した分野があるところはほとんど唯一でした。インターネットから本格的な授業が開設されてあることを知って「ここに留学すれば私がやりたいと思った勉強や研究が思う存分できそう!」と思い最終的に留学先として決めました。

2008年4月渡日、そして研究生として小井土ゼミに所属させていただきました。私はそれまで社会学を体系的に触れたことがありませんでした。学部の時は言語学を、修士の時は地域学を専攻していたため、最初ゼミや授業で社会学の方法論などに戸惑うこともありました。しかし、このような戸惑いの一方で、国際社会学の持つ多様性は大きな刺激になりました。国際社会学のゼミや授業に参加しながら最も驚いたことは構成員らの研究テーマが非常にバラエティーに富んでいるという点でした。研究対象としている地域は勿論、関心テーマも個々人の特色がよく出ていて毎回個人研究の発表を聞くのが楽しみでした。アメリカ・ベトナム・ドイツ・ノルウェー・フランスなど、世界を旅行する気分になると同時に、それは日系人問題に関心を持つ私に大きな示唆を与えて、自分の研究をより広い文脈に位置づけることの大切さを学びました。

研究生として1年を過ごした後、2009年4月博士課程に編入学しまして、もう一橋大学での留学生活も2年目が終わろうとしています。国際社会学プログラムのゼミと授業に参加していると「ここは日本なのか。」という愚問を自分に投げかけることが時々あります。それくらいこのプログラムは留学生も多く、研究分野自体国際的です。「日本づくし」の留学生活では決してありません。しかし、私は日本という「場」が非常に大切だと思います。日本社会に生きながら国際社会学を学ぶこと、これは決して自分の国や他の国で学ぶことと同じではありません。日本で留学することによって自分の社会をみる視点がこれからどのように育まれるかという点が私にとって最もの楽しみであります。日本から世界をみることで、私は自分が関心を持っている日本社会と日系人のこと、つまり、日本のことをみる視野を広くしたいと考えています。日本から世界をみて、世界から日本をみること、これが留学生として国際社会学を学ぶ者が持つ一番のメリットではないかと思います。

崔ミンギョン(Korea)
一橋大学 社会学研究科 博士後期課程