フィールドワーク

2012年韓国フィールドワークより >ドゥレバン

ドゥレバン-変わる基地村(キチソン)と女性たちの傍で
工藤晴子(社会学研究科博士後期課程)


2012年10月9日。ソウルから電車でおよそ一時間の京畿(キョンギ)道は議政府(ウィジョンブ)市の駅に到着する。スターバックス、ミスタードーナツ、バーガーキングが並ぶ駅ビル前のだだっ広いデッキに立てば、下には交差する道路、目の前には新しいビルがぽつぽつと建っているのが目に入る。もとは貧しい農村地帯であった議政府には、1950年代から米軍と韓国軍双方の基地が多数置かれ、特に米軍基地周辺は基地の街として発展した。かつては最大9つの米軍基地を抱えていたが、京畿道南部の平沢(ピョンテク)市への基地移転計画で縮小傾向にあり、議政府は再開発の真っ只中である。
 駅近くから乗ったバスを降り、今回の韓国フィールワーク最初の訪問先である「ドゥレバン(Durebang/ My Sister’s Place)」を探して歩く。車の行き交う大通りを脇に入り、ゆるやかな坂を登り始める。火曜日の朝10時、外を歩いている人は誰もいない。程なくしてたどり着いたドゥレバンは、ひっそりとしていたが、緑で囲まれ花が置かれ、人が出入りする場所であることが分かる。入口の上にはチマチョゴリを着た丸い顔の女性たちが手を差し伸べて笑顔で並ぶイラストが描かれている。
  スタッフの方々に暖かく出迎えられ、早速案内された部屋のソファと床とにフィールドワークのメンバーが座る。総勢11人と担当のチョン・ユジンさんとの距離はかなり近い。この距離も手伝ってか、基地の街のイメージは?という彼女の問いかけで始まったのは「インタビュー」というよりは、対話に近いものであった。以下では、主にチョンさんから学んだことを軸にまとめてみたい。

ドゥレバンは1986年3月に設立され、基地村(キチソン)と呼ばれる基地周辺の街で、米兵相手のバーやクラブで働く女性たちのために活動している。女性たちとの「相談(サンダン)」をベースに、ハングルや英語教室、パン作り、絵を描くなど、彼女たちが求め、必要とするようなプログラムを様々に実施している。スタッフは、ここに訪れる女性たちを、年齢に関係なく「オンニ(お姉さん)」または「会員」と呼ぶ。
韓国では2004年3月、「性売買斡旋等の行為の処罰に関する法律」と「性売買防止及び被害者保護等に関する法律」という二つの法律が制定された。各支援施設によって「性売買被害者」であることが認められれば、特に後者の法律で定められている公的な医療費支援などの対象となることがある。ドゥレバンにおいては、そうした支援の必要性を確認するための「相談」は形式的なインタビューではなく、女性たちの経験と記憶と語りが交差する複数の対話の重なりである。基地村のコミュニティは小さい。60、70歳代の韓国女性たちとの時間をかけた対話のなかで、あの時あのオンニがあの店で働いていた、といったことが明らかになっていくという。
1980年代までは、基地村で働くのは主に韓国の女性だったが、やがて女性の大部分は興行ビザで入国した移住女性となった。フィリピン出身者が多く、ロシア出身の女性もいる。90年代まではドゥレバンの会員は主に韓国女性だったが、いまでは韓国女性も移住女性もいる。韓国女性の場合は、かつて基地で働いていた60歳代以上の人々で、多くが貧困層だ。移住女性は20-30歳代で、今現在基地村の店で働いている女性たちである。議政府では、最も多い時は2,000人から3,000人ほどの女性が働いていたと推定されるが、現在ではクラブは7軒のみ。働いている女性の90パーセントがフィリピン出身で、ひとつの店に4、5人ほど働いていると考えられる。
医療についての相談は性感染症などの婦人科に関わる相談もあれば、歯痛などもあり、多岐にわたるが、「性売買被害」に関すると認められれば政府費用で治療できる場合がある。しかし、女性の移住の過程と経験から、何が「性売買被害」なのかを明確に取り出すのは容易ではない。ある女性は、クラブ歌手としてフィリピンからやってきたが、その労働状況は彼女が想定していたものとは異なり、やむなく性売買に関わる。しばらくして店から逃げ、米兵男性の恋人ができ、妊娠する。恋人の行方は分からないが、出産し、認知だけでも得て、子どもの国籍を獲得し、韓国で暮らしていきたい。こうしたケースを、例えばレイプの被害者と同様に「性売買被害」として支援することができるか。限られた支援予算をどの「性売買被害」に割り当てるべきなのか。ドゥレバンでも、このような女性の主体性、労働、人身取引などが絡みあった状況についての議論が続いている。基地村の女性にとって、性売買、労働、妊娠、出産、結婚の境界は曖昧である。

チョンさんによれば、韓国とアメリカが揃って女性の性を利用してきた基地村こそ、韓国のある矛盾などを集約している場所である。80年代以降、基地村の状況は変わってきているが、基地村の移住女性に対する韓国社会の関心は低い。移住や多文化社会、多文化家族が注目を集める一方で、基地の街で働くことは「移住」と捉えられず、また、繰り返し表象されてきた基地村と女性の「汚れた」イメージは変わらず残っている。
 様々な事情や動機で女性たちは基地村に移動する。但しそこには圧倒的に不均衡な力も加わり、女性たちは基地村のイメージや国家、社会の矛盾にも晒される。この複雑な状況を、ドゥレバンは支援という枠組みで切り取らなければならない場合が多々あるのではないだろうか。チョンさんの丁寧に言葉を選ぶ様子から、基地村の韓国女性、移住女性と直接関わってきたドゥレバンの人々がその複雑さを最もよく知っているのではないかと感じた。

ドゥレバン訪問後、時間は限られていたが、わたしたちは米軍基地キャンプ・スタンレーの外側を足早に見て回った。基地の塀に沿った坂道には、シャッターが閉まった店が並ぶ。“PAPASAN Club” や“Under Ground”という看板を掲げたクラブやバー、“MAMS House”といったハンバーガーショップがあるが、静まり返っている。ジーパンやキャップがディスプレイされた洋服屋のガラスは曇り、ひびが入っていて、とても営業しているようには見えない。定食屋と思われる店先に老年の女性が立っていたが、私たちを見つけると真っ暗な店内にすっと入ってしまった。残念ながら今回は、この小さな基地の街の夜の姿を見ることはできなかった。寂れた坂道に並ぶ店の看板は果たしていくつ点灯され、その下では誰がどのように過ごすのだろうか。
 帰りのバスを待っていると、30代くらいの女性がふたり、仲良く笑いながら歩いているのを見かけた。聞こえてきたのはタガログ語だったと思う。議政府の駅から電車に乗ると、迷彩服を着た20代前半の男性が7人ほど並んで座り、それぞれに携帯電話の画面を見せ合っていた。



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