2011年度

卒業論文


ユルゲン・ハーバーマスの討議倫理学
―道徳的普遍主義と道徳的相対主義の止揚の成否―



一橋大学社会学部

尾野 貴紀




目  次


序論 p.4
 はじめに p.4
 本稿の意義 p.5
 本稿の構成 p.6

第1章 「道徳的普遍主義」「道徳的相対主義」の定義 p.7
 第1節 (a)正義と善の対立 p.7
 第2節 (b)認知主義と非認知主義の対立 p.9
 第3節 (a)と(b)の関係性 p.10


第2章 ハーバーマス理論のパラダイム転回、及び討議倫理学の位置 p.14
 第1節 批判理論の継承者としてのハーバーマス p.14
 第2節 ハーバーマス理論のコミュニケーション的転回 p.16
 第3節 コミュニケーション的転回後の理論的発展 p.18

第3章 『道徳意識とコミュニケーション行為』@―規範的言明の妥当性とは何か― p.20
 第1節 認知主義 対 非認知主義 p.20
 第2節 「(二)倫理への客観主義的アプローチと主観主義的アプローチ」について p.22
 第3節 「(三)コミュニケーション的行為における確言的妥当性要求と規範的妥当性要求」について p.24
 第4節 「規範的言明の妥当性」に対するハーバーマスの回答の成否 p.28

第4章 『道徳意識とコミュニケーション行為』A―普遍的道徳原理の存在証明― p.30
 第1節 普遍化原則(U)の提出 p.31
 第2節 遂行矛盾 p.34
 第3節 「普遍的道徳原理の存在証明」の成否 p.36

第5章 討議倫理学の発展 p.39
 第1節 討議領域の三区分 p.40
 第2節 正義の善に対する優越 p.42
 第3節 「討議の区分設定」「正義の善に対する優越」の成否 p.44

終章 ハーバーマスの討議倫理学 総括 p.45

引用・参考文献一覧 p.47




序論


はじめに

 近年のデモクラシー論において、「討議デモクラシー」という考え方が注目を集めている。討議デモクラシーは多様な概念を含むが、「一般の市民が市民社会における理性的話し合いを通じて合意形成を目指す」というコンセプトは共有されている。ここにおいて重視されているのは、政党や政治家、議会などによっては十分に代表されてこなかった社会の多様性・多元性を、討議を通じて表出することである。また討議デモクラシーの別の特徴として、既存の代議制デモクラシーと相補関係をもつ点がある。以上の長所により、討議デモクラシーは展望ある論として1990年代以降デモクラシー論の重要な一角を占めている(1)。

 しかし、討議デモクラシーには、合意の実現を過度に重視しすぎているとの批判が浴びせられている。果たして、すべての関係者による普遍的合意を要求する討議デモクラシーの理論はどのような内実をもつのだろうか。本稿では、代表的な討議デモクラシー論者であるユルゲン・ハーバーマスの政治理論において基礎的位置を占める討議倫理学を取り上げる。彼の討議倫理学は、道徳的普遍主義と道徳的相対主義の間の倫理学上の争点に対する彼なりの回答としても捉える事ができる。本稿では、「普遍的合意の実現はいかにして根拠づけられるのか」という問いを補助線として、彼の討議倫理学が道徳的普遍主義の立場に立った道徳的相対主義の止揚としてどの程度成功しているのかを検討する。

 倫理学の思想潮流内部においては、道徳的普遍主義と道徳的相対主義の対立が歴史的に観察できる。現在でも道徳的普遍主義と道徳的相対主義の間には明確な勝敗は決していない。普遍主義と相対主義の対立は倫理学に限らず思想領域全般にわたって観察することができ、政治哲学もその例外ではない。ジョン・ロールズやロナルド・ドゥウォーキンなどのリベラリズム陣営とチャールズ・テイラーやマイケル・サンデルの間のコミュニタリアニズム陣営の論争は、普遍主義と相対主義の政治哲学版の対立の好例と言える。デモクラシー論においても、普遍的合意を重視するハーバーマスの政治理論に対し、差異の表出や対立の顕在化を重視するラディカル・デモクラシーの立場から批判が加えられている。本稿では、上記の歴史的課題の克服にハーバーマスの討議倫理学がどの程度成功しているか検証することを目的とする。

本稿の意義

 道徳的普遍主義と道徳的相対主義の対立は倫理学史におけるビックイシューであるがゆえに、その対立には永く厚い歴史があり、その対立の全体像や具体的な対立点が見えにくくなっている。本稿の第一の意義は、そのように複雑に入り組んだ両者の対立の見取り図を整理して提示することにある。普遍主義と相対主義の対立に見取り図を与えることで、論争の参加者が自身がどの位相において議論を行っているかを了解するための地図と、生産的な方向へ議論を導く指針を提供することになる。こうした見取り図を提供するための格好の題材となるのが、ハーバーマスの討議倫理学である。ハーバーマスは自身と学問的に対立する論者と論争を重ねることで自らの理論を磨き上げる論客であり、彼の討議倫理学も道徳的普遍主義の立場に立ち相対主義と論争を経る中で築き上げられてきた。したがって、彼の討議倫理学を検討することで、普遍主義と相対主義の対立点を明瞭に取り出すことが可能となる。本稿の第二の意義は、討議デモクラシーの理論的源泉でありその根幹に位置する討議倫理学の射程を、道徳的普遍主義と道徳的相対主義の対立という観点から推し測ることで、その帰結部である討議デモクラシーの妥当性を測る基盤を提供することにある。日本においてハーバーマスは社会哲学者として専ら知られており、彼の社会理論や法理論、政治理論を解説した書物が邦文で数多く出版されている。しかし一方で、彼の政治理論の基礎となる道徳理論を丹念に検討した書物は少ないのが現状であり、彼の政治理論や法理論が討議倫理学との関連性を無視して議論されている例がしばしばである(2)。そこで、本稿は従来見過ごされがちであったハーバーマスの討議倫理学に焦点を当て、その射程を検討することを目的とする。

本稿の構成

 「はじめに」では本稿の核となる概念である「道徳的普遍主義」「道徳的相対主義」という言葉を無定義のまま記述した。しかし、永い歴史をかけ形成されてきた両者の内実は複雑に入り組んでいる。したがって第1章では、これら二種類の言葉を定義し両者の区別を明確にすることで、もってハーバーマスの道徳理論を分析するための道具作りを行う。第2章では、哲学、社会学、倫理学、政治学、法理論など多様な方面に膨大な量の学問的業績を残すハーバーマスの思想を概略し、その体系のなかで討議倫理学がどのように位置づけられるかを整理する。第3章、第4章、第5章では、ハーバーマスの討議倫理学の理論が展開されている著作である、『道徳意識とコミュニケーション行為』(3)、『討議倫理』をそれぞれ順に取り上げ、彼の討議倫理学が道徳的普遍主義の立場に立った道徳的相対主義の止揚という点に対してどのような発展を遂げているか観察する。以上を踏まえ終章では、ハーバーマス討議倫理学が両者の対立の止揚にどの程度成功しているのか結論づける。


(脚注)

(1)川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年。
(2)ハーバーマスの政治理論・法理論と討議倫理学の接合を丹念に検討した書物の数少ない。例として、日暮雅夫『討議と承認の社会理論 ハーバーマスとホネット』勁草書房、2008年が挙げられる。



第1章 「道徳的普遍主義」「道徳的相対主義」の定義


 「普遍」と「相対」という概念同士は対立していることが見て取れる。では、道徳的に普遍的であることと道徳的に相対的であることは、具体的にどのような点で対立するのか。倫理学史をふりかえるとき、両者の間に形成される二種類の争点が浮かび上がってくる。(a)規範倫理学の領域における「正義」と「善」の対立、(b)メタ倫理学の領域における認知主義と非認知主義の対立である。以下、(a)、(b)について順にそれぞれの内容を明らかにしていく(3)。


第1節 (a)正義と善の対立

 (a)について。規範倫理学とは、何が道徳的に善いのか、道徳的に正しいのかを明らかにする基準を理論的に構築する倫理学のことを指す。例えばその基準とは、「理性が洞察する義務に無条件に従うこと」や「社会の効用を最大化すること」等である。そして「正義」と「善」も、道徳的判断を導くそのような基準となるものである。

 規範倫理学の領域において、「正義」と「善」の区別が明瞭に定式化されたのは、20世紀アメリカの哲学者であるジョン・ロールズが1971年に出版した『正義論』においてである。以後、リベラリズムとコミュニタリアニズムの論争に見られるように正義と善の間の対立が盛んに論じられるようになった。しかし、正義と善の対立という構図はそれ以前の倫理学史においても観察できるものである。例えば前者を代表する思想家としてカントが挙げられる一方、後者を代表する思想家としてアリストテレスとヘーゲルが挙げられる。

 では、「正義」と「善」の内実は何なのだろうか。「正義」とは「異なる価値観をもつ人びと同士を含め、万人に共通に受け入れられるべき規範」である。一方、「善」とは「共同体によって育まれた、地域や時代ごとに様々に異なる価値や徳」である。それぞれの内実がこのようであるがゆえに、正義と善は以下の点で対立することになる。「正義」の側からは、共同体や個別的状況を考慮に入れれば入れるほど、徳は共同体ごとに断片化していき、場合によっては徳が別の徳と相反する恐れが指摘され、「善」の立場に立つ倫理学は、「何が善いか」という問いに対する合理的基準を提出する規範倫理学の任を果たしていないという批判がなされる。この背景には、「普遍化可能性」という概念が道徳の根本的構成要件であるという認識がある。普遍化可能性とは、ある状況下においてなされた道徳的な主張が、「同様の他の状況」において普遍的に主張可能であることを言う(5)。例えば、「正直を旨として商売する」という規範に従う人が、その規範に従うのは正直であることが利益に結びつく場合のみに限られており、利益に結びつかない場合は嘘を平気でつくというならば、その人のことを「道徳的」とは言わないだろう。一方、「善」の立場に立つ側からは、「正義」は形式的に過ぎるという批判がなされている。「正義」は往々にして義務論に結びついている。義務論に対置される目的論が、誰もが実現を目指すべき最高目的を規定し、行為や社会制度をこの最高目的から見て有益かどうかで評価しようとするのに対し、義務論は、義務という理念の持つ無条件的性格から義務が命じる行為をなすべきだとする。「善」の提唱者によれば、正義が想定するような道徳法則は複雑な社会を正しく生きるための指針にはなりえない。場面ごとに異なる状況を考慮に入れてこそその状況に適った正しい判断が下せるのである。どんな状況でも妥当する「道徳法則」にこだわる「正義」は、そうした特殊条件を不当に無視しているのである。また、「正義」は各人がそれぞれに抱く「善き生活のヴィジョン」からは無関係に形成されるとなっているが、そもそも道徳法則は文化社会的コンテクストから切り離して規定することは不可能ではないのかという指摘も「善」の側からなされる。以下、善の立場に立ち正義を否定するものとしての相対主義を、「コンテクスト主義」と呼ぶことにする。


第2節 (b)認知主義と非認知主義の対立

 (b)について。メタ倫理学とは、規範倫理学の「上位に」位置づけられる。それは、規範倫理学のなかで使われている価値概念や道徳判断の意味論的並びに認識論的な性質、あるいは、道徳判断で言われている事柄の存在論的な性質を分析する倫理学の一分野である。認識論、形而上学、意味論といったものがメタ倫理学の主な問題圏に入る。例えばその問いは、「正しいとは何か」「『〜は正しい』という判断は何を意味するのか」といった形式をとる。メタ倫理学は古代ギリシアにおいてすでにその萌芽がみられ、後代にヒュームによっても知見が深められた分野である。しかし、体系的なメタ倫理学の歴史的端緒は、ムーアが1903年に出版した『倫理学原理』の中で、倫理学の根本問題は「何が善いか」ではなく「善いとは何か」であると主張し、善の分析を行ったこととされている。

 メタ倫理学の領域における認知主義とは、「道徳的判断は道徳的事実を述べており、だから、事実に照らして真偽を問うことができる」という立場である。一方非認知主義とは、「道徳判断は事実を述べているのではなく、判断者の情動、欲求、賛意・不賛意、指令といった態度を表出している」という立場である(6)。ここで注目すべきは、事実と判断の関係である。科学における記述的言明においては、言明の内容が自然的実在物と対応させられ、言明が事実に合致すればその言明は真であり、合致しなければ偽であるという真理概念が一般的である。この真理概念を、「真理の対応説」と呼ぶ(7)。認知主義はこの真理の対応説を道徳的判断にも適用するものである。道徳的判断は何らかの客観的な事実について語られているのであり、よって、真偽を争いうる。一方、非認知主義は、道徳的事実は存在せず、よって道徳的事実を写し取るものとしての道徳的判断も形成されないという立場である。道徳的判断とは、事実に対しての話者の主観的な意味づけに過ぎないのだ。

 以上のように認知主義と、非認知主義は「道徳的事実の実在/不在」という点で対立していることが明らかにされた。認知主義が非認知主義を反駁するためには、「道徳的事実」が存在することを証明しなくてはならない。ハーバーマスは、特に『道徳意識』において、「自分は認知主義の立場に立ち、その立場を懐疑論から擁護する」と繰り返し述べている。しかし、ハーバーマスが自分自身を指して言う「認知主義」は、一般的な認知主義の概念とは完全に合致しない特殊なものである。この点は第3章で明らかにされる。


第3節 (a)と(b)の関係性

 以上、(a)と(b)についてそれぞれ概観した。それでは、「認知主義/非認知主義の対立」と「正義/善の対立」はどのような関係にあるのか。

 認知主義と非認知主義の対立点に「道徳的判断の真偽決定の可否」があった。前者は真偽決定が可能であるとし、後者は不可であるとする。これより、規範倫理学が「何が善いことか」についての基準を語ろうとすれば、必然的に非認知主義の立場を廃棄せざるを得ない。非認知主義の立場に立てば道徳的判断は主観的な態度表明に過ぎないのであり、そこに客観的な基準は存在しえない。ここで、前述した善の定義によれば、善は非認知主義と親和性が強いという解釈も成り立ち得るという疑問が生ずるかもしれない。しかし善においても、それを共有する人々の間では、何が善く何が悪いかは認知可能な問題とされている。また、「行為は、有徳な行為者が、特徴的な仕方で、その状況においてするだろう行為であるとき、またその限りにおいて正しい」(8)というように、善の立場に立ちつつも一般的な形で道徳原理を立て得るのである。この場合、「有徳」の内実がそれぞれのコンテクストで異なることで、「道徳の局所性」というコンセプトが保たれている。

 ここで、「道徳原理」という観点から、正義と善について整理する。規範倫理学は「何が善いか」についての基準を明らかにする学問であった。そしてこの「基準」が道徳原理に相当するのである。道徳原理とは、一般的に、事例の間に道徳的差異がある場合にそれを区別したり、道徳的行為を導くための普遍的な原理を指す。それはたんに私的な格率とも、主体性とは無関係に成り立つ自然法則や実定法とも異なり、行為者が主体的に従いつつも普遍的に妥当するものでなければならないとされる(9)。すなわち、特定の道徳原理が道徳現象の全ての領域を説明し、任意の状況において規範的判断の指針を与えなければならないとされる。「任意の道徳的事象に対し納得のいく道徳判断を導かなくてはいけない」という、このように道徳原理に課される要件を、「普遍的妥当性」と呼ぶことにする。このことは、道徳の局所性を主張する善の立場にとって一見不利に見える。しかし、前段でみたように、「行為は、有徳な行為者が、特徴的な仕方で、その状況においてするだろう行為であるとき、またその限りにおいて正しい」と道徳原理として一般的定式化を行い、「有徳」の内実はコンテクストによって異なる、とすれば「道徳の局所性」という主張を維持しつつも、道徳原理の形態をとることが可能なのである。一方道徳原理として表現された正義は、「普遍化可能性」という概念をその核心としている。普遍化可能性とは第1節でみたとおり、「ある状況においてなされた道徳的な主張が、「同様の他の状況」においても普遍的に主張可能である」という概念である。すなわち、道徳原理としての正義は、道徳原理としての「普遍性」および、原理内の核心地位を占める普遍化可能性としての「普遍性」の二重の普遍性をもつと言える。そして、後者の普遍化可能性という概念が、善の主張する道徳の局所性という概念と対立する。言葉を換えれば、正義と善は道徳原理という同じ土俵の上で、普遍化可能性の是非をめぐって対立しているのだ。道徳原理として表明された正義と善のコンセプトをそれぞれ、「正義原理」、「善原理」と呼ぶことにしよう。

 しかし、日常的な道徳直観に照らしてみれば、「正義原理」、「善原理」どちらにも「普遍的妥当性」はないように見える。すなわちそれらはどちらも、道徳原理としては不十分なのだ。正義原理に相当する定言命法を掲げるカント倫理学に対しては、「殺人者の訪問」の反例がよく知られている。「嘘をついてはいけない」という規範が普遍化可能性をもつとする。すると、自分が友人を自宅にかくまっている場合、たとえ自分の友人を殺そうと意図している殺人者に対しても、「自分の友人が今どこにいるのか私は知らない」という嘘をついてはいけないことになる。しかし、これは私たちの日常直観に明らかに矛盾する。この場合私たちは、「友人の居場所を私は知らない」と答えるだろうし、別にそのことを不道徳な行為だとは感じない。一方、善原理に固執すれば、「義務」という道徳感情を不当に無視することにつながってしまう。このように、正義、善の両者とも、それ自身のみでは道徳原理の座に就き得ない。我こそが道徳原理の座に就くべきだとする正義と善の間の争いは不毛である。そこで、筆者は「パッケージ型の道徳原理」という概念を提示する。正義と善のどちらかが普遍的妥当性をもつという発想から、単一の道徳原理の内部に正義と善の要素を組み込むという視点へと移行せねばならない。その道徳原理は、正義と善という異なる要素を内部に併存させる意味で「パッケージ型道徳原理」と呼ぶことができよう。ここにおいて問題は、正義と善のどちらが普遍的妥当性を満たすかではなく、パッケージ型道徳原理の内部における正義と善の領域区分線の位置はどこか、そして両領域の関係性はどのようなものであるかへと変貌する。正義と善は普遍化可能性をめぐって対立するだけに、両者の領域区分及び、両者の関係性を明らかにすることは肝要である。パッケージ型道徳原理の内部において、普遍的妥当性を失いつつも道徳的判断を導くうえでなお一定の妥当性を持つ基準を、「道徳原則」と呼ぶことにしよう。

 以上の考察から、道徳的普遍主義の立場に立ち道徳的相対主義を乗り越えるためには、第一に、T認知主義の立場に立ち非認知主義を反駁すること、次いでU普遍化可能性をその核心とする道徳原理=正義が存在することの証明ないしU´少なくとも正義原則が存在することの証明がなされなければならない。さらにU´の証明を選択する場合、Vパッケージ型道徳原理内において、正義原則が善原則に対して優越することの証明がなされなければならない。討議倫理学の展開におけるハーバーマスの論証は『道徳意識』の段階では、T→Uというものであった。しかし、ハーバーマスは自身が提出した正義原理のみでは道徳的現象の全領域を説明できないことを自覚するようになる。そしてハーバーマスは『討議倫理』において、T → U´→ Vという論証へと転換するのである。


(脚注)

(3)以降、基本的に『道徳意識』と略称する。
(4)以下、第1章の内容はおおむね以下の文献に依る。
大庭健ほか編『現代倫理学事典』弘文堂、2006年
坂井昭宏・柏武秀編『現代倫理学』ナカニシヤ出版、2007年
小林光彦・樽井正義・谷寿美編『倫理学案内―理論と課題』慶応義塾大学出版会、2006年
戸田山和久『知識の哲学』産業図書、2002年
中山康雄『科学哲学入門』勁草書房、2008年
吉田健二・加賀裕朗監修『現代哲学の真理論 ポスト形而上学時代の真理問題』世界思想社、2009年
川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年
(5)大庭健ほか、前掲書、742-743頁。
(6)認知主義と非認知主義の定義は、大庭健ほか、前掲書、821頁に依る。
(7)中山康雄、前掲書、163-164頁。
(8)坂井昭宏・柏武秀編、前掲書、80頁。
(9)大庭健ほか、前掲書、628頁。



第2章 ハーバーマス理論のパラダイム転回、及び討議倫理学の位置


 ハーバーマスは第二次世界大戦以降から現在に至るまで精力的に研究成果を発表し続けており、その学問的業績は膨大な量に上る。では、そのように広範かつ多量にわたる研究成果のなかで討議倫理学はどのように位置づけられるのか。本章では、ハーバーマス理論の道程を概観しその中に討議倫理学を位置づける(10)。

 ハーバーマスは体系への志向がきわめて強い思想家であり、アリストテレスやヘーゲルのように、広範囲にわたる多様な思想を総合し、自らの思想体系を構築するという気質の持ち主だと観察できる。彼の思想の歴史的展開の経緯を追ったときに、理論構築の基礎パラダイムの転回があったことは見逃せない。その展開とは、「コミュニケーション的転回」であり、現在に至るまでハーバーマス理論の基礎枠組みとなっており、討議倫理学もその土台の上で展開されている。本章では、ハーバーマス理論の基礎パラダイムの転回の前と後を区切り、それぞれのパラダイムがどのようなものかを軸に論を展開していく。


第1節 批判理論の継承者としてのハーバーマス

 ハーバーマスはフランクフルト学派第二世代として位置づけられることが多い学者である。フランクフルト学派とは、フランクフルト大学の付属機関として1923年に設立された社会研究所に集ったグループをもともとは指している。彼らは、哲学理論と社会科学的な実証研究を結合させた独自な共同研究や、文芸評論や心理学などを含んだ綜合的な社会研究を展開して、批判理論と呼ばれる独特のマルクス主義思想の潮流を形づくることとなった。批判理論は、社会というものを一つの巨大な主体と見なし、その主体は自己認識・自己反省をおこない自らが進むべき方向へと歩んでゆくという、ヘーゲルに端を発し、マルクスとルカーチを経由した思想の流れを受け継ぐものである。批判理論の役割は、社会の自己認識・自己反省に対応し、社会の進むべき方向を指し示す実践的な目的をもっていた。「社会全体というマクロな主体」という基礎認識は、フランクフルト学派第二世代のハーバーマスに受け継がれ、彼はその基礎認識のもとで理論を展開することとなる。しかし、社会というマクロな主体という概念は、ハーバーマスが学問活動の初期から関心を寄せていた「自由な討論が行われる公共的な空間」という考えと齟齬をきたすことが明らかになっていく。1930年代のファシズムの隆盛とソ連におけるスターリン主義的恐怖政治が突き付けたのは、社会全体という概念が、「社会の進むべき方向から逸脱している」という名目で個人に対して抑圧的に振舞いうるという現実だった。

 また、批判理論は理性の型を目的合理性にのみ限定していた点にも特徴がある。目的合理性という概念は、ウェーバーの近代化論で明瞭に定式化された。ウェーバーによれば、世界の脱魔術化が進んだ近代においてはもはや自明で絶対的な価値は存在せず、様々な価値が乱立する「神々の闘争」状態が起きており、価値に関して合理的判断は下しえない。彼によれば、人間の行為一般に関して学問が説明できるのは、所与の目的に対して手段が適切であるかどうかの判断である。この局面において働く合理性が、所与の目的のために科学的・技術的な視点から適切な手段を選択するという目的合理性である。ウェーバーは、近代化のありさまを目的合理性の自律化による人びとの支配として描いており、こうした合理性概念をアドルノやホルクハイマーも受け継いでいる。自然の支配という目的合理的な啓蒙の働きがやがて自律化して人びとの手を離れ、むしろ効用の増大にいかほどに貢献できるかという観点から人々を物象化し人々を序列づけるようになる。こうした啓蒙のパラドクスをペシミスティックに描写したのが『啓蒙の弁証法』であった。しかし、こうした合理性の理解はハーバーマスにとっては狭隘に感じられてくる。目的合理性が近代化の上で果たした意義を評価しながらもハーバーマスが注目したのは、コミュニケーションという行為のうちで合意を目指して働く理性であった。人びとがコミュニケーションの局面で行使する理性によって生まれた合意の結果、従うべき規範を自ら作り出す自己立法の働きにこそ、ハーバーマスは理性の積極的な側面を見出したのであった。

 こうした事態を受け、1970年に出版された論文集『社会科学の理論に寄せて』において、ハーバーマスは社会理論の再構成を目指すと宣言するのである。そうした「社会理論の再構成」は1981年に出版された『コミュニケーション的行為の理論』に結実することになる。新たな基礎パラダイムは、「語用論的な意味理論」、そしてそれをもとにした「コミュニケーション的理性」であった。


第2節 ハーバーマス理論のコミュニケーション的転回

 ハーバーマスが前節で指摘した転回において意図していたのは、ヘーゲルに端を発する「社会というマクロな主体」という概念を捨て去り、コミュニケーションを媒介として人びとの間に形成される間主観性を理論の根幹に据えることだった。この転回は、命題という形式における真偽に基づいて言語の意味を判断する従来の言語観から、コミュニケーションの現場で作用する言語の機能に焦点を当てる言語観への移行を伴うものだった。そこには、現代は「ポスト形而上学」の時代であり、無根拠のまま何らかの観念を絶対的なものとして提示する道は断たれている、というハーバーマスの確固たる時代認識がある。ハーバーマスの転回は、「孤独な主体によるモノローグから、間主観的なダイアローグへ」と表現することができる。以下、「語用論的な意味理論」と「コミュニケーション的理性」の概念について順に見ていきたい(11)。

 ハーバーマスによれば言語の意味は「行為的にして命題的という二重の構造」をもつとされる。そして語用論とは前者としての言葉の意味を対象とする。従来、標準的とされてきた意味理論にしたがえば、文の意味とはその真理条件のうちにあり、ある文の意味を理解するとは、その文を真または偽にするものが何であるかを知るということに他ならない。一方、語用論は、言語が何を語るかではなく、言語が何をおこなうかを対象にする言語使用の理論である。そして発話行為のもっとも重要な機能は、複数の個々の行為を調整し、相互行為が整然とした争いのないかたちで進展するために合意を実現することされた。

 ハーバーマスによれば、個々人の行為を社会的に調整するには二つの方途がある。一つはコミュニケーション的行為、もう一つは道具的・戦略的行為である。その違いは前者が理解とコンセンサスを形成することを目指すのに対し、後者は実用的な成功を目指すことにある。前者においては、合意へと至る道が発話内容の妥当性のみであるのに対し、後者においては、相手を脅したり騙したりといった発話内容の妥当性以外の要素によって個々人の実用的な成功が目指される。コミュニケーション的行為においては、聞き手が、話し手の主張の妥当性に疑問をもった場合にはその妥当性の根拠を自由に要求でき、話し手はその要求に応じなければならないとされる。ハーバーマスはこの要求を「妥当性要求」と呼ぶ。妥当性要求は、ある社会集団の正当に規制された間人格関係の総体としての共通の社会的世界に関わる「正当性要求」、存在する事態の総体としての客観世界に関わる「真理性要求」、本人が特権的に近づきうる体験の総体としての自己の主観的世界に関わる「誠実性要求」の三種類に区分される。道徳理論がことに関わるのは、第一の正当性要求である。コミュニケーション的行為においては、聞き手が話し手の主張の妥当性に疑問を抱いたとき、何故その主張が妥当であるのか根拠を要求することができ、話し手はそれに対してしっかりとした根拠を提示することで応じなければならない。主張の妥当性の根拠を主題として話し手と聞き手の間で交わされるのが、「討議」であると定義される。このように、コミュニケーション的行為の領域において合意を実現するために機能する理性が「コミュニケーション的理性」である。

 以上、本節で展開された「語用論的な意味理論」および「コミュニケーション的理性」はハーバーマス理論の新たな源となるものであり、社会理論、道徳理論、政治理論がこの上に立脚することになる。


第3節 コミュニケーション的転回後の理論的発展


 コミュニケーション的展開を成し遂げた以降のハーバーマスは、その土台の上にどのような理論を築き上げたのだろうか。彼はこの転回以後、社会理論、道徳理論、政治理論それぞれについて、理論の核心となる著作を発表している。社会理論の主著としては『コミュニケーション的行為の理論』(1981年)、討議倫理学の主著としては『道徳意識とコミュニケーション行為』(1983年)、政治理論の主著としては『事実性と妥当性』(1992年)がそれぞれ挙げられる。

 『コミュニケーション的行為の理論』は、歴史的に先行する社会理論を、社会理論の三つの問題(「社会科学における意味を理解するという問題」「非合理性とイデオロギーの問題」「社会秩序がどのようにして可能になるかという問題」)に解答を与えるという観点から配列し直すものであった。この著作において、語用論的な意味理論、コミュニケーション的理性というハーバーマス理論の新たな背骨が明確に打ち出されている。次いで著された『道徳意識』は語用論的な意味理論、コミュニケーション的理性の理論の立場に立って「討議倫理学」と名づけられる道徳理論を構築するものであった。

 『道徳意識』においてハーバーマスは、近代の状況下では道徳的討議こそが社会的統合の第一のメカニズムであると主張していた。しかし、現実の社会秩序は道徳的規範によってのみ維持されているのではなく、道徳的規範は行為調整全般を説明するには狭すぎる概念だということをハーバーマスは自覚するようになる。そこで、討議の領域に道徳的討議に加え、倫理的討議と実践的討議、法的討議、交渉等の多様なジャンルを加え、従来の討議倫理学を討議の領域全般を対象とした政治理論へと拡張した(道徳的討議と倫理的討議の区別については後述)。こうした複合体としての現実の討議は法と権利として結実することとなる。このように、近代の社会秩序が道徳規範によってだけではなく政治制度と法によってもつくりだされていることを指摘し、討議倫理学をよりアクチュアリティの高い理論へと昇華させた著書として『事実性と妥当性』が位置づけられる。

 以上、本章ではハーバーマス理論の基礎パラダイムの転回を叙述することで、彼の理論の全体像の概略を行った。そこで明らかとなったのは、討議倫理学は転換後の基礎パラダイムである「語用論的な意味理論」および「コミュニケーション的理性」の上に築かれたものだということである。次章から、討議倫理学の内実の分析へと突入する。そこで設定される視角は冒頭に述べたとおり、「道徳的普遍主義と道徳的相対主義の止揚」である。


(脚注)

(10)第2章の内容は以下の文献に基本的に依る。
小牧治、村上隆夫『ハーバーマス』清水書院、2001年
豊泉周治『ハーバーマスの社会理論』世界思想社、2000年
日暮雅夫『討議と承認の社会理論 ハーバーマスとホネット』勁草書房、2008年
J・G・フィンリースン『ハーバーマス』村岡晋一訳、岩波書店、2007年
(11)これら二つのパラダイムの定義と説明は、J・G・フィンリースン、前掲書に依る。



第3章 『道徳意識とコミュニケーション行為』@―規範的言明の妥当性とは何か―


 社会理論における『コミュニケーション的行為の理論』、政治理論における『事実性と妥当性』という大著に対して、討議倫理学の領域においては『道徳意識』、『討議倫理』という2冊のスリムな著書しか書かれていない。『道徳意識』は、討議倫理学が初めて理論的に構築された著書である。『討議倫理』は『道徳意識』に対する反響に対しハーバーマスが回答を行い、討議倫理学の内容をより精緻化したものであり、同時にそこには旧理論にはない発展的要素も含まれている。本章及び次章では、『道徳意識』の中でも討議倫理学が最も理論的に展開されている箇所である、第三章「ディスクルス倫理学」(12)を取り上げ、討議倫理学の出自的形態を見届ける。


第1節 認知主義 対 非認知主義

 ハーバーマスは『道徳意識』第三章の冒頭で、認知主義対非認知主義の現代的な対立状況を取り上げている。すなわち、現代では、理性は目的合理性へと限定されており、目的設定自体については盲目の感情的態度や決断にゆだねざるを得ないという非認知主義陣営からの主張がなされている。「まさにこうした主張に対して、カント以来の認知主義倫理学は反対し、実践的問題の「真偽決定可能性」をなんらかの意味において守り抜こうとしている」(13)そうしたカントの伝統に基づく理論的アプローチのなかで最も有望なものが討議倫理学である。「そこで、今日の論争状況をめぐるこのようなわたしの評価を説明するために、討議倫理学における根拠づけのプログラムを紹介してみたい」(14)ここでは、認知主義と非認知主義の対立を認知主義の立場に立って克服する理論として討議倫理学が位置づけられており、以下においてはその克服の根拠づけを行うと宣言されている。

 ハーバーマスは懐疑主義者(この語は「非認知主義者」と同義で用いられている)の依拠する論拠として、次の二点を挙げている(15)。

  (a)道徳的な原則問題をめぐる争いは普通は調停されえないということが経験的に知られている
  
  (b)規範的文の真理妥当を説明せんとする試みが既に述べたように失敗してきた

 これらが懐疑論者たちの防衛ラインであり、認知主義者の目的はこのラインを突破することで成し遂げられる。本章では、ハーバーマスの(a)(b)に対する回答が妥当かどうかを検証する。その際、(a)(b)両者の関係が、認知主義と非認知主義の対立という観点から見てどのようであるかも併せて明らかにしたい。

 以下、本章第2節および第3節において、まず(b)に対するハーバーマスの回答を検討する。ハーバーマスは、(b)の主張は、「およそ妥当請求を掲げている規範的文の妥当性を云々しうるのは、それを命題的真理として論じる場合だけのことだとする前提を棄却すれば、崩壊するのである」(16)と述べている。この言葉は何を意味しているのか。

 上記の疑問に答えることは、ハーバーマスが自らを「認知主義」と言うときにどのような立場を想定しているのか明らかにすることにつながる。(b)への回答の詳細は、第三章「討議倫理学」における(二)「倫理への客観主義的アプローチと主観主義的アプローチ」、および(三)「コミュニケーション的行為における確言的妥当性要求と規範的妥当性要求」の項において論じられている。そこで第2節で(二)の内容について検討し、第3節で(三)の内容について検討することで、ハーバーマスによる(b)への回答の成否を第4節で明らかにする。次いで第4章では(a)に対するハーバーマスの回答を検討する。


第2節 「(二)倫理への客観主義的アプローチと主観主義的アプローチ」について


 ハーバーマスは、トゥールミンの「知覚と感覚の並行関係」という概念を紹介する。「この棒は曲がっているように見える」等という知覚に基づく言明の妥当性は、物理学などの理論的説明によって知覚とは独立に成り立っている対象の実際のありかたが明らかになることによって、その妥当/不当が判断される。このような、知覚に基づく言明は記述的言明と呼ばれ、その言明の妥当性は言明の真/偽という観点に還元される。知覚と理論的説明の関係は、道徳的現象に関わる感情に基づく言明(「彼女は立派に振舞ったね」等)と道徳的根拠づけの関係とにパラレルである。「科学におけるのと同じように倫理においても、個人的な(知覚的あるいは情緒的)経験をめぐって見解が分かれるような場合には、普遍性と不偏性をめざす判断がかわりに求められる。―その際問題となるのは、直接の経験だけをもとにして各人が認めた色や価値なのではなく、対象の『実際の価値』『実際の色』『実際の形』に他ならない」(17)ここで表明されているのは実在論的な世界観、それも道徳的事実の存在をも認めるものである。そして、「かくかくのことをなすべし」ということが、「それをする十分な根拠がある」ということを意味するのなら、先に見た記述的言明の妥当性の基準に倣い、規範的言明の真偽を問えることになる。規範的言明は「真偽決定可能」である。ここで表明されているのは、真理の対応説の道徳的領域への拡張である。

 以上のような主張は、議論の方向を認知主義倫理学の方へと向ける。しかしハーバーマスが言うには、「このままでは、実践的問題の「真偽決定可能性」というテーゼは、同時に規範的言明と記述的言明とが同一であるかのような印象を与える。規範的言明もその妥当性を判断することは可能である、という点から出発することは正しい。しかし、「道徳的真理性」という表現が示すように、道徳的論議において問題になる妥当性要求を命題の真理性という手近なモデルで解釈しようとする場合には、往々にして、実践的問題の真偽決定可能性を、規範的言明が記述的言明と同一の意味で「真」か「偽」か決めうることとして理解しがちである。これは誤っていると思う」(18)すなわちハーバーマスによれば、規範的言明の妥当性の判断基準を、記述的言明の妥当性の判断基準である真理の対応説と同一視することは避けねばならないのだ。なぜならば、「妥当性」の意味するタイプがそれぞれ種類の言明で異なるため、それぞれの妥当性を判定する基準に同一のものは用いることができないからである。記述的言明の「妥当性」とは、言明の「真/偽」に依存する。規範的言明の「妥当性」とは、言明の「正当/不当」に依存する。言明が「正当であるか否か」を決する判断基準は、真理の対応説ではないというのがハーバーマスの立場である。

 では、規範的言明の妥当性の判断基準は一体何なのだろうか。ハーバーマスはトゥールミンの言葉の中にヒントを見出している。「『正当性』とは属性でない。わたしが二人の人にどの行為を行うことが正しいのかを尋ねるとき、わたしは属性について尋ねているのではない。わたしが知りたいことは、ある行為を選んでほかの行為を選ばないということになにか理由があるのか、ということである。……倫理的な述語が問題になっている場合、二人の人が互いに主張し合う必要があるのは(そうせねばならないのは)、あれやこれやの行為ではなくまさにこの行為をなすことの理由なのである」(19)「理由」という言葉は何を意味しているのか。「理由」と「判断基準」は一見、同一に見えるがどう違うのか。ハーバーマスは、ここでトゥールミンが言わんとしていることを以下のように解釈している。すなわち、規範的言明の妥当性の判断基準として「論議の理論」がその座に該当するということである。そして、ハーバーマスはトゥールミンのこの意見に唱和する。なぜ「論議の理論」がその座に就くのかについて、(三)においてハーバーマス自身の論証が示される。


第3節 「(三)コミュニケーション的行為における確言的妥当性要求と規範的妥当性要求」について

 まず、(三)の内容の分析を行うに当たって、コミュニケーション的行為の構造および妥当性要求の概念について再度確認しておきたい。コミュニケーション的行為において、行為調整を担保するものは行為者たちの間の合意であった。そしてその合意は、サンクションの脅威や報酬の望みなどの恣意的なものによるのではなく、合理的な根拠を行為者たちが自発的に受け入れることのみに基づいていた。図式化すれば、「合理性のある根拠 ⇒ 間主観的な合意 ⇒ 行為調整の実現」となる。したがって、コミュニケーション的行為による行為調整においては、「合理性のある根拠」を提示できることが重要になる。この図式において決定的に重要なのは、「合理性」の中身である。「合理性」という言葉が何を意味するかはきわめて曖昧だ。したがって、各自がそれぞれ自己流の「合理性」を持ち出してしまい、それらが還元可能・共持可能でない場合、間主観的な合意の達成などおぼつかなくなるだろう。ゆえに、間主観的な合意を導く「合理性」が何をはっきりと定義しておかなくてはならない。この「合理性」の内実は、すなわち「妥当性の判断基準」の内実に相当する。そして、ハーバーマス明確に定義してはいないが、彼の語法から「妥当性要求」には以下の二つの意味が含意されていることが想定できる。主張されている言明の合理的根拠を聞き手が話し手に求める意味での妥当性要求がそのひとつ。そして、自らの主張が合理的根拠に基づいているとして自らの主張を受け入れるよう聞き手を話し手が説得する意味での妥当性要求がもうひとつである(20)。

 (三)においては「確言的妥当性要求と規範的妥当性要求の種類が異なる」ということが論じられる。ハーバーマスは「妥当性要求の種類が異なる」ことを示すことを通じて、それぞれの種類の言明の妥当性の判断基準が異なることを導きだそうとしているのだ。そして、(三)においては規範的言明の妥当性要求のタイプが示される。

 「言語行為は、規範に対するのと事実に対するのでは異なったかかわりかたをするのである」(21)ここで取り上げられているのは、言語と規範の関係、言語と事実(実在)の関係である。そしてそれぞれの関係性は異なったタイプのものであるという。「道徳規範というものは、それが告知されているかどうかにかかわりなく意味をもち妥当を要求するのである。〔中略〕われわれがあれやこれやの言語行為をもってそれにかかわるのは、あくまで二次的なことでしかないのだ」(22)「ところが事実の側には、これに対応するのもが欠けている。確言文には、規範のようにいわば言語行為をすりぬけて自律性を保ちうるのもはない。いやしくもそのような文が実用的意味を持たんがためには、言語行為において使用されねばならないのである」(23)「このような非対称性は、規範的妥当性要求が先ずは規範にその場を持ち、派生的な形をもってようやく言語行為にその場を移すのに対して、真理性要求は言語行為だけに居を構えているということから説明される。〔中略〕われわれが同調したり離反したりすることのできる社会の秩序というものは、客観的態度のみをとりうる自然の秩序とは異なって、妥当と無縁に(geltungsfrei)構成されているのではないということである。われわれが統制的言語行為をもってかかわる社会的現実は、そもそも始めから規範的妥当性要求と内的関連を持っているのである」(24)

 以上の引用で核心は、@「規範的妥当性要求はまずは規範にその場をもち、派生的に言語行為で表現されること」そしてA「真理性要求は言語行為にだけ居を構えており、事実そのものとは無縁であること」の二点である。ハーバーマスは何を言わんとしているのか。それぞれの主張を敷衍して説明したい。

 「規範が妥当を要求する」とはどういうことか。これは、言語的形態をとらずに現前する規範を目の前にして、人びとはその規範が妥当であるかどうかに基づいて、その規範を受け入れるか否かに二者択一の態度決定をせざるを得ないという事態を意味していると思われる。規範が既成事実的に自身の妥当を要求してくるのに対し、各人は現前する規範を正当性の観点から吟味することでその妥当性を判断しなければならない。この意味で、規範が妥当を要求する。

 一方で、「真理性要求は言語行為だけに居を構えており、事実とは無関係」とはどういうことだろうか。規範の場合と異なり、事実の現前が自身の真理性を要求し自体の実在/不在を二者択一的に私たちに迫ってくることはほとんどない。なぜならば、私たちは何かを知覚したとき普通、知覚対象が実在することを無条件に承認しているからである。私たちは日常会話において、「空が青い」「冷蔵庫にジュースがある」とは言うが「空が青く見える」「冷蔵庫にジュースがあるように見える」という言葉遣いはしない。「知覚、即ち実在」が成り立っており、「この空は青く見えているが本当に青いのだろうか」という問いは日常の会話においては居場所がない。知覚=実在は、迫ってこない。つまり、自身が実在するかしないのか、知覚対象はその真理性を要求してこないのだ。したがって、真理性要求がその姿を現す場は記述的言明の中にしかないことが背理法的に示されたのである。

 これらの妥当性要求の違いから何が浮かび上がってくるか。確言的妥当性要求は言語行為だけに居を構えている。したがって、確言的妥当性要求の「妥当性」のタイプは記述的言明と不可分である。つまり、記述的言明の妥当性の判断基準は真理の対応説である。一方、規範的妥当性要求は規範的言明のうちにその出自をもたない。すなわち、規範の妥当性の判断が規範的言明とは一義的つながりをもたない。したがって、規範的言明の妥当性の判断基準として「真理の対応説」を用いることができないと示されたのである。これは、道徳的事実が実在しないということを含意している。そしてこのことは、認知主義の立場とは矛盾している。認知主義は客観世界における「道徳的事実」の存在を認めるためである。では、ハーバーマスが自身を「認知主義」だと自認するとき、辞書的な意味での認識主義とどの点で共通点を残しているのだろうか。 

 ハーバーマスは規範が社会的秩序として間主観的に構成されている点に注目する。「規範の長期に亙る社会的妥当が関与者たちによる正当なものとしての受容にも依存し、そしてまたそのような承認が、当の妥当性要求が根拠をもって確証されうるとの期待に支えられているのであれば、一方で行為規範の「実在」と他方で当該の当為文に期待される根拠づけ可能性との間には、存在者の領域にはないような連関があるということになろう」(25)ここで表明されているのは、構成主義の立場である。構成主義にとって、道徳はすでにある実在的なものを発見することではなく、当事者たちが社会的に構成するものである。構成主義において道徳は当事者によって構成されるが、その構成は決して恣意的なものではなく、倫理的に妥当する実質をもった道徳が構成されなければならないとする。構成されたものであれば全てが、「道徳」の名に値するというわけではなく、中には道徳としては不当なものもあるとされる。構成される道徳がその名に値する倫理的内容をもつためには、その構成は合理的かつ公正に行われなければならない。このように、道徳は当事者によって構成されるとしながらも、その構成過程が合理的かつ公正であることで、結果的に構成される道徳は、偶然性と恣意性を免れておりそのあり様は一意的に決まるのである。この意味で、構成される地位にありながらも、道徳には「客観性」がある。この、偶然性と恣意性を逃れた「客観性」という概念は、道徳的事実の存在を前提する認知主義も共有するものである。すなわち、「道徳に客観性あり」とする点で、両者は共通性をもつ。この共通性を軸にして、「道徳判断は事実を述べているのではなく、判断者の情動、欲求、賛意・不賛意、指令といった態度を表出している」とする懐疑主義に、認知主義と構成主義は対抗する。

 そしてハーバーマスは、規範が間主観的に構成される上での媒体としての論議に注目する。ハーバーマスが論議に注目するのには、論議が、無条件に通用する絶対的価値が存在しない「ポスト形而上学の時代」においてさえ、全ての人びとが行為調整を目的とした規範設定のために依拠せざるを得ない普遍的な媒体だからである。このような事情から、規範的言明の妥当性の判断基準として、「論議の規則」が浮かび上がってくると結論づける。これは同時に、規範が構成される論議の規則を定めることで、構成された規範の正当性を確保することを意味している。


第4節 「規範的言明の妥当性」に対するハーバーマスの回答の成否

 (b)においては、「規範的文の真理妥当を説明せんとする試みが失敗してきた」という非認知主義陣営からの主張が示されていた。この主張に対しハーバーマスはまず、規範的言明の妥当性基準を真理の対応説から切り離した。そして構成主義の立場に立つことを表明し、「規範的言明の妥当性基準」を「規範構成の正当性」に読みかえ、それが「論議の規則」に帰着すると結論づけるのである。規範的言明の妥当性基準の解明において、真理の対応説が前提とする素朴実在論の立場が捨てられ構成主義の立場が採られなければならないとされたのは、「規範的妥当性要求はまずは規範にその場をもち、派生的に言語行為で表現される」という事情だった。しかし、この論証は形式面だけのつじつま合わせに終始した印象が否めない。規範的妥当性要求が規範そのものに出自をもつとしても、道徳的事実の実在は成り立ち得ると言えるだろう。すなわち、真理の対応説が無効であることを診断したとしても、道徳的事実が不在であるとは言えないのである。したがって、「採らなければならない」というような必然性はこの場合存在しない。しかし、このことは構成主義の立場が無力であると示すものではない。「道徳的事実が実在するか否か?」という問いはメタ倫理学の領域において認知主義と非認知主義の間で論争が続いており、容易には決着がついていない分野である(26)。道徳を社会的に構成するものと見なす構成主義の立場に立つことは、道徳的事実の存在証明という重荷から解放されることを意味する。その上で、「構成の正当性」を問うことで道徳の「客観性」は確保できる。認知主義対非認知主義の論争を前にして、認知主義から構成主義の立場に脱皮することは、論点を「構成の正当性」というより扱いやすい分野に移行させることで、「道徳の客観性の確保」に向けて論を前進させることができる。この意味で、ハーバーマスが採った構成主義という立場はクレバーな戦略であると言える。


(脚注)

(12)ディスクスルは邦訳で「討議」。以下、本稿の他章との一貫性をもたせるため、便宜上、「ディスクルス」と表記されている箇所は「討議」に置き換える。また、「妥当性請求」という表記も同様の理由から、「妥当性要求」に改めて表記する。
(13)J・ハーバーマス『道徳意識とコミュニケーション行為』三島憲一・中野敏男・木前利秋訳、岩波書店、2000年、75頁。
(14)同上、76頁。
(15)同上、94頁。
(16)同上、94頁。
(17)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、87頁。この箇所は、St.Toulmin, An Examination of the Place of Reason in Ethics, Cambridge,1970,125よりハーバーマスが引用したものである。
(18)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、89頁。
(19)同上、91頁。この箇所は、Toulmin,op.cit.,1970,28からのハーバーマスによる引用である。
(20)(三)において、ハーバーマスは「道徳規範というものは、〔中略〕妥当を要求する」という言葉遣いをしている。こうした非人間主体が妥当を要求する事態は、妥当性要求の前者のタイプではうまく説明できず、後者のタイプのアナロジーを用いることで理解可能である。
(21)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、100頁。
(22)同上。
(23)同上。
(24)同上。
(25)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、103頁。
(26)坂井昭宏・柏武秀編『現代倫理学』ナカニシヤ出版、2007年、26-56頁。



第4章 『道徳意識とコミュニケーション行為』A―普遍的道徳原理の存在証明―


 前章では、ハーバーマスが、(b)が提示する問題を構成主義の立場に立つことでクリアしていることを見た。そして彼の立場は、「論議による」構成主義というものであり、論議の規則が規範的言明の妥当性の判断基準であると示唆されていた。

 (a)においては、「道徳的な原則問題をめぐる争いは普通は調停されえないということが経験的に知られている」という指摘が非認知主義者からなされていた。ここで道徳的な原則とは、道徳原理のことを指していると考えられる。道徳的な原則をめぐる争いが調停されえないとは、それぞれの倫理学説が提示する道徳原理がどれも、私たちの道徳的現象の領域全てに対しては有効な判断の指針を提供できないこと意味する。ある一つの道徳原理は説明できないような道徳的直観が存在する。既存の道徳原理をいくつか組み合わせて用いる場合でも、それらの組み合わせの仕方は任意であり、諸原理のパッケージとして「一つの道徳原理」と見なすことができ、道徳的現象との間との整合性が問われることとなる。道徳的現象のすべてに納得のいく道徳的判断を導くという意味で、普遍性妥当性をもつ道徳原理は存在しないのだろうか。ハーバーマスはこの問いに、「在る」と答える。彼の提示する道徳原理が他ならぬ、「論議の規則」である。つまり、(a)(b)に対する回答はどちらも「論議の規則」に帰着することになる。すなわち、「論議の規則」に基づいて個々の具体的な規範が導出されるが、その導出過程において「論議の規則」に基づいて個々の話者の規範的言明の妥当性が判断される。これは何を意味しているのか。以下、「論議の規則」の内実を解明することを通じてこの事態を明らかにしたい。


第1節 普遍化原則(U)の提出

 (a)に対する回答において、ハーバーマスは道徳原理を自ら提示するが、その道徳原理が論議の規則、すなわち規範的言明の妥当性基準に相当すると推測できる。『道徳意識』第三章「討議倫理学」「(四)道徳原理あるいは行為格率普遍化の基準」において、ハーバーマスは道徳原理を提示する。

 彼は論議規則としてカントが定言命法をもって表現した直観に合致する道徳原理を提出する。この道徳原理は、その内容から「普遍化原則Universalierungsgrundsatz=(U)」と言い換えられている。ハーバーマスが描写するカント的直観とは、「そこでわたしの関心を引くのは、〔中略〕妥当性をそなえた道徳的命令は人のいかんに左右されない普遍的な性格をもつということを考慮すべきだとする発想である」(27)ということである。カントの定言命法は、「普遍化可能性」の概念を定式化したものだと考えることができる。カントの定言命法の第1の定式によれば、自分の行為を導く「格率が、自然法則となる(つまりいつでも万人の行為の選択を決定する)ことを、格率の内容自体のゆえに、意志できる」か否かを吟味し、そうした吟味をパスした格率に従えという、無条件の命令法が、またそれのみが、道徳法則の認識だとされる。カントによれば、具体的にどのような規範が普遍化可能性の条件をパスするかは、主体の心の内部でのモノローグ的思考によって明らかになるとされた。ハーバーマスはカントの普遍化可能性という概念は受け継ぎながらも、どのような規範が普遍性をもつかは、主体の孤独な内省のうちにではなく、当事者によるコミュニケーション過程によって明らかにされなければならないとする。「そこでは、道徳原理は、すべての可能的関与者が本当にもっともだと同意するのでないような規範を妥当性なしとして排除するという特質を持つものと考えられているわけである」(28)この意味で、討議倫理学はカント倫理学の定言命法の間主観的な展開であると言える。ハーバーマスは、「普遍化可能性」を不偏不党性と解釈している。不偏不党性とは、「ある一定の規範によって判断を下すに当たっては誰でも、まず他の誰かが同様な状況下におかれた際にも判断の基準として同じ規範を奉ずべきか確かめよ」(29)という公準であり、場合は同じなのに異なった扱いをするとか、場合が異なっているのに同じ扱いをするようなときに生ずる矛盾が除去されることを目指す。ハーバーマスはこの公準を討議という形式の下に捉えなおす。「不偏不党と言いうるのは、すべての関与者に共通な利害関心を明らかに体現しているがゆえに全員の同意が得られるような規範、その限りで、間主観的な承認に値する規範をこそ、普遍化可能とするような立場のみなのである。かくて不偏不党な判断形成は、関与者のすべての人に、利害関心を考慮するに際して他のすべての人びとのパースペクティブを採るよう強いるような、一つの原理をもって示される」(30)こうして、カントが提示した定言命法:「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原則として妥当するように行為せよ」を間主観的に展開した、普遍化原則(U)を道徳原理として提出する。


  普遍化原則(U):
  「それ故、全ての妥当な規範は、次の条件を満たすのでなければならない。―それにすべての人が従った場合に、すべての個人ひとりひとりの利害関心の充足にとって生ずる(と予期しうる)結果や随伴結果を、すべての関与者が受け入れること(それを、他の可能な規制の仕方から生ずる効果よりも望ましいものとしうる)」(31)


 こうして提出された普遍化原則は、討議倫理学の原則(D)と区別されなければならないとハーバーマスは注意を促す。(D)は以下のように定められている。


  討議倫理学の原則(D):
  「規範は、すべての可能な関与者が、実践的討議への参加者として、その妥当についての諒解を求める(ないしは、求めるであろう)場合にのみ、妥当要求できることになる」(32)
  「この討議倫理学の原則(D)については普遍化原則(U)の根拠づけに引き続いて立ちかえりたいと思うが、このDは既に、規範の選択が根拠づけられうるということを前提にしている。しかし当面のコンテクストでは、この前提が問題となるのである」(33)


 (U)においては、関与者全ての合意が標榜されているが、こうした普遍的合意は一体どのように担保されるのだろう。規範的言明の妥当性基準が定められていなければ、関与者全ての合意など絵にかいた餅になりはしないか。この疑問を解く鍵は直前の引用文にある。(U)において「この前提」すなわち「規範の選択が根拠づけられうるという前提」が問題になると言う。「規範の選択が根拠づけられうるという前提」は規範的言明の妥当性基準と読み替えることができる。すなわち(U)は道徳原理としても働くと同時に、規範的言明の妥当性を測る基準としても用いられていると解釈できる。討議において、発話者は自らの主張する規範が(U)に適っているとして(すなわち、「この規範になら関与者全てが同意するはずだ」という根拠をもって)、その正当性を主張し、聞き手は、主張された規範が本当に(U)を満たしているのかどうかチェックすることでその正当性を検査することになる。ここにおいて、第3章第1節で提示された(a)と(b)に対するハーバーマスの回答が、普遍化原則(U)に収れんすることが見て取れる。

 最後に、なぜカントの定言命法が間主観的に転回されねばならなかったのか、その理由を明らかにしたい。定言命法の間主観的転回からは、普遍化可能性をコンテクストに感受性を高めたものに昇華し、正義と善を止揚しようとする姿勢が見て取れる。カント倫理学の定言命法においては、孤独な主体の内的な思考において、定言命法をパスする具体的な規範が明らかとなるのであった。しかし、そのようにして明らかになった規範は必ずしも関主観的承認を得られるとは限らず、むしろドグマと化す危険性がある。そうした意識哲学の手法にハーバーマスは別れを告げ、何が普遍化可能な規範であるのかを討議における合意によって明らかにすることで、当事者が従うべき規範を自ら設定することを認めている。「自分たちが従う規範は自分たちで決める」という手法を採ることで、定言命法は普遍化可能性をその旨としながらも、当事者の置かれたコンテクストに感受性があるものに変化を遂げている。


第2節 遂行矛盾

 ハーバーマスは普遍化原則(U)を緻密な論証をもとに導出したのではない。その導出にあたって、彼はカント倫理学の伝統に無批判に依拠しているように見える。ハーバーマス自身も、「確かに、それぞれ普遍化可能な利害関心を体現した行為規範のみが、正義についてのわれわれの観念には適合している。しかしこのような「道徳的観点」は、われわれの西欧文化における特殊な道徳観念を表現しているだけなのかもしれない」(34)と懸念を表明している。しかし彼は、「人は普遍化原則を受け入れざるを得ない(拒否の試みは失敗する)」ことを示すことで、道徳原理として普遍化原則が正しいことを証明せんと試みている。つまり、(U)の否定(f)を論議において主張することは、不可避的に依拠せざるを得ない論議の規則に矛盾するというのである。すなわち、(f)の主張者は、論議に参与する際に、批判的検証を目指すいかなる論議ゲームにおいても不可避ないくつかの前提を受け入れざるを得ず、しかもこの前提の命題内容は主張(f)に矛盾するのだ。この矛盾の形式は、「遂行矛盾」と呼ばれる。以下では、「(U)の反駁が遂行矛盾に陥らざるを得ない」というハーバーマスの論証を詳しく見ていきたい。

 ハーバーマスは、認識の理論に関心をもつ者が彼自身の認識行為の背後に遡及しえないのと同じように、道徳的論議の理論を展開する者も、彼自身の論議への参加によって規定されている状況の背後には遡及しえないと述べる。論議の理論家にとって論議の状況は、「背後遡及不可能」なものである。これは、論議の理論家が、論議の規則というものを自己と切り離し、それを自由に可変することはできないことを意味している。論議の規則というものは所与であり、論議の理論家ができることは、論議にとっての「不可避の」すなわち普遍的で必然的な先行仮定の解明を行うことであるとされる。

 ではそのような不可避の論議の規則とは何か。ハーバーマスは、この点において、ロバート・アレクセイが提案した論議の規則に依拠しており、それは以下のように表されている(35)。


  (3・1)言語=行為能力がある全ての主体は、論議に参加してよい。
  (3・2)a誰もが、どんな主張をも問題化してよい。
      b誰もが、どんな主張をも論議に持ち込んでよい。
      c誰もが、自分の立場や希望や欲求を表明してよい。
  (3・3)どの話し手も、討議の内外を支配している強制によっては、(3・1)と(3・2)で確定された自分の権利を行使するのを妨げられない。


 ここで、(3・1)の規則は、論議に参加する能力を行使するすべての主体を例外なく含みこむという意味で、可能的参加者の範囲を規定する。(3・2)の規則は、全ての参加者に対して、論議への寄与をなし自らの論証を妥当に導くための平等なチャンスを保証している。(3・3)の規則は、誰もが論議に参加する権利および平等に論議に寄与する権利を、たとえどんなにささやかで目に見えないような抑圧にも曝されることなく、行使しうるためのコミュニケーションの条件を要求している。こうした不可避の論議の規則のもと、(U)の否定(f)を根拠づけようとする提起者の発言も、その遂行的矛盾が明らかにされる。

 (f)われわれは、A、B、C……を議論から排除することによって(あるいは沈黙させることによって、あるいはわれわれの解釈を無理強いすることによって)、最終的に、規範Nが正しいと納得しあった。

 この際、A、B、Cとは、(a)規範Nの施行の対象となるであろう人びとの範囲に属しており、(b)論議の参加者として、他の参加者からいかなる観点にいても区別しえないものであるとする。そうすると提起者は、(f)を根拠づけようとするいかなる試みにおいても、必ず(3・1)から(3・3)に示された論議の規則の前提に矛盾せざるを得ないのである。


第3節 「普遍的道徳原理の存在証明」の成否

 ハーバーマスは、(a)「道徳的な原則問題をめぐる争いは調停されえない」という主張に対し、普遍化原則(U)を道徳原理として提示することで答えていた。争う余地のない道徳原理が存在すると提示することで非認知主義者による(a)の主張を反駁している。それとともに、普遍化原則(U)の内実がカントの定言命法を間主観的に展開したもので普遍化可能性をその核心としており、「正義」の立場にあることを示唆し、「善」の立場に立つ者(コンテクスト主義者)に対立している。すなわち、普遍化原則(U)を提示することで、第1章第1節で示した普遍主義への道のプログラムにおいて、T認知主義の立場に立ち非認知主義を反駁すること、U「普遍的な」道徳原理=正義が存在することの証明、以上の二点が企図されていると捉えることができる。

 こうしたハーバーマスの主張に対し、非認知主義者、コンテクスト主義者からは以下のような疑問が提示されるだろう。(@)普遍化原則(U)の普遍的妥当性は、遂行矛盾によって本当に証明されるのか。特に、提示された論議の前提となる規則は本当に不可避的に依拠せざるを得ないのか。(U)の導出に適した前提が「不可避に依拠せざるを得ない」として恣意的に密輸されているのではないか。(A)(U)が妥当であるとしても、(U)だけでは道徳原理の座に収まることはできないのではないか。なるほど、(U)は「ルールを決めるときは、そのルールの影響を受ける人みんなが納得するように決めよう」という日常的な道徳直観に合致する。しかし、(U)だけでは道徳現象の全ての領域を説明できず、したがって道徳原理の座に就くことはできないのではないか。(U)は「道徳的な事柄でありつつもいくら話し合っても合意に達しえない」という互換不能な価値観の領域を圧倒的に無視している。そして、こうした他者との共持不可の価値観は「善」の領域に属するものである。(U)は、道徳原理のもう一つの有力候補である「善原理」と向き合い、それとの整合性をつけるべきではないのか。

 (@)について。(@)は、「ハーバーマスが提示した論議の規則は不可避なものなのか」という点に集約できる。この疑義に対し、ハーバーマスは「弱い超越論的基礎づけ」によって回答している。まず、「超越論哲学」の一般的な意味を確認したい。超越論哲学とは、一般に、主題化された事象(たとえば真理の認識のみならず道徳判断や善なる行為も)に関してその可能性の制約を論究する哲学を指す。すなわち、われわれの認識や判断や実践はそれ以外の仕方ではありえない(選択肢不在性)というような、そのような制約となる仕方を問題とする。その制約は、いつでもすでに(つまりアプリオリに)そこに存在しており、われわれはその制約から逃れることができない(36)。論議の前提の超越論的基礎づけとは、ある特定の論議の前提がアプリオリなものであることを証明することである。カール-オットー・アーペルはこの方針を採るのだが、ハーバーマスは彼に反対する。遂行矛盾が示すのは、想定された論議の前提に現状においてわれわれは依拠せざるを得ないでいるということにすぎず、それがアプリオリなものであるということを保証しない。これがハーバーマスの立場であり、「弱い超越論的基礎づけ」と呼ばれる。論議の前提を可塑的なものにとどめることでハーバーマスが意図しているのは、「強い」超越論的基礎づけを与えることで懐疑論者に批判の論点を与えてしまうことの回避である。むしこ「弱い超越論的基礎づけ」を採用することにより、論議の前提の精緻化が公共的になされる余地が生まれ、論議の前提を明瞭化するのに役立つとされるのである。このように、非認知主義者につけ入る隙を与えず、ひとつひとつ彼らの通路を塞いでゆくハーバーマスの戦略は有効性が高い。日常的直観に従えば、確かに(3・1)から(3・3)の規則には従わざるを得なく、これに対して疑義を提出するのは方法としての懐疑論者の位相に依るしかない。しかし、それらの規則の究極的根拠づけが放棄されてしまった今、方法としての懐疑論者の位相も実質的な対抗力を失った。非認知主義者はもはや沈黙するしかない。そして議論の焦点は、認知主義対非認知主義の位相を離れ、「正義原理」と「善原理」の相克という位相が前面に出てくることとなる。

 (A)について。ハーバーマスは『道徳意識』においては、非認知主義者への論駁に専念しているように見受けられる。それは、道徳的事実や論議の前提の絶対的基礎づけを放棄し構成主義・可謬主義の立場に立つことで、非認知主義者の論を封じるという手際のいい論証であった。しかし、非認知主義を突破した後には、コンテクスト主義者が控えており次は彼らと対峙せねばならない。それは『道徳意識』において積み残された課題であった。討議倫理学の「善」との対峙は、『道徳意識』の以後に出版された『討議倫理』で本格的になされることとなる。第5章では『討議倫理』について検討することで、討議倫理が「善原理」と相対することでどのような発展を遂げているか明らかにする。


(脚注)

(27)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、105頁。
(28)同上。
(29)J・ハーバーマス、前掲書、106頁。
(30)同上、108頁。
(31)同上。
(32)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、108頁。
(33)同上。
(34)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、127頁。
(35)J・ハーバーマス、前掲書、2000年、143頁。
(36)大庭健ほか編『現代倫理学事典』弘文堂、2006年、598-599頁。



第5章 討議倫理学の発展


 前述したように、『討議倫理』は『道徳意識』で理論づけられた討議倫理学への批判に対するハーバーマスからの応答の書である。『討議倫理』の序文においては、「アリストテレス、ヘーゲルそして現代のコンテクスト主義に遡ることのできる道徳の普遍主義的概念に対する異議に再反論し、抽象的な普遍主義と自己矛盾を含む相対主義との対立を超えて、善よりも、義務論的理解に基づく正義の優位性を擁護」(37)するというマニュフェストが述べられている。『討議倫理』では、普遍化可能性をその核心とする「正義原則」の立場に立ちつつ、道徳の局所性を尊重する「善原則」の立場の取り込みが企図されている。ここでは、「パッケージ型道徳原理」という概念が色濃く表れている。『道徳意識』の段階におけるハーバーマスは、道徳原理として正義しか認めておらず、善への目配りが希薄であった。しかし、普遍化原則(U)だけでは道徳現象のすべての領域を説明できていないという批判を相対主義陣営から受けたハーバーマスは、討議という基底的な媒体の下、正義原則と善原則を併存させるパッケージ的な倫理学を目指すことになる。こうして討議倫理学の内部において善は居場所を得ることとなったが、「正義は善に優越する」ことが明記されており、ハーバーマスは、カント倫理学の普遍主義的伝統に依拠しつづけるのである。こうしたパッケージ型の倫理学を形成するためにハーバーマスが取った手法は、「討議の領域区分」であった。

 本章では『討議倫理』に収められている論文の中から、「討議倫理学の精緻化・発展」という方向性を顕著に示すものとして「実践理性のプラグマティックな、倫理的な、道徳的な使用について」論文を取り上げる。また、『討議倫理』で提示された討議倫理学の新たな形態について補足的解説を加えることと目的として、『他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究』(38)より「道徳の認知内容についての系譜論的考察」論文を参照する。『道徳意識』で討議倫理学の理論を明確にしたハーバーマスは、コンテクスト主義者からの以下の異論に応えなければならない。@「善の領域が、正義を旨とする(U)においては無視されている」A「@に応じるため、討議の区分設定により討議倫理学内部に善の居場所を確保するのみでは不十分だ。善は正義に優越しなくてはならない」以下では、上にあげたテクストにおいて、ハーバーマスがこれらの問いにどう答えているのか検証していく。


第1節 討議領域の三区分

 「実践理性のプラグマティックな、倫理的な、道徳的な使用について」論文では、討議の領域の拡張と同時に討議領域の区分設定がなされている。「実践哲学の領域では、今もって、三つの源泉から議論が湧き起こってくる。三つの源泉とは、アリストテレスの倫理学、功利主義、カントの道徳論の三つである」(39)「確かに、討議倫理は厳密な意味での道徳の概念を使って、正義の問題に集中的に関与してはいる。しかし、討議倫理は、功利主義によって正当にも請求されている行為の結果の評価をおろそかにしてはならないし、古典的な倫理学が強調してきた善き生活の問題を討議的検討の領域から締め出してはならない。〔中略〕これに関連して、討議倫理という名称はあるいは誤解を招くかもしれない。討議論は、それぞれ異なる仕方で、道徳的、倫理的、プラグマティックな諸問題にかかわり合っている」(40)すなわち、『道徳意識』で示されていた討議は正義の問題に関する道徳的討議のみであったが、この論文においては、道徳的討議に加え倫理的討議、プラグマティックな討議が討議倫理学の範疇に加えられ、道徳現象の幅広い側面をカバーできるように理論的拡張がなされている。それに伴い、従来の「討議倫理学」という名称では、この討議の多局面を描写するのに不適切だとして、ハーバーマスは「討議理論」と言う名称を採用することになる。以下、プラグマティックな討議、倫理的討議、道徳的討議の内容を確認していく。

 プラグマティックな討議で問題になるのは、所与の目的を実現する合理的な選択、あるいは既存の好みを実現するための手段の合理的選択である。すでに明らかになっている目的に対して、その目的を達成する最も効率のいい手段は何であるかが討議の主題とされるのである。実践的考察は、適切な技術、方策、プログラムを発見するという目標をもった目的合理性の地平の内部で働く。

 倫理的討議では、人格の自己了解、生活設計のあり方、己の性格のあり方に関わるような価値評価が何であるか、といった問いが扱われる。そこで働く実践理性は解釈学的自己了解である。このような「強い」価値評価は、私にとっては絶対的なものとして措定される目標に向かう。ただし、個人は共同体の内部において自身にとっての強い価値を身に着けていくのであり、強い価値の内実は自身が属する共同体に影響を受ける。この倫理的討議は、善原則に対応している。

 道徳的討議では、私の行為が他人の利害関心に抵触することで生じる、道徳的観点から見て規制されるべきコンフリクトを解決することを目標とする。ここで、プラグマティックな討議および倫理的な討議において行為者が依拠していたパースペクティブからの転換が起こる。すなわち、それらの種類の討議では行為者は自己中心的なパースペクティブにおいて討議を行っていたが、道徳的討議においては、自己と他者を平等に取り扱い、自己と他者の利害関心に等しい配慮を向けるパースペクティブが採用されるのである。そこにおいては自己中心性からの脱却がなされている。この道徳的討議は、正義原則に対応している。

 すなわち、実践理性は、合目的性、善、公正さといったそれぞれのアスペクトの下でどのように用いられるかに応じて、目的合理的に行為する主体の恣意性、正しく自己を表現しようとする主体の決断力、道徳的な判断能力のある主体の自由意思などになる。これら三つの実践理性がそれぞれ、三つの大きな哲学的伝統の流れの中で、そのつど、テーマ化されてきたのである。カントにとっては、実践理性は道徳性と一致する。自律性にあってこそ理性と意志は一つだからである。経験論にとっては、実践理性はそのプラグマティックな使用に尽きる。アリストテレス的な伝統の中では、実践理性は、慣れ親しんだエートスの生活地平を解明する判断力の役割を引き受けている。

 以上の説明をもってハーバーマスは善の要素を討議に持ち込むことで、@「善の領域が、正義を旨とする(U)においては無視されている」というコンテクスト主義者からの異論に応えている。しかし、コンテクスト主義者は善の討議領域が確保されただけでは満足せず、善の正義に対する優越を主張するかもしれない。第2節では、ハーバーマスが「正義の善に対する優越」を主張している様を見る。


第2節 正義の善に対する優越

 正義の善に対する優越を根拠づけるためにハーバーマスが持ち出してくるのは、「ポスト形而上学の時代における行為調整はいかにして成し遂げられるか」という問題である。「近代社会の世界観的多元主義化にともなって、宗教も宗教に根ざす倫理も、万人が共有する道徳の公共的妥当基盤としては機能しなくなった。普遍的拘束力を持つ道徳的規則の妥当性は、もはや超越的な創造神と救済真の存在および役割を前提とした根拠・解釈によっては説明できない」(41)「このような状況の下では、道徳哲学は「ポスト形而上学的レベルの基礎づけ」に依拠するしかない。それが意味することは、とりあえず次のように示せるだろう。すなわち、道徳哲学は、方法的には神の立場に、内容的には創造の秩序や救済史に立ち返ることが許されないということであり、また理論戦略上は、言明の様々な発話タイプ間の論理的差異を無効にしてしまう形而上学的な本質概念に遡ることが許されないということである。道徳哲学は、こうした道具立てなしに、道徳判断と道徳態度の認知的妥当性を正当化しなければならないのである」(42)こうした現状を前にして、道徳的懐疑論者での立場をとる非認知主義、功利主義の立場をとる弱い非認知主義、アリストテレス来の善の伝統に与する弱い認知主義、カント来の正義の伝統に与する強い認知主義の四つの立場が分化してくるという。そして、絶対的価値が失効した現代においては、「強い認知主義」が行為調整のために最も適しているとして高く評価される。

 「正義が善に優越する」とは、「正義が善から切り離されており、倫理に従属してはいない」という意味でもある。倫理的問いは一人称のパースペクティブから生じ、一人称複数の見地から共通のエートスを目指す。そこで問題とされているのは、われわれがある道徳的共同体のメンバーとして、自分たちをどのように理解しているのか、自分たちの生活は何を目指しているのか、何がわれわれにとって最善か、ということである。しかし正義という問題が生ずると、この倫理的考察方法の限界が明らかになる。義務を倫理的観点ものとで考察している限り、したがって一人称複数のパースペクティブの下で考察している限り、善に対する正義の絶対的優先は基礎づけられない。万人の利害関心に等しく関わることは何かという抽象的問いは、私あるいはわれわれにとって何が最善かというコンテクストと結びついた倫理的な問いを超えている。正義が要求するパースペクティブから行われる審議においても、各個人の利害状況や自己理解と内的につながっている実用的根拠や倫理的根拠も考慮される。しかし、一人称のパースペクティブ内における実用的根拠や倫理的根拠は道徳的討議においてはもはや特権的な地位を持たない。正義が要求するパースペクティブにおいては、自己と他者の利害関心が平等に尊重され、すべての他者のパースペクティブを採ることで万人が受け入れるであろう規範が公共的に探求される。そして、脱自己化したパースペクティブを採ることで、どのような倫理的立場からも中立化した規範、すなわちポスト形而上学的状況においても有効性を持つ規範が誕生するのである。


第3節「討議の区分設定」「正義の善に対する優越」の成否

 「討議の区分設定」は、普遍化原則(U)を道徳原理の地位から道徳原則の地位へと格下げし、討議の領域に、「善原則」が機能する倫理的討議および「功利主義原則」が機能するプラグマティックな討議を加えることで、道徳現象の領域をくまなくカバーするための戦略だった。(U)は普遍的妥当性を失ったものの、討議原則(D):「規範は、すべての可能な関与者が、実践的討議への参加者として、その妥当についての諒解を求める(ないしは、求めるであろう)場合にのみ、妥当請求できることになる」が三つの討議領域を総べるものとして、上位の道徳原則の地位に置かれていると解釈できる。すなわち、討議原則(D)が働く三領域のうち、道徳的討議の領域において(U)が機能するものとして、(D)と(U)の位置関係をとらえることができる。このように「討議の区分設定」によりパッケージ型道徳原理としての討議理論を形成しようというハーバーマスの姿勢は評価できる。しかし、「正義の善に対する優位」というテーゼの論証は不十分である。ポスト形而上学の時代における有効な行為調整策として、正義の善に対する優位性が示された。確かに行為調整の観点から見れば、正義は善より有効性がある。しかし、このことから単純に正義の善に対する優位は帰結しない。なぜ行為調整が特別に重視されなければならないのかに対する説明がなされていないからだ。したがって、道徳的討議と倫理的討議の序列づけという点で、討議理論はまだ理論的探求の余地がある。


(脚注)

(37)J・ハーバーマス『討議倫理』清水多吉・朝倉輝一訳、法政大学出版局、2005年、1頁。
(38)以下、『他者の受容』と略称する。
(39)J・ハーバーマス、前掲書、2005年、115頁。
(40)同上、116頁。
(41)J・ハーバーマス『他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究』高野昌行訳、法政大学出版局、2004年、15頁。
(42)J・ハーバーマス、前掲書、2004年、16頁。



終章 ハーバーマスの討議倫理学 総括


 ここまで、ハーバーマスの討議倫理学が道徳的普遍主義と道徳的相対主義を止揚する試みを辿ってきた。終章では、この試みを概観し、それがどの程度成功しているのか結論づけたい。ハーバーマスは第一に『道徳意識』において、認知主義の立場に立ち非認知主義を反駁することを行う。その反駁は、「規範的言明の妥当性の判断基準の解明」と「普遍化可能性を旨とする道徳原理の存在証明」から成る。「規範的言明の妥当性の判断基準の解明」に関連して、ハーバーマスは認知主義から構成主義へと歩を進め、道徳的事実の実在/不在という争点を回避し、規範の構成の正当性を新たな争点とする。こうすることで、道徳の「客観性」をより基礎づけやすくすることができた点は評価できる。次に、カントの定言命法を間主観的に展開した道徳原則(U)を道徳原理として提示する。カント倫理学の普遍化可能性を肯定する立場に立ちながらも、規範設立に間主観性を導入する点でコンテクストに感受性を持った道徳原理が提示されている。さらに、(U)が道徳原理として普遍的妥当性を持つことを、遂行矛盾の概念を援用することで論証する。(U)の否定(f)を論議で主張するには、不可避の論議の前提に基づかなくてはならず、その論議の前提は(f)に矛盾する。遂行矛盾が成功しているか否かは、論議の前提が恣意的なものでないかどうかに依る。この点においては、論議の前提の究極的根拠づけが回避され、弱い意味での超越論的基礎づけがなされる。これにより、論議の前提を可塑的なものにとどまらせることで、その恣意性を軽減している。以上の説明をもって、討議倫理学は非認知主義を論破していると確認できる。

 次いで争点となるのは、正義と善の相克である。普遍化原則(U)は正義の立場に立って自身が道徳原理であると主張していたが、それは善の領域を不当に無視するものであった。遂行矛盾により、(U)が存在することを確認したとしても、それは(U)が道徳原理の地位にあることを意味しない。『討議倫理』において、討議倫理学はパッケージ型道徳原理としての討議理論へと発展を遂げ、(U)が機能する道徳的討議、「善原則」が機能する倫理的討議、「功利主義原則」が機能するプラグマティックな討議の三つの討議区分がなされることとなった。これらの討議の内部ではそれぞれ異なった原則が機能するが、討議原則Dが上位の道徳原則として機能することで、理論のアイデンティティは保たれている。このように、パッケージ型道徳原理の方向にハーバーマスの理論が向かったことは、善の領域を不当に無視することを回避している点から有意味であると言える。しかし、討議理論内部において、道徳的討議と倫理的討議の序列関係が説得的に示されておらず、その点で課題を残していると分析できる。

 最後に、ハーバーマスの討議倫理学に対する以上の考察を踏まえ、デモクラシー論に対する見通しを簡単に述べることで本稿を終えたい。デモクラシー論には、多元性/一元制の対立軸が存在する。「多数の人々が集まって一つの結論を出す」と言うデモクラシーの性格からして、それは一方で、意見の複数性を前提にしなければならず、しかも最終的には、意見の一元制を達成しなければならない(43)。そのどちらをより重視するかによって、多元性と一元制の二つの立場が生じてくる。ここでハーバーマスの討議理論に基づいた討議デモクラシー論に対し、「合意を過度に重視しており、多元性の抑圧につながる」と批判するのは一面的に過ぎる。討議理論の内部においては、普遍化原則(U)が機能し、関係者全員の普遍的な合意を要求する道徳的討議に加え、共約不可能な善を共同体ごとに明らかにしていく倫理的討議も場所を確保されており、討議の重層化が図られているためだ(44)。ハーバーマスの討議理論から学ぶべきは、それが正義原則の立場に頑なに居すわり続けるのではなく、討議という基底的な媒体をもとに、正義と善という相対立する素因を、一つの道徳理論の内部にまとめ上げようという姿勢である。この意味で、討議理論に基づいた討議デモクラシー論は高い理論的耐久度を潜在的に保持していることが示唆されている。


(脚注)

(43)川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年
(44)加えて、(U)を現実に必ず達成されなければならない条件として解釈する必要もない。むしろ、そこ目掛けて不断に前進が行われる理念的対象として(U)を解釈する道が適切である。それはハーバーマスが(3・1)から(3・3)で表現された論議の規則を「抗事実的」であるとし、現実の状況を批判するための理念的準拠点として捉えていることから示唆される。



引用・参考文献一覧

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川崎修、杉田敦編『現代政治理論』有斐閣アルマ、2006年
小林光彦・樽井正義・谷寿美編『倫理学案内―理論と課題』慶応義塾大学出版会、2006年
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J・G・フィンリースン『ハーバーマス』村岡晋一訳、岩波書店、2007年
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J・ハーバーマス『他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究』高野昌行訳、法政大学出版局、2004年
吉田健二・加賀裕朗監修『現代哲学の真理論 ポスト形而上学時代の真理問題』世界思想社、2009年