平成23年度
学士論文
石原慎太郎はポピュリストだったのか
―政策決定プロセスを通じた検証―
一橋大学 社会学部
伊藤 直也
目次
序章
第1章 ポピュリズム概念の歴史的変遷
第1節 伝統的ポピュリズム
第2節 ネオ・リベラリズムの台頭とポピュリズムの結びつき
第3節 ポピュリズムの現代化
第4節 現代ポピュリズムの諸特徴
第5節 現代ポピュリズムの限界
第2章 石原都政の政策検証
第1節 財政政策
第2節 都市政策
第3節 福祉政策
第4節 環境政策
第5節 新銀行東京
第6節 東京オリンピック
第3章 石原慎太郎のポピュリスト的性格
第1節 ポピュリズム的手法
第2節 意思決定を左右する諸要因
第4章 なぜ「ポピュリスト」石原は支持を獲得し続けたのか
第1節 石原慎太郎の支持基盤
第2節 理論的側面から見た石原都政の限界
第3節 仮説「政策形成過程における議会との協調」
終章 結論と補足
参考文献・資料一覧
序章
東京都政の歴史
戦後に始まった知事公選制により、これまでに6人の東京都知事が誕生した。戦前に内務官僚を務めていた安井誠一郎は、戦後復興期の1947年〜59年、3期にわたって都知事の座に就いた。実務家としてインフラ整備など、戦後復興に大きく寄与した一方で、官僚組織の腐敗を招いた。
二人目の東龍太郎は東京オリンピックの開催と成功を託されて都知事に選出された。都区関係の見直しに伴う都行政のスリム化、都政の執行体制強化と長期計画の策定、交通を中心としたインフラの整備に成果をあげた。しかし、開発重視で生活者目線が欠けていたことや、国の成長政策に追従する姿勢への批判が高まり、都議会議長選挙での議長選挙をめぐる汚職事件が決定打となって、革新首長誕生への流れが生まれた。
1967年、社会、共産推薦の美濃部良吉が自民、民社推薦の候補やぶって当選した。「ストップ・ザ・成長」のスローガンのもと、国との対決色を強めた。都民参加の都政運営に注力し、都独自の福祉重視の政策を実行するなど成果をあげたが、オイルショックをきっかけに都財政は危機に陥った。
財政再建を託されて鈴木俊一が都知事に選出されたのは1979年である。官僚出身で、東都政を副知事として支え、自身が都知事になってからは緊縮財政と行政改革を財政再建に成功した。そのほかにも、臨海副都心開発やマイタウン東京構想に挑んだ。こうした政策は官僚主導で行われたため、都民からの批判が高まった。
1995年の都知事選挙で、官僚都政の打破を訴える青島幸男が、ポスト鈴木を狙った石原信雄を破って当選した。世界都市博覧会の中止を公約に掲げ、無党派層の絶大な支持を獲得した。公約を実行に移したことで都民の評価は一時的に高まったが、その後の失政とバブル崩壊によって都財政が破たん状態に陥ったことで人気を失った。
任期後半は失速したものの、青島都知事の誕生は都政の歴史上、日本政治の歴史上重要な意味を持っていた。自民・公明といった既存政党の支持を受けずに無党派層の積極的支持を獲得して都知事選を勝ち抜いたことは異例の事態であった。青島は都議会や都庁官僚を敵と見なして、都民を味方につけるという戦術をとった。まさに「ポピュリズム」を利用して支持を獲得することに成功したのである。
本稿における問題意識
「ポピュリズム」は今日における日本政治の課題の一つである。一般的には大衆迎合的な「衆愚政治」と呼ばれる状態を指し、積極的な意味で用いられることはない。また、ポピュリズムを利用した手法を用いる政治家は「ポピュリスト」と呼ばれる。
青島の後を継いだのは、強力なリーダーシップで支持を獲得した石原慎太郎である。石原慎太郎は現代日本を象徴するポピュリストとの評価を受ける(1)。確かに石原はメディアを利用し、リーダーシップを発揮しつつ個性的な都政運営を進めることで、無党派層の支持獲得に成功した。以上の点は、ポピュリズムによく見られる特徴である。しかし、石原には従来のポピュリズム論では説明しがたい特徴が見られる。「石原慎太郎はポピュリスト的手法を用いて大衆の支持を獲得し、3期12年にわたって都知事として独自の政策を進めてきた」というポピュリストとしての側面を過大評価した従来の定説に対し、本稿では石原都政に新たな評価を与えることを試みる。
本稿の概要
以下、各章ごとの概要を説明する。第一章では、ポピュリズム概念を整理し、その特徴的な現象・手法からあらためてポピュリズムの定義をおこなう。第二章では、石原都政の政策を検証する。政策決定のプロセスに着目し、ポピュリズムとの関連にも着目する。第三章では、第一章・第二章の分析をもとに、石原が用いたポピュリズム的な手法を整理する。第四章では、石原のこうしたポピュリスト的手法に対して、それを支持した層を明らかにする。そして、従来の石原都政に対する評価の矛盾を明らかにし、石原が単なるポピュリストである場合、三度都知事の座に就くことは不可能であったと指摘する。それでいてなお、石原が支持を獲得した要因として「議会との協調を図ることにより、二元代表制のもとでもスムーズな政策展開が可能であった」という仮説を提示し検証する。終章では、石原が従来のポピュリスト的手法とともに、議会との協調によりポピュリストとは相容れない側面をもった政治家であったことを指摘する。また以上の要因によって石原が従来のポピュリズムの限界を超えたと結論付ける。
(脚注)
(1)吉田徹『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』NHK出版、2011年、8頁。大嶽秀夫『日本型ポピュリズム』中公新書、2003年、123頁。東京自治研究センター編『石原都政10年の検証』第一書林、2009年、21頁。
第一章 ポピュリズム概念の歴史的変遷
「ポピュリズム」という言葉が主にメディアを通じて人々の間に浸透し始めて久しい。「人気とり」や「大衆迎合主義」、あるいは「衆愚政治」といった消極的なイメージをもって語られるケースがほとんどである。先行研究では、石原慎太郎のほかに青島幸男、小沢一郎、小泉純一郎、田中真紀子などの政治家がポピュリストとして取り上げられている。海外では、イタリアのベルルスコーニ首相やフランスのサルコジ大統領がそれに当たるだろう(2)。最近では日本の地方自治でも、大阪市の橋下市長や宮崎県の東国原元知事などの「劇場型首長」が相次いで登場している(3)。
言葉自体が数多くの場面で使用される一方で、「ポピュリズム」という概念は政治学的に曖昧である。先行研究においても、どういった状態をポピュリズムと定義するか、誰をポピュリストと呼ぶべきかについては幅広いバリエーションがある。本章では吉田徹(2010)や森政稔(2009)などに基づき、曖昧なポピュリズム概念を歴史的文脈から整理する(4)。そこから導かれる特徴的な現象・手法をもとにポピュリズムを再定義すると同時に、その限界を示す。
第1節 伝統的ポピュリズム
ポピュリズムという概念の登場は、19世紀のアメリカに遡る。独占企業に対して農民たちが反対運動をまとめるためにポピュリスト党を結成した。1930年代から1950年代にかけてラテンアメリカでは、大衆の支持を獲得した権威主義的な政権が次々に樹立された。後者においては、アルゼンチンのファン・ペロンが代表的なポピュリストであり、彼の政治手法は「ペロニズム」とも呼ばれた(5)。
二つの事例より「ポピュリズムがその国の近代化と工業化の過程で出現する政治的現象」(6)であるという特徴を導くことができる。社会の「移行過程においては共同体の構成員の間で不利益や不平等感が醸成されるため政治社会は極めて不安定」(7)になるため、ポピュリズムが台頭する。同時にポピュリストによる政治的動員には、「敵」となる対象が創出される、という特徴も指摘できる。
しかし、ポピュリズムはポスト近代、ポスト工業化を迎えた現代社会でも発生している。その原因をラクラウのポピュリズム理論を用いて説明する。彼によれば、ポピュリズムは非階級的概念である。既存の制度に包摂されない勢力が結集し、人々が持つ異なる利害要求を結びつける媒介としてポピュリズムは普遍的地位を得る。そこにはシンボルや政治的リーダーシップを必要とする。すなわち、「既存の政治が人々の要求に対して不十分にしか応じられないことで、その正当性を失うような状況が生じている」(8)場合にポピュリズムは生起する。ポピュリズム発生の過程を追うことで、伝統的ポピュリズムの枠組みを超えた、ポピュリズムの普遍性を確認することができる。
また、ゲルナーとイオネスクは、時代や政治形態に拠らずポピュリズムが発生することを確認したうえで、ポピュリズムに6つの共通項を見出している。一つ目に、ポピュリズムがイデオロギーであると同時に、政治運動の形態をとるということである。二つ目に、ポピュリズムは地理的、歴史的条件を越えて繰り返し生起するということである。三つ目に、人々の心理を原動力とすること。四つ目に、ネガティヴィズムを持つことである。五つ目に、従属的な立場にある「人民」にはたらきかけるということである。六つ目に、ポピュリズムは過渡的性格を持つということである。とりわけ、現代社会を支える価値が一部の支配者に特権化している構造を打破しようとする「反エリート主義」がポピュリズムの根底にある。つまり既存の権力の在り処を非難してその価値体系を転倒させる「否定の政治」にこそポピュリズムの本質がある(9)。
第2節 ネオ・リベラリズムの台頭とポピュリズムの結びつき
1970年代のアメリカにおいて、ネオ・リベラリズムという政治潮流が誕生した(10)。60年代までの好景気による豊かな生活を享受していた欧米社会は、石油ショックを契機にそれまでのケインズ主義的経済政策にもとづく福祉国家路線の転換を迫られた。そこで政府による市場への介入を極力排除しようとする経済的自由主義が台頭した。第一義的には小さな政府や民営化、市場原理主義などの経済的自由主義がネオ・リベラリズムとして捉えられる。それまでの肥大化した福祉国家を支えてきた国家機能や官僚機構が新自由主義の「敵」と見なされる社会状況ができていた。
また、戦後社会を支えてきた社会の変容により、既存の政治の枠組みで包摂しきれない人々が生まれた。同時に安定的な政治が行き詰まり、高度成長の中で豊かになった階層や社会の領域が既得権益化していく状況に対しての不満が高まった。こうした人々の不満を政治的に体現するリーダーシップが求められる中で、アメリカではレーガン政権が、イギリスではサッチャー政権が相次いで誕生した。サッチャー政権は、戦後期に形成されてきた既得権益や労働組合の利権を批判し、都市部の新興中間層を支持基盤とした。戦後の高度成長を富の分配という側面で支えた経営者団体、労働組合、管轄官庁の既得権益を解体する新自由主義的な政策の一貫性とメッセージ性によって大衆的な人気を得た。
同時期の日本でも、ネオ・リベラル的な政治が中曽根政権によって担われた。経団連元会長の土光敏夫をトップとする第二臨時行政調査会を中心に、三公団の民営化など小さな政府を志向した改革を断行した。オイルショックによる伝統的産業基盤の変化と都市化によって、自民党が依存していた特定の票田が過少かつ先細りになることは明白だった。そこで中曽根は利益誘導型政治から、分かりやすいシンボルや目標を提示し、有権者を動員する政治への転換を図った。政治主導による民営化や間接税構想は、非効率な政府や行政部門、既得権益を持つ労働組合を敵とみなす都市中間層や無党派層の支持を獲得した。
もっとも、中曽根政権は支持基盤拡大による自民党の包括政党としての位置づけ直しを目指したのであって、サッチャーが自らの政治構想に沿った国民動員を目指したことと同質に捉えることはできない。しかし、高度成長を支えてきた社会制度が既得権益化し、行政の非効率が目立ってきた状況に対して、政治の側からこれを「敵」に見立てて打破することで支持を獲得するために新自由主義的な政策が採用された点は共通している。こうして、ネオ・リベラリズムはポピュリズムと政治スタイルを共有し結びつきを強めていった。大嶽秀夫は1980年代以降の新自由主義的な改革を伴うポピュリズム政治を指して「ネオ・リベラル型ポピュリズム」(11)と分類している。
また、新自由主義的な経済政策を採用した政権が新保守主義的な性格を有していたことがポピュリズムとの結びつきを考える上で重要である。1960年代から70年代にかけて、際の政治やマイノリティの承認を求める政治が台頭し、リベラル勢力は基本的にはこれを受け容れていた。しかし70年代の景気後退によってリベラル勢力によって担われていた社会民主主義的なコンセンサス政治は、ニューレフトと呼ばれる急進的な左翼運動やカウンターカルチャーと、これに反発する保守派の両面から批判を受けるようになった。ニューレフト運動は次第に力を失った一方、保守主義陣営はサッチャーやレーガンの登場によって「保守革命」を達成した。戦後社会の寛容化が社会秩序の崩壊をもたらしたと批判し、サイレント・マジョリティの立場から家族、宗教、コミュニティ、国家の自立性、伝統的価値観などを強調すると同時に、リベラルによって担われた政治の解体を目指したのである。その際に大きな政府や過度な規制、国営企業などリベラルな経済政策も否定されることとなった。ここに新保守主義勢力が新自由主義的な経済政策を用いた理由がある。
ただし、文化的保守主義と経済的新自由主義は矛盾しているとの批判がある。新自由主義による市場原理の無制限な拡大は、文化的保守主義が擁護する価値観の解体する恐れがある。しかし、実際には新保守主義と新自由主義の原理的矛盾はその結びつきを弱めるどころか、ニューレフト、マイノリティ、リベラル勢力を共通の敵と見なして攻撃し、資本主義は道徳的に称賛を受けることになった。ここに新保守主義政権が新自由主義的経済政策を採用しつつ絶大な支持を獲得できた理由を見出すことができる(12)。
第3節 ポピュリズムの現代化
小泉純一郎は現代日本においてポピュリストと評される人物の代表格である。小泉は「自民党をぶっ壊す」というスローガンのもとに、既存政党、しかも自らが所属する自民党内部で自身の政策に反対の立場を示す勢力を「抵抗勢力」と位置づけて、無党派層からの絶大な支持を獲得した。また、小泉はテレビを通じた大衆へのアピールを効果的に行い、「劇場型政治」を展開した。テレビ番組で扱いやすいワンフレーズを繰り返し、直感的・感情的な言葉を多用して「大衆受けのいい」政治家を国民に印象付けた。こうしたテレビを利用して大衆の支持を得るスタイルは、小泉の政策自体には関心の度合いが低い有権者の支持を獲得することにもつながった。
小泉政治の特徴は政策にも表れている。市場原理を重視して政府の介入を減らそうとする「民間でできることは民間に任せる」「小さな政府」を目指し経済的自由主義の政策を推進した。その際には私的機関である経済財政諮問会議を設置して、従来の意思決定プロセスとは異なる外部機関の政策立案を重視した。総裁選挙の公約でもあった郵政事業の民営化にあたっては、参議院で否決されたことを受けて衆議院を解散し、大衆の支持を調達することで政策を実現するという、議会決定を無視した手法を用いた(13)。
小泉の政治手法や政策の特徴に顕著に表れているように、現代ポピュリズムは1980年代以降のネオ・リベラリズムの政治潮流と多くのレトリックを共有する「ネオ・リベラル型ポピュリズム」の延長線上にあることが確認できる(14)。しかし、小泉のような現代ポピュリストの登場は日本に限らない。イタリアではベルルスコーニが、フランスではサルコジが、小泉と極めて近い手法を用いて支持を獲得している。また、歴史的文脈は多少異なるが、ヨーロッパでは極右政党の台頭が目立っている。また、国政に限らず、地方自治体の首長にもポピュリストと称される人物が当選している。
こうした背景には、大きく二つの要因がある。一つ目は冷戦構造の崩壊である。社会主義・共産主義体制が崩壊したことで、民主主義体制に移行した国が数多く存在する。こうした国では、民主化が従来の独裁を打倒した一方で、一部の既得権益層を生み出したことで民主化に期待した人々の幻滅を招き、ポピュリスト政治家が支持を獲得している。また、西側諸国においても、イデオロギー的な対立が終焉したことで「社会主義体制と競争し正当性を求め続ける」インセンティブが失われてしまった。結果として、政党や政治家は国民の期待を裏切るように公約を二転三転させ、政治への不信感を自ら高めただけでなく、民主主義を支える制度そのものへの不満も高めた。
もうひとつはグローバル化である。国民国家と福祉国家の二次元で成立していた先進国は、グローバル化によって国際競争にさらされ福祉を受給する対象をめぐって国内対立を抱える。こうした対立を煽り、グローバル化批判によって支持を集めようとするのが極右ポピュリスト勢力である。対照的に、国家はグローバル化を推進する主体でもある。グローバル企業を支援し、雇用と成長を確保する戦略を掲げて支持を獲得することもできる。グローバル化によって国家の枠組みが再編を迫られる過程の中で、グローバル化への両極端な対応が混在することになる。同時に国家の制度では対処しきれないこれらの問題は、政権の政策実行性や公約の実現を困難にし、議会制民主主義への不信と不満を生む。「政府や行政は、政策を効率的に運ぶ「非多数派機関」を通じた「出力による正当性」の道を模索するが、これはふたたび民主制に対する不信と不満を生んでいく」(15)という悪循環の下、これを利用する政治家によってポピュリズムが生まれるのである。
ただし、こうしたポピュリズムの現代化については、日本における新自由主義の展開を踏まえて議論する必要がある。1990年代に入りバブルが崩壊し、「日本的経営」や「日本型福祉社会」が失われたものであることが認識された。また、長引く不況下で金融機関は多額の不良債権を抱え、国や地方自治体は公共投資による財政問題を露呈した。さらに、「自民党型利益分配システム」の構図で生じた、大規模な汚職事件やスキャンダルは、「利益誘導型政治」の否定につながった。こうした政治経済状況下で1993年に政界再編が起きた。小沢一郎や細川護熙などの新保守主義勢力が台頭し、「自民党型分配システム」の否定を訴えたが有権者に理解されたとは言えず、経済・分配をめぐる新しい政策的対立軸の再編に失敗した。一方、同じ連立政権内で左派の立場からも、新党さきがけや第一次民主党が新左翼的な主張を試みて失敗し、社会党などの旧来左翼が従来の「護憲・平和主義」をめぐる保革対立軸から抜け出せず、政治腐敗に対抗する「アマチュアリズム」を訴え、「市民対旧エリート」の構図を作りだして批判することに終始した。こうした反省を経て、日本では新たな新自由主義的勢力が台頭するのではなく、自民党内部から新自由主義勢力が立場を強めていくのであるが、本格的な新自由主義的政権は小泉の登場を待つことになる(16)。
第4節 現代ポピュリズムの諸特徴
以上の議論を踏まえたうえで、現代ポピュリズムに見られる典型的な特徴を以下の4点に整理する。
@敵の創出と無党派層の支持獲得
Aメディアの利用
B新保守主義的性格と新自由主義的性格
C民主主義的プロセスの迂回
@ 敵の創出と無党派層の支持獲得
敵の創出は、伝統的ポピュリズムから続くポピュリズムの本質「否定の政治」の象徴である。ただし、「敵」の創出過程や、支持獲得の対象となる層には時代ごとの特徴があるため注意が必要である。高度成長期までは「多種多様な「深くて狭い」社会層の間で成立する合意を基礎にすることで安定が実現」(17)していた。しかし、社会の変容と個人主義の浸透でこれが立ち行かなくなり、政治は労働組合や公共部門など「敵」を作り出したうえで、「広くて浅い」社会層にアピールして支持を獲得するようになった。サッチャー政権を例としてあげると、彼女はイギリスの停滞原因を労働組合など一部の既得権益者のせいにすることで支持を獲得するなど、明白な敵を設定し、自らの政治構想に沿って国民を動員した。日本では、中曽根政権にとってのそれは「鉄の三角形」であり、小泉にとっては「官僚機構」や「自民党型利益分配政治」であった。これらのポピュリズムには、都市部の新中間層を対象に支持を獲得する意図が強くあった。
A メディアの利用
「第四の権力」と称されるように、マスメディアが政治に与える影響は小さくない。とりわけ世論形成能力が核となる。「メディアは争点型および属性型議題設定によって、一般公衆の対象となる争点を指示し、さらにはその争点の印象や理解にも一定の影響を及ぼす」といった特徴を持っており、さらに「特定の争点がメディアで強調されると、その争点は、有権者が政治指導者を評価する際の基準としても比重を増す」「誘発効果」を持つ(18)。これらのメディアの特徴は、ポピュリズムに見られる「否定の政治」や「敵をつくる」といった部分と極めて強い親和性を持つ。アメリカのレーガン大統領が、テレビを通して大衆的な支持を得たように、日本においても小泉劇場に代表される形で、ポピュリズムとメディアには親和性がある。イタリアのポピュリスト政治家、ベルルスコーニが自信でメディアを所有し政治プロモーションをおこなうような事例もある。
こうしたメディア政治についての「古典的な議会制民主主義のイメージを完全に塗り替えて、リーダーと国民との直接的な対話や結びつきを重視するからこそ、ポピュリスト政治家はメディアを最重要視する」(19)という吉田の指摘は、現代ポピュリズムとメディアの関係を端的にあらわしている。ポピュリスト個人を前面に押し出して政治が展開され、既得権益とその元凶たる議会制民主主義を批判する、アウトサイダーからのサクセスストーリーを国民に示すことで、リーダーへの求心力を高める。サルコジやベルルスコーニがスポーツに関心を持つことも、こうした政治的メッセージに他ならない。
ただし、大嶽は、日本ではテレビメディアの論調に対して、新聞など他のメディアも追従する傾向があることから、特定の論調に偏った報道が続くという特徴を指摘している(20)。裏を返せば、政治家が一度スキャンダルに巻き込まれると、一気に支持を失いかねない点にも留意が必要である。
B 新保守主義的性格と新自由主義的性格
サッチャー、レーガン、中曽根、小泉、ベルルスコーニ、サルコジなど現代を代表するポピュリストが掲げた政策は新自由主義的な傾向にある。先述したように、ネオ・リベラリズムとポピュリズムは多くのレトリックを共有する。政治の側から支持を調達する際に、政府や行政の無駄や非効率を問題視することで、特定の産業や業界、党派に拠らない都市中間層に訴えるという手法は、現代ポピュリズムの最も典型的な形の一つである。政府や行政の無駄は、民営化という手段によって市場原理を導入することで改善されることが期待された。あるいは産業政策が、官僚主導の開発主義的なものから、民間企業のより自由な経済活動を促進する政策へと転換することが目指される。
こうした企業的発想では、国家経営を企業経営に見立てる。すると、共同体の崩壊を防ぐために過度な個人主義は強調されない。代わりに、政治に道徳的な色彩が持ち込まれ、正しさや正義が何であるかが国民に提示される。すなわち、市場主義と権威主義が並列して存在するのが現代ポピュリズムの特徴である。日本における新自由主義的な政権が、保守的な性格を持っていた一因が見て取れる。官僚組織や政府の非効率を批判するシニシズム的な視点と、新自由主義的な改革によって実際には「痛み」を被る層に感情的に訴えるモラリズム的な視点とが互いに補完し合うかたちでポピュリストの広範な支持調達を可能にしているのである。
C 民主主義的プロセスの迂回
現代ポピュリズムにおける特徴の4つ目として「民主主義的プロセスの迂回」を挙げておく。民主主義的な政治では、選挙によって選ばれた議員が議会における手続きを経るというプロセスが不可欠である。形式的な手続き上の問題ではなく、議会における討論や修正を重ねて政策が形成される点に意義がある。そして、その過程は公開されなければならない。しかし、ポピュリズム政治では、政治的リーダーによってしばしばこの過程がないがしろにされる。議会や党派による従来型の方式では支持を得ることができない政治家が政策を実行しようと思えば、議会や党派が絡むプロセスは省略された方が都合がよい。例えば、小泉は郵政民営化が参議院で否決された際に、衆議院を解散して総選挙に打って出た。衆参両院を備えた日本の政治プロセスでは、一般的に参議院での採決で賛成多数を経ることが民主主義的なプロセスである。しかし、参議院というプロセスを迂回して総選挙というかたちで国民に支持を訴えた小泉の事例は、典型的なポピュリズム的手法である。
民主主義的プロセスの迂回は、合意形成の過程に限らない。従来であれば課題設定や政策立案は、有権者の要求に沿って首長や議会や官僚が一体となって行われてきた。しかし、グローバル化の発達や成長率の頭打ちなどをうけて財政規律への圧力が高まり、政治家は有権者の支持との間でジレンマを抱えるようになった。そこで自立性と専門性が担保された「非多数派機関」への委任統治の手法が用いられるようになった。非多数派機関は政治家や官僚とは関係のない組織として、圧力を回避してメディアを利用しつつ官僚組織や行政部門の非効率を改革しようとする。こうして「現代政治では政党や会派から構成される議会で物事が決まるのではなく、政治主導の掛け声のもと、実際は民主的に選出されたわけではない、代表としての正当性を持たない集団によって政策の基本路線が決められているという実態」(21)が生まれる。日本では橋本行革における「総合規制改革会議」や森内閣での「行政改革会議」などが設置された。とりわけ注目されたのは、小泉が私的諮問機関として「経済財政諮問会議」を設置し経済政策については会議に一任したことである。従来の政策決定機関であった自民党の専門部会を迂回した意思決定の手法を採用したことは、小泉がポピュリスト的な手法を用いた最たる例である。
以上の議論を踏まえて、本稿では「民主主義的プロセス」を、@議会における政策討論と修正、A首長、議会、官僚が一体となった政策課題の設定と政策立案、Bプロセスの透明性―以上の3点を核とした政治過程とし、ポピュリストはこれらの要素をないがしろにした政策形成・意思決定を行う政治家と定義する。
第5節 現代ポピュリズムの限界
以上のように、現代ポピュリズムの手法と性質については、その核心となる特徴を4点に整理した。しかし、ポピュリズム的手法は万能というわけではない。
ポピュリズムはエリートや既得権益を「敵」に見立てて糾弾することにより、支持を獲得する手段である。そのためにメディアを通じて自己の道徳的正当性を人々に訴える。故に、ポピュリストによる失政やスキャンダルが明るみに出た時、支持者たちの期待を裏切る結果となり急速に支持を失う。また、それまで支持していたメディアもその特性から、手のひらを返したように批判的論調に傾きやすい。
政策形成過程でもポピュリズムは欠点を抱えている。青島幸男は世界都市博覧会の中止など鈴木都知事の下で進んだ「官僚都政」の打破を公約に掲げて無党派層の圧倒的支持を獲得し当選を果たした。就任後、青島は実際に世界都市博覧会の中止を決めてみせ、都民から「公約を守る都知事」として称賛された。しかし、信用組合の破綻問題で公約を破ったことを発端に支持を失い、都庁官僚の政策を実行するだけになった。青島のように公約に掲げた政策にブレが生じると、ポピュリストとしては致命的な無党派層の支持喪失を招く。また、阿久根市の竹原市長や長野県の田中康夫知事のように、議会との対立が決定的で、政策の実行がままならない場合も、公約に掲げた政策に期待した無党派層を裏切ることになる。また、竹原市長は議会の反対を、専権事項を使って乗り越えるなどかなり強引な手段を用いた結果、支持を失った(22)。
また、松谷による以下の指摘もある。新自由主義的な政策は雇用社会保障の不安をもたらして世論の反発を受けやすい。一方で、復古的・排外的なナショナリズムの強調は若者を中心とする無党派層にはあまり受け入れられない。ナショナリズムや新自由主義は支持の調達に有効な半面、適度なバランスを失うことで支持の低下を招く(23)。
以上の特徴からして、「敵作り」「メディア戦略」「議会・官僚との関係」「新自由主義」「ナショナリズム」といった全ての面において、ポピュリストの政治手法はきわめて絶妙なバランスの上に成り立っており、そのバランスを失うことで簡単に有権者の離反を招くことが分かる。よってポピュリズム政治が長期にわたって支持を獲得し続けることはきわめて困難である。
(脚注)
(2)吉田、前掲書、36〜54頁。
(3)有馬晋作『劇場型首長の戦略と功罪―地方分権時代に問われる議会』ミネルヴァ書房、2011年、13頁。
(4)森政稔『変貌する民主主義』ちくま新書、2008年。
(5)吉田、前掲書、85~93頁。森政稔、前掲書、2008年、105〜154頁。
(6)同上、93頁。
(7)同上、93〜94頁。
(8)同上、102頁でラクラウの理論が紹介されている。具体的な内容は第2節と第3節で詳述する。
(9)同上、67〜68頁。
(10)高原基彰『現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ』NHK出版、2009年、52〜57頁。
(11)大嶽、前掲書、121頁。
(12)新保守主義と新自由主義の展開については、森、前掲書、30〜37頁、170〜174頁を参照。
(13)小泉政治とポピュリズムのまとめについては、葉上太郎「東京都政の「福祉・教育改革」の虚実」『都市問題』102号、108〜115頁を参照。
(14)大嶽、前掲書、121頁では、石原のポピュリズムをネオ・リベラル型とは異なる、ナショナリスト型と位置づけている。また進藤兵は権威主義型と位置づけている。このように、ネオ・リベラル型の系譜上に石原が存在すると主張する本稿とは、異なる主張も数多く存在する。ただし、石原を分析するアプローチの方法が異なるだけであり、いずれの主張にも当てはまる特徴がある。
(15)吉田、前掲書、141頁。
(16)日本における新自由主義の展開は、高原、前掲書、200〜224頁を参照。
(17)吉田、前掲書、31頁。
(18)蒲島郁夫『メディアと政治』有斐閣、1990年、43頁、122頁。
(19)吉田、前掲書、45頁。
(20)大嶽、前掲書、236頁。
(21)吉田、前掲書、130頁。
(22)有馬、前掲書、152〜162頁。
(23)松谷満「ポピュリズムとしての橋下府政―府民は何を評価し、なぜ支持するのか」大阪市政調査会『市政研究』169号、18〜29頁。
第二章 石原都政の政策検証
第一章においては、本稿の分析枠組みであるポピュリズムの歴史的展開と現代ポピュリズムの特徴を整理した。第一章を踏まえ、本章では石原都政の政策を検証する。石原都政において数多くの政策が実行されてきたが、本稿ではポピュリズムとの結びつきを考える上で、かつ石原都政を総括する上で重要だと思われる政策をいくつか取り上げて考察することとする。政策検証の内容は以下の3点に焦点を当てる。
@政策の内容
A政策形成・意思決定プロセス(石原個人の主体性、議会・官僚などアクターとの関係)
Bポピュリズム的性格(政策の性質、政策の支持層、「敵」の創出、メディア利用など)
以上の観点から石原都政の政策を検証し、共通項や政策ごとの特徴を整理する。@では、各政策の内容や政策が必要とされた背景などを概説する。石原が都知事に就任した1999年の都財政の壊滅的状況や、国政における新自由主義的改革の進展など、政策を実行する上で大きく影響したと推測される事象を前提に、個々の政策内容を論じる。Aでは、政策の意思決定プロセスを検証する。政策の発案、詳細を詰める議論、議会プロセスなどの一連の流れを整理することで、石原個人の意思決定プロセスへの関与の程度とその影響を検証する。その際、図2―1を参照する。
図中@からDまで、どの場面でどのアクターが主体となるかはケースバイケースであり、その点に都知事のリーダーシップやポピュリズム的手法が傾向として表れやすい。Bでは、個々の政策において、とりわけポピュリスティックな特徴である「「敵」の創出」や「メディア利用」がいかにしておこなわれたかを検証する。同時に、政策の性質と主な支持層について述べる。一章で述べたように、ポピュリズム的な政策の性質には一定の傾向があり、政策の支持層からも政策の特徴が分かる。
検証する際の参考として、都知事の意思決定パターンを以下の4つに類型化する(24)。
・稟議制型
知事←政策会議(庁議)←副知事←事業局
ボトムアップ形式の政策形成で、「積み上げ式」と呼ばれる。事務事業の執行権限を持つ事業局が起案し、順次関係部局を回議しながら組織間との合意を形成し、最終決定者である都知事の決済を得て執行する。日本の行政で長らく行われてきた方式であり、都知事に関わらず日常業務はこの形式が採られる。
・トップダウン方式
知事→企画系局(特命)→事業局
知事主導のトップダウンで政策を形成する方式である。知事がマニフェストで都民に公約した政策や改革について、知事本局など企画中枢部門に政策形成を命じる方式である。知事が興味を持つテーマについて、知事本局や特命組織を介して職員を動員し、政策形成を図る。美濃部都政では、知事がマスメディアを通して世論の反応を伺い、政策室を通して庁内に政策化を支持する方式が採られた。石原都政では主に2つの方式が採られた。1つ目は、知事が興味を持つテーマについて、知事本局を通して政策形成を図るパターンである。ディーゼル車規制、四大学統合、首都移転反対などが該当する。2つ目は特定の副知事を責任者に任命し、各省との折衝を託すパターンである。東京メトロ・都営地下鉄一元化、大都市税制改革などが該当する。
・諮問委員会方式
知事→←諮問機関(事務局)→事業局
ブレーン組織としてつくられた諮問委員会(審議会、懇談会)に、知事が政策形成を依頼する形式であり、トップダウン方式の変形である。法的機関である必要は必ずしもなく、要綱などで知事が任意に学識者や専門家を集めて私的諮問機関を作り、そこに特定課題の立案を諮問し、彼らが持つ学識を「権威」に、町内外の政策の正当性を主張する。在野の専門知識・経験を活用し政策に専門性を入れることができ、会い対立する社会集団の利害調整を図ることができる。一方で、恣意的な人選からバランスのある政策になりにくい、行政責任の回避、議会の無能化といった問題を孕む。小泉は首相時代、私的諮問機関である経済財政諮問会議を立ち上げ、経済政策立案のために利用していた。都政では、鈴木俊一が、マイタウン東京構想諮問会議にはじまり述べ86もの私的諮問機関を創設して、都政運営の基礎とした。
・側近ブレーン方式
知事→政策担当(ブレーン)→事業局
トップダウン方式の変形であり、ごく少数のものに都知事の考える政策を具体化するように命じる方式である。側近と知事自らが秘密裏に政策案を構想し、突然記者会見で発表する。社会的に大きなインパクトを与えられる半面、事前の根回しが皆無なため、業界や議会の反発を受けやすい方式とも言える。美濃部都政の政策発表や、石原都政での銀行税構想が該当する。
(25)
第1節 財政政策
@ 政策内容
表2−2より、東京都の歳入は法人二税に大きく左右されていることが分かる。バブル崩壊後の法人二税の大幅な減少は都の財政を圧迫した。石原が都知事に就任した当時は全国の地方自治体が深刻な財政問題を抱えており、法人税収入に依存する東京都の財政は財政再建団体への転落が想定されるほどであった。石原は都知事就任後に第一次財政再建プランを策定し、都財政の立て直しを図った。
第一次再建プランに沿って徹底的な歳出削減がされたにもかかわらず、2003年度の一般会計財源不足額は2497億円、実質収支は42億円の赤字、経常収支比率は97.9%となり、再建目標は達成されなかった。
第二次再建プランにより、再度財政の立て直しが図られた。2005年には財源不足が解消し、実質収支の黒字化を達成した。経常収支比率は85.8%と目標の90%を下回ることに成功した。財政再建目標は予定よりも1年早く達成された。予定よりも早かった点については、景気回復に伴う法人二税の急速な伸びが主な要因と考えられる。
以下、財政再建プランに基づく具体的な政策を検証する。再建プラン二期を通して、徹底した人員削減が行われた。就任から7年間で11526人の職員を削減し、職員給与の4%削減を断行した。また民間、区市町村との役割分担を見直すことで、投資的な経費のうち都単独事業を激減させた。結果として、7年間で一般歳出を歳出額の1割以上にあたる7110億円削減した。また、歳入面においても、都税の滞納処理を徹底し、都税の徴収率を90.2%(1999年)から97.3%(2005年)まで引き上げた。都税収入が多くを占める都財政において、徴収率の向上は増収に大きな効果をもたらした。
石原は2006年度から、東京都会計基準に基づき従来の公庁会計(単式簿記)ではなく、複式簿記、発生主義会計を導入した。これまでは借金が収入欄に記入されるだけで、負債累積額は表示されなかった。また社会資本ストックも公共事業費として算出されていた。複式簿記の導入によって多様な財務諸表を迅速かつ正確に作成できるようになった。「東京と年次財務報告」に公開されることで、都民から行政の動きが見え、民間企業との比較も容易になった。
以上のデータから、石原の財政政策を評価する。危機的な都財政に対して石原は2度にわたって財政再建プランを策定し、歳入の増加と歳出の削減を図った。2000年代半ばの好景気にも支えられ収入は増加、徹底した歳出削減によって財政再建が一応達成された。
石原の財政再建によって東京都は財政再建団体転落の危機から脱出し、以降好景気にも支えられ歳入は安定した。しかし、世界同時不況により再び財政状況が大きく悪化した。2009年度予算は6兆6千億円規模で、歳入は前年と比べて7500億円の落ち込みであった。その後も予算縮小は続き、11年度は6兆2300億円規模となった。石原の財政改革は一定の成果を上げたものの、法人二税への依存体質や独自財源の創設など、都財政の根本的な問題の解決までには至らなかった。もちろん、これは石原個人の問題だけではなく、地方と国の財政関係の在り方にも問題があることは指摘しておく。
A 意思決定プロセス
バブル崩壊後の不況にともなう法人税の減収や、青島都政下で残された多額の負債によって、東京都は財政再建団体への転落の危機に瀕していた。こうした状況下で、既成政党の枠組みや利益団体からの圧力にとらわれない強力なリーダーシップによって、財政再建が担われる必要があったと言える。[表]の争点提起や課題設定の段階においては、財政政策は都政の基本政策であり、石原に限らず争点化する問題であった。しかし、それ以上に切迫した財政状況があり、かつ鈴木都政末期や青島都政では歳出の拡大と収入の減少に対して有効な政策を打てなかった(26)。
石原は、自ら給与一割削減、ボーナス5割削減を打ち出し、自らが先頭に立って財政再建を断行する決意を示した(27)。そのうえで、財政再建の基本計画となる「財政再建推進プラン」を二度にわたって作成し、都財政の健全化を目財した。上記のように、事務事業の大幅整理、職員定数の大幅削減、区市町村への事務移管、貸借対照表の作成、と有財産の売却などに加え、都労組との激しい対立が見られた職員給与4%カットを矢沢委員長とのトップ会談の末に実現するなど、いずれも強力なリーダーシップによって歳出削減を断行した(28)。
さらに、石原は歳入の増加にもトップダウンで臨んでいる。都税徴収の向上の背景には「主税局職員を叱咤激励した石原の強いリーダーシップ」があったと言われている(29)。また、歳入増加の独自の手法として「銀行税」を創設した背景には、石原の強い危機感があった。1999年、石原は大塚俊郎主税局長を知事執務室に呼び出し、「都財政は危機的な状況だ。…がんじがらめの法律の中では難しいと思うが、都独自に税で何かできないか、考えてもらいたい。年内に答えを出してほしい」と要望した。石原と大塚主税局長を含む4人のごく少数で策定された政策であり、石原の強い要請が無ければ実現しなかったと言えよう(30)。ただし、銀行税に関しては議会対策も入念に行われており、都議会主要メンバーへの直接の電話や各会派および財政委員会への親書の送付など、事前に根回しするしたたかさを見せている(31)。
B ポピュリズム的性質
石原の財政政策に表れたポピュリズム的性格を明らかにする。第一章で述べたように、既得権益によって改革が遅れた部門、とくに現代では官僚制や労働組合といった部門が敵と見なされるケースが多々ある。歳出削減において石原が敵と見立てた対象も、都民の税金が人件費として計上される都庁官僚組織と背後にある都労組であった。彼らを敵に見立てて、職員給与4%カットを実現させたことは、税金の使い道という有権者の誰もが関心を抱く争点を上手く利用して無党派層を含む幅広い支持を獲得する有効な手段であった。
また、石原は銀行税の導入にあたってポピュリズム的な手法を活用した。政策立案当時、銀行はバブル期以上の業務粗利益を挙げていたにもかかわらず、多額の不良債権処理を繰越欠損として計上していた影響で法人事業税を免れていた。こうした状況に石原は「銀行は…さまざまな行政サービスの恩恵を受けている。そうした行政サービスのコストを賄う税金を、みんなが払っているのに、銀行は払っていない。国民の預金金利をゼロにしておいて、貸出金利はしっかり取っている。…不良債権の繰越欠損を認めて5年間税金を払わなくてもいいというのは、誰が見ても不公平だ」(32)として批判を加えた。後の議論で「なぜ銀行だけが対象となるのか」が争点となるように、銀行だけが「敵」とされるに十分な理由があるかは疑わしいものの、石原は「敵」作りに成功した。また、当時、金融の混乱を防ごうとして公的資金の注入などを実施していた国とも対立した。石原は国からの圧力をかわすために、石原を含む4人で政策を立案し、定例記者会見で突然発表するという方式を採用した。これにより、メディアの注目を集めるとともに、国の圧力を間接的に批判することで、国家官僚を「抵抗勢力」に仕立て上げたのである。政策形成が極めて閉じられた環境で行われていたことに対して「非民主的」との指摘もあるが、議会への根回しが行われていないとの新聞報道もあり、密室政治が批判されていた当時にあっては逆に効果的であった(33)。
政策の性質としては、財政規模縮小による公共部門の縮小、PFI事業促進による公共部門の民営化などを進めたほか、後述するが福祉経費などを削減して公共投資予算を拡充するなど、投資先の変更や選択と集中も積極的に行った。こうした新自由主義的な改革はネオ・リベラル型ポピュリズムの延長線上にある現代ポピュリズムの典型的な特徴と言える。
(34)
第2節 都市政策
@ 政策内容
石原が独自の都市政策を進めた背景を簡単にまとめる。1990年以降急速に進んだグローバル化の影響で、活動範囲を国内の都市に止めない多国籍企業が台頭した。そうした中で、「従来型の均衡ある国土の発展と言う政策が批判され、グローバルな視点から見て東京が多国籍企業の資本蓄積に適合的な拠点都市として低い機能水準にあること、日本経済の再生の決め手が東京圏の活性化にあり、そのためには、東京の世界都市化と東京圏の集中的な振興の必要性が強調されていた」(35)。
石原もこうした要請を受けて、東京の再生が日本の再生につながるとして99年「危機突破・戦略プラン」、2000年「東京構想2000」を発表した。「東京構想」では、従来の都内のみを対象とせず、東京圏全体を入れた「環状メガロポリス構想」を打ち立てた。東京圏を、センター・コア・エリアを中心に7つのゾーンに分け、それぞれの役割を明示している。これは、戦後一貫して多心型都市構造を目指してきた東京の都市政策を継承し、発展させるものである。「同構想では、世界都市としての東京の地位を強化していくため、都内拠点における集積を強めるとともに、それによってはまかないきれない首都機能を補完するため、周辺県まで巻き込み」「世界首都圏を作り上げる」石原の都市戦略であった(36)。
以上のような石原都政における都市政策は国と一体となって進められた。特に小泉政権で施行された「都市再生特別措置法」によって、都内で7か所が都市再生緊急整備地域に指定されたほか、従来の自治体だけで決めていた都市計画を民間にも提案できるように改めた。
石原の都市政策を代表するものとして環境アセスメントの緩和がある。石原は07年7月、民間による再開発を促進する目的で環境影響評価条例を改正し、条例適用条件の緩和を行った。従来の事業段階でのアセスメントに加え、計画段階でのアセスメントという手続きが新設された。事業者が計画策定の段階であらかじめ複数の計画案について「環境配慮書」を作成し知事に提出すれば、条例に沿って知事が適当と認めた案については、事業段階アセスメントの手続きが免除される。これまでの環境アセスメントは、開発を遅らせる要因になるとの指摘があったが、適用条件の緩和で環境アセスメントに要する時間が大幅に短縮された。
このほか、首都圏三環状道路の整備や成田・羽田両空港の機能強化などメガ・インフラの整備はもちろんのこと、石原は独自に民間都市再生プロジェクトを支援するインフラ整備を実施した。汐留再開発は東京都の計画である環状二号線の整備によって開発の採算性をより確実なものにした。また、防衛庁跡地の六本木ミッドタウン再開発も、民間都市再生事業の認定を受け、都市計画街路事業が並行して進められている。
以上の石原都政における都市政策を評価する。「東京構想」に基づく都市政策としてメガ・インフラの整備や規制緩和を積極的に実施し、多国籍企業の活動拠点として東京を再整備するとともに民間投資の下地作りに成功した。こうした都市政策は、高度成長期の偏った都市設計の再整備につながったものの、生活都市としてのインフラ整備が後回しになった感が否めず、功罪両面を持っていた。
A 意思決定プロセス
石原の都市再生の基本政策は「環状メガロポリス構想」に集約されている。構想実現のため、石原は国に積極的に働きかけを行っている。代表的なものが、従来の規制が強い都市計画を見直し、民間活力を引き出そうとする仕組みに変えるため、国に都市再生特別措置法の制定を迫ったことである。2001年、首都圏自治体首長と経済界代表が集まる懇談会で構想を披露し、国や自治体に構想実現への協力を求めたほか、首相官邸に出向いて小泉首相に都市再生へ向けた取り組み強化を迫っている(37)。都市政策に積極的な石原の姿勢は、地方への予算分配からによる国土の均衡発展から、都市への集中投資へと舵を切ろうとする国の政策を後押しし、都市再生プロジェクトの事業化を早めた。
こうした都市政策の方向性が生まれた背景には、首都移転構想に対して「首都移転にNo!」のキャッチフレーズで強く反対した石原の姿勢がある。石原は99年6月の都議会本会議で「江戸時代から今日にかけて、この東京に築き上げられてきた文化的歴史的蓄積を活かすことなく、膨大な経費をかけて首都機能を移転することは、まさに歴史への冒涜と言っても過言ではありません」と述べている。また石原は「首都移転に断固反対する会」の会長を務めるなど、自らが先頭に立って首都移転への反対を主張している。そもそも、首都移転はバブル期に東京一極集中問題を解消するために出てきた議論であり、バブル崩壊後にその機運は一気に低下していた。よって、石原の強力なリーダーシップが全てを動かしたわけではない。しかし、強硬な反対姿勢を国に対して示し続けたことによって、実質的に首都移転議論に終止符が打たれたと捉えることができる。
B ポピュリズム的性格
石原が都市政策の基本理念として掲げた「東京構想」には以下のような記述がある。「結果の平等ではなく、積極的な挑戦を促す機会の平等とその成果を正当に評価するという『新しい攻勢の原理』を重視する社会を築いていく」「柔軟で機敏な都政運営を可能とするように都庁の行政体質を改善していかなければならない。このためには行政改革の視点でもある『スピードの重視』『コスト意識の徹底』『成果の重視』を、都政運営の具体的なしくみとして定着させ、職員一人ひとりの意識改革を図っていかなければならない。行政評価制度を本格的に展開するとともに、民間委託の推進やPFI(民間資金活用型公共事業)の導入などを積極的に図り、行財政運営のいっそうの効率化を推進していく」。
石原の都市政策には、現代ポピュリズムに特徴的な「市場原理の重視」「民営化」「効率化」「規制緩和」といった新自由主義的色彩が強く表れている。こうした民間投資の拡充、民間資本の活用など新自由主義的政策によって、都市中間層の支持を獲得する狙いがあったと推測できる。ただし、「東京構想」は総合計画としては実質的にお蔵入りしており、重要施策への重点的予算・人員配分などが石原の査定によって決定する方式へと後に転換した(38)。理念だけを残して、都民の関心を引くプロジェクトを選定するポピュリズム的手法に変質したことが指摘できる。
また、石原の都市政策には首都移転反対論が根底にある。首都移転を目論む国を敵として、東京圏メガロポリス構想を「首都移転構想のアンチテーゼ」(39)と位置づけている。同時に石原の都市政策は国の政策、とりわけ小泉内閣の時代に推進された都市再開発と共鳴しながら進められてきた経緯がある。この点は留意すべきではあるが、石原が「首都移転にNo!」という印象的なフレーズを用いて、複雑な都市政策の争点を首都移転に対する賛成反対へと単純化し、都民の支持を調達しようと試みたことは否めない。結果として国の都市再生計画と親和性が生まれたと捉えるべきである。
第3節 福祉政策
@ 政策内容
美濃部都政以降、継続されてきた都独自の福祉政策は「現金給付型」という特徴があった。高齢者福祉施設の少なさを在宅介護で補うために他都道府県と比べて厚い福祉手当が存在した。しかし、99年には都の福祉予算は6000億円にものぼり、厳しい財政状況を背景にバラマキや財政硬直化の要因として批判された。石原都政では「行政の決定する福祉から都民自らが選択する福祉、利用する福祉へ」(40)の転換を図る。石原の福祉改革によって、負担の在り方が見直され、従来の施設偏重の画一的福祉から、地域の事情に対応した福祉へと転換した。さらに石原は、経営主体が行政や社会福祉法人に限定されていた従来の方法を改め、民間やNPOなど多様な主体の参入を認め、競争できる条件整備と利用者選択を支える仕組みに変えた。福祉分野の民営化、民間と行政の協力の例としては、認証保育所の設置が挙げられる。待機児童の増加問題を解消するため、無認可保育所でも一定のサービス水準があれば都が独自に認証することで、補助金を交付して民間参入を促進する狙いがあった。また知的障害者のグループホーム整備にも石原は力を入れていた。しかし、一定の成果を上げていたものの、職員の待遇やサービスの質などの面で不備も多い。認証保育制度では2009年に申請書類の偽造が発覚するなど、都のずさんな管理体制が明るみに出るなど、課題が残されている。
こうした石原都政下の福祉政策については、財政政策的には一定の成果があり目新しい政策も実施されたものの、多様な主体参入を促したことによるサービスの低下や、単純に予算が削減されたこともあって、福祉切り捨てとの批判も絶えない。しかし、削減基調にあった1・2期と比べて、3期目の2010年度予算では都の一般会計が前年度比5.1%減少する中、福祉保健局は9.2%増の8549億円を計上しており過去最高を記録している。
A 意思決定プロセス
石原の福祉政策を予算の面からみると、初期は全面的に削減基調にあった。美濃部都政以降、東京都は独自の福祉政策を展開する福祉先行自治体であった。しかし、少子高齢化社会の到来によって歳出は増え続け、一方で長引く不況により税収が減ったことで、独自の手厚い福祉制度を維持することが困難になっていた。こうした背景を受けて取り組んだ福祉予算の見直しについては、「都政には、こうした改革を願う潜在的な考え」があり、「石原知事の強いリーダーシップを使って都政の積年の課題を一気に解決しようとする都庁官僚の思惑」と親和性を持っていた(41)。
こうして策定された2000年度当初予算では、10項目の見直しが提案されている。石原としては、高い支持率と上述の社会状況が大幅な削減を可能にすると考えた。しかし、当然のように福祉予算削減には都議会からの反発も強かった。自民党は、見直しの中で生じる財源で、区市町村の福祉事業を支援する補助制度の新設を求めたほか、介護保険導入で都の加算制度が廃止される特別養護老人ホームにも新たな財政支援を要望し、記者会見で額を示し、予算化を迫った。公明党もシルバーパスの制度維持と乳幼児医療費助成の拡充を要求した。これに対し石原は、自民党の求めに応じて補助制度や財政支援など総額二百二十八億円の予算化を実現したほか、シルバーパスについては年間負担を六千円から千円まで減額した。乳幼児医療費助成に一部負担を導入する案も、「対象年齢を四歳未満から五歳未満に広げるべきだ」との要望を入れ、さらに一部負担についても「入院時の食事代のみ」として、通院する時の負担は見送った。知事周辺には都議会の要求を丸飲みすることに対して反対意見が強かったが、最終的には石原が決断して、予算も議会を通過した(42)。
石原としては福祉政策全体としての予算削減目標達成と、今後の予算削減への見通しをつけたことに一定の意味があり、それ以上に都議会との関係を良好に保ってリーダーシップを発揮しやすい基盤をつくるという成果を得た。
B ポピュリズム的性格
石原の福祉政策には新自由主義的な経済・財政政策という前提があった。限られた予算の中で年々拡大する福祉予算だけを聖域として改革しないという選択肢はなく、社会保障費が都の予算全体に占める割合も大きいことから、この分野の予算削減は効果的であった。また、都立病院の民営化や、病院の統廃合による「選択と集中」、認証保育制度をはじめとした規制緩和によって、市場原理に基づいた効率的な社会保障を目指した。こうした新自由主義的な改革は、現代ポピュリズムの特徴である。
福祉政策については「敵作り」や「メディアの利用」といった現代ポピュリズムの特徴はみられていない(43)。これは、新自由主義的な政策の下で福祉予算を削減することが、社会的弱者への「痛み」を伴うことを意味し、格差の拡大といった問題に発展する恐れがあるため、単一争点主義のポピュリズムとは相容れない性格を持つからであると思われる。社会保障費の削減によって無党派層の支持を失うことはポピュリストにとっては致命的である。石原もその点を嫌って、自民党・公明党の要求を丸飲みするなど、争点として目立たせない工夫をしたと考えられる。
第4節 環境政策
@ 政策内容
大気汚染や化学物質による都市の健康被害が懸念されている。都政には、都民の健康と生活の安全を脅かす直接的な危機を除去する積極的な対策が求められている。また、廃棄物の増加や緑地の減少、ヒートアイランド現象、温室効果ガスの発生など都市の環境問題は地球規模の環境問題と密接にリンクしている。
これらの問題に対して、石原は都市環境改善に向けて積極的な姿勢を打ち出してきており、それらは「東京都環境基本計画」に集約されている。基本計画に沿って、石原は屋上の緑化推進や街路樹の再生や自然環境の保護、廃棄物の発生抑制や適性処理、温室効果ガスの排出削減や再生可能エネルギーの利用促進などの対策を実施してきた。
とりわけ石原が都政の環境政策の目玉として掲げたのが「ディーゼル排気ガス規制」である。都独自の「環境確保条例」を策定し、ディーゼル車について、決められた排出基準を満たさない限り2003年10月以降は都内の通行を禁止した。一方で、粒子物質減少装置(DPF)装着に助成金を設け、天然ガス車への切り替えにも補助をするなど、一定の支援策も実施した。不正軽油対策として「不正軽油撲滅作戦」を実施し、悪徳業者の告発を行うなど、厳しい姿勢で臨んでいる。こうした取り組みが功を奏し、2005年度の大気汚染状況調査において、浮遊粒子状物質の濃度が測定開始以来初の全測定局での環境基準達成を実現し、一定の成果を残した。
2010年からは独自の排出量取引制度を取り入れた温室効果ガスの排出削減期性を始めた。官民合わせて約1400事業所を対象とし、2014年までの5年間で6~8パーセントの削減義務を負わせる仕組みになっている。長期的には2020年までに00年度比25%の二酸化炭素排出削減を目指している。
環境対策は都政の歴史の中でも美濃部時代に積極的に取り組まれており、石原も美濃部の環境政策を積極的に評価している。しかし、鈴木・青島時代は大きな成果を残せなかった。歴代の知事と比較して石原は積極的な環境政策を打ち出している。しかし、環境政策は東京という都市だけに限定して実施しても効果は薄い。その点、石原は広域連合(千葉・埼玉・神奈川)を模索することはできたが、国との連携を図るまでには至っていない。また、環境政策は効果が表れるのに時間がかかることもあって、評価が難しい分野である。
A 意思決定プロセス
環境政策自体は1999年に前東京都知事の青島が都環境審議会に公害防止条例の改正を諮問していた。美濃部都政の時代に公害問題対策として国に先行して実施された都独自基準の公害防止条例は、環境ホルモンやフロンガス、二酸化炭素などの温室効果ガスといった新たな問題に対応しておらず、改正が待ち望まれていた。石原も参議院議員時代の70年代に環境庁長官を務めた経験から、環境政策に対して関心が高かった。こうした背景が、石原都政の環境政策を推進していく原動力となった(44)。
石原は1999年の都知事選で目玉政策として「ディーゼル排気ガス規制」を掲げた。都庁内の政策と共鳴して、石原は最初の定例議会で宣言した。「環境行政は、国が定めた上意下達による環境基準に基づき、供給者に対して規制することが施策の中心でありました。私はこうした供給者に着目する視点に加えて、需要者たる都民が、自ら行動を起こして東京に求められる環境の水準を決めていく。いわば『需要者からの環境革命』を、この東京から起こしていきたい。」(45)環境保全局にディーゼル問題のプロジェクトチームが結成され、石原の以降の下スピード重視で政策が練られた。ただし、この時点では業界からの反対も根強く都民や都議会の理解を得るには不十分であった。そこで石原は負担増に反対する運送業界や自動車業界に対して、99年11月にディーゼル車メーカー7社と日本自動車工業会の役員を集め、ディーゼル車No作戦への協力を自ら説得した。都の要請に対して、メーカー代表が「我々も最大限の努力を約束しますが、総合的に行政、都民、運送業者が一体となって…」と答えた。これに対し石原は、「相互に努力すると言うのはもう聞き飽きた。都は自分でやりますから。国と衝突して都が負けたっていい。恥をかくのは通産省など国だ。現に人がばたばた死んでいるんだから、黙示録的世界だよ」と強硬な姿勢を崩さなかった(46)。石油業界に対しても、主税局長に軽油の優遇税変更を国に要請させたほか、与党三党に陳情を行うなど石原自身が先頭に立って政策実現を図った(47)。
B ポピュリズム的性格
「敵づくり」という側面において、環境政策の分野で石原のターゲットとなったのは環境政策に消極的な国、そして厳しい規制によって損害を被る産業界であった。産業界に対して上述の通り批判を加えたほか、国に対しては以下のような間接的な批判もしている。2000年に神戸地裁で争われた「尼崎公害訴訟」では、日本の自動車排ガスに関する訴訟で初めて「汚染の差し止め」を認める判決が下された。同時期に国と東京都が被告とされた「東京大気汚染訴訟」に対して、石原は尼崎判決を積極的に評価し、東京訴訟で同様の判決が出た場合はそれに従う姿勢を示した(48)。こうして、環境政策に対して消極的な国を間接的に批判する形で石原は「ディーゼル車Noキャンペーン」に対する支持を集めた。
メディア対策という点で石原は都民に対して斬新な手段で訴えた。石原が展開した「ディーゼル車Noキャンペーン」では、真っ黒なスス入りペットボトルを持ってメディアに露出し(49)、「これはディーゼル車が1キロ走る間にまき散らす粉塵だ。(中略)このせいで、毎日何人もの人がばたばた死んでいる」「これを放置することはまさしく殺人だ」と都民にアピールを重ねることで、都民の意識の中にディーゼル排気ガスに対する負のイメージを植え付けた。また、インターネット上の「討論会」、都民参加型の「大気汚染体験」などの手法を用いたことで、メディアに取り上げられやすくなった(50)。
石原の手法によれば、環境政策と産業・都市政策の間のバランスや総合的な政策づくりという複雑な争点が消え、「ディーゼル車や温暖化ガスという「環境に悪いもの」に対して賛成か反対か」という単純化された争点に絞られている。環境という、反対しづらい分野において満遍なく都民の支持を獲得しようとしたポピュリズム的政策であったと言える。
第5節 新銀行東京
@ 政策内容
石原都政二期目の目玉として、銀行の貸し渋りや貸しはがしなど「資金繰りに苦しむ中小企業への融資」を目的とした新銀行東京が設立された。背景には、バブル崩壊後の長期不況とデフレ、急激な産業構造の変化に伴って、都内の企業倒産数が90年代初頭から3000件前後の高水準で推移し、従前より東京経済を支えていた中小企業の経営状況が悪化したことや、既存金融機関のリスク負担能力が著しく低下し、中小企業向け融資が減ったこと、そして中小企業に対する貸しはがしや貸し渋りが多く行われたことがある(51)。こうした状況から脱却するために、個人金融資産を活用し、地域経済に循環させる有効な手段として、2004年4月新銀行東京が設立された(52)。
しかし、開業初年度末時点で都議会から新銀行の経営状況を懸念する声が上がっており、2年目までの融資残高が目標値に大きく届かないという事態が発生していた。さらに、当初計画を上回る赤字に対しても経営計画の見直しはされず、石原自身も「追加出資はしない」との議会答弁を2カ月後に翻している。甘い経営見通し(開業3年目での経常利益黒字化達成、総資産1兆6000億円など)と無担保・無保証という異例の融資方式、甘い審査を原因とした大規模赤字が多量の不良債権を発生させた。開業後4年間で一回も黒字を達成できないまま最初の出資金1000億円を棄損し、2008年には400億円の追加出資を余儀なくされた(53)。
その後、徐々にではあるが経営状況は改善されつつあったが、2008年12月の融資詐欺事件摘発やずさんな融資管理に対して、金融庁から業務改善命令が出されるなど、いまだに多くの問題を抱えている。また、目玉政策であったポートフォリオ融資が廃止に追い込まれるなど、実質的に失敗であった。ただし、2009年度決算では初の単年度黒字を達成しており、徐々にではあるが経営状況は改善しつつある(54)。
A 意思決定プロセス
新銀行東京の設立は石原が二期目の選挙公約の目玉として掲げた政策である。石原は再選出馬宣言にあたり「金融機関が不良債権の処理に汲々として、本来の役割を忘れ、生きた資金を供給しないため、中小企業は必要な資産の調達に苦しみ、持てる能力を発揮できずにいる。経済の負の連鎖を断ち切るべく、東京都が主体となって、日本や世界の代表的企業とともに、負の遺産のない新しい銀行を創設したい」と語り、新銀行設立への意欲を強く示している。その後は一橋総研や、産業労働局のブレーン、民間大手企業を活用して政策の内容を固めていった(55)。
中小企業対策ということもあり、創設時は自民党から共産党までの幅広い支持を獲得していた政策であったが、2008年の追加出資問題を境に民主党や共産党の厳しい批判にさらされ、トップダウンで政策を進めてきた石原にも批判の矛先が向いた(56)。それでも石原は、責任を旧経営陣に押し付けて(57)、400億円の追加出資案を都議会自民党・公明党を巻き込んで強引に可決を図った。ただし、採決にあたって自民・公明両党は付帯決議で都の監視体制を強化することを条件として賛成しており、石原も可決後に両党への謝意を表明するなど、議会への配慮も見せた(58)。
B ポピュリズム的性質
新銀行東京は斬新な発想で大衆受けを狙った無党派層獲得手段であったことが指摘できる。大企業の本社が集まる東京において、中小企業の救済という従来とは異なる新たな争点を生み出した。そして新銀行というインパクトのある政策は議会での主要議題であると同時に、石原が二期目の都知事選出馬にあたって最重要公約として掲げたこともあって、新聞やテレビなどを通して報道を重ねることで、都民の間にも浸透していった。
また、銀行を対象にした政策を銀行税、新銀行東京と立て続けに打ち出したことで、石原は銀行業界というエリート集団によって本来支援を受けるべき中小企業の利益が損なわれていると訴える。加えて、一期目には中小企業向けの債券市場構想(59)も実現させ、中小企業への関心を強く抱いていることがうかがえる。中小企業などの弱者の立場から銀行と言うエリートによって社会・政治が歪められていると主張することは、エリート政治の否定を謳ったポピュリズムの核心を突くものである。
第6節 東京オリンピック招致
@ 政策内容
石原都政3期目の目玉とされたのは1964年以来の2016年東京オリンピック招致であった。オリンピック開催による経済効果や、準備のためのインフラ整備など都市再生事業の一環として立案された。「世界一コンパクトなオリンピック」などをキャッチフレーズとした基本構想が06年2月に示され、5月に基本計画が発表された。
東京都は、五輪招致をきっかけに国からの支援も含めた本格的な都市インフラの整備を目指しており、2006年にオリンピック基本構想懇談会からの報告書では「首都圏の骨格幹線道路は全て完成し、経済の高コスト小僧や排気ガスによる環境負荷を助長する渋滞は解消している。首都圏全体で空港機能が整備され、空のアクセスは拡充している。陸・海・空それぞれの物流機能は相互にネットワークを形成し、人とモノのスムーズな移動が国際競争力のある都市を作り出している」(60)と述べられている。
招致に向けては、都民の世論喚起の意味合いも込めて東京マラソンを開催するなど、都市インフラ整備以外の面からもアプローチが試みられた。
しかし、2009年10月のIOC総会で、16年のオリンピック開催地がブラジルのリオデジャネイロに決定し、東京は次点にも届かず敗退した。敗退直後に、2020年のオリンピック招致を目指すことが決まり、石原も4期目の選挙公約として掲げた。ただし、招致失敗の原因分析や招致活動全般の総括がなされないうちに次回五輪招致への参戦を決めたことには拙速との声も多い。また多額の招致費用について批判が出ている。例えば、招致のために知事が公費として支出した1億3000万円が条例の規定を上回る高級ホテルや高級車に使われていた点が共産党から指摘されている(61)。民間企業からの寄付が思ったほど集まらず、電通から2020年招致を前提として借入を行っている点にも批判がある(62)。
A 意思決定プロセス
「五輪開催を起爆剤に、日本を覆う閉塞感を打破する」の掛け声の下、2005年の夏に五輪招致が発表され、国内選考を経て東京都が正式に立候補する運びとなった。石原は立候補地が決定した当日の記者会見で「言いだしっぺだから、その責任はあるでしょうな」と語り、五輪招致への意気込みを語っている(63)。その後、都庁にオリンピック招致本部が設置され、石原自ら陣頭指揮をとってスポーツ界、民間企業、JOCなどに働き掛けて東京への招致運動を展開した。石原は五輪招致に対してかなり強く関心を抱いており、気運の醸成が争点になることを意識して東京マラソンを開催するなど、下地作りにも注力した。
しかし、こうした一連の政策は石原個人の興味関心に基づいた独善的な性格が強く、投票の判断材料となるIOCの事前世論調査でも56%の支持しか獲得できていなかった(64)。また、他の立候補都市が国と一体となって招致活動を展開したのに比べ、東京は国が全面的に五輪開催を後押しするレベルまで連携できなかったことも敗因の一つと言われている。石原個人の力で招致計画は国内選考を勝ち残るステップまで進んだが、一方でその限界を見せる結果ともなった。
B ポピュリズム的性格
五輪招致という斬新なテーマ設定は、それだけで都知事選の争点になるだけの影響力を持っている。特に経済政策や財政政策、社会保障など従来の政治で見られた争点に関心が薄い無党派層を引き付けるには格好の材料であった。背景には都市のインフラ整備を早急に進めたいとの思惑があり、そうした思惑が争点化するのを避けるために五輪招致というシンボルが掲げられた。また、報告書に五輪招致の狙いとして「国威発揚」が明記されている点からして、ナショナリズムの高揚による保守層の支持調達も図られている。
こうして展開された招致活動は、テレビメディアを活用した都民向けのPRによって五輪開催への機運を高める手法が多用された。石原自身も積極的にメディアに登場し、五輪招致の必要性を繰り返し都民に訴えた。招致機運の盛り上げや工法などムーブメント推進経費に95億円も投入している。従来の政策形成過程であれば都民側からの要請で政策が形成されることが多いが、五輪招致は石原がテーマを設定し、予算を投入して世論喚起を図る手法が採用された。
(脚注)
(24)佐々木信夫『都知事』中公新書、2011年、113〜117頁。
(25)佐々木、前掲書、111頁。
(26)鈴木都政末期から青島都政にかけては、バブル崩壊後の長期不況が都財政を大きく圧迫した。青島都政末期では、都の財政積立基金が底を突きかねない事態に直面していた。
(27)佐々木、前掲書、51頁。
(28)田村建雄「第2章 計算された頂上対決、対都議会戦術のすべて」石原慎太郎研究グループほか『石原慎太郎の東京発日本改造計画』学陽書房、2000年、60〜62頁。都労連は白紙撤回を求めてストを打つなど徹底抗戦の構えを見せたが、石原の説得により事態は解決した。
(29)佐々木、前掲書、125頁。東京都の都税徴収率は全国平均を下回っていたが、石原就任後は全国平均を上回るまでに改善された。
(30)銀行税の政策形成過程については、東京都租税研究会『東京都主税局の戦い』財界研究所、2002年、21〜49頁が詳しい。また、鈴木俊一も財政再建で成果を残したが、石原とは異なる形でリーダーシップを発揮した。外部有識者からなる「都財政再建委員会」を設置し、再建方法を諮問し具体的な方法論を答申として引き出す。その答申に基づいて都庁内部に改革を迫る、という方式を採用した。鈴木はこの方式を用いて3期12年で職員1万7千人の削減、職員退職手当3割削減、管理職ポスト402削減などで約1800億円の経費削減を達成した。
(31)東京都租税研究会、前掲書、71〜75頁。
(32)同上、41頁。
(33)『都政新報』2002年10月29日。
(34)東京都財務局HP「平成23年度予算概要」http://www.zaimu.metro.tokyo.jp/syukei1/zaisei/20110201_heisei23nendo_tokyotoyosanangaiyou/23nendoyosanannogaiyou.pdf(最終アクセス:2012年1月14)
(35)武居秀樹「第1章 石原都政の歴史的位置と世界都市構想―進行する階層格差と貧困」東京問題研究会『石原都政の検証』青木書店、2007年、21頁。
(36)岩見良太郎「第2章 東京都市再生―その戦略と矛盾」東京問題研究会、前掲書、57頁。
(37)森野美徳『石原慎太郎の帝王学』WAVE出版、2002年、93頁。
(38)『都政新報』2003年1月31日。
(39)岩見、前掲書、48頁。
(40)佐々木、前掲書、194頁。
(41)佐々木信夫『東京都政』岩波新書、2003年、175頁。
(42)2000年度予算をめぐる石原と都議会の攻防は『朝日新聞』1999年12月22日付朝刊、田村、前掲書、62〜64頁を参照。また、『都政新報』2007年2月23日では、「通常、知事査定は1月に入ってからだが、00年度予算編成では、福祉施策だけ前倒しで12月に査定し、自民党や公明党ともすり合わせて決着を図った」との報道がある。
(43)『都政新報』2007年3月13日は「ディーゼル車規制や三環状道路の整備などに率先して取り組んできたのとは対照的に、福祉分野となると、石原知事のトップダウンが鳴りを潜める」と指摘している。
(44)葉上太郎「都市国家百年の大計、「ディーゼル車NO作戦」」石原慎太郎研究グループほか、前掲書、130〜142頁。
(45)同上、140頁。
(46)同上、146〜147頁。
(47)同上、147〜148頁。
(48)宇田俊「第8章 都政における環境政策の「成功」と現実」東京問題研究会、前掲書、178頁、187〜189頁。
(49)黒のペットボトルを取り上げた記述は、石原慎太郎研究グループ、前掲書、144頁ほか、数多くある。
(50)宇田、前掲書、177頁。
(51)白藤一博「新銀行東京の検証」東京自治研究センター編『東京白書V 石原都政10年の検証』生活社、2009年、114頁。
(52)『朝日新聞』2007年3月16日付朝刊によると、設立の時点で都庁幹部からは新銀行の必要性に疑問の声が上がっていた。
(53)一連の流れについては白藤、前掲書、115〜117頁を参照。
(54)『都政新報』2010年5月22日。
(55)『都政新報』2003年4月22日。
(56)『都政新報』2009年11月20日によれば、都議会野党は知事の責任が不明瞭だとして、08年度一般会計決算を都政史上初の不認定としている。
(57)石原は2007年2月22日の予算特別委員会で新銀行東京の経営不振について「最大の原因は、不慣れな仕事を不慣れな人にさせた嫌いがある」と答弁し、自らの責任については答弁を避けている。
(58)『都政新報』2008年3月28日、4月11日。公明党は予算特別委員会直前まで態度表明をせず、党内で議論が分かれていた。最終的には付帯決議の条件付きで賛成に回った。自民党からも苦渋の選択であったとの声が上がっている。
(59)森野、前掲書、101〜106頁。
(60)オリンピック基本構想懇談会『東京オリンピックの実現に向けて』6頁。
(61)『都政新報』2009年12月25日。
(62)『都政新報』2010年2月26日。同2010年3月5日では、民主、公明、共産の各党の批判を取り上げている。
(63)岩見良太郎、武居秀樹「第6章 オリンピック招致における目的と手段の転倒―スポーツとは無縁の東京圏改造」東京問題研究会、前掲書、139〜140頁。
(64)『都政新報』2009年10月6日。2010年3月2日では、「企業から寄付・協賛金が集まらなかったことは、気運が低調だったことを象徴するエピソード」と指摘している。
第三章 石原慎太郎のポピュリスト的性格
第1節 ポピュリズム的手法
@ 敵の創出と無党派層の取り込み
ポピュリズムにおける一連の「敵作り」手法について、内山融はカール・シュミットが「政治的なるもの」を敵と味方の区別として定義したことを用いて、「支持者を糾合して、自身の政治的立場を強化するために敵・味方の区別を利用した例は、歴史上、枚挙に暇がない。社会の一部を味方と見なし、他の部分を敵とみなすことによって、政治的リーダーは自身への動員をすることができる。すなわち、リーダーはしばしば、リーダーシップを強化するための戦略として、社会の中に境界を引こうとするのである」と説明している。
内山はこのような戦略を「境界戦略」と呼んでいる。そのうえで、石原慎太郎が利用した「境界戦略」を検証している。以下、その内容を簡単にまとめる。石原に特徴的なのが国との対決姿勢である。都と国との間に「境界」を引き、国の無策や国政の混乱を強調する半面、都の優位性を打ち出す。例えば、就任後の初めての都議会定例会である1999年第二回定例会の所信表明で、石原は「もはや発展の足かせでしかない、旧来の中央集権的な政治・行政システムは、地方に疲弊と混乱をもたらしただけでなく、自らの判断の下に自らが行動するという、個人や企業そして地方自治体の自主性、自立性を阻む最大の要因となっております」として、国の中央集権的な政治行政システムを強く批判している。
2008年1定の施政方針で、地球環境問題に対する国の姿勢について、「我が国もまた、実効性のあるCO2排出削減策を政策決定できずにおります。・・・政府は、バリ会議での対応を批判されて、ようやくCO2削減の目標値設定に前向きな姿勢を示しましたが、そのための危機感も文明認識もいまだにかけていると言わざるを得ません」と批判し、「国家が責任を果たさなければ、都市が立ち上がるしかありません」として、国に代わって東京が責任を果たすと宣言した。
三位一体改革について「改革とは名ばかりの数字合わせ、その場しのぎの辻褄合わせ」「補助金改革に名を借りて、福祉施設整備について実質的な負担増を地方に押し付け」と述べたほか、国から地方への税源移譲に関して「『地方対東京』という対立軸をねつ造」「自らの無為無策」と言葉遣いも荒くなっている(65)。
以上のような「敵づくり」によって、官僚を中心としたエリート政治を批判し、既得権益に縛られて身動きが取れない国の無策を国民に訴え、支持を獲得しようとする意図が見て取れる。その支持の調達先として、地方自治体に対する「国」を敵に見立てることで、経済的文化的対立軸にとらわれない無党派層を中心とした幅広い層をターゲットにしている。
また、こうした無党派層を取り込むために、従来とは異なる新たな争点を持った独自政策を掲げていたことも注目に値する。東京オリンピックやカジノ構想、中小企業対策としての債券市場や新銀行東京など、知事から争点として提示した政策が数多く存在する。それぞれの政策に一貫性があるわけでなく、知事の思い付きとの批判も強い(66)。一方では、無党派層を取り込む有効な手段であったことも見逃せない。
A メディアの利用
大嶽や有馬の指摘にあるように、近年はテレビを利用して劇場型の政治を展開する政治家が増えてきたという傾向がある(67)。有馬によれば「現在のように本格的なテレポリティックス時代においては、テレビの政治に与える影響が大きくなると同時にテレビ報道のソフトニュース化が進むので、テレビも政治も劇場的な展開を求める傾向が生じる。政治家にとっては、テレビに多く登場するほど有権者に対する政治的影響力が高まるので、政治側は、テレビ報道の特性を熟知した巧みな発信をいかに行うかが課題となる。より具体的にいえば、テレビ側が喜ぶような発信、例えば劇場化・単純化ができるかどうかが重要である。この点、テレビ慣れしタレント型の能力を持っていたり、多くの人々が面白がるような劇場型の政治手法が得意な政治家は有利といえる」状況が生まれている(68)。
石原もテレビという媒体を有効に活用してきた政治家の一人である。具体的な政策レベルでは、ディーゼル車No!キャンペーンで石原が煤の入った黒いペットボトルをふり続けたことが、有権者に対して視覚的に訴える手法として影響力をもった(69)。また銀行税の発表も記者会見の場で突然発表したことも、メディアの特性を熟知したうえでの戦略であったと考えられる。全体的な石原都政の姿勢としては、国を敵に見立てた戦略は、劇場化・単純化といった部分でテレビメディアと強い親和性を持っていた。
B 新保守主義的性格と新自由主義的性格
石原は、経済的には自由主義の政策を志向した。折しも、小泉内閣の下で竹中平蔵を中心として新自由主義的な経済政策が採用された。東京は日本経済再生の要として、石原の強力なリーダーシップのもと、都市再生に注力する。環境アセスメントの緩和や汐留再開発など民間活力を利用した都市再生は、鈴木都政で官僚主導によって実施された臨海副都心開発とは全く性質を異にしていた。また、都市再生のための予算を都市再生緊急整備地域に集中して投資するなど、限りある予算の使い道に関して「選択と集中」を積極的に行った。
年々増加する社会保障費の削減を目指した改革は他の新自由主義的な経済政策と共通している。現金給付の廃止、シルバーパスの補助削減などが実施された。削減された社会保障制度の代替として、認証保育制度に見られる多様な主体を参加されるための規制緩和をおこない、民間活力を活かした社会保障制度を目指している。
こうした新自由主義的な政策展開は、格差問題など新自由主義的改革の「痛み」を受ける下層の存在によって広範な支持調達することが難しいのだが、石原は文化的保守の性格を持っていたことで、成功したネオ・リベラル型ポピュリスト同様の成果を上げた。オリンピックによるナショナリズムの高揚や、教育改革における権威主義的色彩の強調、日の丸・君が代の強制、横田基地の返還など、政策の成否は別にして、文化的自由主義の政治がもたらす社会的混乱の増大を有権者の感情に訴えた。同時に、強力なリーダーシップをアピールすることで、「頼れる保守政治家」としての地位を固めていったのである。
C 民主主義的プロセスの迂回
ポピュリストは、しばしば自身の政策実現のために意思決定の過程において民主主義的プロセスを迂回する。石原慎太郎もその例外ではなく、意思決定プロセスにおいていくつかの特徴がうかがえる。
石原は就任後、都庁の意思決定プロセスの改革を行った。一つは副知事と担当局の役割変更である。新しい補佐体制では、@副知事は一体として知事を支えるA全員審議を原則とするB主要課題について担任事項を定めるが、専権事項ではないC担任事項以外に連絡窓口として担当局を定める―とした。従来のように副知事が、担任事項と局の両方を持つ形式ではなく、担任事項だけを定め担当局が「連絡窓口」となることで、政策形成過程における知事の影響力を強める狙いがある。
二つ目に、政策会議・庁議の名称変更は行わないものの、意思決定の経路短縮が図られた。従来まで「庁議」が、行財政の最高方針を決め、重点施策等を審議決定する決定機関になっていた。また、庁議での審議決定を行うため、事前に「政策会議」を開き、重要課題について総合的な調整を行うなど、庁議に付すべき事案を定めるための議論を行ってきた。このため政策会議の付属機関として「調整会議」を設け審議する事案を事前に調査・検討してきた。改正した新しい意思決定システムでは、「政策会議」を意思決定機関とし、「庁議」は審議・調整の場として決定の機能を持たせていない。すなわち、政策会議では「都政運営の基本にかかわるものについては、計画、財政、組織などの基本事項を含めて政策会議で議論を行い、その基本方針等について決定したのち、手続きを進める」方法に改正された。政策会議前の「調整会議」は廃止され、庁議の後に例外的に開かれ全庁的な施策の自案決定を行ってきた「本部会議」も事実上の廃止となった。
石原は、都政全般において知事が主導権を握ることができるよう、政策作りと対外関係の参謀本部として「知事本局」という官房系局を設置した。従来の事業系局からの積み上げ型政策形成方式を変え、知事本局を中心に据え、主要な政策を知事自ら選別したうえで予算を作成する。主要な政策と予算編成を知事主導の下で統制するという発想から、知事の考えを盛り込んだ政策の基本方針を知事本部が作成する。それをもとに事業系局に具体的立案を命じる。次に各事業系局は重要事業調書を知事本部に提出し、ヒアリングを受け、調整する。これと並行して予算の見積書が作成され、主要局長をメンバーとする政策会議で重要施設や事業が最終選定される。それを予算担当の財務局に回すことで予算内容との整合性が図られる。
また、石原はいくつかの課題解決に「参与」というブレーンを置いている。石原個人の発想は、一橋総研で練られ、参謀とされる人物や参与などにより具体化される。典型的なトップダウン方式が石原都政の特徴であり、この方式はスピードと成果主義を要求する石原の考えに沿っている。銀行への外形標準課税は知事、副知事、主税局長の三人でひそかに練られたとされ、こうした密室型の政策形成によって利益集団や議会からの圧力を排除することに成功し、社会的にも大きなインパクトを与えることができた。
以上のように、都庁の政策形成・意思決定プロセスにおける議論の効率化と、知事の権限強化を図ることにより、リーダーシップを発揮した思い切った改革が可能になった(70)。ただし、こうした政策形成・意思決定プロセスの改革がすべて成功したわけではない。政策にも予算にも知事の意向が強く反映される「知事本局」が実質的にはうまく機能しなかったことが指摘されている。また、前述の外形標準課税の政策形成も少数による密室で行われたことから、議論の公開性をめぐる批判がある。これらの指摘から、石原は「首長、議会、官僚が一体となった政策課題の設定と政策立案」や「プロセスの透明性」といった民主主義的プロセスに明らかに反したポピュリスト的政治手法を用いたと言うことができる。
第2節 意思決定を左右する諸要因
@ 地方自治の特殊性
日本の地方自治制度では、首長と議員がそれぞれ異なる選挙において選出される二元代表制が採用されている。議院内閣制を採用する国政では「有権者→政党→議員→議会→内閣」という一連のプロセスを経て政策決定が行われるため、政策の実現に時間をかけ、各所で利害関係の調整と妥協が図られることになり、民意が反映されていると感じづらいシステムになっている。一方、日本の地方自治制度では国政と異なり、有権者の票がそのまま首長の選出に結び付くため、有権者は自身の票がより現実の政策に反映されていると感じやすい。アメリカの大統領制も二元代表制を採用し、大統領と議会のチェック・アンド・バランスによって政治がおこなわれる。しかし、日本の地方自治における二元代表制は特殊で、首長は議会に対して相対的に強い権限を与えられており、リーダーシップを発揮した地方自治運営がしやすい。こうした制度的な面からして、日本の地方自治においては強いリーダーが現れやすく、その反面ポピュリズムが噴出しやすい土壌がある(71)。
A 東京都の特殊性
石原がポピュリスト的な手法を用いて都政運営を進める上で、東京都知事の財政における裁量が与えた影響について考える。都知事は巨大な予算編成権および執行権を持っている。都の予算規模は一般会計(約6兆3千億円)特別会計(約4兆円)公営企業会計(2兆2千億円)合わせて(約12兆4千億円)に達する。他の道府県と比べて圧倒的な規模である。また、国の財源に依存する割合が少なく、財政収入の6~7割が固有財源である。固定費を計上するため全てが自由裁量とはいかないが、国の交付税に依存せず、紐付き補助金も少ない都における知事の裁量は他道府県に比べて格段に大きい。美濃部都政で福祉重視の予算配分が可能だったことや、鈴木都政で福祉の削減と好況に支えられて開発主義的な政策が採用できたことは、東京都の予算自由度の高さにあった。しかし、美濃部都政が高度成長の終わりにともなって多額の負債を抱え鈴木都政の初期は財政再建に終始したことや、バブル崩壊とともに鈴木都政の臨海副都心開発をはじめとした投資に疑問符が付くようになり、その批判を追い風に青島が都知事となったことは、不景気の時代にあっては逆に都知事の裁量が狭められうることを物語っている。
以上、東京都の予算に関する性質と歴代都知事の財政政策を通して、好況期には都知事には極めて大きな財政的裁量権があり、独自の政策を積極的に実施することができ、不況期にあってはかえって財政的自由度が制限されると言えよう。ただし、近年のネオ・リベラル型ポピュリズムでは、こうした不況期における財政自由度の制限が官僚や行政府の怠慢によるものと批判することで支持を調達することが可能になったという点には注意が必要である。
(72)
(脚注)
(65)内山融「石原都政の思想と戦略」『都市問題』102号、92〜99頁。
(66)『都政新報』2007年2月20日では、「石原知事の都政運営は、総合的な施策展開を目指すよりも、閉塞感の打破につながるインパクトのある政策を好む色合いが強かった」と指摘している。
(67)有馬、前掲書、21頁。
(68)同上、28頁、29頁。
(69)葉上、前掲書、144頁。『都政新報』2002年10月22日。
(70)都の意思決定システムの変更については、『都政新報』1999年5月14日を参照。
(71)山口二郎『ポピュリズムへの反撃』角川書店、2010年、106〜108頁。
(72)表3−1〜表3−3まで、東京都財務局HP「平成23年度東京都予算案の概要」http://www.zaimu.metro.tokyo.jp/syukei1/zaisei/20110201_heisei23nendo_tokyotoyosanangaiyou/23nendoyosanannogaiyou.pdf(最終アクセス:2012年1月14日)
第四章 なぜ「ポピュリスト」石原は支持を獲得し続けたのか
第1節 石原慎太郎の支持基盤
本節では松谷満の分析をもとに石原の支持層を考察していくことで、石原が2003年の都知事選で300万票の大勝をおさめ、失政やスキャンダルが噴出したにもかかわらず2007年以降の都知事選でも敗退するほど支持を失わなかった理由を探る。
まず、石原に対する支持(人気度)を感情温度計で図った結果が図4−1である。2005年の調査では、郵政選挙に大勝した小泉でさえ5割であったのに対し、石原は6割もの支持を得ている。しかし、都知事選直後に行われた2007年調査では石原支持は45%まで落ち込んでいる。ただし、都知事選対立候補の浅野史郎が2割の支持にとどまっており、相対的に見れば石原支持の高さが目立つ。
この結果を支持政党別に分解したものが図4−2である。自民党支持層は2005年で8割、2007年でも7割以上が支持し、石原の確固たる基盤となっている。公明党も5割前後が石原を支持している(73)。民主党支持層と無党派層では2005年に5割近くの支持を得ていたものが、3割程度にまで落ち込んでいる。よって、2005年以前の石原は堅い自民党支持層に加えて、民主党支持層や無党派層からも多くの支持を集めていた。知事選の投票行動調査からも、2003年は自民党支持層の9割近く、公明党支持層の8割強、無党派層の6割が石原に投票していたが、2007年の選挙では無党派層の4割弱の支持しか固められなかったという結果が出ている(74)。
次に支持基盤の中身ついて表4−1を検討する。石原を指示するかどうかの分岐要因はナショナリズムと新自由主義的経済政策である。社会層別にみると、高年層と低学歴層はナショナリズムによる支持、若年層と高学歴層は新自由主義的経済政策による支持という側面が強いことが分かる。現代ポピュリズムの特徴を踏まえた結果となっている。またこの結果から、有権者がカリスマ的指導者に権威主義的に従属しているわけではないこと、極右的な発言などによって支持を広げているわけではないということが分かる。現代型のポピュリズムが幅広い社会層からの支持を獲得できる可能性を持つ一方で、新自由主義的な改革によって雇用や社会保障の不安を招き世論の反発を受けやすい。また、過度に復古的・排外主義的な姿勢は非保守層、とりわけ無党派層の離反を招きやすい。石原はこの点に留意しながら、幅広い支持を獲得したと言えよう。武居秀樹の分析においても同様に、石原の新自由主義的改革によって被害を受ける立場の有権者が、石原の独自政策を支持していたとされる。
以上のように、石原は新自由主義的政策とナショナリズム的性格によって絶大な支持を獲得していたことが分かった。ただし、2005年と2007年の調査を比較すると、石原は15パーセントも支持を落としている。新自由主義的な政策がもたらした「格差」の問題と捉えることもできるが、同時期に小泉が支持を低下させていないことを踏まえるとこの仮説は成り立たない。2005年から2007年の調査で石原の支持度に特徴的な変化が図4−3〜4―6にあるように以下の4分野で見られる。世代別にみると20~30代の若年層、雇用別にみると非正規雇用者層、階層意識別にみると自らを下位と位置づける層、政治不信の意識別にみると政治家を信頼していない層で、顕著な支持度の低下がみられる。よって若年層、非正規雇用層、下層、政治家不信層が石原から離反した有権者の特徴である。
こうした「不安定層」は、欧州における極右型ポピュリストの支持層と重なることから、日本における表出回路の不在が指摘される。また、彼らは石原にリーダーシップを発揮して独自の発想を実行できる政策実行力など、「他の政治家とは違って信頼できる」「不安を払拭してくれる」と期待してきた。しかし、2007年都知事選前にスキャンダルが発覚し都政の私物化といった批判が出た。また不透明な出納で議会からの批判を受けた。政策の失敗も明るみに出たことで石原は、それまでポピュリズム的な手法によって期待を集めていた「不安定層」の支持を失ったと推測できる(75)。
(76)
第2節 理論的側面から見た石原都政の限界
第一章で、ポピュリズムの概念を整理し、現代ポピュリズムの特徴と限界を定義した。続く第二章で、個別の政策の検証を通じて、石原が具体的にポピュリズム的手法を政策に反映させた点について、複数の視点から確認することができた。第三章で、石原のポピュリスト的手法についてまとめた。以上の分析から次のように結論付ける。石原は官僚・国・銀行などを敵として、広範な支持を獲得する独自政策を掲げた。政策には現代ポピュリズムに典型的な新自由主義的性格が反映されており、メディアの利用や強いリーダーシップのアピールを通じて大都市中間層を中心に絶大な支持を獲得した。
しかし、意思決定プロセスにおいてはトップダウン式の決定方法を多用したため不透明な部分が多く、独断や側近周辺だけで政策決定をする場合も見られ、都民・都庁職員の参加や合意形成の民主主義的プロセスを欠いた都政運営をおこなっている。
ここで一つの疑問が浮かぶ。一章で現代ポピュリズムの特徴として「イメージの悪化や政策のブレ、政策の遅れが無党派層の離反を引き起こす」という点を指摘した。第二章での政策検証の結果、石原は政策の失敗やスキャンダルを抱えていることが分かった。以上の二点から考察すると、石原はポピュリストとして致命的な「無党派層の離反」を招く都政運営をしており、都民の支持を失うはずである。しかし、実際は得票率を下げることはあっても知事選では他候補に圧倒的な差をつけるほど、都民の支持を獲得し続けている。第1節の分析によれば、都民の改革への期待が石原への支持の理由として有力である。では、石原の改革力、すなわち政策実行力の源泉はどこにあるのか。この疑問に対して、本稿では政策決定・意思決定プロセスに着目して仮説を提示する。
第3節 仮説「政策形成・意思決定プロセスにおける議会との協調」
ポピュリストの重要な特徴として、自身の政策が既存の政治プロセスでは実現が困難であるために、議会における抵抗勢力や既存の政党・官僚を敵視して、議会の民主主義的プロセスを迂回した意思決定、特定の政党に偏らない広範な支持獲得を目指す政治家、という点がある。石原もその点ではポピュリスト的な性格を十分に備えていることは、第一章で確認した。
第二章で確認した通り、石原は政策を実行する上で、トップダウン式に政策を提案し、一気に実現までこぎつける手法を多用している。従来型のポピュリストであれば、有権者の支持を背景に議会を同調させる強権的な手法を用いるが、石原にはこの点で他のポピュリストとは異なる特異性を見出すことができる(77)。
前東京都知事の青島は、就任直後から層や党体制で厳しい議会運営を迫られ、思い通りの都政運営を実行できずに、最終的には都庁官僚の言いなりになって一期で身を引くこととなる。特に世界都市博を中止したことで自民党・公明党との対立が決定的になったことで議会運営の厳しさが増した(78)。石原が初当選した1999年の都知事選挙では、自民党は明石康元国連事務次長を推薦していた。公明党も選挙戦中盤になって明石支持を決断し、初めての都知事選では石原と自民・公明は敵対関係にあった。候補者が乱立したこの選挙で石原は二位の鳩山邦夫にダブルスコアの大差をつけた。99年5月、石原が都知事就任後初の臨時都議会が開かれた。石原の所信表明では当然のように自民党席から激しい野次が飛んだ。特に副知事人事で青山やすし・政策報道室理事の同意に関しては、自民党は継続審議で持ち越そうとした。これに対し、石原は事前に他の会派からの賛意を取り付けて可決することを決定的にしていた。しかし、石原は休憩時間に都議会自民党の内田茂幹事長と話し合い、条件付きで同意するという決着を図った。これにより、都議会自民党との議会運営上の協力関係を築くきっかけを作った(79)。
石原と自民党が協力関係を築くターニングポイントとなったのは、99年定例議会直前の足立区長選挙である。この選挙では、前区長の吉田万三候補と前助役の鈴木恒年候補が激しい戦いを繰り広げていた。共産党推薦の吉田が議会で不信任を受けたことによる出直し選挙で、自民・公明・自由の統一候補として鈴木が擁立された。都議会自民党も鈴木の応援に力を注ぐものの、専門家らによる直前の分析では吉田有利が伝えられていた。この事態に自民党がそれまで敵対していた相手に要請する形で、石原からの応援を取り付けた。石原の応援の効果もあって鈴木が約2万票の差で逆転勝利を収めた。石原の助けを受けて辛くも選挙に勝利した自民党は、石原の議会運営に協力せざるをえない立場となった(80)。
都議会公明党は、40年以上都議会自民党と歩調を合わせることで常に都議会の過半数を制してきた。石原との関係では、上記の足立区長選の結果もあって、自民党とともに石原よりのスタンスをとるようになった。一方で、財政削減基調でとりわけ大きな削減対象とされたシルバーパスの見直しでは、緊急要望書を石原に提出し、石原もこれに従った(81)。石原も完全に公明党を無視したわけではなく、適度な距離感を保ちながら議会運営を行ったと言えよう。公明党が議会のキャスティングボードを握るほどの議席数を有していながら、石原との関係を重視した理由としては、こうした石原からの歩み寄りがあったことが大きい。さらに国政レベルにおいて、自民党と公明党が連立を結んでいたことも、単に議席が一定数あるからと言って都議会公明党が自由に立場を変えて石原の譲歩を引き出す戦術をとれなかったことの一因であると推測される。
以上のように、石原は都議会において自民党・公明党を与党に議会運営を図ってきた。第二章で確認した通り、石原はトップダウン形式での政策決定を好み、野党の反対には動じない姿勢で次々と独自政策を断行してきた。それを可能にしたのが、自民・公明との協力関係であり、議会を敵に見立てて大衆からの支持を背景に政策を強行してきた従来型のポピュリストとはこの点で一線を画している。結果として以下の表に見られるように、平成13年第三回定例会から平成23年第一回定例会に至るまで2707の知事提案議案が議会に提出され、自民党・公明党はいずれの議案にも賛成、または知事提案への同意を示している。自民党・公明党は都議会与党として一貫して石原都知事の政策に同調してきたことがうかがえる。
また、都議会野党第一党である民主党も、知事提案議案への同調を示すことがほとんどで、議決で反対票を投じたのは11議案にとどまっている。しかも、石原が圧勝した2003年の知事選から4年間は一度も議会での反対票を投じていない。都議会での与野党逆転が起きた平成21年第三回定例会前後で相対的に反対の姿勢を見せる機会が多くなっているが、いずれも各定例会で1回あるかないか程度で、実質与党化している(82)。
同じくポピュリスト知事として称される元長野県知事の田中康夫は、独自の政策を推し進めようと議会を常に敵に回し続けていたため、最終的には有権者の離反を招いた。阿久根市の竹原元市長も、議会との決定的な対立構造を残したまま市政運営の限界に達した。竹原市長は専決処分によって事態の解決を図るが、濫発したことで市政の混乱を招き、リコール運動にまで発展した。最終的には2011年の市長選で落選した。
田中や竹原のようなポピュリスト的手法を用いた自治体首長が議会運営で躓いたのとは異なり、石原の場合は政策のスムーズな実現が可能となる条件があったと考えられる。政策実現段階で既存政党の合意を取り付けやすかったため、独自政策を推し進めることが可能であり、これがポピュリストとして重要な強力なリーダーシップのアピールにも効果を発揮した。
最後に、これらの仮説と同様の主張をしている内山融の指摘を紹介して本節を終わる。
石原知事は、少なくとも当初は既成政党から距離を置き(彼が初当選した1999年の都知事選で自民党が推したのは明石康氏だった)、旧来型の財政運営を批判していた。この点では、いわゆる改革は首長と共通するものがある。(中略)一方、官僚機構や議会との姿勢という点では、異なる点がある、例えば改革は首長の典型とも言える大阪府の橋下徹知事は、府庁職員及び議会との対決姿勢を強調している。(中略)橋下知事は、議会の既成政党との対決姿勢も明らかである。(知事選で橋本氏は、自民党の府連推薦、公明党の府本部支持を受けていたのだが)。
これに対し石原知事は、都議会、特に与党である自民党・公明党とは基本的に連携する姿勢を強調してきた。都知事就任の直後に開催された1999年第1回都議会臨時会で石原知事は、発言の冒頭で「都政は都議会と執行機関との緻密な連携のもとに運営されるべきものであります。何よりもまず、都議会の皆様方のご協力を心よりお願い申し上げます」と述べ、都議会との連携を重視する考えを示している。また、都庁職員とも密接な協力関係の下で政策決定を行っているようであり、特段の敵対的姿勢は見えない。このように、既成政党や自治体官僚機構との間の「境界」を強調する戦略を用いる傾向がある改革派知事と比べると、石原知事は都議会や都庁との一体性を確保したうえで、国や時代と対峙するという特徴がある。こうした点が石原都政の相対的な安定をもたらした要因であろ(83)。
(脚注)
(73)公明党の支持について、2007年調査が2005年調査を上回っている要因として、都知事選における協力関係を結んだことが要因として考えられる。ただし、自民・公明両党の推薦については最終的に石原側が無党派色を出すために断っている。
(74)『毎日新聞』2003年4月14日。
(75)松谷満「ポピュリズムとしての石原都政」東京自治研究センター編『東京白書V―石原都政10年の検証』生活社、2009年、21〜28頁。
(76)図4−1〜4―6、表4−1いずれも松谷満「第2章 ポピュリズムとしての石原都政―なぜ都民は支持したのか」東京自治研究センター編『東京白書V 石原都政10年の検証』
(77)有馬、前掲書によれば、東国原元宮崎県知事は議会との協調を図りながら県政を運営したポピュリストである。
(78)葉上太郎「東京都政の「福祉・教育改革」の虚実」『都市問題』102号、108〜115頁。
(79)田村、前掲書、49〜54頁。
(80)同上、55〜58頁。
(81)『朝日新聞』1999年12月22日付朝刊に一連の流れが詳述されている。また、石原慎太郎研究グループ、前掲書、62〜64頁でも取り上げられている。
(82)民主党が反対した議案は以下の通り。平成14年「職員給与学校職員給与特例」平成19年「平成19年度一般会計予算」平成20年「八ツ場ダム基本計画変更」「平成20年度補正予算」「都税条例」「補正予算」「公債会計補正予算」平成21年「東京都立病院条例」「副知事選任同意案」「一般会計決算」「平成22年「青少年育成条例」平成23年「中央卸売市場会計」)(否決されたのは都議会与野党逆転が起きた直後の「平成21年度一般会計決算」「青少年育成条例」の2つ。その後、再度与党が議会多数派を握り、「中央卸売市場会計」は可決されている。
(83)内山融「石原都政の思想と戦略」『都市問題』102号、92〜99頁。
(84)『都議会だより』244号〜292号より筆者作成。
終章 結論と補足
結論
第1章ではポピュリズムの歴史的変遷を整理し、現代ポピュリズムを1970年代に登場したネオ・リベラル型ポピュリズムの延長線上にあると位置付け、その特徴と限界を示した。第2章では石原の政策をポピュリズム的な観点から意思決定プロセスにも着目して検証した。第3章では、第1章と第2章の内容を踏まえて、石原のポピュリスト的性格を整理した。第4章では、以上3章をもとに石原の支持基盤の検討を行い、第1章で提示した現代ポピュリズムの限界との関係から、石原が議会との協調を図ることで政策決定や意思決定を容易にすることができたとする仮説を検証した。
以上の各章の内容から次のことが言える。石原慎太郎は典型的なネオ・リベラル型ポピュリストであり、東京という都市の上中位層の求める新自由主義的な政策に応えると同時に、文化的保守主義の政策や発言などによって保守層への配慮も見せたことなどから、幅広い支持を獲得することができた。また、地方自治の二元代表制のもとで議会との協調を図ることに成功したことにより、独自の政策を推し進め有権者に改革実行力のある強力なリーダーであることを印象付けた。この結果、スキャンダルや失政などでも致命的な有権者の離反は起きず、支持を獲得し続けることができた。
以上の点から、石原は議会との協調という、従来のポピュリストとは相容れない側面をもった政治家であることが確認された。こうして石原は、それまでのポピュリストの限界を超えたと本稿では結論付ける。
補足と今後の展望
首長が議会を敵視するポピュリズム的手法によって支持を調達しようとしても、二元代表制の下では議会の抵抗に遭って政策が実現できないまま、政策の一貫性が維持できずに支持を失うことがしばしばある。実際に、長野県の田中康夫はポピュリズム的手法によって既存政党を打ち破り知事の座に就いたが、議会運営において既存政党を完全に敵視しており、議会との対立関係を解消できないまま2006年の選挙で敗北を喫することとなった。一方、宮崎県の東国原元知事は議会との融和を図り県政運営のスムーズな展開を実現し、国を敵視する対立構図のみを作り上げたことで、県内における驚異的な支持率を任期末まで維持し続けることができた。
こうした本稿の視点から見た時に、先日行われた大阪都知事・市長選挙の結果は興味深い。大阪府知事であった橋下徹は、市政・議会との対立から大阪府知事を辞職して大阪市長選挙に立候補した。橋下が立ち上げた大阪維新の会に対し、既存政党は共産党をも巻き込んで反維新勢力を結集させた。結果は橋下の勝利だった。橋下の特徴は議会との対立構図が解消されないままに、それを乗り越えるため新党を立ち上げて議席の制圧を図った点にある。こうした議会勢力の一新を狙った手法は、名古屋市の河村市長にも見られる。
今後の橋下府政において注目すべき点は、議会との関係である。府知事時代の橋下は、選挙では自民党大阪府連の推薦を得て戦ったにもかかわらず、議会の反対を強引に押し切る形で政策を実行することが多かった。結果的に自民党や公明党との仲はこじれ、今回の維新勢力対反維新勢力という構図が作られた。市政運営において橋下の苦戦が予想されたが、直後に自民党や民主党をはじめ、既存政党側が橋下に歩み寄る姿勢を見せた。これは、既存政党の推薦を受けずに選挙を戦い、その後の議会で協力関係を築いた石原都政と同じ構図である。同時に、維新勢力が市議会の過半数を占めていない以上、橋下側からも一定の歩み寄りが見られなければ、再び議会との関係はこじれるだろう。
こうした考察の中で最も大切なことは、既存政党、行政機関への不信感が高まり、それらを敵に仕立て上げた橋下や石原らのポピュリスティックな手法が有権者の共感を得たということである。ポピュリズム的な手法に基づいた政治、リーダーシップは強力なリーダーシップを発揮する可能性がある一方で、破壊・変革といった色合いが濃く、対話や協調といった従来の民主主義的な手法とは対立する。そして、ポピュリズム的な手法は、より一層の政治不信を招く両刃の剣でもある。
しかし、閉塞感漂う現在の日本では、政党の力だけでは事態の打開を図ることができる可能性が低いと言わざるを得ない。そうした状況では、ポピュリスト的な手法を用いたとしても、有権者の支持を背景にした強力なリーダーシップの下で改革が行われていく必要があると考える。その場合は、議会の意識改革がおこなわれ、政治リーダーの暴走を抑制し、かつ政治が停滞しないように建設的な議論を進めるべきであろう。今のように対立や同意の両極端な対応に終始するだけでは、その存在意義が問われる。議会とポピュリズムの関係性を再考することが、日本に蔓延するポピュリズムの問題に対する有効な処方箋となりうるのではないだろうか。
参考文献・参考資料一覧
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東京都知事本局HP(http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/)
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石原慎太郎公式HP(http://www.sensenfukoku.net/)
東京都選挙管理委員会HP(http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/)
東京都議会HP(http://www.gikai.metro.tokyo.jp/)
(いずれも最終アクセス、2012年1月14日)