平成23年度

学士論文



規制緩和の進展に関する政治過程分析
―電気通信事業と電気事業を事例に―





目次

序章
1.本論文の課題
2.電気通信事業と電気事業
3.本論文の構成

第1章 本論文の分析枠組みおよび理論
1.公益事業の規制緩和に関する経済学的分析
2.電気通信事業に関する経済学的分析
3.電気事業に関する経営学的分析
4.規制緩和を進めてきた日本の政治経済に関する先行研究

第2章 電気通信事業における規制緩和の政治過程
1.国家と市場の関係
2.戦後から電電公社民営化まで(1945〜1980年代半ば)
3.NTT分割問題(1980年代半ば〜2000年代前半)
4.競争政策の後退(2000年代前半〜)

第3章 電気事業における規制緩和の政治過程
1.電力自由化の開始(1995年まで)
2.電力自由化の進展(1995〜2003年)
3.電力自由化の後退(2007〜2011年)

終章 日本における依法的民主主義の有効性
1.日本型多元主義における規制緩和の限界
2.ロウィによる依法的民主主義とその意義



≪序章≫


1.本論文の課題


 本論文は、1980年代以降の電気通信事業と電気事業における規制緩和の進展に差が生じた理由を政治学的に分析し、日本型多元主義における政策決定過程の閉鎖性を明らかにする。こうした問題設定を行なった理由は1980年代以降、自由化や規制緩和が日本経済において求められるようなり自由化や規制緩和を行なうための政治制度や経済制度が構築されてきたことである。2000年代においてもこの傾向は変わらず、自民党から民主党に政権交代した後も紆余曲折はあったものの自由化、規制緩和の路線は変化していない。今後も行われていくであろう自由化や規制緩和に対して政治過程的な分析を行い、日本型多元主義における政策決定過程を考察することは今後の規制緩和政策を考察するうえで重要である。本論文の問いは以下の二点である。第一になぜ電気通信事業と電気事業では規制緩和の進展に差が生じたのか、という問いである。第二は日本型多元主義にはどのような限界がありこの限界を克服するためにはどうすればよいのか、という問いである。

 本論文の社会的意義は二点ある。第一は規制緩和に関する政治学的考察の重要性である。従来の規制緩和に関する研究の多くは経済学および法学の視点から研究され、政治学的に研究されたものは少ない。特に電気事業の規制緩和に関する政治学的な研究はほぼ見られない。よって規制緩和に関する政治過程を考察することには社会的意義があるといえる。第二は日本型多元主義を再考することである。戦後、日本では日本型の多元主義が発達してきたと考えられてきた。高度成長期には日本の各業界の発展を担ってきた効率化されたシステムであると考えられ、高い評価を得ていた時期もあった。本論文では規制緩和の事例研究を通じて日本型多元主義の限界を考察する。規制緩和の政策が政治過程においてどのように策定されているかを分析することは今後の日本政治の行方を考察するうえで意義があると考える。以上の二点が本論文の社会的意義である。


2.電気通信事業と電気事業

 
本論文では、規制緩和が行なわれてきた事例として電気通信事業と電気事業をとりあげる。日本における規制緩和は1980年代以降、電気通信事業や石油事業など広い範囲で行なわれてきた。その中でも、電気通信事業は比較的、規制緩和が進み新規参入がうまく行なわれてきたと考えられてきた。一方、電気事業は東日本大震災以降、問題とされているように規制緩和が進展していなかったと考えられている。本論文では規制緩和の事例として電気通信事業と電気事業を取り上げるがこれには二つの理由がある。第一の理由は両事業には自然独占が成立する公益事業であると考えられていることである。新規参入には大規模な設備投資が必要になるため規模の利益が存在すると考えられてきた。政府が電気通信事業に対して介入をすることは合理的であるとされ(須田2005:51)、電気事業においても電力会社はユニバーサル・サービス提供の義務を負い、電力料金も政府の認可が必要とされてきた(寺西2010:115)。電気通信事業も電気事業も政府はその経営に深く関わってきた点で共通点がある。第二の理由は電気通信事業と電気事業において新規参入者は回線および送電網を利用しなければならないことである。NTTは高い回線使用料が競争の阻害要因になると考えられ(須田2005:4)、電力会社では送電網の利用自由化が不可欠と認識されてきた(寺西2010:118)。規制緩和において開放が必要となる通信回線と送電網には共通点がある。以上の二点の共通点から電気通信事業と電気事業を事例としてとりあげることにした。両事業には重要な共通点があるため、規制緩和の進展に差が生じた要因を考察しやすい。本論文では電気通信事業は電気事業よりは規制緩和が進展していたことを明らかにするが、実は電気通信事業における規制緩和には限界があったことも明らかにする。両事業の事例は公益事業および規制産業において規制緩和を進めることは日本政治経済の構造上、困難であることを示している。


3.本論文の構成

 本論文は電気通信事業と電気事業における規制緩和の分析を通して日本型多元主義の限界を明らかにし、今後の日本において依法的民主主義が重要になっていくことを示す。以上を踏まえて本論文の構成は以下のようになる。第一章においては本論文の分析枠組みを示す。日本型多元主義の理論枠組みを分析したうえで、経済学および経営学による分析を用いて電気通信事業と電気事業においてどの程度の規制緩和が可能であるかを明らかにする。第二章では電気通信事業における規制緩和の政治過程を考察する。電気通信事業の政治過程において重要な案件を選び、政治アクターがどのような動きをしていたかを分析し、電気通信事業における規制緩和を阻害してきた要因を明らかにする。第三章の電気事業においても第二章と同様の分析手法を用いて規制緩和の阻害要因を明らかにする。第四章では電気通信事業と電気事業の規制緩和の進展に差が生じた理由の考察を通して、規制緩和を進める日本の政治経済構造に問題があることを明らかにし、日本型多元主義の限界を明らかにする。終章では日本型多元主義の限界を克服するために依法的民主主義が有効になりうることを示す。以上が本論文の構成である。



≪第1章 本論文の分析枠組みおよび理論≫


 本章では、本論文における分析枠組みおよび理論を示す。第一節では公益企業における規制緩和に関して経済学的分析を行い電気通信事業および電気事業においてどの程度、規制緩和が可能であるかを明らかにする。第二節では、1980年代以降における規制緩和の政治過程に関する先行研究を分析する。


1.公益事業関する経済学的分析

 本節では公益事業に関する経済学理論を用いて、電気通信事業と電気事業において本論が理想とするシステムを考察する。本節では、公益事業全般に関する理論は塩見(2011)の研究を参考にし、電気通信事業は実積(2010)の研究を、電気事業に関しては橘川(2011)の研究を参考とする。

 塩見(2011:3-8)によれば、公益事業には以下の三点の特徴がある。第一にサービスの必需性である。公益事業のサービスは、あらゆる社会的・経済的活動の基礎をなすサービスであり低廉または適切な価格で安定的に供給されるべきであるとの社会的認識が存在する。第二にサービスの在庫不可避性と即時性である。公益事業のサービスはその生産物が無形の財であり、その需要と時を同じくして供給しなくてはならない。公益事業ではサービスの必需性に対応するために、効率を犠牲にした供給不足の回避を余儀なくされる。第三に自然独占性である。主要な公益事業では巨大な設備が必要となる。資本集約度が高く固定費用比率が高いために、長期平均費用の低減が生じる一方、サービスの供給に必要な限界費用は相対的に小さい。以上から自由競争市場ではコストを度外視した破滅的競争に陥る可能性がある。経済効率の観点から最終的には一企業のみが存在し、自然に独占が形成される。よって競争の過程における重複投資は社会的浪費となることから、これらの産業には経済的規制が正当化される。なお、塩見は自然独占性に関しては二点の疑問を持っている。第一にコンテスタブル・マーケット理論を用いて規制がなくても既存企業は競争的な価格を設定する可能性を示唆している。コンテスタブル・マーケット理論とは、市場で一社しか存在しなくともサンクコストがゼロかそれに近く、潜在的な参入の可能性が高ければ、規制がなくても既存企業は競争的な価格を設定する可能性が高くなるという理論である。現実においてコジェネレーションによる分散型発電や移動媒体の通信媒体などにみられるように技術革新によって、設備投資の縮小やサンクコストの低下、代替サービスの幅の拡大が生じている。第二に公益事業には技術的に分離可能な事業特性を有するものがあると示唆している。自然独占の全体事業を自然独占のコンポーネントと潜在的に競争できるコンポーネントとを異なる所有者になるよう垂直的・水平的に分離し、前者には規制を適用し後者には規制を緩和するという方式も可能である。垂直的統合では組織が肥大化によって非効率になる弊害、既得権擁護のためにレント・シーキングによる資源の浪費などのデメリットを指摘している。ただし、先進国の公益事業においては「会計分離」にとどまるものが多く、「自然独占」がいまだに主流となっていることを認めている。以上から公益事業の三つの特性が明らかになった。以下では電気通信事業および電気事業が上記の公益事業に含まれることを前提にしてどの程度、規制緩和が可能であるかを考察する。


2.電気通信事業関する経済学的分析

 電気通信事業に関しては実積(2010:211-235)の議論を参考とする。情報通信技術の急速な進歩は行政当局よる技術動向の将来見通しを不確かにし、「効率的な」事業者を選択するという参入規制の運用を困難にする。さらに、通信事業の細分化を可能にするインターフェース技術の進歩は、規制の根拠である自然独占の存立の余地を限定する。以上から自然独占性に伴う規模・範囲の経済の利益を活用しようという伝統的規制フレームワークからの決別し市場参入を自由化することが望ましくなる。なぜなら伝統的フレームワークからの決別はダイナミックな競争を生み出し、その結果としてもたらされるイノベーションの力で社会厚生の長期的最大化を目指すことが可能になるからである。日本をはじめとする先進各国の通信政策は近年、いずれも規制フレームワークの転換を経験してきている。これは「時間を通じたダイナミックな競争過程」による最も効率的な事業者の選抜に期待する新しい規制体系が通信政策担当者の間で一定の支持を得てきたことを意味する。しかし通信市場への参入に際しては依然として一定の参入障壁が存在する。そのため民間のイニシアティブに完全に委ねてしまうと、新規参入者とそれによる効率的事業者の選抜が不十分にしか進展せず、目的としている長期的利益の最大化が達成できない可能性がある。したがって、新しい規制体系に転換する際には一定の新規参入促進策を適用し、目的達成の手段である「競争市場」を現実のものとする政府介入を実施することの検討が必要である。新規参入を促進するためには、新規参入事業者を保護する必要がある。そのためには四つの方策が必要となる。以下ではその四つの方策について述べていく。

 第一に既存事業者は新規参入者に対して不可欠設備を合理的な条件で利用させるべきである。既存事業者がすでに設置しているネットワーク設備を自らのサービス基盤として利用し、その上に独自のサービスを構築して競争を行なう形態は「サービス競争」と呼ばれる。既存事業者が提供する設備が、新規事業者にとって不可欠設備である場合、サービス競争において新規参入者が負うリスクは重大となる。政府の介入がない場合、競争相手となる新規参入者に対して既存事業者が自ら進んで好条件を提示するインセンティブはなく、小売サービス市場における公平な競争が脅かされる可能性は高い。以上からサービス競争を推進する場合には、市場支配力を有する既存事業者の行動に一定の制約を課すことが必要になる。具体的にはボトルネック設備の開放義務や利用料金の規制がある。なお、日本における固定電話サービス分野での競争はNTT東西の地域電話網に競争事業者が自らの中継電話網を接続することによって実現されている。サービスの提供のためにはNTTの地域電話網と接続することが不可欠となっている。

 第二には新規参入者によるサービス競争だけでなく設備競争も実現することである。ネットワーク設備に関する費用は固定費としての性質を強く持ち、規模の経済の支配下にあるため、小規模生産では収益性が悪い。設備競争の下で収益を上げるためには新規事業者が一定数以上のユーザーを確保することが必要になる。しかしブランドロイヤリティ(1)やネットワーク効果(需要の外部性)が存在するため、新規事業者のサービスが既に顧客ベースを有する既存事業者との競争に打ち勝って一定のシェアを得ることには長い時間が必要である。以上から新規事業者の事業展開において、参入当初から設備競争の実現を追及する代わりに、より安易なサービス競争から始めて次第に設備競争へとステップアップしていくやり方が推奨される。いわゆる「投資の階段」とよばれる事業展開方法である。なお、日本では新規参入事業者によるネットワーク構築のやり方として、@自ら設備を構築する「設置」方式、A他の事業者のユーザーとしてそのネットワークを利用する「卸役務」方式、B他事業者のネットワークと自社ネットワークをつないでエリア拡大を行なう「接続」方式の三つが想定されている。「投資の階段」シナリオが成立するには、既存事業者のアンバンドル化されたネットワーク料金(UNE料金)の水準がコストを適正に反映したものであることが必要である。UNE料金の水準があまりにも低ければ新規事業者が自らネットワークに投資する意欲は失われ、投資の階段の下方にとどまることが合理的になる。UNE料金の水準が過大であれば新規事業者はネットワーク設備の建設をしなければならなくなり、効率的ではない投資を行なう。その結果、経済効率性が損なわれる。

 第三に新規事業者は既存事業者のネットワークと自社のネットワーク接続を行い利用者に対して既存事業者並みのサービスを提供できる条件を整えることが重要である。高い収益性の見込める都市部のみに参入した新規事業者は、都市部以外のネットワークとの接続により、全国規模のサービスの展開が可能になる。ただし接続料金の水準が適切に設定されなければ効率的な水準の新規参入が望めす経済効率性を損なう。過度に高水準の接続料金は新規事業者が本来では費用優位性を持たない部分市場までネットワークを自前で建設することを誘発する。一方、安すぎる接続料は既存事業者の収益を悪化させることに加え、新規事業者の建設するネットワーク設備が最適を下回る水準にとどまる結果をもたらす。

 第四には直接支援と間接支援が必要である。日本において通信市場の開放当初は、新規参入事業者の電話料金の値下げはNTTに先んじて認可され、後追い値下げをするNTTとの間に一定の格差を維持できるよう調整されることが通例であった。以上が直接支援である。間接支援としては、情報という手段がある。具体的には政策ビジョンの策定や有識者会議の開催によるものである。ただし、市場環境や技術の将来見通しについて政府が民間よりも完全な情報を有しているとは期待できない。したがって、政府が提供する情報のみではなく情報提供を契機として発生する民間プレイヤー間の意見交換そのものが有効になりうる。民間プレイヤー間の意見交換が図られ、何らかのコンセンサスが形成されることは情報の不完全性が存在する場合には特に有効となる。

 以上の四点の方策が電気通信事業における経済効率を実現するには有効である。通信自由化では以上の方策に沿うような形で行なわれてきたが、必ずしも全てが実現されているわけではない。その理由としては、電気通信事業における規制緩和を決定するまでの政治過程に要因があると考えられる。以上を踏まえて、第二章では電気通信事業における規制緩和がどのように行なわれたかを分析する。


3.電気事業に関する経営史的分析

 電気事業に関しては橘川(2011)の議論を参考とする。橘川(2011:137-154)は戦後の九電力体制を振り返った上で電力自由化について考察している。以下では橘川がどのように戦後の九電力体制について考えているかを記述する。1951年から1973年までは九電力会社は民間企業としての活力を発揮して安定した電力供給と安い料金の二つを両立させてきた。この要因は大きく二点あった。第一は官と民の間に緊張関係があったことである。関西電力は世界銀行からインパクトローンでの借款に成功し黒部ダムを建設した。くわえて電力各社は通産省の政策に反して火力発電を中心にして水力発電を補助的に利用する「火主水従」を基本方針として推し進めた。第二は地域独占体制のもとで各電力会社がパフォーマンス競争を繰り広げたことである。電力会社は単独での値上げによって自らの地域の消費者からの反発を買うことを恐れたため値上げをしないための経営努力を行なった。原子力発電の分野では関西電力と東京電力が先陣争いを行い、1970年11月に関西電力は美浜原発一号機の運転を先に開始した。以上の二点から民間企業の活力が低廉で安定的な電気供給を可能にしていた。しかし1973年の石油ショックによって事態は変わった。電力会社は安定供給の意識が突出し、低廉な供給の意識が薄れ始めた。理由は二点あった。第一に官民関係の変化である。官民関係の変化は電源開発促進策を利用した交付金による原子力推進がきっかけであった。相次ぐ事故をうけて官民一体化としての国策として進めないと原子力開発はできなくなった。その結果、官と民の緊張関係は失われた。第二にコスト意識の希薄化である。高コスト化が進み電気料金の値上げの必要性に迫られるようになった。電力各社は世論の批判をかわすために足並みをそろえてほぼ同時期に料金改定を行なうという行動にでるようなった。その結果、各社間のパフォーマンス競争は失われてしまった。その結果、1980年代になると世界的な市場主義、規制緩和の時代を迎えることになり電力業界に自由化が必要であるという空気が台頭した。2000年、2004年、そして2005年に大口需要家から段階的に自由化分野が拡大された。2000年ごろにはアメリカのエネルギー会社エンロンが日本法人を設立し日本市場への攻勢を強めていた。発電専業の形をとったエンロン社の日本進出によって発送電分離の圧力が強まった。しかし、2001年にエンロン社が破綻し2004年から始まった原油価格の上昇によって原子力推進の機運が高まり、完全自由化は実現されなかった。自由化の停止によって市場競争による再活性化も停滞した。以上が戦後から近年までの状況である。

 橘川は現在の自由化が停滞している状況を批判して以下の施策を提言する。地域分割をなくすことによって十電力会社間での競争を活性化させ十電力会社の横並び体質の変容を目指すべきである。橘川は発送電分離(アンバンドリング)には否定的な立場である。これには二点の理由がある。第一には日本の電力業界の最も優れた部分は停電を回避する系統運営能力の高さである。これは発送配電一貫の垂直統合体制のもとで培われてきたものである。発送配電分離は「絶対に停電させない」という使命感を萎縮させ、電力会社の現場力を後退させるおそれがある。第二の理由は発電と送電を分離すれば、利益は上げやすい発電の投資が進む一方、利益を出しにくい送電については投資が遅れることになりかねないという問題である。2000年から2001年に発生したアメリカ・カリフォルニア州の電力危機は送配電網への投資の遅れが問題の根本にあったといわれている。以上をまとめると以下の四点が競争の促進に必要である。@小口・家庭用の規制分野をなくし電力の完全自由化を実現する、A連係設備を抜本的に拡充し競争の技術的制約を取り除く、B電力会社のカルテル的マインドを打破する、C「30分同時同量」などの規制を緩和し、託送コストを引き下げる。以上の四点が橘川の主張である。

 
以上から本論文では電気事業における規制緩和において、電力の安定供給への不確実性からアンバンドリング(発送電分離)は日本の電力市場では適切ではないと考え、@完全自由化、A連係設備の拡充、Bカルテル的マインドの打破、C託送コストの引き下げを主張するものとする。これらの四点がなぜ電力自由化の政治過程の中で実現することができなかったかを第三章で分析していく。


4.規制緩和を進めてきた日本の政治経済に関する先行研究

 本節では規制緩和を進めてきた日本の政治経済構造に関する先行研究を分析する。1980年代以降の規制緩和を進めてきた政治経済構造を分析した先行研究ではいずれも日本の政策決定システムが変化しつつあることを主張していた。猪口(1983)は戦後日本の政治経済体制を「官僚的包括型多元主義」と分析した。「官僚的」とは戦後官僚主導が長く続いていたことを指し、「包括的」は市民を官庁の管轄下に入れようとする傾向、「多元主義」はイシューごとに形成される部分連合の集まり、水平的な流動性がきわめて強い集まりを指すものとして定義されている。猪口は官僚の影響力は強いと分析しているが日本の急速な構造的変動の結果、官僚優勢は緩みがちであると結論付けている。飯尾(2007:69-97)は、日本の政府と社会の境界が明確でないことを主張している。多くの関連団体を持つ各省庁官僚制は関連団体の利益を代表する役割を担っている。所轄の業界団体などは自らの利益の代弁を関係する省庁の官僚に期待し、不断の努力を続ける。省庁内部の意思決定システムにおける政策形成の出発点はそれぞれが所轄している業界などの諸団体である。以上から官僚制は社会的な基盤を持っていると結論付けている。

 橋本(2000:104-108)の日本経済における規制緩和に関する考察をまとめると以下のようになる。戦後日本における規制は公益性がありかつ自然独占であるとみなされてきた公益事業に対して行われてきた。当初は、こうした規制措置は規制の対象になった産業において規制の利益を発生させた。規制の利益は資源配分のロスや規制実施のための直接的コストといった規制のコストを上回るとみられたか、上回らないとしても規制のコストは容認できると考えられた。規制の対象となった産業はいわゆる「タテ割り行政」で実施されたため、規制導入の目的が達成され、保護が過大になっても、規制分野に狭く厚く濃縮された関係は既得の利益を自ら放棄する方向には向かわなかった。しかし1970年代以降、産業構造の変化、技術革新によって規制の経済合理性が薄れたと考えられるようになった。こうした状況を背景として新自由主義、新保守主義の経済思想が受け入れられるようなった。1970年代以降のスタグフレーションの中で信を失い、「政府の失敗」論が広く浸透したことの影響も大きいと考えられる。

 恒川(寺西2010:77-144)は、日本の政策形成の「場」は、個別の所管省庁を核として、そこに影響力を行使する業界や議員が集う多数の「三角形」の形をとることになったと考察している。業界など諸集団の利益を増進する政策の策定と実施を官庁が担い、それによって自由民主党に対する社会的支持を調達するのを助けた。結果として自由民主党が長期的に政権を担い、省庁に安定した政策形成の場を保障する三者間の好循環が多数の「鉄の三角形」の並立構造を支えていた。しかし二点の理由により「鉄の三角形」の並立構造は崩れていくことになる。第一に政治腐敗への世論の反発とバブル経済崩壊後の経済停滞によって90年代前半までに「鉄の三角形」は弛緩したこと、第二に、規制緩和の政策思想が時代の潮流となったことで、規制緩和が全体として促進されたことである。1970年代以降は官僚が大企業の行動を左右する能力が減退し「鉄の三角形」のなかの相対的な影響力の分布が、官僚から政治家と利益集団へと移動したと考察している。

 日本の政治経済体制を包括的に分析したものに石田(1992)の研究がある。石田は日本の政治過程・政治体制のとらえ方をめぐって70年代後半以降の新しい理論潮流として「多元主義」の方法、概念があることを主張する。そのうえで猪口や大嶽らの説をまとめて「日本型多元主義」と定義する。日本型の修飾語をつけたのは二点の理由があった。第一には多元主義の登場の時期の特殊性である。日本では欧米における5、60年代における隆盛時から30年ないしは20年の遅れをもって多元主義が影響力を持つにいたった。第二には日本の政治は多元主義を基調としつつも官僚制の位置と役割の固有性からアメリカの場合とは区別される特徴を持っていると考えられていることである(2)。従来支配的であった見解は「政・官・財のパワーエリート支配」説であった。つまり自民党、財界、官僚が政策決定のアリーナを独占的ないしは寡占的に支配し、一般の市民による民主主義的コントロールを不可能にしていると認識されていた。こうした従来の見解に対して新動向の論者たちは主としてアメリカにおいて展開された多元主義の方法を対置し、その枠組みでもって日本の現状を分析することで旧来の政治学とは別の日本の政治像を描き出そうとした。こうした特徴を分析したうえで石田は、「日本型多元主義」は「政治体制」レベルにおいて大企業にバイアスのかかった構造が、政府の再分配機能のあり方を歪め、その結果として「政治経済」の構造は「利益集団自由主義(3)」の病理を抱え込むことになると主張する。個別的利益に還元されやすい分配政策は一般に自民党=政調会=族議員の介入を招きがちであり、自民党にとっての「政治的市場」における重みという基準によって利益集団は選別される傾向がある。そのような性格をおびた「政治過程」はもはや多元主義とよぶのはふさわしくなく、その病理形態としての「利益集団自由主義」の概念が当てはまるといえる。

 以上を踏まえて本論では日本の政治経済体制を包括的に表すことのできる「日本型多元主義」を分析枠組みとする。本論の「日本型多元主義」は石田の定義だけではなく、本節で記述してきた特徴も含むものとする。本論の「日本型多元主義」は以下のような特徴をもつ。

(@) 多くの関連団体を持つ各省庁官僚制は関連団体の利益を代表する役割を担っている。
(A) 規制の対象となった産業はいわゆる「タテ割り行政」で政策が実施されてきた。
(B) 現在は官僚優勢が揺らいで、政治家と利益集団が影響力を持っている。
(C)大企業にバイアスのかかった構造が多元主義の病理形態としての「利益集団自由主義」をもたらしている。

 
(@)に関しては官僚優位が揺らいできている現在でも変化していない。各省庁は社会に深く浸透しており、関連団体の利益を表出する役割は変わっていない。(A)に関しては規制緩和が進んでいない分野が多くある事実から、「タテ割り」行政の弊害があったと考えられる。(B)に関しては、政治腐敗や経済の停滞によって「鉄の三角形」が弛緩していることからいえる。(C)に関しては「政治過程」が政府と結びついた大企業などによって歪められていることからこうした特徴をもっているといえる。「日本型多元主義」には以上の四つの特徴があることが明らかになった。以下の事例分析ではこれらの特徴が表れていることを明らかにすることで日本型多元主義の限界を示す。


(脚注)

(1)消費者がある特定のブランドを繰り返し購買し、かつ他の代替となるブランドがあるにもかかわらず必然的にそのある特定のブランドを購買し続けることをいう。
(2)ダールは現代民主主義=ポリアーキーにとって必要条件の一つとして「社会的多元主義」の相当程度の存在をあげている(石田1992:19-20)。社会的多元主義とは「相互に大幅な自律性をもつ社会組織の多様性」としている。本論でいう多元主義とはおもにダールのいう社会的多元主義をさしている。
(3)第四章で後述するが、「利益集団自由主義」とは以下のような意味をもつ。多元的民主主義論において民主主義の成立のために肯定的に評価されている自律的集団の存在が、アメリカ社会の文脈においてかえって民主主義の後退を導くことになっている。これらはロウィーが多元的民主主義論を批判するために用いた用語である(石田1992:162)。



≪第2章 電気通信事業における規制緩和の政治過程≫



 本章では電気通信事業における規制緩和の政治過程を考察する。電気通信事業において本来可能であるはずの規制緩和は実行されたとはいえずその規制緩和には大きな限界があった。本章ではその原因は規制緩和を進めた日本の政治経済構造にあったと仮定し電気通信事業における政治過程を考察する。本章では電電公社民営化が行なわれる1980年代半ばから2000年代前半までを対象に考察する。その理由としては1980年半ばに電電公社が民営化され通信自由化が開始されたためである。戦後の長い間、日本の電気通信政策は、電話の普及による国民厚生の増進と経済成長の促進が目指され、以下の二点の政策目標が掲げられた。第一に「積滞」の解消、第二に全国ダイアル即時化の二つである。第二次世界大戦により日本の電話ネットワークは電話局の六割、電話回線の八割を失う壊滅的な打撃を受けていたためである(須田2005:52-53)。以上の二つの政策目標と公益事業における自然独占性の存在によって電電公社は独占的に電気通信事業を進めてきた。しかし、1978年の全国ダイアル即時化の達成と1980年代はじめの情報通信における技術革新によって電気通信政策が見直されるようになった。新たな付加価値サービスが普及されるには電電公社による回線の独占状態は打ち破られる必要があると考えられるようなった(須田2005:53-54)。こうして電電公社民営化が行なわれ電気通信事業における規制緩和が進められるようになる。

 本章の構成は以下のようになる。第一節においては和田(2011)のいう国家・市場モデルの類型を分析し、本章における政治過程分析の理論枠組みを明らかにする。第二節においては戦後から電電公社民営化までの電気通信政策を分析する。第三節では電電公社民営化とNTT分割論争を分析する。第四節では競争政策の前進と後退について分析する。最後に電気通信事業における規制緩和はあくまで官民協調体制のもとで行なわれていたことであり限界があったことを明らかにする。以上が本章の構成である。


1.国家と市場の関係

 和田(2011:31-48)は、国家と市場関係の様態を四つに類型化し情報通信セクターにおける規制緩和の政治過程を分析している。四つの類型とは(A)開発型国家、(B)自主統治、(C)ネオリベラル規制国家、(D)市場型統治の四つである。(A)の開発型国家とは国家が主導性を発揮しつつも、官民が立場を明確に分かつことなく共通の目標に向けた合意形成がなされるモデルである。(B)の自主統治とは自由化が既存の民間アクターと合意可能な範囲で進められ、市場競争は実質的には制限されたままであるというモデルである。(C)のネオリベラル規制国家とは、国家介入は強力になされるものの、それが明示的な市場志向のルールに基づくもので官民の役割が峻別化されたモデルである。(D)の市場統治型とは国家介入が小さく、市場競争が定着しておりアクターの利益の配分はその結果に委ねられているモデルである。 なお、(C)のネオリベラル規制国家における規制とは、国家アクターの裁量を排することを指す。ネオリベラル規制国家におけるルールの設定と執行に際しての目的は、市場競争の創出や市場規律の活用にあり、特定の経済的成果を導くことではない。以下の図で以上のモデルを示す。




 和田は以上の類型をもとに情報通信セクターと金融セクターにおける規制緩和の政治過程を分析した。情報通信セクターにおいては(A)の開発型国家から民間アクターであるNTTが主導する(B)の自主統治へと移行したと結論付けている。一方、金融セクターでは、(A)の開発型国家から「政策の失敗」を通じて(C)のネオリベラル型規制国家へと移行したと結論付けている。和田の主張する情報セクターにおける(A)開発型国家から(B)の自主統治への移行という立場を本論はとる。開発型国家から自主統治への移行という分析枠組みのもと以下で電気通信事業における規制緩和の政治過程を分析する。


2.戦後から電電公社民営化まで

 本節では電気通信事業における二大アクターである郵政省とNTTに注目し、郵政省とNTTの関係をその発足までさかのぼって分析する。なお、主な分析の対象となるのは第二次世界大戦後から第二臨調を通じての電電公社民営化までとする。電気通信事業において電電公社は電気通信政策の主導権を握り、実質的に「自主統治」を実現していた。しかし電電公社の民営化によって郵政省は「政策官庁」への格上げを画策するようになり、一時的に「開発国家」の様態へと移行した。以下では戦後から電電公社民営化までの政治過程を分析することでなぜ「自主統治」から「開発国家」へと移行したかを明らかにする。

 1885年に発足した逓信省は郵政事業と電気通信事業を所轄する中央官庁であり、その活動領域は広大であった。第二次世界大戦後に日本がGHQによって占領されると逓信省は郵政省と電気通信省に分割される。1952年にサンフランシスコ平和条約が調印され、占領が終了すると電気通信省は廃止され通信行政、は郵政省に集約された。一方、通信事業の遂行は電電公社が担うことになった。国際電気通信事業は53年に国際電信電話(KDD)が担うことになったが、国内電気通信業は電電公社による独占事業として運営されることになった。こうして所轄官庁の郵政省とその監督下で通信事業を運営する電電公社という体制が確立した。しかし郵政省の電電公社に対する監督権限は形式的なものにしか過ぎなかった。この理由は二点あった。第一に電気通信事業とは事業の遂行そのものにほかならず、事業を越えた政策立案という発想自体が郵政省には不足していたからである。第二に電気通信に関する人材と情報が電電公社側に集中したことで、郵政省が独自の通信政策を立案する能力に乏しかったからである。以上から電気通信事業の発足以降は本章第一節の官民関係のモデルでいうところの電電公社が主導する「自主統治」の特徴を備えていた。ただし、電電公社は政府の機関の一つに過ぎずあくまで民間アクターに相当するものでしかなかった(和田2011:55-57)。

 1981年に設置された第二臨調が設置された。第二臨調の活動は「小さな政府」のキャッチフレーズに要約される改革の推進であり,具体的には,福祉の削減,経済活動の自由化および規制緩和,さらに日本国有鉄道,専売公社,および電電公社の三公社の民営化が提案された。電電公社は国鉄とは異なり黒字を計上していたが,今後の技術革新に対応し,低廉なサービスを提供する十分な当事者能力を持つために電電公社は民営化の方向で改革されるのが望ましいとされた。以上の動向に対して電電公社と郵政省は以下のように対応した。電電公社は独占的地位を失うことになる民営化を基本的に支持した。その背景には石川島播磨から招いた真藤総裁による内部改革があった。民営化によって法的制約から解放されれば業務範囲を積極的に拡大し弾力的に料金を設定できるようになるからであった。職員の給与水準も国会で承認された予算に縛られずに決めることができるため経営面でより大きな自由が獲得できるはずであった。郵政省も電電公社の民営化を支持した。その理由としては郵政省と電電公社の関係を再構築できるためであった。電電公社民営化は郵政省の「政策官庁」への格上げを図る好機であった。電電公社が民営化されれば,電電公社が内部規則として実施してきた規則を郵政省が実施することになり郵政省の権限が拡大,強化されることにつながる。郵政省は自民党の要請に応じて電気通信改革三法案を起草し国会へ提出した。電気通信改革三法は1984年に成立し1985年に施行され電気通信事業の独占に終止符が打たれた(須田2005:54-56)。ただし郵政省は当初,民営化よりも電電公社の地域分割を望んでいた。郵政省は競争導入という政策的観点および電電公社の規模縮小により電電公社との権力関係を優位に転じようとの戦略も含むものであったと考えられる。一方、電電公社は全国一体で株式会社に移行することが望ましいと主張し、分割民営化に対して明確に反対した。首相の橋本は基幹回線部分を特殊法人化した上で、東西二分割し民営化する案を提示した。そのため電電公社よりも郵政省が優位に立ったと思われた。しかし橋本はその後の経産省や大蔵省との調整を経て出した十一項目による裁定案では電電公社への特殊会社への移行が謳われた一方,分割などの新会社のあり方などについては十年後に先送りされた。これは全電通を中心とした電電公社による働きかけをうけたものと考えられる。分割問題では郵政省が妥協を余儀なくされたが電電公社民営化で郵政省はその権限拡大した。具体的には以下のようになる。NTTに対する権限については事業計画、役員の任免などの重要行為が規制対象となった。電電公社の担ってきた機器の認定等の行政機能がNTTから分離され郵政省に移行した。これらのNTTに対する権限強化にくわえ、郵政省は電気通信事業に関する新規参入に関わる広範な規制権限の根拠を手にした(和田2011:71-87)。

 以上から本節では電気通信事業における主導権が電電公社民営化を経て電電公社から郵政省に移動したということを明らかにした。以上の政治過程は本論でいう「日本型多元主義」の (A) 規制の対象となった産業はいわゆる「タテ割り行政」で政策が実施されてきたという特徴に当てはまっている。(A)に関しては、電電公社を郵政省が管轄下においていた点であてはまっているといえる。しかし、電電公社民営化の後の規制緩和の過程においては必ずしも郵政省が優位であり続けたわけではなかった。第三節では郵政省とNTTの間の権力関係がどのように変化していったかを述べる。


3.NTT分割問題(1980年代後半〜2000年代前半)

 本節では再燃したNTT分割論争と郵政省の競争政策の後退の二つを分析する。第一のNTT分割論争は電気通信審議会などで議論され電気通信事業における競争促進政策の一つとして議論された。結果としてNTTはNTT東、西、データ、コミュニケーション、ドコモの五つに分割されたが持株会社方式でありその一体性は維持され、NTTに有利な結果となった。第二の競争政策では相互接続料の問題を分析対象とする。電電公社民営化後、総務省は1990年代後半からNTTに対して相互接続料を下げて新規参入者の育成を図った。しかし2000年代になると総務省は相互接続料の値下げに対して消極的な姿勢を見せるようになった。以上の二つの背景にあったのは郵政省の権限の低下とNTTの権限復活であった。以下ではNTTの権限復活分割論争と相互接続問題の政治過程の二つを分析することでどのように郵政省とNTTの相対的な権力関係が変化していったかを分析する。

 NTT分割は第二臨調により提起されたのち、1983年の政府・自民党合意とそれを受けたNTT法の規定整備以来の課題となっていた。もともとの政府・自民党合意での先送り期間は十年とされていたが電電公社自身の短縮化要請をうけてNTT法では五年後の再検討が規定された。このNTT法の見直し条項をよりどころとして郵政省は分割問題を提起し続けることになる。その背景にはアメリカにおいて行われたAT&T分割の先例があった。最初に行われたNTT分割としてはデータ通信事業の分離がある。NTTのデータ通信事業は電電公社時代の1967年に設けられた。その背景には電子交換機とコンピュータの技術的な類似性やコンピュータの将来性に関する技術系グループの見通しがあった。しかし電電公社によるコンピュータ分野や情報サービス分野への進出はつねに産業界や経産省との軋轢を伴った。経団連などはコンピュータ・システムの推進にあたり電電公社の役割を専用線の提供という「線貸し屋」に限定すべきという提言を出した。データ通信に進出した電電公社は「民業圧迫論」に対して、官公庁向けなど公共性の高い分野や先端技術の開発に専心するという官民棲み分け論を主張した。しかしその後も民業圧迫批判はおさまらなかったため、第二臨調はこうした声に配慮して七月の基本答申では電電公社を五年以内に長距離通信会社と複数の地域通信会社に分割するとともにデータ通信などの分離を進めるとした。アメリカにおいてAT&Tの分離子会社要件が課された以上、NTTは分離は仕方ないと考え、データ通信事業分離の方針を明らかにした。民営化後のNTTはより分離に積極的な姿勢を見せるようになり郵政省も公正競争措置を伴えば分離を認める姿勢であった。公正競争措置として郵政省はNTTから新会社への出資比率を十年後、および二十五年後に五十パーセント、二十五パーセントに引き下げることを目指すこととし、NTTデータ通信が1988年5月に設立された。データ通信の分離過程においてはNTTの権限復活が産業界からの要望に積極的に呼応しNTTの権限復活が分離過程を主導した。NTTはNTTデータ通信との間で資本、人事面で本体との一体性を保つという自らの望むかたちで再編を成し遂げた。一方、郵政省はNTTに対して大きな影響を及ぼすことができなかった(和田2011:88-93)。

 NTT本体の分割においても郵政省などの抵抗にあうもののデータと同様の過程をたどった。NTT本体の分割は二度にわたる論争が行われた。第一次論争は民営化の五年後にあたる1990年に分割を提言した電気通信審議会答申であり、第二次論争は96年の電気通信審議会の再度の答申である。第一次分割論争は1988年に郵政省が電気通信審議会に「今後の電気通信産業のあり方」を諮問して始まった。リクルート事件によってNTT総裁の真藤が逮捕されたこともありNTTに関する世論の関心は高まっていた。NTT側は1989年の段階ではアメリカのモデルである分割を単純に移植してもうまくいかないと述べ郵政省を牽制した。その一方で移動通信などを想定し一部事業の分離はありうるとし分割論争の落としどころを示唆した。NTTの組織と雇用の中核にあたる地域固定通信の分割は拒否するものの、周辺的な事業の分離には妥協として柔軟に応ずるものであった。その後、1989年7月に行われた参院選においてリクルート事件と消費税導入の影響で自民党が大敗し、社会党が議席を伸ばし与野党逆転が実現した。全電通の社会党への強い影響力を考えるとかりにNTT分割を法案化しても参院通過の見込みはほぼなくなった。これをうけNTT全通の山岸委員長は全国大会において分割論について政治的に歯止めがかかったと勝利宣言する。九月には経団連の意見書案の骨子が報じられるが、それは分割について三年程度の進展を注視すべきという先送り論であった。その背景にあったのは旧電電ファミリーの存在であった。経団連がアメリカにおけるAT&Tの分割に対して好感を持っていた一方で、旧電電ファミリーの代表格であるNECなどは分割に反対し電電公社がメーカーを指導、育成していた時代の長所を指摘している。一方、9月に電気通信審議会は分割を強く示唆する中間答申をまとめた。NTTの権限復活の経営効率性、公正競争上の問題の多くはNTTの組織構造から派生するとし抜本的対策として三つの分割方式をあげた。一つはJR、電力会社型の地域分割であり、二つめは地域通信と長距離通信の二社に分割する方式であり、三つめは長距離通信一社と地域通信複数会社に分割する方式であった。中間報告は三方式を比較検討した上で三つめの長距離・地域複数分割をめざすことを示唆した。しかしNTTは株価の低迷を問題点にし、新規事業者のDDIは透明な議論を要求し、経団連は分割に明確に反対した。審議会と郵政省以外にNTT分割に積極的に賛成するアクターは以上のようにほとんどおらず郵政省は不利な立場に追い込まれていた。中間答申後に自民党は政策委員会を中心に検討をはじめたがNTT分割に対しては賛否両論あった。十二月に経団連は「公正競争の観点からすれば、NTTを市内網とその他の事業部門に分離することは一つの有力な改善策である」と評価しつつも、三年程度状況を注視するものという中途半端なものになった。経団連はNTT分割に早くから関心をもっていたものの内部の意見対立から明確な意見を表明することはなかった。1990年1月には通産省の産業構造審議会・情報産業部会が分割よりも公正競争条件を確保することが先決として分割時期尚早論を唱えた。以上のように分割への支持が広がらなかった郵政省は最終答申において実現可能性を重視した案への修正を余儀なくされた。1990年3月に公表された最終答申では中間答申で有力視されていた長距離・複数地域分割を断念し、長距離通信一社と地域通信一社への分離が提言された。NTTはこの答申に対して長距離通信と通気通信の分離に反対であるとしたが移動通信事業の分離には前向きな姿勢を示した。一方、この時期から大蔵省が論争に介入しNTT株売却への影響から分割に対して懸念を示した。郵政省は大蔵省との協議を続けたが溝は埋まらなかったため、郵政省は当初の計画通りの分離を断念し、3月30日にNTT法に基づく政府措置を発表した。政府措置は電気通信分野全体の発展という目的のもと「公正有効競争促進」と「NTTの経営の向上等」を含むものであった。「公正有効競争の促進」としてはNTTに対し、長距離通信と地域通信の収支状況を分ける事業部制の導入、ネットワークのオープン性の確保、内部相互補助の禁止、情報公開、研究開発成果の普及に加え、一両年内の移動通信事業分離、デジタル化の前倒しなどがあげられた。これらの成果を見つつ1995年度にNTTのあり方について検討を行い、結論を得るとした。しかし政府措置のほとんどは移動通信事業の分離やデジタル化の前倒しをのぞいてほとんど実施されず、移動通信事業の分離やデジタル化の前倒しはそもそもNTTが計画していたことであった。郵政省は各方面からの反対を受けることでNTTがそもそも意図していたことを政策課題として設定したに過ぎなかったのである(和田2011:93-101)。

 政府措置で移動通信事業について一両年内を目途に分離するとされたのをうけ、移動通信事業の分離についての検討が始まった。1991年2月には分離に関する基本的枠組みについて合意がなされた。合意された基本的枠組みでは郵政省の地域分割をNTTの全国一社案の折衷として移動通信を中央一社とその子会社である複数地域会社に再編することになった。そのほか92年のNTTの株主総会後、全国一社体制で分離し、その一年後を目途に中央・地域の体制に移行するというスケジュールや、五年後の中央会社の上場をめざし、NTTの出資比率を低下させていくことも合意された。NTTドコモの分離はほとんどNTTの抵抗もなく1992年に分離された。当時、郵政省とNTTはともに移動通信を周辺的な事業とみなしほとんど重視していなかった。NTT部内の技術系の序列において移動通信を担当する「無線屋」は、有線通信を担当する交換機やケーブルの専門家に比べ地位が低かったといわれている。分離されるNTTの移動通信部門にとっても分離への抵抗は少なかった

 NTTはNTTドコモをNTT本体との一体性を保ちながら分離することでNTTドコモの独立志向をこの後も抑えていくこととなる(和田2011:101-102)。

 郵政省は1995年4月になると政府措置に記された先送り期間が終了したことで、再びNTTの経営形態を検討するようになった。郵政省は電気通信審議会に対し「NTTの在り方について」を諮問した。実質的な審議を行う場として電気通信審議会に「NTTの在り方に関する特別部会」を設けた。NTTの在り方に関する特別部会は1994年9月に新規参入事業者たちからヒアリングを開始し、相互接続などが問題点としてあげられた。この時期は郵政省がNTTに対し攻勢をかけていた。しかし郵政省の優位は1995年9月以降に揺らいでいくこととなる。9月にNTTは通信網の完全開放を決定したと発表した。これは新規参入事業者の要望に応ずるものであり、新規参入事業者の一角を切り崩す効果を発揮した。NTTは規制緩和を通じて競争促進政策に協力すると表明していた一方、郵政省はあくまでNTT分割に固執し規制緩和の必要性を認めたがらなかった。経団連や公正取引委員会などは分割よりも規制緩和を優先する意見を表明していた。こうした動向をうけて郵政省は需給調整条項と料金認可制の見直しを言明した。需給調整条項は郵政省による裁量的な介入の根幹をなす部分であり、その見直しは郵政省にとって大きな譲歩を意味していた。1996年1月に橋本政権が成立したが、橋本は首相就任前より第二次分割論争においても、分割はNTTの国際競争力を低下させるとして消極的であり規制緩和を優先すべきとの考えを示していた。郵政相に就任した社民党の日野は分割問題の先送りを示唆した。審議会の答申を待つべき郵政相が結論に言及するのは異例であり、社民党の支持基盤である全電通への配慮をうかがわせた。

 こうした状況にもかかわらず電気通信審議会の特別部会は、分割の具体案の検討を進めた。審議会は1990年には実現可能性を重視し、地域通信事業の複数分割については見送り、長距離一社と地域通信一社への分割を提示した。しかし今回は妥協せず、第二臨調の方針に近い長距離通信会社と東西二社の地域通信会社とする案を準備していた。NTTから譲歩を引き出すために分離後はNTTデータ通信やNTTドコモとの統合を容認することにした。政党でも答申をにらみ検討が活発になった。社民党は全電通との関係から当初より分割反対であり1996年2月には正式に分割反対という見解をまとめた。自民党では競争促進や全電通を抑える観点からの分割支持はあったものの、郵政相と全電通を含むNTTの双方の働きかけをうけ調整が困難なことや、連立相手の社民党への配慮により結論の先送りに傾いていった。新進党も全電通の選挙協力への期待から分割反対姿勢をみせるようになっていった。1996年二月の答申は郵政省の当初案どおり、1998年度中を目途にNTTを長距離通信会社と東西二社の地域通信会社へ分割するとの結論を出した。このような分割の主なねらいは、NTTによる地域網の独占的な保有という「ボトルネック独占」の解消により長距離通信市場の競争を促進することにあった。地域通信市場については、東西二社の相互参入や長距離通信会社の地域通信参入による競争促進を掲げつつも、主に想定されたのはヤードスティック競争という東西二社の経営効率の比較による間接的な競争であった。NTTの地域独占は継続され、長距離通信会社についてはすでにNTT本体から分離したNTTデータ通信、NTTドコモの株式を継承するとし、NTT法の対象外とするなどNTT側にとっての分割の利点も用意された。NTTはこの答申に対して反論し、分割を前提としない将来ビジョンを発表して受け入れ拒否の姿勢を示した(和田2011:103-112)。

 政府措置で決めた期限である1995年度末を間近にひかえ、なお郵政省、NTTと二大当事者が対立する事態に自民、社民、さきがけの連立与党は96年三月上旬、「NTTの経営形態に関するワーキング・グループ」の初会合を開き調整に乗り出したが調整が難航したため、連立与党は第一次分割論争と同様に結論の先送りに傾いていく。一方、規制緩和については分割の決着をまたずただちに実施する方向で集約されていった。当時、世界ではAT&TやBTなど巨大な通信会社によりアライアンスが形成されつつあった。こうした動向に対して、産業界、メディア、学会などでは日本がいつまでもNTT分割に固執し必要な改革を怠っていては通信産業の国際競争力や利用者の利便性の低下を招くとする見方が強くなる。こうしたグローバルな競争激化に対応するためNTTの国際進出を急ぐべきとの橋本首相の意向を受けて、郵政相とNTTの協議で浮上したのが独占禁止法により禁じられていたが、経済活性化策の一貫として解禁の動きが進展していた純粋持株会社を活用する再編案であった。この持株会社により郵政省とNTTは合意に達し、1996年12月に郵政省は合意内容を「NTTの再編成についての方針」として発表した。これによりNTTは持株会社とそれにぶらさがる長距離通信会社と東西地域通信会社二社へと再編されることになった(和田2011:112-115)。

 NTTは持株会社というかたちで分割が実現したことによって少なくとも外見上は変化したといえる。しかしそれらのグループ企業のすべてがNTT持株会社の管轄に服すことで資本・人事面での一体性は実質的に保たれた。その帰結として分割による競争促進という効果はほとんど生じなかった。この時期の官民関係の変化はNTTの再編成というフォーマルな面では大きかったものの、官民関係を規定するインフォーマルな秩序は不変であった。

 ただし、二度にわたる分割論争では、国内制度としての官民関係に閉じられていたわけではなかった。論争の参加者は政党や、他官庁、産業界やメディアなど官民アクター以外の多くを含んだ。和田はこのことを「経済アイディアの市場」の実現と述べている(和田2011;115-117)が、これは本論でいう「利益集団自由主義」とも一致すると考えられる。


4.競争政策の後退(2000年代前半〜)

 本節ではNTTの接続料問題に焦点をあてる。接続料は競争政策の一貫として一時的に引き下げられた一方で、郵政相はNTTとの協調関係を強化し、NTTは電気通信事業における主導権を取り戻していくことになる。

 接続料とは、主要な電気通信事業者のネットワークに接続するために支払う電気通信ネットワークの使用料をさす。日本でいえば、接続料とはNTT以外の通信事業者がNTTのネットワークを利用することに対しNTTに支払う回線利用料のころである。一般に新規電気通信事業者は先行電気通信事業者の回線を借りてサービスを提供するため、接続料が低額であるほど新規参入事業者は先行事業者と競争しやすい。日本においては、NTTが市内通信ネットワークの99%を支配し、ほぼ独占する状態にあることから接続料はきわめて重要な問題となっている。1985年の規制緩和以降、新規電気通信事業者は収入の40%から60%を接続料に充てていたという。接続の条件や料金の算定方式が透明性にかけていたことが新規電気通信事業者の不満を増大させていた(須田2005:176-177)。

 1997年に始まった日米交渉においてアメリカ側出された要望の中心はNTTの接続料算定において長期増分費用方式の導入であった。長期増分費用方式とは、現時点で利用可能な最も低廉かつ効率的な設備・技術を利用する前提で接続料を算定する方式である。それに対し当時NTTがとっていたのは現存するネットワーク構築にかかった費用を課す実際費用方式であった(和田2011:122-123)。郵政省は長期増分費用方式に賛成の立場をとった。その理由としてはNTTが優位に立つ通信市場を活性化するためには、競争促進的な再規制が必要であり、とりわけ相互接続を確保するための再規制が必要であると考えられた。郵政省は競争による電気通信市場の活性化という政策目標を達成する新しい手段として長期増分費用方式を位置づけ1997年3月に「長期増分費用モデル研究会」を設置した。NTT以外の電気通信事業者はそろって長期増分費用方式の導入を主張し、経団連もこの方式の導入を主張した。その理由としては、日本の中長距離電話料金はアメリカやイギリスのそれに比べ二倍以上の価格差がついていると指摘されていた。相互接続が確保され市場競争を通じて通信料金が低廉化すれば日本企業の国際競争力も向上するはずであった。そこで、経団連は接続料金の決定方法や接続料条件を公開することのルール化を提言し、長期増分費用方式の導入によって接続料を低減させることも提言した(須田2005:190-199)。

 2000年3月の接続料に関する日米交渉では日本側が「4年で22.5%」という接続料の引き下げ幅を提案した。アメリカ側は日本側のあげた22.5%を最初の二年間で達成し、三年目以降、四割引き下げという新提案を出した。しかし郵政省としてはNTTとの調整において「4年で22.5%」がNTT東西の経営に深刻な影響を及ぼさないぎりぎりの数字であることは確認済みであったため、これ以上譲歩することができなかった。NTTは自民党を介してNTT法を改正させることでこの状況を打開しようとした。NTTはNTT東西のみにユニバーサル・サービスの業務や業務範囲の制限が課せられている点を問題視していた。これは接続料に関して譲歩する条件として提示された面があった。2000年6月に森首相が政府株売却によるNTTの完全民営化に言及したのに続き、接続料の引き下げ期間の短縮やNTT東西分割の再検討、NTT法の改正を唱えた。自民党幹事長の野中はNTTの地域分割見直しなどを条件に接続料を22.5%引き下げる期間を3年程度に短縮することが可能と述べた。

 2000年7月の日米最終協議においては「3年間で22.5%」という日本案と「2年間で22.5%、その後4割下げ」というアメリカ案をめぐり最後の折衝が行われた。その結果、日米の折衷案による合意が発表された。「3年間で22.5%」の大枠を維持しつつ、最初の二年間で22.5%の9割にあたる約20%を引き下げ、その後についてはあらためて算定方式を見直すというものであった(和田2011:119-130)。

 アメリカが日米交渉によって接続料の引き下げを日本側に迫ることによって、郵政省は接続料引き下げを棚上げし「国益」を守るとの論理でNTTと共同でこれに対処することを自明視させた。郵政省は、交渉を通じて合意内容をNTTの許容範囲内におさめることに勤めた。一連のモデル策定や交渉を通じて、競争政策の観点から接続料引き下げを進める姿勢をまったく示さなかったことに対し、新規通信事業者の郵政省不満は頂点に達した。産業界も競争政策への危機感を募らせていた。接続料に関する問題が決着すると今度は競争政策に関する検討が開始される。電気通信審議会の検討は「IT革命を推進するための電気通信事業における競争政策のあり方についての特別部会」(以下、IT競争政策特別部会)において実施された。IT競争特別部会は2001年12月に一次答申を出し、2002年2月に二次答申、8月に最終答申を出して終了する。接続料に関する問題で郵政省に関する不信が高まり独立規制機関の設置を新規通信事業者が訴える中、一次答申が2001年11月中旬に公表された。その内容は四点あった。第一は支配的事業者規制であった。これは地域通信、長距離通信、移動通信という業務区分ごとに市場支配力を有する事業者を指定し、優越的地位の利用による反競争的行為を禁止するほか、料金などについて他事業者より厳しい規制(非対称規制)を課す措置である。第二はインセンティブ規制である。これはNTTがネットワーク開放や持株会社傘下の各社に対する出資比率引き下げなどの競争促進措置を自発的にとるような誘引を付与する政策である。第三はNTTグループの完全資本分離への言及である。第四は接続問題など電気通信事業者間の紛争を裁く紛争処理委員会の設置である。NTTは競争促進の方向にふれた一次答申に対し強く反発した。NTTは「長距離・移動体市場は既に十分競争が進展しており、コミュニケーションズ、ドコモへの非対称規制の必要はない」と述べ、完全資本分離と支配的事業者規制に明確に反対した。NTTは2001年3月の会見で、法案化のプロセスにおいて「我々の意見を聞いてもらえる最大限の努力をするしかない」との表現で、ロビイングの実施を示唆する。その結果、3月に開かれた法案を審査する自民党総務部会の会合はNTT擁護一色となった。自民党がNTT擁護の姿勢を明確にしたのは、7月に参院選が迫っており、有力支持団体であるNTTに配慮したという要因があった。自民党総務部会に了承されてまとまった電気通信事業法などの改正は第一次答申から大きく後退する。第一にインセンティブ規制についてはNTTに対する業務規制緩和が盛り込まれたのみであった。第二に支配的事業者については長距離通信については指定しないことになった。第三に完全資本分離についてはいっさい触れられなくなった。

 特別部会は2002年8月に最終答申をまとめる。最終答申では、IP化、ブロードバンド化の進展により新規通信事業者も自前でネットワークを構築して展開する設備競争が重要になる旨を述べている。この設備競争の重要性が強調されたことは従来のNTTのネットワークを新規通信事業者に開放させる競争政策からのシフトという側面があった。NTTの既得権益に切り込む競争政策からNTT振興への転換といってよい。NTTの経営形態問題については「構造分離」政策のメリットとデメリットを併記したうえで、「今後とも引き続き慎重に議論を進めることが必要」とのみ記し、事実上、実施しない方向を固めた。こうして二年間にわたって行われた特別部会の議論はNTTの意向に沿うものへと転じた。様々な方面から出てきた要求を行使しようとしても、NTTの死活的利益にふれる部分は拒否権行使にあうという歴史的パターンを免れえなかった(和田2011:131-141)。

 特別部会の掲げた目標である地域通信市場の競争促進は審議会での検討と立法段階における族議員の介入という既存の官民関係の範囲内で調整された。ゆえに、その結果も既存の官民関係におけるインフォーマルな秩序にならざるをえなかった。NTTの許容範囲外の部分についてはNTTが拒否権を行使し、撤回に追い込むというパターンが繰り返されただけである。既存の官民アクターによる調整方式が維持された以上、達成される変化は既存の秩序の範囲内でしかなかった。電気通信事業における国内制度においては総務省とNTTの争点となった競争政策は阻止された一方、漸進的な自由化は進んだ、それにより両者の関係は「開発型国家」から、官主導の競争政策が民(NTT)により書き換えられるという民主導の「自主統治」へ接近した。この後もNTTが主導権を握り電気通信事業における政策を進めていくことになる(和田2011:142-143)。

 これらの政治過程は日本型多元主義における(B) 現在は官僚優勢が揺らいで、政治家と利益集団が影響力を持っている、(C)大企業にバイアスされた構造が多元主義の病理形態としての「利益集団自由主義」をもたらしている、に当てはまると考えられる。(B)に関しては、郵政省(総務省)が強い反発を受けてNTT分割を断念したことから自民党や自民党にロビイングをしたと考えられる利益団体であるNTTなどが強い影響力を持つようになったという点で当てはまっている。(C)に関しては、新規通信事業者など様々な団体が総務省に働きかけを行ったにもかかわらず、結局は最も強い利益政治力を持っていると考えられるNTTの意見が政策に反映されていったことから多元主義としての病理形態である「利益集団自由主義」をもたらしていたと考えられる。ただ、電気通信事業では部分的ではあったが、接続料の値下げや持株会社下の分割など一定の成果もあった。須田(2005:216)は日本の電気通信政策は通信グローバル化に順応して発展してきたと肯定的な評価をくだしている。長期増分費用方式をうけいれた理由は、大口企業ユーザーの利益が反映される政策過程の仕組みにあったと仮定し、日本の政策過程システムにも肯定的な評価をしている。電気事業では電気通信事業よりもさらに強固な日本型多元主義に基づくシステムが形成されていた。電気事業における規制緩和を評価している先行研究がほぼないことが示しているように電気通信事業以上に電気事業では規制緩和が進まなかった。第三章では電気事業の規制緩和の政治過程を分析する。


表1

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1995年 第一次電気事業法改正

@独立系発電事業者(IPP)の発電市場への参入が認められ、電力会社が他の電力会社・卸電気事業者以外からも電気を購入することが可能となった。

A特定電気事業(自前の発電設備・送配電設備を持つ事業者が、特定地域の需要家に直接電気を販売)が認められることとなった。

Bヤードスティック査定の導入、選択約款の導入、燃料費調整制度、経営効率化の見直し等が行われた。

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1999年 第二次電気事業法改正

@2000年3月から大規模工場やオフィスビル、デパートなどの特別高圧で受電する顧客(2万V以上で受電、契約電力が原則2,000kW以上の顧客)が自由化の対象となる。これにより特定規模電気事業者(PPS)が、電力会社の送電ネットワークを利用して、自由化対象の顧客に電気を供給することが可能となった。

A電力会社が保有する送電ネットワークを特定規模電気事業者が利用するための公正・公平かつ透明なルール(小売託送ルール)の整備、兼業規制の撤廃等が行われた。

B非自由化対象の顧客に対しては、それまで認可制であった料金改定が、料金引き下げ等の場合には届出制に変更され、料金の選択メニューの設定要件の緩和などが行われた。

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2003年 第三次電気事業法改正.

@2004年4月より一部施行され、小売自由化の対象が500kW以上の高圧の顧客に拡大され、2005年4月の全面施行により、小売自由化の対象が高圧のすべての顧客(50kW以上)にまで拡大された。これにより日本の販売電力量の約6割が自由化対象となる。

A送配電部門の公平性・透明性を確保するため、行為規制(会計分離、情報の目的外利用禁止、差別的取扱いの禁止)が実施された。

B全国規模の電力流通の活性化を目的とした振替供給制度の見直しが行われた

C電力調達の多様化を図るため、有限責任中間法人日本卸電力取引所(現:一般社団法人 日本卸電力取引所)が創設された。

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2008年 第四次電気事業法改正の見送り.

@小売部門の自由化範囲の拡大については、まずは既自由化範囲において競争環境整備に資する制度改革を実施すべきとされた。

A小売自由化範囲の拡大については、5年後(2013年)を目途に再検討することとなった。

B競争環境整備については、託送料金制度などの改革が実施された。
東京電力ホームページ1月13日にアクセスhttp://www.tepco.co.jp/ir/kojin/jiyuka-j.htmlより作成。



≪第3章 電気事業における規制緩和の政治過程≫


 電気事業における規制緩和(以下では電力自由化とする)は1995年から開始された。電気事業は電気通信事業などに比べてグローバル化や技術革新の影響を受けにくく戦後から複数の電力会社が発電・送電・配電一貫体制のもとで独占的に電力を供給してきた。しかし1980年代以降、国際的に高い日本の電気料金が問題になり電力自由化が求められるようになった。第二臨調を受けた三公社の民営化や規制緩和を進めた郵政省や運輸省に対して通産省がこれといった実績を上げていなかったことも電力自由化に対して影響を与えたと考えられる(日刊工業新聞取材班1998:37)。本章では電力自由化における二大アクターを通商産業省(2001年からは経済産業省)と東京電力をはじめとする電気事業者とする。第二章と同様に電力自由化においても規制緩和の途中で時々の緊張関係はあったものの基本的には通産省(経産省)と電気事業者の間の協調関係の中で電力自由化は行われた。こうした協調関係の中で電力自由化が行われたため適切な改革が行われたとはいえず、最終的には2008年の電気事業法改正の見送りを招くこととなった。本章では電力自由化の政治過程を分析することで、電力自由化が政府と企業の協調関係の中で行われたことを明らかにし電力自由化の限界を指摘する。なお、分析枠組みとしては第二章一節で述べた、国家と市場の関係を用いる。


1.電力自由化の開始(1995年まで)

(@)第一次電気事業制度改革までの政治過程


 本節では戦後から1995年の第一次電気事業法改正までの電気事業について分析する。日本の電気事業は戦前の民間企業の自由な活動によって発達したが、1939年以降は国家管理下におかれた。こうした歴史を反映して1951年に業界が再編されたとき、政府からは独立しているが政府から強い規制をうける地域別独占の九電力会社のかたちをとった。自家発電を除けば需要家への電力供給は電力会社だけに限られた。その代わり電力会社は管轄地域のどの需要家にも電気を届けるユニバーサル・サービス提供の義務を負い、電力料金も政府の認可が必要とされた。電気事業において、変化を求める声は電気料金をめぐる不満から生じた。80年代の円高によって火力発電の原料である原油の輸入コストが大幅に下がったのに、それが電気料金に十分に反映されていないという不満であった。こうした不満を背景に1993年八月に総務省は、電力・ガスなどエネルギーに関する行政査察の結果をもとに通産省に対して分散型電源をはじめとする一般電気事業者以外の電力の積極活用を提言した。この提言をきっかけとして通産省傘下の資源エネルギー庁は「総合エネルギー調査会総合部会」に「基本政策小委員会」を設置し、電気事業の規制緩和について審議させることにした(恒川2010:117)。

 こうした動きをうけて1994年に通産省は電力の事業規制を緩和する方針を決めた。当時の企業は電力会社への売電は工場などで余った電力に限られていたが、新たに一般企業が電力会社に電力を卸売りにすることを目的として発電会社をつくることを原則と自由化することを通産省は目指していた。くわえて、一般企業が電力会社に電力を売る際の価格に入札制度を設けることをも検討した。一般企業の卸電力市場への参入が広がれば競争原理が働き一般需要家向けの電気料金の引き下げにつながると通産省は考えていた。通産省は電気事業審議会(通産省の諮問機関)の電力基本問題検討小委員会で議論を始め、95年の通常国会に電気事業法の改正案を提出することを目指していた(日本経済新聞1994年3月15日:5)。こうした動きをうけて95年四月には三十一年ぶりに改正された電気事業法が成立した。大きく四点の制度変更が行われた。第一は競争導入を目的に発電分野で一般企業が発電設備を持ち電力会社に電気を卸売りできる「IPP」制度である。第二に小売り分野での特定の地域で直接需要家に売ることが可能な「特定電気事業者(4)制度」を創設した。第三に料金改定時に効率化努力を各電力会社で比較し、その度合いに応じて料金の査定における差をつける「ヤードスティック査定」も導入された。第四に自家発電を行っている企業が発電施設のある工場から離れた所にある自社工場まで電力会社の送電線を使って電気を送ることができる「自己託送制度」も認められた(日刊工業新聞社取材班1998:43)。

(A)第一次電気事業制度改革に関する分析

 (@)における分析から第一次電気事業法改正では通産省が当初から想定していた案がほぼ実現されたといえる。地域独占によって競争から守られていた電力会社はこの改革によって特定電気事業者との間で競争を行なわなくてはならない立場になった。第二章で述べた国家と市場の観点から考えると、電力会社による「自主統治」から「開発型国家」へと移行したと考えることができる。この理由は二点ある。第一に戦後における電力再編成以降、電力会社が主導して電源開発に取り組んできたことである(持田・橘川1992:100)。原子力発電や電源開発促進税に関しては電力会社は政府に接近することはあったが、政府が反対していた石油火力発電を電力会社が自ら推進するなど、電気事業における主導権は電力会社にあったと考えられる。こうした点から、石油危機後の値上げも通産省は容認せざるをえなかったと考えられる。以上の状態は、戦後から電力会社は電気事業における「自主統治」を行なってきたといえる。しかし第一次電気事業法改正では通産省が主導権を握る「開発型国家」へと移行したと考えられる。その理由を以下で述べる。第一の理由は通産省の政治的地位の維持への焦りである。1980年代以降、郵政省が電電公社の民営化や通信自由化、運輸省が国鉄の分割・民営化を実現するなどそれぞれに自由化・規制緩和の成果をあげていた一方、通産省にはこれといった実績がなかった。通産省管轄の業界では自動車、電気製品、大規模販売店などで規制緩和が進み、ほぼ自由競争が確保されていた(日刊工業新聞社編:37)。唯一の独占事業として残っている電力業界に対して改革を迫ることは通産省が省としての政治的地位を保つうえで重要であったと考えられる。第二の理由は電力会社が経営上の利益を得られたからである。電力会社が電気事業の改革を受け入れた理由としてはヤードスティック査定と同時に「原燃料費調整制度」が導入されたことである。電力会社はこの制度によって石油価格が継続的に上昇したときには、他のコストから独立に電気料金の調整が認められるようになった(恒川2010:118)。第三の理由は上記の改革が電力会社の根幹を揺るがすものではなかったことである。競争は限定的なものであると電力会社は判断したと考えられる。以上から第一次電気事業法改正を機に電気事業における主導権は電力会社から通産省へと移り「自主統治」から「開発型国家」へと移行したことが明らかになった。しかしこの時点ではまだ通産省が急激な改革を進めるほどの主導権を握っておらず、「開発型国家」における国家介入の程度は小さかったと考えられる。第二節では第二次電気事業法改正を分析する。


2.電力自由化の進展(1995〜1999年)

(@)第二次電気事業制度改革までの政治過程


 1999年の電気事業法改正では、主に三つの制度変更が行なわれた。第一に2000年3月から大規模工場やオフィスビル、デパートなどの特別高圧需要家(2万V以上で受電、契約電力が原則2,000kW以上の顧客)が自由化の対象となった。これにより特定規模電気事業者(PPS)が、電力会社の送電ネットワークを利用して、自由化対象の顧客に電気を供給することが可能となった。第二に電力会社が保有する送電ネットワークを特定規模電気事業者が利用するために公正・公平かつ透明なルール(小売託送ルール)の整備や兼業規制の撤廃等が行われた。第三に非自由化対象の需要家に対しては、それまで認可制であった料金改定が、料金引き下げ等の場合には届出制に変更され、料金の選択メニューの設定要件の緩和などが行われた(第三章冒頭の図)。第二次電気事業法改正は「電力小売り自由化」を目指して行なわれたが、通産省と電力会社との間には第一次電気事業法改正時に比べて対立する場面が多く、改正にあたって紆余曲折があった。以下では1997年の通産相の発言から1999年までの第二次電気事業法改正までの政治過程を分析する。

 1997年初頭に経産相であった佐藤信二は電気料金の引き下げを念頭に、電力会社を発電会社と送電会社に分離する検討を始めるよう通産省に指示した(日本経済新聞朝刊1997年1月8日)。商工族でありエネルギー問題に詳しかった佐藤は発送電分離を持論とし、事務当局の発想を超えた大胆な電気料金引き下げ政策で指導力を発揮しようとしていた。こうした動きに対し、経産省管轄下で電気事業を管轄する資源エネルギー庁は既に欧米の事例を分析したことがあり発送電分離の導入は困難と確信していた。電力会社は電力の供給責任があいまいになると主張し経営形態を維持することを主張した(日本経済新聞1997年1月16日)。1995年の電気事業法改正以降、減量経営をしてきた電力会社側は電気事業連合会の荒木浩を中心に経産相に対する反発を強めていたが、佐藤の強硬姿勢から抵抗しきれないと判断した。2月に通産相との懇談会を開き、荒木は「経営を一層効率化し国際的にそん色ない料金水準へ努力する」と表明した。通産相の佐藤は「発送電分離より後退だが経営効率化で料金が着実に下がればいい。」と満足したという(日本経済新聞1997年5月16日)。1997年5月に政府は「経済構造の改革と創造のための行動計画」を閣議決定し、その中で「2001年までに電気料金を国際的に遜色のない水準にする」と公約した。この行動計画を受け、1997年7月から電気事業審議会(通産省の諮問機関)の基本政策部会がはじまった(日刊工業新聞社編:38)。これをうけて電気事業連合会の荒木は「競争導入のもとに規制が強化されては困る。」と延べ、電力市場への政府介入が強まる動きをけん制した

 電気事業審議会の論点の一つとなっていたのは、火力発電所建設の完全競争入札制の導入であり、政府内では第三者機関による審査方式などが議論されていた。荒木は発送電分離についても商法に基づく電力会社を国の政策で分離するのは難しいと述べ、実現性に疑問を示した(日本経済新聞1997年7月25日)。自民党行政改革推進本部では1998年4月17日から国際水準より割高な電気料金を引き下げるため、電力の小売の自由化および電力会社の発送電分離の検討に入った(日本経済新聞1998年4月17日)。電力会社は通産省だけでなく自民党からも競争促進のための圧力をかけられることになり苦しい立場となった。

 一方、電気事業審議会基本政策部会における議論で最大の争点となったのは、「プール制(5)」の導入であった。




 自由化推進を主張する委員は欧州や米国で進んでいる自由化の例をあげ、小売自由化を進め完全自由化へ移行していくための基本的条件だとして「プール制」の導入を訴えた。これに対し電力会社は、日本では資源のほとんどを輸入に頼っていることや、電力各社を連係する送電線は大きな電力を流す設備になっていないことや、地域間の料金差が小さいことを理由にプール制に対して反対した(6)。電力会社がプール制のデメリットを指摘し、日本にはプール制がなじまないことを説明していく過程で、プール制導入のシナリオは後退していった。1998年4月21日の基本政策部会では自由化のモデルがそれぞれ示された。電力小売りの部分自由化、全面自由化、電力プール市場の創設という「自由化の三類型」について議論がなされた。完全自由化やプール制導入の是非については各委員の意見がわかれていたが、「大口需要家への小売り自由化」でほぼ意見が一致した。この流れをうけて電力側委員である電気事業連合会会長であった荒木は「市場自由化の方策として送電線の公平な利用の確保と、その利用料金の算定根拠を明示する用意がある。」と発言した。荒木は自由化につながる具体的な発言を避けてきた。加えて、送電は発電と一体に運用しなければ供給信頼性が損なわれるとして送電線の利用拡大には消極的であると見られていた。「送電線の利用拡大」という荒木に発言には、燃料を海外に依存していること、ネットワークの制約、需要変動の大きさなど日本の電力事情の特殊性から欧米と同様な形での自由化は難しいとの認識が他の委員たちに浸透し始めたことをふまえたものといえた。荒木は電力会社への風当たりに配慮し、このような大幅な譲歩をしたと考えられる。この発言によって基本政策部会の結論の方向性はきまった。「新電力システムは、当面は部分自由化を念頭にさらに検討を深めるものとする。全面自由化およびプール制の導入は現状では不適切で時期尚早であり、将来の検討課題とする。」という部分自由化を導入する報告がまとめられた(日刊工業新聞社編1998:41-57)。1998年9月には一般家庭向けを含めた小口需要家への供給自由化は当面検討を先送りし、三〜五年後に改めて審議する方向となった。供給自由化の対象となったのは「特別高圧需要家」に相当する規模の大口需要家であった。新規参入や料金設定については許認可制をやめ、事後的に届け出る制度に改めることになった(日本経済新聞1998年9月3日)。1999年1月になって、ようやく電気事業基本政策・料金合同部会の答申がでた。それに沿って再び電気事業法が改正され、2000年3月に施行された。その詳細な内容は本節冒頭で述べたとおりである。最も重要な内容は特別高圧需要家(2000kW以上)向け電力の小売りが自由化されたことである。この小売り自由化によって当時の全電力需要の26%が自由化の対象となった(恒川2010:119)。

(A)第二次電気事業制度改革に関する分析 

 第二次電気事業法改正にあたって、通産省と電力会社は深刻な対立関係に一時的に陥ったと考えられる。1997年初頭に佐藤通産相が発送電分離を発言したことによって通産省と電力会社は対立することになった。発送電分離は電力会社にとっては会社の分割につながる発言であり、会社の存続にとっては脅威になるからである。この時期は通産省が電気事業の主導権を握っており、適切な政策を行えば、国家・市場の関係でいう「ネオリベラル型規制国家」モデルへと移行する可能性もあったといえる。ネオリベラル規制国家とは、国家介入は強力になされるものの、それが明示的な市場志向のルールに基づくもので官民の役割が峻別化されたモデルである。この時期の通産省は電気事業に対して強力な国家介入を行うことで市場志向のルールをつくる機会があったと考えられる。しかし通産省は電気事業審議会に議論を丸投げすることで電力会社との妥協にいたる政策をとることになった。第二次電気事業法の改正で行われた部分自由化では新規事業者に対する非対称規制は行われず、電力会社間の競争を促す制度もなかった。電力会社は通産相の要請に対し値下げのためのさらなる経営努力の容認や、1998年4月に送電線の利用自由化拡大の容認によって通産省との協調関係を辛うじて維持し、自らが最低限、望む改革にもっていくことに成功したといえる。この時点では電力会社は通産省だけでなく自民党や産業界からも反発を受けていたため、苦しい立場にあった。以上の分析から第一次電気事業法改正から第二次電気事業法改正までは、通産省が電気事業の主導権を握っている「開発型国家」モデルに当てはまる時期であったといえる。


3.電力自由化の後退(1999〜2007年)

(@)第三次電気事業制度改革から全面自由化見送りまでの政治過程

 第二次電気事業法改正を行ってもさらなる電力自由化が求められた。改正案が施行されるまえの1999年11月には早くも経団連が送電線利用料の値下げを要求した(日本経済新聞11月29日)。2000年8月には米総合エネルギー会社エンロンが日本の電力市場への参入を表明し、日本において発電所の建設を開始するとの声明を出した(2000年8月18日)。

 しかし、さらなる電力自由化に関する要求は以下の二点の出来事で弱まることとなった。

 第一の出来事は米国カリフォルニア州でおきた電力危機である。2001年になると米国カリフォルニア州で電力自由化の弊害が深刻化し大手電力二社が経営危機に陥った。大手電力二社は自由化の混乱を避ける目的で98年から小売料金を固定していた。自由化以降、発電所の建設コストがかかることや競争の激化を見越して発電事業の新規参入は増えず、州外から電力を調達する送電網の整備も不十分となった。電力需要が急増すると電力卸売り取引所の電力卸売価格は急騰した。しかし電力大手二社は卸売価格上昇を小売料金上昇に転化できなかったため経営が急速に悪化した。カリフォルニア州は電気料金の値上げを認め、計画停電も行った。米国における電力自由化は電気料金値下げという目標を達成することはできなかった(日本経済新聞2001年1月13日)。第二の出来事はエンロン社の破産である。エンロンは日本の電力会社の独占体制を批判し、電力会社の会社分割や発電所売却などを求めていた。青森県や福岡県で発電所を建設する計画も発表し、電力業界はエンロン社に対し不安を感じていたという(日本経済新聞12月26日)。エンロン社は電力自由化に関して大きな圧力を与えていたが粉飾決算を行っていたことから2001年12月に破産し日本市場から撤退した。「外圧」によって電力自由化が急速に進むことは以上の出来事によってなくなったといえる。

 以上の出来事は電力自由化に関する議論に大きな影響を与えることになる。しかしこの時点で経済産業省(7)は電力自由化をさらに進めていく立場であった。2001年10月に経産省は電力自由化の範囲の見直し議論を始めると発表した。電力会社は欧米の料金水準に近づいており自由化効果は出ていると主張し、経産省と電力会社は再び対立するようになった(日本経済新聞2001年10月3日)。2002年3月には、経産省が電力会社の送電設備の運営部門を電力会社から切り離して外部に新設する中立機関に移す方針を発表した。経産省は送電部門の機能を分離することですべての事業者が同一の競争条件で利用することを目指していた。(日本経済新聞2002年3月8日)。電力会社は第二次電気事業制度改革時の議論で発送配電一貫体制の維持に成功しただけに、経産省の以上のような姿勢はよりいっそう電力会社の立場を苦しくしたと考えられる。さらに経産省は2002年4月に電力小売りの全面自由化を2007年をめどに行うと発表した。総合資源エネルギー調査会電気事業分科会(8)において一般家庭や小規模商店向けまで自由化することで意見が一致したため経産省は以上の発表を行った。2003年までには電力小売りの自由化範囲を供給全体の六割強まで拡大することが決定しており2007年までに電力市場をすべて自由化することを経産省は目指すこととなった。2002年において、経産省は電力会社の送電部門の分離と全面自由化によって電気料金のさらなる低下を目指していた。いずれの案も電力会社の反発を招くことは明らかであり、経産省と電力会社は総合資源エネルギー調査会電気事業分科会において対立することとなった。

 2002年5月の電気事業分科会では経産省の送電部門の分離案に対して電力業界の委員らは安定供給の責任が不明確になるとして反発した(日本経済新聞2002年5月17日)。この対立は解消されず、11月には電力会社の送電部門を会計上分離することで決着した。あわせて経産省は送電線利用料の全国一律化や電力取引所の創設を行う方針を発表した。電力会社の会計分離には電力会社の送電部門が得た利益を元手に小売部門の大幅な値下げを行って、競争相手を排除するような行為を規制するねらいがあった。経産省は電力取引所の創設や送電料金などの制度改革を一体的に進めれば送電部門を完全分離しなくても新規参入企業を増やせると判断した(2002年11月20日)。これをきっかけに議論が進み、12月には電気事業分科会で電力自由化を進めるための電力市場改革に関する合意ができた。大きく三点の制度変更が決定した。第一は電力市場を監視する中立機関の設置である。中立機関は大手電力会社の送電網を新規参入企業が自由に使えるようなるルールを整備し、各社がルールを守るよう監視する役割を持つこととなった。第二に電力会社の送電部門は他の部門とは別に財務諸表をつくることとなった。これにより送電部門は会計上では他の部門から切り離された。第三に電力取引所が開設されることとなった。電力取引所では電力の直物取引や先渡し取引が可能となった(日本経済新聞2002年12月3日)。2005年から電力自由化が拡大し、全電力需要の六割強が自由化の範囲となった(日本経済新聞2005年4月1日)。

 第三次電気事業制度改革においては経産省が当初、主張していた電力会社の送電部門の分割は行われなかった。電力会社は送電部門の分割に対して反発し電気事業分科会の議論を進めさせない姿勢もみせた。しかし第三次電気事業制度改革では全面自由化が視野に入れられるようになり、地域独占を脅かす電力取引所が開設されたことから電力会社は第二次電気事業制度改革と同様に経産省に対し大幅に譲歩したと考えられる。この時点でも経産省は電気事業の主導権を握っており、国家と市場の関係でいう「開発型規制国家」モデルに該当していたと考えられる。経産省と電力会社は今回の制度改革においても決定的な対立関係とはならず、やや電力会社に不利なかたちで制度改革が行われることとなった。

 第三次電気事業制度改革の後に公正取引委員会は電力会社の競争をさらに促すよう求める提言を行った。新規事業者のシェアは2%にとどまっておりその原因として既存の電力会社が独占的に保有する送電網の利用料が不透明であることを指摘した(2006年6月7日)。しかしこの時期から経産省は電力自由化に対する姿勢が変化した。原油高や世界的に原子力発電の見直しが進んだことから政府は電力自由化で競争が激化すれば電力会社の原子力発電の投資余力が損なわれる懸念を抱くようになった(日本経済新聞2006年6月7日)。2007年に経産省は家庭向け電力への参入自由化を当面見送る方針を決めた。その理由としては石油価格の上昇によって全面自由化を行っても新規参入が進みにくいと判断した。経産省は大口向け電力の価格引下げにつながる競争促進策を検討することとした(日本経済新聞2007年1月6日)。2011年以降、福島第一原子力発電所の事故により電気事業が不透明になり議論が錯綜していることから本論文における電気事業の政治過程に関する分析は2007年までとする。

(A)第三次電気事業制度改革から全面自由化見送りに関する分析

 第三次電気事業制度改革においても本節の(@)で分析したとおり、電力業界にとってやや不利なかたちで制度改革が行われた。経産省による電力自由化の目的は電気料金を欧米なみの水準まで引き下げることにあった。2006年までは経産省が電気事業における主導権を握り電力会社は電力自由化に基本的には従う立場であった。しかし2006年から経産省は原油高と原子力発電見直しの機運から電力自由化に対して反対する立場となる。公正取引委員会がさらなる電力自由化の必要性を指摘していたにもかかわらず、安定供給を重視する立場から経産省は全面自由化を見送ることとなった。以上から2006年より電気事業における主導権は経産省から電力会社へと移行したと考えられる。2000年代後半に電気通信事業における競争政策が後退したのと同様に電気事業でも規制緩和が止まることとなった。

 経産省が電力自由化に対して消極的になった理由としては外部環境の変化が主な理由である。たしかに第三次電気事業制度改革時に電気事業審議会などで電力会社は送電部門の分割などに対しては反対していたが、自民党や経産省に対して直接的な行動をしていたことを示す資料は存在しない。2006年からの原油価格の急激な高騰から経産省は電力の安定供給に関して大きな不安を抱えていたと考えられる。低廉な電力供給を実現するための制度改革よりも安定的な電力供給を重視する方へと転換することが、政策官庁としての地位を維持するのに有益であると経済産業省は考えたと推測できる。電力会社は従来から安定的な電力供給を重視していたため、この時期に経済産業省と電力会社の目標が一致したと考えられる。その結果、全面自由化が見送られたと考えられる。国家と市場の関係でいえば再び電力会社による「自主統治」モデルに移行したと考えられる。六割強の電力市場が自由化されているものの電力会社どうしの地域をこえた競争は進まず(9)、新規参入組である

 特定電気事業者の電力市場の小売に占めるシェアは2000年から2007年の間に0.006%から0.1%へと増えたのみである(恒川2010:121)。2006年から2011年まで電気事業に関する制度改革は行われていなかったことから電力会社が電気事業における主導権を握り、経産省は電力会社と協調関係の中で原子力発電の推進や地球温暖化防止のための政策を進めていくようになった。


4.電力自由化に関する分析

 電力自由化の政治過程において、第二次電気事業制度改革をきっかけにして電気事業における主導権は電力会社から経済産業省へと移動し、国家と市場の関係は「自主統治」から「開発型国家」へと移行した。しかし、外部環境の変化から経産省は制度改革に対して消極的となり電力会社へと再び主導権が移り再び「自主統治」へと戻ることになった。第三節で述べたように、電力会社間における競争は進まず、新規参入者による参入もほとんど進まなかったことから電力自由化には限界があったと考えられる。経産省が当初、主張していた発送電の分離を行えば、大きな競争を生じさせる可能性はあったが第一章で述べたようにかつての電力会社が低廉かつ安定的に電力を供給できていた時期があったことを考慮すれば現在の電力会社に活力を取り戻すほうが効率的である。よって第一章で述べたように新規事業者が新規参入しやすい環境をより整えるだけでなく、電力会社どうしが地域をこえた本格的な競争を行うことができる制度をつくるべきである。

 電気事業の制度改革は主に経産省の諮問機関である総合資源エネルギー調査会電気事業分科会の議論に基づき行われてきたが、政治家や官僚によって選ばれた人々が審議会のメンバーにいることによって議論が恣意的になることが多かったと考えられる(10)。電力会社の所轄官庁が経産省であったことも制度改革の限界を招いたと考えられる。第一章で述べたように電源開発の問題や原子力発電の問題によって政府と電力会社は対立関係から協調関係へと至った。この協調関係は電力自由化の政治過程で一時的に揺らいだことはあったが、経産省が原子力発電の推進の立場になったことから経産省と電力会社の協調関係は維持された。こうした協調関係のもとでは経済産業省は恣意的な政策を行うことになる。その結果として電力自由化が挫折したとも考えることができる。以上の関係は第一章でのべた日本型多元主義の特徴(A)、(B)、(C)のいずれにも当てはまっている。(A)の 規制の対象となった産業はいわゆる「タテ割り行政」で政策が実施されてきたことに関して述べる。これは電力事業を管轄する官庁が通産省(経産省)のみであることから当てはまっている。業界を横断する制度改革が行われてこなかったことから(A)の弊害は電気事業において当てはまる。(B) の官僚優勢が揺らいで、政治家と利益集団が影響力を持っているについて述べる。通産省(経産省)の官僚は一時的に電気事業において大きな影響を持っていたが、主導権が再び電力会社に奪われたことを考えると利益集団である電力会社の電気事業における優勢は揺らいでいなかったと考えられる。(C)大企業にバイアスされた構造が多元主義の病理形態としての「利益集団自由主義」をもたらしていることに関して述べる。通産省(経産省)は一時的には電力会社からのバイアスを逃れて、電気事業制度改革を行ったが結局は電力会社がその制度を特殊的・非体系的な形に歪めてしまっている(11)。これは「利益集団自由主義」の結果であると考えることができる。以上から電気事業においても日本型多元主義の弊害が生じていることが明らかになった。

 政治過程と規制緩和の結果は異なっているものの電気通信事業における規制緩和と同様の結果が電気事業においても導かれることが明らかとなった。両事業を含めた規制産業の規制緩和が適切に行われてこなかった理由として日本型多元主義の政治経済システムがあげられる。終章では第二、三章で明らかになった日本型多元主義の弊害に対抗するための依法的民主主義の有効性を論じる。


(脚注)

(4)新しく電気の小売事業に参入した事業者のこと。
(5)プールとは電力の取引市場のようなもので、プールの運営者が入札を行い、発電会社が応札して、電気の値段を決める。イギリスでは30分単位で入札を行い、予測した需要を満たす最後の入札価格をプールの価格としている。落札できなければ発電会社は電気を売れなくなり、他社より安い価格で応札するために発電会社にコスト削減を促すというメリットがあり、利用者は安い料金で電気を使えるようになるとされる。なお、発電会社と送電会社、配電会社は別々の会社になる。日本の電力会社が行ってきた発送配電一貫体制とは大きく異なり、日本に導入される場合は電力会社はそれぞれ分割されることになる(日刊工業新聞社編1998:49)。
(6)プール制を導入した国の多くはエネルギー資源が豊富であり、プール区域内に送電ネットワークが形成されている。英国は国営時代に基幹となる送電線が一元的に管理されており、プール制への移行がスムーズにいく環境であった(日刊工業新聞社編1998:53)。
(7)2001年の省庁再編によって通商産業省は経済産業省となった。
(8)経産省の諮問機関で電気事業審議会とほぼ同じ機能を持つ。
(9)供給地域をこえて競争が行われたのは九州電力が中国電力の顧客を一件、奪ったのみである。
(10)例えば 現在、行われている総合資源エネルギー調査会基本問題委員会の25人のメンバーはすべて民主党の枝野経済産業大臣が選んだものである(朝日新聞2011年9月27日)。
(11)競争を促進する制度があるにもかかわらず、電力会社同士で競争が進んでないことをさす。



≪終章 日本における依法的民主主義の有効性≫



1.日本型多元主義における規制緩和の限界

 本節では日本型多元主義のもとでの規制緩和には限界があることを明らかにする。第一に日本型多元主義のもとでの政策決定は官民関係の協調関係の中で行われやすいことを明らかにする。第二に官民の協調関係のもとでは当初の目的からはずれて法律やルールが恣意的に運用されることを明らかにする。第三に日本型多元主義の中の仕切られた業界のもとでは独立の規制機関が権限を持つ可能性は低いことを明らかにする。

 第一の政策決定が官民の協調関係の中で行われることについて述べる。本論の第二、三章で述べたように電気通信事業と電気事業における規制緩和は官民の協調関係の中で行われてきた。電気通信事業においては戦後から電電公社民営化まで電電公社による「自主統治」が行われていたが、民営化後は郵政省が主導権を握り規制緩和を開始することで「開発型国家」へと移行した。しかし郵政省がNTTの経営の根幹を揺るがすような規制緩和を行おうとするたびにNTTは拒否の姿勢を明らかにし、時には与党へのロビイングも行って改革案を修正してきた。NTTは自らの許容する範囲の中でしか郵政省に改革を許さず、こうしたNTTの対応に郵政省は抵抗することもあった。しかし郵政省は妥協してNTTの許容範囲の中で規制緩和を行ってきた。郵政省のこうした姿勢は結局はNTTとの協調関係から抜け出せなかったことを示している。その結果2000年代になると規制緩和における競争政策が後退していくことになる。NTTは再び電気通信事業における主導権を取り戻し「自主統治」へと戻すことに成功した。一方、電気事業においてはさらに官民の協調関係は強固に推移した。1995年に通産省は電力自由化を開始し電気事業における主導権は電力会社から通産省に移り「自主統治」から「開発型国家」へと移行した。電気事業連合会や東京電力は通産省の審議会などで規制緩和を自らの許容範囲の中にとどめることに成功してきた。2006年頃より原油価格の高騰がおきると、経済産業省は全面自由化の議論に対し消極的になり電力会社へと再び接近する。安定供給および原子力発電の推進を重視する電力会社の立場と経済産業省の立場が同じになったことから電気事業における主導権は再び電力会社に移ったと考えられる。「開発型国家」から電力会社による「自主統治」へと変化したと考えられる。以上から、電気通信事業と電気事業は規制緩和の政治過程の中で一時的に「自主統治」から「開発型国家」へと移行したが、官民の協調関係が崩れることがなかったために結局は「自主統治」へと戻り、規制緩和が挫折したと考えられる。官民の協調関係が規制緩和を挫折させた電気通信事業と電気事業の事例は日本型多元主義の限界を示唆する。

 第二に官民の協調関係のもとでは法律やルールが恣意的に運用されることを明らかにする。電気通信事業では郵政省が何度もNTTを分割して地域独占を撤廃し競争を促進しようとした。NTTは度重なる郵政省からの圧力に対し抵抗していたが持株会社制による会社分割をついに認めることになった。しかし持株会社制による分割であったため制度の抜け穴をついてNTTは自らの一体性を維持することに成功する。これによって郵政省は当初のねらいとは異なる制度を運用していくことになった。一方、電気事業においては規制緩和の結果、電力市場の六割が自由化されたが競争はわずかしか進まなかった。これは電力会社がカルテル的マインドを発揮して互いの供給区域を侵さなかったと同時に新規参入者に対する参入障壁を維持していたためと考えられる。経済産業省はこうした事態へと対処せず全面自由化の見送りを行ったことから新たなルールを恣意的に適用し続けたといえる。

 第三に日本型多元主義の中の仕切られた業界のもとでは独立の規制機関が権限を持つ可能性は低いことについて述べる。電気通信事業では新規通信事業者たちが規制緩和に対して消極的な態度をとりはじめた郵政省に不信感をもって独立規制機関の設立を求めた。しかし自らの権限が脅かされる独立規制機関の設置を郵政省は認めることはなかった。一方、電気事業においても権限をもった独立規制機関が設置されることはなかった。電気通信事業と電気事業では所轄官庁が、業界の規制と振興を行う地位を手放すことを認めることはなかった。ただし例外もある。金融業では1990年代以降の深刻な金融不況により金融行政に対する不信感が高まっていた。経済財政担当大臣となった竹中は2002年に大手銀行団との対立にもかかわらず「金融再生プログラム」を実行し、不良債権処理を銀行に行わせた。竹中はアメリカをモデルとした会計基準を取り入れたるルールを策定し、これを実行した(ルール・ベース型行政)。金融業では戦後の護送船団方式の官民協調関係から、国家が強力に介入しルール・ベースで政策を選択する手続志向の「ネオリベラル規制国家」へと移行した。金融業では金融庁が独立規制機関となりルール・ベースで事後チェック型行政を行っている(和田2011:258)。金融業では官民協調からルール・ベース型行政に移行したという点で電気通信事業および電気事業とは対照的である。

 以上の三点から日本型多元主義のもとでは、規制緩和を進めていくには限界があることが明らかになった。次節では日本型多元主義の限界を克服するにあたって有効となりうる依法的民主主義について述べる。


2.ロウィによる依法的民主主義とその意義

 本節ではロウィによる依法的民主主義が日本型多元主義に対していかなる有効性を持つかを明らかにする。

 ロウィは『自由主義の終焉』において多元的民主主義を利益集団自由主義ととらえなおし、このイデオロギー=公共哲学が現代のアメリカ政府に腐敗をもたらし、民主主義の後退を導いたとして厳しく発する。そして、危機に陥った現代アメリカの政治体制に対する改革案として、利益集団自由主義にとって代わる新たな公共哲学=依法的民主主義を提起する(石田1992:160)。ロウィは当時のアメリカの自由民主主義体制を以下の四点でもって批判する。第一の批判は利益集団自由主義は民主的諸制度への期待を狂わせ混乱させるがゆえに民主政府を腐敗させるというものである。自由主義は意思決定の大衆化を促進したが、結局は大衆的基礎の決定を危うくしているというものである。より多くの人々にアクセス権が与えられてさえいれば民主的諸権利が行使されるという自由主義の仮定は間違っているという(ロウィ1981:408)。具体的には利益集団自由主義によって第一に人民による統治の後退がおきる。利益集団自由主義においては集団は規制の対象ではなく便宜を受ける対象となり、集団の政府へのアクセスと無原則的取引は積極的に肯定される。それゆえに利害関係集団は要求に応じて便益を分配される。しかし利益当事者以外の人々は排除される。第二に利益集団自由主義の原理に基づく事業は、特権を創出し維持する傾向がある。集団間において組織化された集団に代表的性格が与えられることによって政府から後押しを受けるが、組織されざる集団はその恩恵に与らない。第三に利益集団自由主義は変化に抵抗する保守主義を生み出す。利益集団と行政諸期間の関係が公的で正統的なものになるにつれ利益集団は政府の政策を集団内部過程の安定化のための資源に転化させようとし、行政諸機関は既に固定的で数も限定された集団のみを認めることによって社会過程を安定化させようとする(石田1992:168-169)。第二の批判は利益集団自由主義は政府を無能にするというものである。利益集団自由主義によって政府は諸集団に対して権力を委任しすぎてしまい弱体化してしまったということである(ロウィ1981:409)。第三の批判は利益集団自由主義は政府を退廃させるというものである(ロウィ1981:409-410)。利益集団自由主義によってルールや規則が曖昧なものとなり政府の行った結果を検証することが不可能になる結果、政府は退廃してしまうということである。第四の批判は利益集団自由主義は、その統治機構が民主的手続きに従って活動する能力を弱め、それだけ民主的政府を腐敗させるというものである(ロウィ1981:410)。利益集団自由主義によるインフォーマルな民主的手続きが主流になることによって統治機構の正統性が低下し、民主的政府を腐敗させるというものである。

 以上の四点の批判を行ったうえでロウィは依法的民主主義によって利益集団自由主義を改革するために依法的民主主義の提唱を行う。利益集団自由主義の問題性は政府の独立性原理の破壊ということにあった。このことは利益集団自由主義において法が否定されていることを意味する。利益集団自由主義においては法が入り込む余地がほとんどない。というのも法は政治過程に介入し、集団の競争の場を枠づけるところのゲームのルールを変更する役割を果たし、よって政府を政治過程から自立した制度にするからである。ロウィは政府の利益集団に対する権限の委任の慣行が自己目的と化し、統制も安全装置も欠いたままに行政官に委ねられることによって、病理と化すという。今日のアメリカ社会において利益集団自由主義による権限の委任の原理の無限定な拡大は行政機関と利益集団とのインフォーマルな交渉を許し、組織された集団に特権を、組織されざる人々にはアクセスの困難さをもたらした。それゆえに、法の支配の原理に基づいてフォーマルな準則に政治の決定を委ねることは一方では行政の裁量の幅を狭め、行政機関と顧客集団との無原則的交渉の余地を少なくさせ、よって組織された利益集団の特権に打撃を与える。そして他方では議会の機能の再活性化を促し、一般的規則をめぐる交渉を求める組織されざる人々のアクセスの機会を拡大する(石田1992:172-175)。

 本論における日本型多元主義で問題となったのは、第一に日本型多元主義のもとでの政策決定は官民関係の協調関係の中で行われやすいことであり、第二に官民の協調関係のもとでは当初の目的からはずれて法律やルールが恣意的に運用されることであり、第三に日本型多元主義の中の仕切られた業界のもとでは独立の規制機関が権限を持つ可能性が低いことであった。これらの病理は利益集団自由主義によって引き起こされたものと考えられる。その理由としては、官民の協調関係の中ではインフォーマルな準則に基づき官の行政と民の顧客集団との間で無原則的に交渉が行われると考えられるからである。電気通信事業と電気事業では、利益集団であるNTTや電気事業連合会などが行政への働きかけを行い、自らが許容する改革案のみを実行させてきた。日本型多元主義は業界ごとに仕切られているが各業界の中で展開されてきた政治過程は利益集団主義そのものであり、ロウィが批判したアメリカ政治体制と同様に、日本の政治体制も大きな限界を抱えている。したがってロウィが提唱する行政の正式手続きによる法の支配が徹底されれば、日本型多元主義の抱える限界を乗り越えることができる。ロウィは行政機関が一般的規則を作成することは行政権力をより責任的かつ能率的なものにするという。行政過程の初期において規則作成をするということは、その機関に権能を与えた法律が立法当初にもっていた意味やその機関の社会的役割についてよく検討することを促すからである。行政規則が明確にされれば立法府が事業全体を評価することが可能になる(ロウィ1981:420)。本論の事例において郵政省や通産省は一般的規則を持たなかったために、NTTや電力会社との間で協調関係を維持し続けてしまったと考えられる。もし郵政省や通産省が自らの役割を一般的規則でもって明らかにしていれば規制緩和の結果を国会で追及されることとなっていただろう。しかし、一般的規則がなかったために国会は規制緩和の成果を評価することが不可能となっている。以上から日本型多元主義の限界に対応するためには依法的民主主義が有効になりうる。依法的民主主義を徹底すれば最も規制緩和の進まなかった電気通信事業や電気事業においても適切な制度改革が行われるようになると考えられる。



参考文献

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