2011年度 学士論文


政官関係の比較政治学的分析
―日本の政官関係が政権交代に対応するために―



一橋大学社会学部



目次


はじめに …………………………………………………………………3

第1章 自民党政権下の政官関係とその崩壊 ………………………6
 第1節 1970〜80年代の政官関係 ……………………6
 第2節 1990年代における政官関係の崩壊  …………8

第2章 90年代以降の行政・政治改革 ………………………………10
 第1節 改革の背景 ……………………………………10
 第2節 橋本内閣の行政・政治改革  …………………12
 第3節 小渕内閣の行政・政治改革  …………………14
 第4節 小泉内閣の行政・政治改革  …………………15
 第5節 90年代以降の行政・政治改革 まとめ ………17

第3章 民主党による政治主導の試みについて ……………………17
 第1節 2009年の衆議院議員選挙 ……………………18
 第2節 政権交代が持つ可能性  ………………………20
 第3節 民主党の基本方針 ……………………………21
 第4節 基本方針の相次ぐ修正 ………………………24
 第5節 政官関係における問題点 ……………………27

第4章 他国との比較 政権交代に対応した政官関係について……29
 第1節 イギリス ……………………………………30
 第2節 ドイツ ………………………………………32
 第3節 イギリス、ドイツ、日本の比較 ……………34

第5章 今後の課題 ……………………………………………………36

参考文献およびWebサイト………………………………………………37

おわりに …………………………………………………………………39



はじめに

 日本では1955年以来、自民党による一党支配が継続し、官僚との間に共生関係が成立してきた。だが、官の肥大化、縦割り行政、官僚機構に寄生する族議員など、政治家と官僚の関係では多くの側面が問題視されている。特に近年は、官僚主導の政治を排し「政治主導」を進めようという議論が高まっている。2009年、民主党は政権交代を実現した当時のマニフェストに、政権構想5原則の第一として「官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ」という文言を掲げた。また、5原則を政策へと落とし込んだ5策においても、第一に「政府に大臣、副大臣、政務官(以上、政務三役)、大臣補佐官などの国会議員約100人を配置し、政務三役を中心に政治主導で政策を立案、調整、決定する」ことを挙げた。これらの文言は、民主党が政権交代にあたって、官僚との関係を変えることに意欲を示し、支持を訴えたことを象徴している。結果的に民主党は、このマニフェストを掲げて挑んだ衆議院議員選挙で480議席中308もの議席を確保した。政権を担当する政党が完全に入れ替わる政権交代は、これまでの政官関係を見直し改革を行う機会として適している(1)。本稿では自民党政権下での政官関係を振り返ったうえで、民主党政権下での政権構造改革について他国との比較を行い、日本の政官関係に対する提案を行いたい。

本論文が目標とする政治像について

 ここで、政官関係を考察するにあたって留意すべき点に触れておきたい。政官関係を良好にすること自体は「目的」にはなりえない。理想とする政治がまず存在し、次にその政治を実現するための政官関係が摸索されるべきである。政官関係は目標とする政治を実現するための「手段」である。そこで前提として、今日の日本が目指すべき政治像を以下のように仮定しておきたい。
 今日の日本が目指すべき政治とは「政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙の実施により、この3点セットの正統性を明確にしたうえでトップダウン式の政策実行を可能にするような政治」である。このような政治像を掲げる理由を飯尾の研究をもとに述べる。

 まず、政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙を行う必要性についてである。第一に、政権選択選挙によって首尾一貫した政策を実行しやすくなるためである。政権交代が不在であった自民党長期政権においては、党内における短い総裁任期が首相の早期退陣をもたらし、派閥の合従連衡による総裁選びが繰り返され、総選挙とあまり関係なく、日本の首相は次々と交代していった(2)。中選挙区制のもとで、有権者は衆議院議員を選ぶことはできても首相あるいは政権政党を選択することはできなかった。与えられた政権に対して意見表明するということが、有権者の総選挙における政権との関わりであった。明確な民意による負託抜きで成立した多くの政権では、発足後に審議会を設置するなど、時間をかけて政策課題を探った。ここには、有権者の政策的な負託を受けた政府という観念は希薄であった(3)。その結果、政府全体で何を目指すのかが不明確になり、政策の首尾一貫性を確保することが難しくなった。明確な課題を掲げ、国民の負託をうけて成立した政権の方が、首尾一貫した政策を実行しやすくなる。第二に、政権を目指す政党があらかじめ首相候補を提示することによって、総選挙で信託を受けた首相の地位を向上させられるためである。首相の地位向上によって政党の凝集力が高まり党幹部の人事的・政策的な指導力が向上することは、首尾一貫した政策を推し進める大きな助けになる。第三に、政権選択選挙によって民主的統制の経路が明確になるためである。政治家が決断できるのは、彼らが民主的正統性を持つからである。不確実性のもとで決断が行われるとき、最終的にその政策がもたらす影響を受けることになる国民の同意を、緩やかな形であっても前提にする必要がある。政策が失敗して被害を受ける一般の有権者の同意の下で「政策実験」を繰り返すのであれば、失敗のリスクをある程度カバーできるからである。国民の同意がまったくの白紙委任にならないよう、各政党が政策の方向性を確認したり政権公約という形で大枠を示したりということが必要になる(4)。政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙には以上3点の意義がある。

 次に、トップダウン式の政策実行を可能にする必要性についてである。飯尾は佐々木・清水(2011)のなかで、高度経済成長期に形成された現代日本の政策は戦後日本の極めて恵まれた環境においてのみ通用したと主張している(5)。高度経済成長期においては、政策が不足していた。日本では戦後の復興とともに工業化が急速に進んだ。産業構造の変化と生活水準の向上から、それを支える新たな政策が多数求められた。急速な変化であっても方向性は明確であり、価値判断は比較的容易であった。さらに、高度経済成長期には財政収入も伸び続ける。政策の優先順位の調整は深刻な問題ではなかった。そのうえ、高度経済成長期は発展途上国が先進国になるという局面であるから、後発者利得を活かすことができる。先進国の模倣をしながら、日本の事情にあわせて調整を行うことが可能であった。模倣すべきモデルをもとに、社会集団と相談したり政治家の意見を聞いたりしながら調整していけば必要な政策を練り上げることができた(6)。

 しかし、既に先進国の仲間入りをした日本には、モデルとすべき先進国の姿は明確ではなくなっていた。政策が多すぎて飽和状態になり何をやるにしても既に古い政策が存在し、それを変えなければ新規の政策は実現しない。そのうえ財政制約は厳しい。今の日本は、急速な少子高齢化による社会保障の持続可能性の問題など既存施策をそのまま進めるだけでは立ち行かない問題に多く直面している。資源配分の見直しや身を切るような改革を迫られて、日本政治は行き詰っている。そうしたときの政策決定ではトレードオフの処理が重要になる。新しいことをするために古い政策をやめるとき、政策間で優先順位をつける必要がある。しかし、部分最適を積み上げる従来のやり方は、既存施策の廃止や方針転換、トレードオフが避けられない政策選択などの課題に弱い。官僚はそれぞれ所属する省や局の立場があるため、他分野との比較で優先順位をつけることはできない。全体を見渡して決断できる政治的な立場が必要になる。以上より「国民が選んだ政党・首相・政策であるという強い正統性を背景として政治が行われ、結果的に国民の支持を獲得できなければ政権選択選挙によって方針転換がなされる」という形を目指すべき政治像と仮定したい。

 では、この「目標」に照らしたとき、政官関係はどうあるべきなのだろうか。政権選択選挙を実施し、トップダウン式の政治を進めるのに適した政官関係、政権交代に対応した政官関係とはどのようなものだろうか。本稿が考察するのは以上のような問いである。

本論文の意義と構成

 ここで、先行研究への批判をふまえたうえで本稿の意義を述べる。先行研究では、政権交代と政官関係を結び付けた議論が十分になされていない。例えば政権交代そのものに関しては多くの論議がなされているが、それらの多くは政党間競争に焦点を合わせたものである。政権交代が起こる際の政党間の力関係がどのように変化したのかという、政権交代の経緯が問題となることが多い(7)。官僚について議論がなされる際は、省庁縦割りや天下りの問題など官僚機構そのものの問題点が重視されることが多い(8)。他国との比較を行う場合でも、内容は公務員制度体系全般の概説であったり「さまざまな制度がある」という結論に留まったりしている(9)。

 確かにこれまで日本では自民党長期政権が続き、政権交代が想定されていなかった。政権交代に対応した政官関係について考える必要はなかった。選挙制度改革などの結果政権交代が現実味を帯びてきても、政権交代に備えた改革は進まなかった。政権交代は、首相の権力強化や「ボトムアップからトップダウンへ」といった方策の副産物のような位置づけであった。政権交代を前提とした政官の関係が確立されておらず、大臣・副大臣等の閣内議員、閣外の与党議員および公務員がそれぞれ政策立案において果たす役割や責任関係について統一的認識が確立されてないという指摘は『公務員白書』でもなされている(10)。しかし2009年に選挙によって政権党が初めて完全に入れ替わった。今後も政権交代が起こると考えられる。政権交代と結び付けた政官関係の議論が今後重要性を増すのではないだろうか。

 最後に全体の構成について述べる。第1章では、村松の研究をもとに従来の自民党政権が続くことを前提にした政官関係がどのようなものであったか、そして90年代に入りどのように変化したのかを考察する。従来の政官関係に戻ることはもはや難しく、日本が新たに政官関係を構築する必要に迫られていることを指摘する。第2章では、90年代に進められた行政・政治改革について考察する。バブル崩壊による景気悪化や政治不信のもと自民党政権下における政官の癒着は厳しく批判され、選挙制度改革や省庁再編などの行政・政治改革が行われた。改革によって結果的に政権交代可能性は高まった。しかし、バブル崩壊により改革課題が多様化したうえ、行政・政治改革の意義は派閥の影響力を弱め自民党内の意思決定方式を変えるという点が大きかった。そのため、政権交代を予見した改革は進まなかったということを指摘する。第3章では、民主党政権が掲げた政権構造改革の内容とその問題点について考察する。民主党は当初、自民党政権における政官関係の問題点をふまえ、「政治主導」を目標に掲げて政権の座に就いた。しかし国家戦略室の機能縮小を迫られるなど改革は難航している。その原因を、改革案そのものの問題と政権運営手法の問題という2つの側面から考察する。第4章では、第3章で述べた民主党改革案そのものの問題点に焦点を絞り、他国との比較を行う。民主党政権は事務次官会議の廃止によって官僚同士の事前調整の場をなくし、大臣同士で調整を行う閣僚委員会によって代替を試みた。しかし、閣僚委員会をもって官僚同士の調整を代替できず事務次官会議は名前を変えて復活した。また、内閣人事局の設置によって一部官僚の人事権を握ろうとしたが、党内でも慎重論があり法案は未成立のままである。以上2つの例から「政策決定過程における官僚の関与」と「官僚の人事権」に関する方針を他国と比較する。本稿では議院内閣制を採用しているイギリス・ドイツとの比較を通し、政権交代を前提とした政官関係について考察する。第5章では第4章までの議論をふまえ、今後の日本が抱える課題を述べる。


(脚注)

(1)佐々木毅・清水真人編『ゼミナール現代日本政治』日本経済出版社、2011年、418頁。
(2)飯尾潤『日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ』中公新書、2007年、180頁。
(3)同書、180頁。
(4)飯尾潤『政局から政策へ―日本政治の成熟と転換』NTT出版、2008年、245頁。
(5)佐々木・清水、前掲書、384頁。
(6)同書、385頁。
(7)高橋進・安井宏樹編著『政権交代と民主主義』東京大学出版会、2008年に代表される。著者の問題意識は政権交代というドラマを即物的に書くことに向けられている。
(8)大森彌『官のシステム』東京大学出版会、2006年に代表される。確かに、官僚文化や官僚組織は重要な研究対象ではある。
(9)飯尾潤、前掲書、2007年に代表される。政権交代の重要性は強調されているが、新書であるためか他国との比較に紙面はあまり割かれていない。公務員制度には体系性があり、制度どうしが相互依存関係にあるため、議論の焦点を絞りづらいことも考えられる。村松も著書で公務員制度を4分類して比較したものの特別に結論を得たわけではない、としている。(村松岐夫編著『公務員制度改革―米・英・独・仏の動向を踏まえて』学陽書房、2008年、287頁。)
(10)人事院『公務員白書』国立印刷局、2004年、37頁。


第1章 自民党政権下の政官関係とその崩壊


第1節 1970〜80年代の政官関係

 第1章では、自民党が政権党であることを前提に構築されていた1955年体制下の政官関係の特徴と、その関係が1990年代に崩壊した経緯について、主に村松の研究に依拠しながら要約する。そして、従来の政官関係を踏襲するのでは政治はたちゆかず、新たな政官関係の模索が必要であるということを主張する。

 第1節では、自民党政権下における政官関係の特徴について述べる。1955年の結党以降、自民党は多くの政策分野で官僚に大幅な委任をしながら政権を運営してきた。なぜ自民党の政治家は官僚に大幅な委任を行えたのだろうか。両者の合意形成に困難はなかったのだろうか。また、政策を官僚に委ねているその間、政治家は何に力を注いでいたのだろうか。これらの問いについて検討することによって、従来の政官関係の特徴を明らかにしたい。さらに、政権交代が不在であることによって自民党政権下の政官関係が固定化し進展したという点も指摘する。

 まず、第一の問いについてである。なぜ政治家は官僚に大幅な委任を行うことができたのだろうか。背景には、自民党が考える政策基本方針が官僚に共有されていたことがあった。1970年代〜1980年代において、自民党と官僚は、国民の要望を背景に、経済を成長させ欧米諸国の工業力に追いつき国民生活の水準を高めるという目標を共有することができた(11)。

 また、政治家が官僚を事前/事後統制する仕組みも整えられていた。官僚への事前統制を示す例として与党審査が挙げられる。1962年、自民党が内閣に対して送った赤城書簡を契機として、与党審査という手続きが始まった。いったん国会に法案が提出されれば、自民党議員は党議決定に従って法案成立にむけ全力を尽くす。そのために、政策や法案はすべて自民党の全党的な支持を得たものではならなかった。そのため、国会提出前に所属議員と関係行政機関の官僚が議論を重ね、政策内容の調整を行うのである。官僚への事後統制としては、地方自治体関係者や団体の存在が挙げられる。彼らは、政策に対する満足・不満足を常に与党政治家に伝えることで、政策の実施過程を監視する役割を担っていた。政治家と官僚との関係は、単なる委任関係にとどまらず、政治家による官僚の統制が組み込まれた協力関係であった。つまり、経済成長下で自民党と官僚が目標を共有しやすかったこと、政治家による事前/事後統制の仕組みが整えられていたことから、政治家は官僚に大幅な委任を行うことができた。

 次に、第二の問いについてである。官僚へ政策を委任する代わりに、政治家は何をしていたのだろうか。村松(2010)はこの問いに対して2つの答えを提示している。第一に、自民党は官僚への委任によって節約した取引費用の分を「政党組織」作りに使うことで、政治を安定させることに努めた。自民党の政治家たちは、基本政策や総裁選出ルールについて合意を形成し、さらに個人個人の選挙支援システム(後援会)づくりに力を注いだ。第二に、自民党の政治家は党幹部の地位競争に多忙であった。彼らは、勉強会・政調会部会などを通じての党内の利害活動・派閥の一員としての活動など、国会議員としての多様な活動に取り組んでいたのである(12)。派閥は、自民党・議員組織の中核的な組織の一つであった。派閥の領袖の資金援助を受けながら、派閥メンバーは地方での後援会組織作りに励んだ。派閥を軸に自民党議員たちによる後援会作りが進むことで選挙区の支援体制は整えられていった。自民党トップは、閣僚ポストをすべて派閥内の有力者に、その派閥の力に応じて配分することによって党組織の維持を図った。派閥のエネルギーも、そのトップが党総裁の地位に就任する可能性があるとなれば党の中枢に向かって働くため、自民党は安定した組織基盤を維持できた。自民党総裁選で首相を替える擬似的な政権交代によって新しい政権イメージの演出や政策的な方針転換を行いながら、自民党は選挙に勝ち続けた。官僚へ政策を委任する分、党組織や支持基盤を整えることにより自民党は長い間政権党であり続けたのである。

 このように、1960〜70年代において、政権党は官僚に大幅な政策委任をしつつ、事前/事後統制を行う形で協力関係を構築した。そして、政治家たちはその余力を自民党組織の維持や安定的な支持基盤の形成に使い政権を維持したのである。

 また、結果として政権交代が起きなかったということは、こうした政官関係を固定化し進展させることになった。政権交代があれば、官僚と政治家の密接な関係は維持しにくい。官僚の側からすれば、政権交代が起こった時に、前の政権を担っていた政党や政治家との抜き差しならぬ関係は、自らの自律性を損ねる大きな要因となる。政権交代に際して身を守るために、官僚は政治家と一線を画す必要がある。政権交代の予見可能性は、政官の仕切りについての規律を恒常化させる(13)。ところが、日本においては、政権担当政党が交代するという政権交代は予見できる要素ではなかった。当時最大野党であった社会党は1958年の総選挙で当時の総定数467議席に対して、その過半数をわずかに超える246名の候補者を擁立したのを最後に、二度とこれを再現できなかった(14)。自民党を本格的に脅かす野党は不在であった。政官の結び付きは一層強固なものとして維持されるとともに、業界などの社会集団が結び付く体制ができてくると、政策転換は難しくなってくる。そこで政策転換のために1980年代初頭の第二次臨時行政調査会などの行政改革が行われた。国鉄や電電公社の民営化や規制緩和、地方分権などの転換がなされた。しかしこうした行政改革は、問題が生じた部分を集中的に改革するため、問題が拡大し政治や行政の枠組みそのものが変化しないようにシステムを維持する機能も持っていた(15)。政権交代不在のなかで、1970年代〜80年代の政官関係は強固なものとして維持されていた。


第2節 1990年代における政官関係の崩壊

 では、自民党と官僚との関係性はどのような要因から変化していったのだろうか。村松(2010)は、上記のような政官関係が1990年代後半以降に崩壊したとし、その要因を3点挙げている。第一は、冷戦の終了とグローバリゼーションである。第二は、非自民党七党一会派の細川政権の成立である。第三は、長期の経済不況と財政リソースの減少である。

 まず、第一の原因である冷戦の終了とグローバリゼーションについて述べる。自民党型政官関係に不透明な側面があっても国民が寛容であったのは、冷戦の脅威も関係したと考えられる。日本は東アジア冷戦の前線近くに位置することもあり、外交的選択はきわめて限られていた。ソビエト連邦や中国の属する東側陣営に移るという選択肢は実質的にはない。戦後の国際環境において日本の位置は固定化されており、その枠内で動く分には深刻なジレンマを経験することがなかった。安全保障は自民党組織の結束を維持してきた大きな争点であった。自民党は「日米安保堅持」を唱えることで政権維持につながる。逆に護憲・平和を主張する野党勢力は、日米安保条約を破棄するのではないかという疑いをアメリカ側に持たれており、自民党を脅かすことは難しかった(16)。しかし冷戦終了によって国民の間で「共通の脅威」への恐怖心は薄れ、自民党内でのイデオロギー的な一致も不要になった。党内の結束は弛緩する。また、グローバリゼーションの中で国民の間における「不透明」や「腐敗」の基準も変化していき、政治家と行政への行動倫理の要求は高まった。企業の社会の取引にかかるルール・規制群も急速に変化していった。政治家が官僚に大幅な委任を行うという構造で政治的判断を行うことは難しくなっていった。

 第二に、細川政権の成立についてである。細川内閣の下では、正規の政策決定に関する調整は日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党のプロジェクトチームによることとなった。自民党の下野によって、自民党と省庁官僚制との関係性は公然と機能させることが難しくなった(17)。政権交代の経験と、将来にわたる政権交代の可能性が生じたことは、共存共栄関係にあった自民党と官僚制の間に亀裂をもたらした。官僚側からすれば、法律の定めるところにより細川新政権に仕えただけだということであっても、自民党の政治家にすれば一種の裏切りのように見えていた。こうなると官僚は将来の政権交代に備えて、自民党と一心同体になることを避けようとする。自民党政治家の方も、官僚に頼らない政策運営を心がけたり、官僚の忠誠心確保に力を入れる動きが出てきたりと政官関係は不安定化した。

 さらに、この時期に実施された政治改革は従来の政官関係を変化させた。主には小選挙区比例代表並立制の採用と、政治資金規正法の改正である。小選挙区比例代表並立制は、全議員のうち300を1人のみが当選する選挙区から選出すると同時に、11ブロックに分けた比例区から200を選ぶという方法だった。選挙制度の変化によって二大政党制化が進み政権交代の可能性が高まると同時に、党首のリーダーシップも高まった。中選挙区制のもとでは多くの選挙区で複数の自民党公認候補が出馬し、自民党候補者同士の競い合いが選挙戦の中心の1つであった。自民党から公認されているという事実はそれほど重要な意味を持たなかった。しかし、小選挙区比例代表並立制では、政党から公認されるかどうかが当選するために重要な意味を持つ。首相は公認権を利用して自民党の政治家を牽制できるようになった。また、政治資金規正法の改正と政党への公的助成制度導入も大きな影響を与えた。政党以外の政治団体に流れる政治資金の規制が強化されたうえに、政治資金の透明性が高まったのである。政治家や派閥が政治資金を集めることは以前に比べ格段に難しくなった。また、政党への公的助成制度が導入されたことで、党総裁の影響力は強まった。自民党の場合、政治資金の配分に主としてあたるのは幹事長ら執行部であり、幹事長の任命権は総裁にあったためである。派閥の影響力は減退し、国会議員と地方の結び付きも弱まった。そのため、国会議員が影響力を行使する機会は失われていった。地方自治体関係者や団体が政策に対する満足・不満足を与党政治家に伝え、官僚による政策実施過程を監視するという統制の仕組みを機能させることは難しくなった。

 第三に、長期の経済不況と財政リソースの減少についてである。バブル崩壊後、長期不況と国民の課税への抵抗により、従来の政治家と官僚の関係維持に不可欠であった財政リソースは減少した。不良債権処理の遅れやスキャンダルの連続的な発生は行政改革を主要な政治課題へと押し上げた。官僚への大幅な委任という考えは支持を失っていき、政治主導が盛んに叫ばれるようになった。

 このように、1970〜80年代に結ばれた政治家と官僚の密接な協力関係は、1990年代に入ってから複数の要因により徐々に崩壊した。従来の政官関係では、序章で述べたような「総選挙において政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙の実施により、この3点セットの正統性を明確にしたうえでトップダウン式の政策実行を進めていく」政治を行うことは困難である。細川政権の成立が政官関係の崩壊の要因となったように、従来の政官関係は政権交代を前提にしたものではなかった。自民党が政権を握っているという前提のもと、官僚は政策の委任を引き受け、自民党は支持基盤づくりに励んでいた。これからの政官関係は、政権交代があっても円滑に政策を進められるものでなくてはならない。また、長期の不況と財政リソースの減少は、今日も重要な問題である。トレードオフが避けられない政策選択に対応できる政治、そしてその政治に対応した政官関係が必要である。次章では、この政官関係の崩壊と並行して進んでいた90年代の行政・政治改革について詳しく述べたい。


(脚注)

(11)村松岐夫『政官スクラム型リーダーシップの崩壊』、東洋経済新報社、2010年、21頁。
(12)同書、101頁。
(13)佐々木・清水、前掲書、382頁。
(14)野中尚人『自民党政治の終わり』ちくま新書、2008年、184頁。
(15)佐々木・清水、前掲書、383頁。
(16)飯尾、前掲書、2008年、50-52頁。
(17)村松、前掲書、162頁。



第2章 90年代の行政・政治改革



第1節 改革の背景

 1970〜80年代に結ばれた政官関係は崩壊したとする第1章をふまえ、第2章では90年代以降の行政改革について、佐々木・清水(2011)に依拠しながら述べる。「国民が選んだ政党・首相・政策であるという強い正統性を背景として政治が行われ、結果的に国民の支持を獲得できなければ政権選択選挙によって方針転換がなされる」という序章で掲げた目標に対し、90年代以降の行政・政治改革がどのような問題点を抱えていたかを検討する。

 行政・政治改革の発端となったのは、1988年に発覚したリクルート事件である(18)。リクルートの事業展開に有利な取り計らいを求めて、同社の江副浩正会長らが、関連会社の未公開株を政治家や官僚、財界の有力者に譲渡した。政治家については、職務権限に絡めば収賄になり、そうでなくとも政治資金規正法違反となる疑いがあった。収賄容疑で起訴された政治家は与野党で各1名に留まったものの、事件の過程では当時の竹下登首相や中曽根前首相、宮沢喜一蔵相などのリーダーたちが、多額の資金提供を受けていたことが明らかになった。

 リクルート事件は政治不信を高めると同時に、政治家が多額の資金を必要とすること自体への問題意識を高めるきっかけともなった。その結果、中選挙区制の弊害に注目が集まることとなる。中選挙区制下で過半数の議席獲得を目指す政党は、ほとんどの選挙区で2人以上の候補者を擁立しなければならない。同じ選挙区で同じ政党に属する候補者は、お互いを所属政党やその政策の違いで差別化できないため、党の公認というだけでは当選はおぼつかない。地元への利益誘導や個人後援会組織の維持拡大を通じた票の獲得が必要になる(19)。そのことが政治に多額の資金を必要とし、政治腐敗を生む原因となった。

 この候補者本位の政治に代えて、政党同士が政策をめぐって競争する政党・政策本位の政治にすること、これを実のあるものにするような政権交代可能なシステムを実現することが必要である。そのためには政治倫理の徹底や政治資金規正法の改正だけでは不十分であり、候補者本位の政治をもたらす原因である中選挙区制をまず廃止しなければならない。このような考えが1990年代の行政改革の出発点となった。

 さらに、1990年代は「失われた10年」とも呼ばれる長期不況に日本が苦しんだ時期でもあった。戦後日本を支えてきた政治、経済、社会システムの抜本的な見直しが必要な時期であった。これに伴い、各政権が掲げる改革課題もますます多様になった。

 以上のような背景をふまえ、政官関係にはどのような変化がもたらされたのかに焦点を絞って考察する。細川内閣での選挙制度改革、政治資金規正法の改正と政党助成金の導入については第1章2節で述べた。ここでは、中央省庁再編などの行政改革を行った橋本内閣、自由党党首小沢一郎の構想が制度化した小渕内閣、細川内閣・橋本内閣・小渕内閣が築いた仕組みを活用してリーダーシップを発揮した小泉内閣をとりあげる。


第2節 橋本内閣の行政・政治改革

 橋本内閣は、行政、財政構造、経済構造、金融システム、社会保障構造、教育の「6大改革」を目指すとした。多岐に渡る改革のなかでも当時世間の関心を集めたのが、中央省庁の再編問題であった。1990年代半ば、金融機関による大蔵官僚に対する過剰接待、大蔵・農水両省による不透明な住宅専門金融会社処理案決定、薬害エイズ事件に関する厚生省の資料隠しなどの不祥事が相次ぎ、官僚制に対する人々の批判が高まっていた(20)。肥大化・硬直化し、制度疲労のおびただしい戦後型行政システムを根本的に改め、簡素にして効率的かつ透明な政府の実現が目指された。具体的には、@内閣・官邸機能の抜本的な拡充・強化を図り、中央省庁の行政目的別大括り再編成により、行政の総合性、戦略性、機動性を確保すること、A行政情報の公開と国民への説明責任の徹底、政策評価機能の向上を図り、透明な行政を実現すること、B官民分担の徹底による事業の抜本的な見直しや独立行政法人制度の創設などにより、行政を簡素化・効率化することであるとした(21)。

 橋本内閣は1996年11月28日に行政改革会議を設置し、首相自らが会長となって議論に加わった。委員は学者と経済人、ジャーナリストから構成され、官僚OBは排除された。また、事務局を担う官僚が実質的に議論をリードする多くの審議会とは異なり、行政改革会議の事務局には民間人も参加した。橋本首相自らが会長を務め議論をリードしたことで、首相の考えを行政改革の内容に直接反映させることができた。また、首相自らが議長を務める会議が下した決定には政治的な重みがあり、自民党の政治家からの反対を抑制する効果があった(22)。

 行政改革会議は1997年9月3日に中間報告、同年12月3日に最終報告を行い、1998年6月9日に中央省庁等改革基本法が成立した。これによって、従来1府21省あった中央省庁は内閣府と12の省庁に再編された。省庁再編は、省庁を超えた政策課題の処理が難しいのであれば、省庁の規模を大きくして省庁内で処理することのできる政策課題を増やせばよいという考えのもと進められた。そのうえで省庁官調整をするにしても、省庁の数が少なければ、相互交渉の数は大幅に減少するから、省庁間調整が容易になるということも考えられた。さらに、各省庁を代表する大臣が交渉するといても、同時に集まって議論することのできる人数に限界があるとすれば、その人数を減らせば、大臣同士の議論もできるようになるという利点も考えられた。省ごと廃止されるような例はなかったが、「伝統ある名前」を失ったりこれまで関係がなかった官僚集団と同居することになったりと、官僚側からみれば大きな変化が起こった(23)。


  省庁再編成の内容(24)

●任務が補完的又は重複するとみられる11省庁を4省に統合

   郵政省、自治省、総務庁―総務省

   文部省、科学技術庁―文部科学省

   厚生省、労働省―厚生労働省

   運輸省、建設省、北海道開発庁、国土庁―国土交通省

●総理府の3庁(金融再生委員会、経済企画庁、沖縄開発庁)を内閣府に吸収

●環境庁を環境省に昇格

●他の7省庁についても、任務に応じて所掌事務を見直し、大蔵省を財務省に、通商産業省を経済産業省に名称変更


 また、首相の指導力強化と官邸主導体制の確立も図られた。内閣官房の格上げと体制の強化、特命担当大臣制度の導入、経済財政諮問会議の設置、閣議への首相の議題提出権の明確化、補佐官制度の強化などが盛り込まれた(25)。首相が総選挙での公約を理由に抵抗の多い政策を実現しようとし官僚側は従わざるをえないという状況は、1章で述べた1970〜80年代の政官関係と比べると大きな変化であった。

 しかし改革は決して円滑に進んだわけではなかった。中央省庁再編はほぼ全ての省庁を敵に回すものであり、特に行政改革会議が1997年9月に発表した中間報告は激しい反発を招いた(26)。その結果、各省庁とそれを応援する議員たちの巻き返しがあった。例えば郵便事業は国営維持、簡易保険は民営化、郵便貯金は民営化に向けた条件を整備すると中間報告されていた郵政三事業は、結局いずれも民営化はせずに郵政公社に移行させ、同公社職員の身分も公務員のままとなった。また、建設省から河川局を切り離す案は消滅し、情報通信産業政策を産業省に移管する案や独立の放送通信委員会を設立する案も消滅した。

 ここで、中間報告から改革が後退してしまった背景を2点指摘する。第一に、中央省庁再編以外にも重大な政策課題があったという点である。首相自身が行政改革会議会長を務めるなど、橋本首相は省庁再編に強い意欲を持っていた。しかし、1997年に都市銀行の北海道拓殖銀行、四大証券会社の一角を占めていた山一証券が破たんするなど財政状況の悪化は危機的な状況であった。さらに、財政支出を削減すべく地方分権改革の推進も急がれていた。政策課題が山積するなか、何としても中央省庁再編で国民の支持を高めようという切迫感は中曽根内閣にとっての臨調改革、細川内閣にとっての政治改革と比べれば小さかった(27)。1999年6月30日のインタビューにおいて、首相を退いた橋本龍太郎は以下のように述べている。橋本内閣は行政改革の他にも重要な政策課題を抱えていたのである。


  1999年6月30日 元首相橋本龍太郎へのインタビュー(28)

   行革会議の会長を総理本人がやることにしたことについては、間違ったとは思っていない。しまったと思っているのは、地方分権だけではなく、規制緩和を加速しておくべきであった。縦割り行政の中でももっと強引に進めるべきであった。(中略)辞めてから気づいたのだが、金融システム改革は早く手を付けるべきであった。


 第二に、全省庁を改組の対象とした、すなわち敵にまわしたため、各論反対の小勢力がいくつも集まって、改革勢力を圧倒してしまった点である。省庁再編の各論になれば、省庁と関係の深い自民党議員の抵抗は必至であった。このため、首相が強い指導力を発揮する必要があった。しかし、橋本首相は党内で強力な権力基盤を持っていなかった。これは第二橋本内閣の発足にあたって、橋本首相が派閥に配慮し人事権を自由に行使できなかったことにも表れていた(29)。清水(2005)は、橋本行革には政府と「与党との調整」という発想の欠落があったと指摘する(30)。政府と与党を一元化することへの配慮がなされなかった点が課題として残った。

 このように、橋本内閣は政官関係以外にも早急に対処すべき政策課題を多く抱えていた。また、十分な党内基盤を持っておらず、省庁の抵抗に対して改革を推し進めることが難しかった。


第3節 小渕内閣における行政・政治改革

 1998年7月の参議院選挙は予想外の自民党敗北に終わり、橋本内閣は退陣した。続く小渕内閣は、法案が参議院を通過しないという状況下で厳しい政権運営を迫られた。小渕内閣は参議院での多数確保のため、1999年に自由党との連立政権を成立させた。当時の自由党党首小沢一郎の要望を盛り込んだ形で、小渕内閣下の政治改革が行われた。本節では改革の内容を4点取り上げる。

 第一に、首相の人事権についてである。小渕首相は1998年に就任すると従来とは異なる閣僚人事を行い、首相の権力が強化されつつあることを示した(31)。従来の自民党内閣では、閣僚ポストは派閥の勢力に応じて配分された。そのうえで、首相は各派閥の推薦リストから閣僚を起用していた。小渕首相はこの慣行を破り派閥推薦の枠外で指名できるポストを4つ設けた。蔵相に首相経験者の宮沢喜一を指名したことは閣僚人事の目玉となった。また、派閥から推薦されていなかった高村正彦を外相に起用するなど派閥推薦のみにとらわれない人事を行った。

 第二に、政府内部での政治主導を強化するために、政務次官に代えて副大臣と大臣政務官を配置する制度を導入し、行政府で仕事をする国会議員の数を増やした。小沢は、特定の政策に精通した政治家という意味では族議員を肯定的に捉えた(32)。族議員と呼ばれるような、特定分野に精通している与党政治家が公的な権限を持って政策立案に参画すれば、責任の所在がはっきりし政策過程もわかりやすくなる。従来政府の外にいた与党政治家を各省庁に取り込むことで、与党と内閣の一体化にもつながることから、橋本内閣での行政改革には抜けていた「政府と与党の調整」の問題への対策となることが期待された。

 第三に、国会審議における政府委員制度を廃止した。国会では主に大臣以下の政治家が答弁し、官僚は参考人としてのみ国会で発言することとした。従来、官僚は大臣の答弁内容に介入するだけでなく、国会審議自体においても政府委員すなわち大臣の代理として実際に発言を行ってきた(33)。しかし官僚は一般の参考人の一種となり、委員会の議決によって召集することが基本となった。国会の答弁に際して大臣の負担は重くなり、一定の当選回数であれば誰でも大臣になれるという旧来の自民党の慣例を改める契機となった。小沢(1993)は、「そうなると、政治家自身の政策勉強は真剣になる。官僚も、自分たちの仕事の可否が左右されるため、真剣になって勉強の手助けをするだろう。それによってはじめて、この仕組みが本当の意味で機能するようになる」(34)という狙いを述べている。また、国会答弁は大臣や政務次官が責任を持つものであって省庁自身は責任を持たないと明確にすることで、形式的ではない積極的な議論が行われることも目指された。

 第四に、イギリスのクエスチョン・タイムを模倣し主要政党の党首が与野党に分かれて討論する党首討論制度を導入した。与野党の党首が直接対決する構図が国会に表れることは党首の立場を高める効果があり、選挙制度改革による執行部の権力強化とともに、間接的に首相の立場を強めることとなった。

 これらはいずれも、政府および国会における政治家の役割を大きくするための改革であった。小泉内閣において、橋本内閣・小渕内閣が積み上げたこれら執政中枢の強化策が活用されることとなる。政党間競争の激化、党首の権力強化によって政権交代が起こりうる政治形態へと日本は変化しつつあった。国会審議における政府委員制度の廃止など官僚依存を脱しようとする動きがあり、政権交代に対応した政官関係を築く素地はあった。しかし、改革の意義は「派閥によるボトムアップ式から党首が指導力を発揮するトップダウン式へ」と自民党の構造を変えるという点が大きかった。1章で述べたように、自民党は派閥を軸として地方の基盤を固め、党内組織を束ねて政権を維持し続けた。1980年代ごろまでの自民党の派閥は、先進民主主義国の中でも最も特殊であり、また最も強力な組織であった(35)。人材のリクルート、選挙での支援、ポストの配分など、本来政党が担うべき多様な機能を保持していたためである。しかし、派閥は1990年代における選挙制度改革、財政リソースの減少、組閣人事権を失いつつあることにより影響力を弱める一方であった。90年代の行政・政治改革は政官関係に変化を与えたが、それ以上に派閥を弱める改革でもあった。自民党内のボトムアップ型意思決定と制約されたリーダーシップを変え、トップダウン型の意思決定と強いリーダーシップを実現するという方向に改革は進んだ。


第4節 小泉内閣における行政・政治改革

 小泉政権は、首相が高い支持率を誇る状況下で改革を推し進めていくことができた。背景には、小泉首相の巧みなメディア戦略や人間性のみならず、これまでの政権による制度改革が、結果的に小泉改革を支えたという側面もあった。細川内閣が実現した政治改革は、衆議院の選挙制度を中選挙区から小選挙区比例代表並立制に替えることによって、政党による候補者公認の重要性を増大させ党首のリーダーシップを強めた。政治家個人や派閥が企業・団体献金を集めることを規制する代わりに、政党助成金制度を導入した政治資金制度改革も党中枢の影響力を強めた。

 橋本内閣の行政改革は、首相に内閣の重要政策について発議する権利を法律上明確にした。また、内閣官房や内閣府を拡充するなど、首相の意向を具体的な政策に反映するための仕組みを整えた。橋本内閣で設置された経済財政諮問会議を最大限活用することで、小泉時代の政権運営は進行した。小泉首相は、非議員の竹中平蔵経済財政担当大臣を腹心とし、それに民間議員と呼ばれる財界2名、学会2名の4名からなる政府外から招いた議員の提案を活用する形で、各省庁からは出てこない問題を政権の課題とすることに成功した。これまでの歴代首相の悩みは、首相が内閣の政策全般に方向性を与える仕組みが内閣になかったことである(36)。首相が主宰する会議は閣議を代表としてこれまで多く存在した。しかし、閣議の結論が事前の準備段階でほぼ出されているように、これらの会議で実質的な意思決定が行われることは稀であった。経済財政諮問会議では、事前の発言調整が行われなかったので、形式に留まらない議論が繰り広げられた。関係する閣僚も案を提出して民間の議員とともに議論を行い、必要な場合には小泉首相が自ら裁定を下した。あらゆる国内政策と切り離せない関係にある「経済・財政」をテーマとしたことから、一定の分野に限らず国内政策全般を議論の対象にすることができた。

 小渕内閣で強まった首相の人事権は小泉内閣で確立された。首相の人事権が制約を受けたのは、かつて派閥が選挙で自派の政治家を当選させる点と政治資金を獲得する点で大きな力を持ったためである。首相は、政権維持や政策立案のためには派閥からの協力が必要であり、派閥の要求に配慮せざるを得なかった。しかし派閥の影響力低下は小渕内閣のもとで始まっており、小泉首相は執行部人事と閣僚人事を派閥と相談せずに決定した。選挙制度の変化によって基礎的な条件を失っていた自民党の派閥システムの結束は小泉政権においてはもはや機能しなくなっていた。

 小泉政権が高い支持率のもと改革を推し進められたのは、小泉首相の巧みなメディア戦略や人間性のみならず、これまでの改革の成果を活用できたことが大きかった。竹中(2006)は「いわゆる『55年体制』が、1993年に崩壊した後に液状化した日本の政治はようやく落ち着いた」(37)と小泉政権を評価している。

 しかし、2007年7月の参議院選挙では、総選挙大勝後1年で辞任した小泉首相の後任安倍首相のもと自民党は大敗し民主党が大きく議席を伸ばした。改選121議席のうち自民党は37議席しか獲得できず、非改選と合わせても83議席にとどまり、55年の結党以来、初めて参議院第1党の座から滑り落ちた。民主党は選挙区選、比例選ともに自民党を圧倒し、結党以来最高となる60議席を獲得した(38)。2009年9月の政権交代まで、残り2年に迫っていた。1990年代における選挙制度改革、財政リソースの減少、組閣人事権の消滅により基礎を失いつつあった自民党の派閥システムは小泉政権によってほとんど解体に近い状態に至った。結果的に自民党を支えてきた仕組みが壊れたことは、安倍・福田・麻生政権が迷走を重ね政権を投げ出すという結果の一因にもなった(39)。自民党内の意思決定や党首のリーダーシップには大きな変化が生じたが、政権交代を予見した政官関係の見直しにまでは及ばなかった。


第5節 90年代以降の行政・政治改革 まとめ

 1章で述べたように、1970〜80年代の政官関係は冷戦終了、細川政権成立、バブル崩壊をふまえて崩壊した。90年代は新たな政官関係の摸索が必要な時期であった。経済が常に右肩上がりであるという前提は崩れ、部分最適を積み上げるやり方では立ち行かなくなってきた。90年代の日本は「失われた10年」ともいわれる長期不況に苦しみ、戦後日本を支えてきた社会のしくみを見直す必要が生じた。諸内閣は行政改革・政治改革以外にも重要な政策課題を多く抱えることとなった。

 また、全体を見渡し優先順位を定めるトップダウン式の政策実行が求められ、行政・政治改革が進んだ。候補者本位の中選挙区制から、より政党本位の小選挙区比例代表制が導入され政党間競争は激しくなった。制度の変化にともない政権交代の可能性は高まり、1998年の参院選以降民主党の存在感は増大しつつあった。しかし、政権交代に備えた制度整備が進んだとはいえなかった。自民党政権はあくまで自らの仕組みを変えることに大幅な労力を割いた。自民党政権の継続という前提を見直したうえで政官関係を再検討することにまで手は回らなかった。派閥の影響力を弱め、ボトムアップからトップダウン式の政策決定へと変化させることが問題意識・改革内容の中心であった。


(脚注)

(18)佐々木・清水、前掲書、236頁。
(19)野中、前掲書、116頁。
(20)佐々木・清水、前掲書、243頁。
(21)田中一昭・岡田彰編『中央省庁改革―橋本行革が目指した「この国のかたち」』日本評論社、2000年、3頁。
(22)竹中、前掲書、56頁。
(23)佐々木・清水、前掲書、390-391頁。
(24)中央省庁等改革http://www.kantei.go.jp/jp/cyuo-syocho/ (2011年12月19日最終アクセス)
(25)野中、前掲書、208頁。
(26)竹中、前掲書、56頁。
(27)佐々木・清水、前掲書、248頁。
(28)田中・岡田、前掲書、9-10頁。
(29)竹中、前掲書、53-54頁。
(30)清水真人『官邸主導 小泉純一郎の革命』日本経済新聞社、2005年、225頁。
(31)竹中、前掲書、109-110頁。
(32)小沢一郎『日本改造計画』講談社、1993年、63頁。
(33)野中、前掲書、209頁。
(34)小沢、前掲書、61頁。
(35)佐々木・清水、前掲書、303頁。
(36)竹中、前掲書、159頁。
(37)竹中、前掲書、238頁。
(38)読売オンライン 参院選2007 http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/(2012年1月17日最終アクセス)
(39)佐々木・清水、前掲書、304頁。



第3章 民主党による政治主導の試みについて

 第1章では1970〜80年代に形成された政官関係が90年代に入って崩壊した流れを述べた。第2章では、90年代に進められた行政・政治改革の成果と問題点を述べた。細川内閣、橋本内閣、小渕内閣と積み重ねられた改革は小泉政権で一定の成果を発揮し、新たな政官関係の構築が完成したという主張もある。しかし、自民党政権による改革は、政権交代可能性が予見されていなかったという考察を述べた。第3章では、民主党による政治主導の試みについて、飯尾の研究をもとに検討する。2009年8月30日投票の第45回衆院選において、野党であった民主党は定数480のうち308もの議席を獲得して圧勝した。第1節では、政権交代が起きた2009年の選挙は、序章で掲げた「政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙」であったのかを検討する。第2節では、政権交代によって本来どのような効果が期待されるのか確認する。第3節では、民主党が当初目指した政権構造改革の方針を振り返り、第4節では民主党政権がどのような政策の修正を迫られたのかを確認する。第5節では、政官関係に絞り込んで問題点を述べる。民主党は「政党・首相候補・政策の3点セットの正統性を明確にし、トップダウン式の政策実行を可能にするような政治」を実行できているのか、いないとすればどのような課題があるのかを示したい。


第1節 2009年の衆議院議員選挙

 この節では、民主党政権を実現させた2009年衆議院議員選挙が「政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙」であったかを検討する。第一に、2009年の衆院選における民主党の圧勝と自民党の歴史的敗北は民主党への相反する2つの期待が合流したものである可能性を、渡辺の研究をもとに指摘する。第二に、政党・首相候補・政策という3点セットのうち政策面について検討する。

 まず、第一の点についてである。飯尾は「2009年8月の総選挙による9月の政権交代は、日本の政治史にとって画期的な出来事であった」(40)と評価する。政権を狙う政党あるいは政党連合が、首相候補と基本政策を掲げた上で、総選挙によって勝利し政権を担当する政党が完全に入れ替わるという、典型的な政権交代が初めて実現したためである。一方で渡辺は、「自公が推進してきた構造改革の政治を止めてもらいたい」あるいは「自民党が長らく続けてきた利益誘導政治を変えてもらいたい」という、相反する2つの流れが合流した結果、民主党は勝利したと主張している(41)。すなわち民主党は基本政策を掲げたうえで勝利したものの、民主党に期待する政治は国民の間で全く相異なる可能性があると渡辺は指摘している。

 橋本内閣退陣の理由となった1998年参院選の選挙公約において、民主党は以下のように訴えている。本来の民主党は構造改革を志向する急進路線の政党であった。


  『私は変えたい。』〜民主党98参院選選挙公約〜(42)

  
この国に暮らすひとりひとりも、意識改革が必要かもしれません。それには、痛みが伴います。しかし、このまま、利益配分型の甘い政策に依存し続ければ、5年たっても、10年たっても、日本は再生できないのです。


 しかし、このような構造改革路線は小泉政権の誕生により動揺することとなる。本来民主党の構造改革路線に期待していた層が小泉政権支持に移り、民主党は支持調達に苦しんだ。小泉政権が郵政民営化の是非を問うた2005年の衆院選で民主党は惨敗する。自民党は絶対安定多数の269議席を大きく上回る296議席を獲得し、公明党と合わせた与党全体の議席が総定数の3分の2(320)を超す圧勝となった。民主党は公示前よりも64議席減らし、113議席となった。選挙戦を戦った民主党の岡田代表は敗北を受けて党代表の辞任表明をした(43)。これを機に民主党の性格転換が始まった。医療、福祉、教育などは小泉政権の構造改革を批判する形で、政策が転換した。一方で、地方分権、政治主導、国家制度改革などの方針は維持された。この転換は、2009年衆院選の民主党マニフェストに象徴されている。


  
民主党の政権政策Manifest2009より一部抜粋(44)

  
母子家庭で、修学旅行にも高校にも行けない子どもたちがいる。
  
病気になっても、病院にいけないお年寄りがいる。
  
全国で毎日、自らの命を絶つ方が100人以上もいる。
  
この現実を放置して、コンクリートの建物には巨額の税金を注ぎ込む。
  
一体、この国のどこに政治があるのでしょうか。
  
政治とは、政策や予算の優先順位を決めることです。私は、コンクリートでは
  
なく、人間を大事にする政治にしたい。
  
官僚任せではなく、国民の皆さんの目線で考えていきたい。
  
縦に結び付く利権社会ではなく、横につながり合う『きずな』の社会をつくり
  
たい。


 「コンクリートの建物には巨額の税金を注ぎ込む」「官僚任せ」の政治は旧来の自民党の利益誘導政治であり、自殺者の増加や高齢者の貧困は小泉政権による構造改革政治の影響である。民主党はこの双方を批判した。その結果、小泉政権以降漸進路線へと転換しつつあった自民党に不満を持つ層と、小泉政権による構造改革路線をやめてほしいという層から異なる支持を集めることによって民主党は圧勝した。有権者による政権選択によって民主党は政権党に選ばれたものの、有権者はそれぞれ異なる政策実現を民主党に期待していた可能性がある。

 
第二に、政党・首相候補・政策のうち政策面についてである。マニフェストは野党の民主党から政権党となった民主党へ、円滑に引き継がれたとはいえなかった。まず、マニフェストの政策メニューをつくった中心人物たちがその工程管理を受け持つ官邸や国家戦略室などのポストに就かなかった。反面、政権構造改革を練ってきた人物たちがマニフェスト実行に責任を持つ鳩山首相を間近で支える体制となった。マニフェストをつくった人々と実行する人々が別になった。さらに、両者の間には円滑な意思疎通がなされていなかった。鳩山政権が初閣議で提示し決定した「基本方針」(45)は政務三役主導、内閣への政策一元化、「閣僚委員会」の活用などの政権構造改革が主な内容であった。反面、マニフェストで掲げた具体的政策への言及はなかった。民主党が政権党の座に就き鳩山政権が誕生したのだから、本来であれば衆院選でのマニフェストがそのまま内閣の方針として打ち出されるはずであった。しかし、財源の確保など内容の粗さからマニフェストの閣議決定は見送られ、政権構造改革が前面に押し出されるにとどまった。マニフェストに明確な政策変更プランがあれば、政権交代の正統性によって、改革は推進しやすい。また、既に改革プランがあれば不慣れな状況で意思統一を図る手間を省くことができ、新政権の運営に集中できる。一般の有権者から見ても、政権公約の存在は政治の予想可能性を高める効果がある。しかし2009年の民主党への政権交代の場合は、政権公約策定の過程で党内の合意調達が不十分であるとともに、開かれた策定過程を経ていないため、その内容の検討が不十分であり、政策官の整合性が十分に確保されなかった(46)。

 
政権を担当する党が自民党から民主党へと完全に入れ替わった政権交代は、確かに歴史的な出来事であった。民主党や自民党は、政党・首相候補・政策を国民に提示したうえで選挙戦を戦った。しかし、上記の理由から「政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙」が2009年の衆議院議員選挙で完全に実現したとはいえない。民主党は構造改革推進派と反対派からの相異なる2つの期待を受けて政権党に選ばれた。また、具体的な政策メニューを提示したマニフェストは財源問題などに粗さがあり、そのまま鳩山政権の方針として前面に出すわけにはいかなかった。政策の指針として民主党のマニフェストの正統性は弱いものであった。2009年の衆議院議員選挙に終わらず、今後も政権選択選挙の実施が予想される。その際には、国民からの支持を得たという正統性のもと政権成立後に引き継げるマニフェストづくりが課題となる。


第2節 政権交代が持つ可能性

 
第2節では、政権交代が本来持っている可能性を確認する。政党・首相候補・政策を選ぶ政権選択選挙のもと、政権を担当する政党が完全に入れ替わるという政権交代によって、どのような変化が期待できるのかを飯尾の研究に依拠しながら要約する。

 第一に、支配的統治連合の解体あるいは入れ替えが起きる点である。政権を担当する政党あるいは政党連合が交代する際には、政党を中心とした支配連合の入れ替えを伴うのが通例である。日本であれば、自民党を中心とする長期政権の下で生まれた支配連合が解体されるということである。

 第二に、国民に選ばれた政権・首相というイメージが、指導者に強い求心力をもたらす点である。同一政権内で首相を交代させるだけでは、その首相には選挙で支持を集めたという後ろ盾がない。直接の民主的正統性を持たない首相が大幅な政策転換を行うことや官僚に対して求心力を持つことは難しい。国民に選ばれた政党・首相であるという正統性により、全体を見て政策の優先順位を定めるトップダウン式の政策実行が可能になる。

 第三に、政策パッケージを背景とした、大胆な政策転換が可能になる点である。マニフェストという形で、明確な政策変更プランがあれば、政権交代の正統性によって、改革を進めやすい。また、改革を推進する新政権内部においても、既に改革プランがあれば不慣れな状況で意思統一を図る手間を省くことができ、新政権の運営に集中できる。一般の有権者から見ても、各政党が政権の座に就いた際、どのような政治が行われるのかが明確になる。

 第四に、政権交代による課題の析出である。政権交代による大規模な政策変更の機会がなければ、既存の政策のうちでいかなる状況でも変更が難しいのはどれか、変更可能なのはどれかという意味で、政党間競争の共通基盤になる政策と、政党間で違いが出て争点となる政策との区別がつきにくい。それが、ときどき政権交代を経験することで、政党間で共通の基盤ができ、政党論争は地に足がついたものになってゆくのである(47)。

 政権交代に対する以上のような認識は政治家にも共有されている。鳩山政権で厚生労働大臣を務めた長妻は国会議員を志した理由の1つとして、政権交代が可能な二大政党制を実現させることを挙げている。「政権交代が前提となった政治の下では、役所も特定の政治家と馴れ合うわけにはいかず、おかしなことができなくなる。これまで以上に与野党のチェック・アンド・バランスが利く」(48)と、政権交代による変化の重要性を述べている。以上のような政権交代のメリットを民主党は活かすことができたのか、第3節以降で検討する。


第3節 民主党の基本方針

 ここでは民主党政権による政権構造改革の内容を、主に佐々木・清水(2011)に依拠しながら確認する。政治主導体制に向けた具体的な民主党政権の姿勢を網羅した5原則・5策のうち、政官関係に関連する政策に絞って取り上げる。


  2009年の民主党マニフェストに掲げられた5原則と5策(49)

  5原則

  原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
  原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
  原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
  原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
  原則5 中央集権から、地域主権へ。

  5策

  第1策 政府に大臣、副大臣、政務官(以上、政務三役)、大臣補佐官などの国
      会議員約100人を配置し、政務三役を中心に政治主導で政策を立案、
      調整、決定する。
  第2策 各大臣は、各省の長としての役割と同時に、内閣の一員としての役割を
      重視する。「閣僚委員会」の活用により、閣僚を先頭に政治家自ら困難
      な課題を調整する。事務次官会議は廃止し、意思決定は政治家が行う。
  第3策 官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な
 
     人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格
 
     を策定する。
 
 第4策 事務次官・局長などの幹部人事は、政治主導の下で業績の評価に基づく
      新たな幹部人事制度を確立する。政府の幹部職員の行動規範を定める。
  第5策 天下り、渡りの斡旋を全面的に禁止する。国民的な観点から、行政全般
      を見直す「行政刷新会議」を設置し、全ての予算や制度の精査を行い、
      無駄や不正を排除する。官・民、中央・地方の役割分担の見直し、整理
      を行う。国家行政組織法を改正し、省庁編成を機動的に行える体制を構
      築する。


 以上から、政官関係と関連が深い原則1〜3と5策について言及する。そのうち原則1と3については、5策で具体的な政策に落とし込まれているため5策の説明をもって代替する。

 まず、原則2についてである。この原則は、「自民党では当たり前だった有力派閥の領袖や、各省縦割りで幅を利かせる『族議員』が跋扈するような与党主導体制からの脱却」(50)を訴えている。自民党政権時代においては、内閣が国会に予算案や法案を提出する前に、政務調査会と各府省に設置された部会とが議論を行った。その分野に詳しい議員や大臣経験者など「族議員」の有力者が了承すれば、上部機関の政調審議会、さらに党大会に代わる常設の党議決定機関である総務会において審議が重ねられ、政府側の原案はしばしば修正される。総務会の了承と党議決定を得て初めて内閣がその案件を閣議決定し、国会に提出できた。与党事前審査制のもとでは、自民党に事実上の拒否権があった。その代わり、自民党は党議決定と同時に所属議員に国会採決での厳格な党議拘束をかけたので、自民党さえ通せば法案は成立がほぼ保証される。一年ほどで交代しがちな大臣よりも、部会を拠点に長年専門知識を積み重ねた「族議員」たちが実質的な権力を持ち、官僚や各業界は彼らのもとへ根回しに足を運んだ。このような事前審査制は、与党内で交渉が決着することによる決定プロセスの透明性低下、国会審議の空洞化、責任の所在が不明確になることを理由に問題視されていた(51)。民主党は、この与党事前審査制をやめると宣言した。内閣と与党を一元化し、大臣、副大臣、政務官ら職務権限と責任を伴って内閣に入った政治家がもっぱら政策決定にあたるという内閣主導体制への転換を打ち出した。利益誘導を排し、トップダウン式の政策決定を目指した。

 次に、5策について述べる。いずれも政策形成過程における政治家と官僚の関係を変えるものである。第1策は、各府省に入る大臣、副大臣、政務官らがバラバラに動かず、政務三役会議という「政治家チーム」を形成して官僚組織を統制するという考え方である。国家行政組織法によれば、副大臣や政務官は各大臣の意向を踏まえて内閣が任免する定めだが、自民党政権では有力派閥の勢力均衡と当選回数に基づく年功序列を重んじ、大臣の希望と関係なく選んできた。このため、政務三役に一体感は乏しく、官僚たちに分断されて大臣が孤立しがちだった。大臣との人間関係を踏まえ、政治家が官僚にとりこまれない人選に改めようと試みた。鳩山内閣では、副大臣と政務官については大臣が希望を申し出て、当人の了解をとるかたちで任命された(52)。

 第2策は、大臣たちが各省縦割りの弊害に陥らぬよう、閣僚委員会の活用を提起している。大臣は各省の代表である前に、首相と政権公約を共有する「内閣チーム」の一員とみなす(53)。例えば予算編成、通商交渉、地球温暖化対策といったテーマごとに、関係大臣からなる「閣僚委員会」を設ける。テーマを決めて閣僚委員会を設置するのは官邸の機能であり、その作業自体が政策の優先順位をトップダウンで内外に示す意味も持つとされた。議論するテーマと参加する大臣を絞り込んだ少数精鋭の体制で、より踏み込んだ討議を行うことが期待された。また、官僚主導の象徴として批判されていた事務次官会議にも言及がなされている。事務次官会議とは、事務担当の官房副長官が主宰し、原則として閣議の前の日に全府省の事務方トップが出席するものである。この会議で閣議案件のほぼすべてを事前に承認していた。事務次官会議において全員一致で賛成したものしか次の日の閣議にかけられることはなく、事実上事務次官会議が国の行政の最高意思決定機関となっていた(54)。閣議が全会一致制であるという理由で、事務次官会議もそれにならい、全会一致制をとっていた。すると、ある省が自分たちの省益に反するとみなした法律は、その省の事務次官が反対すれば閣議にかけられず法案として国会に提出されることもない。国益よりも省益を優先し、官僚が自分の省の利益に反することは、閣議にかける前につぶせることになる(55)。「閣僚は本来、国政全般について国政全般について意見を述べることができるが、事務次官はあくまでその役所の代表で、国政全般に責任を持っていない。したがって、事務次官会議が閣議に出される議案内容を決めるという現状は変える必要がある」(56)と菅は主張した。事務次官会議が内閣法にも国家行政組織法にも定められていない、法的な根拠をもたない組織であるということも問題視された。

 第3策は、閣僚委員会に加えて首相のリーダーシップを補強するための国家戦略局に関する政策である。国家戦略室とは、「政治主導の政策決定を実現するため、縦割り行政を打破し、総理のリーダーシップの下に新時代の総合的な国家ビジョンを打ち出していくことを目的として内閣官房に設置された総理直属の機関」(57)である。具体的には、「税財政の骨格」など内閣の重要政策に関する基本的な方針のうち内閣総理大臣から特に命ぜられたものの企画・立案や、政府全体の総合調整を任務としている。第5策で述べられている行政刷新会議とともに、政策や予算の優先順位を策定する役割を担うことが期待された。

 第4策は、局長級以上の幹部官僚の人事を官邸主導で一元管理する「内閣人事局」の構想を示すものである。省庁縦割りの背景として、省ごとに採用され省内のポストを昇進していき同期が次官クラスに昇格すると残りの同期は民間企業などに天下るという閉鎖的な人事システムが問題視されていた。官僚が握っていた人事権を事実上官邸に移すことで、ある種の政治任用ができるようになり人事の自由度が高まると期待された。どんな組織においても「予算」と「人事」を握ることが求心力の源泉となる。長妻も「変革するには職員に危機意識を持ってもらい、モチベーションを高めてもらうしかない。それには、やはり、人事なのである。(中略)例えば無駄を見つけて削減したり、行政サービスを向上させたりした職員を積極的に評価するようなシステムだ」(58)と、著書のなかで人事を握ることの重要性を強調している。

 第5策では、「国民的な観点から、国の予算、制度その他国の行政全般の在り方を刷新するとともに、国、地方公共団体及び民間の役割の在り方の見直しを行う」(59)ために行政刷新会議の新設を掲げている。国家戦略局がマニフェスト(政権公約)を踏まえて重要政策の基本方針を練り優先順位を決める参謀本部だとすれば、過去の自民党政権の予算を徹底的に洗い直し、無駄な歳出を削減する切り込み役として新設されたのが「行政刷新会議」であった。会議の内容は、事業ごとに税金がどう使われ効果がどの程度あるのかを検討し、事業の必要性などを判定するものである。会場を全面公開することや、民間の有識者など外部の視点を取り入れることが重視された。
 民主党は政権構造改革として、以上のような5原則・5策を打ち出して政権に就いた。しかし、方針の相次ぐ修正を迫られることになる。第4節では民主党がどのような方針転換を迫られたのかを確認する。


第4節 基本方針の相次ぐ修正

 第3節で述べた民主党政権の方針は、様々な側面で困難に直面し軌道修正を迫られる。第5節以降で問題点を検証するために、当初民主党が掲げた5原則・5策の実現状況を主に清水・佐々木(2011)に依拠しながら確認しておきたい。

 まず、原則2の内閣一元化についてである。自民党政権では、内閣がつくった予算や法案は国会提出前に与党の事前審査を受け、承認を得ていた。与党議員はここで言い分を通す代わりに、国会審議においては「採決要因」に甘んじ党議拘束に従った。重要法案の与党審査をやめれば、党議拘束をいつかけるかが問題になる。ある政策を採択するには、いずれかの時期・段階で意見や利害を集約しなければならない。内閣一元化によるトップダウンの政策形成システムを採用したとしても、政党による利益集約がなければ法案は成立しない。無理な内閣一元化は、逆に官邸と与党の二元化を生みかねない。内閣に与党をコントロールする力がなければ、与党側の一層の抵抗や反発を招き、結果として与党と内閣の二元化状況を生んでしまう。日本と同じ議院内閣制の国のうち、ドイツなどでは与野党議員が自由な立場で国会審議に臨み、法案修正も珍しくない。委員会の結論が出た段階で党議拘束をかける。与党議員(会派)の反対によって政府法案を否決したり、政府側の望まない修正を加えたりすることが、議会に当然期待される役割として受け入れられている(60)。一方、イギリスでは内閣提出法案のまま成立させる例が圧倒的に多い。野党の対案提出や議会修正は一般的ではない。総選挙で勝った政権党がマニフェストを貫くのが当然と考える。

 次に、5策のうち第1策と第2策についてである。第1策では、政務三役を中心に政治主導で政策を立案、調整、決定することを掲げ、第2策では事務次官会議の廃止を打ち出した。事務次官会議は内閣制度が発足した翌年の1886年から123年にわたり開かれてきたが、2009年9月17日に廃止が確認された。その結果、各府省調整も大臣や副大臣ら政務三役が担った。官僚同士の折衝を許さず霞が関を横断する調整ネットワークは寸断された。かつて他府省の縄張りに踏み込んででも熾烈な省益争いを展開した官僚集団は、政治家の「指示待ち」に甘んじがちに変質しかけていた。その結果、各大臣の発言に整合性がないという問題が生じる(61)。民主党の構想では、大臣間の連携は閣僚委員会によって解決されるはずであった。事務次官会議の廃止によって、官僚による調整ではなく大臣が自ら省庁間調整を行おうとしたのである。ただ、大臣レベルの調整のためにはあらかじめ問題点や選択肢が絞られている必要がある。すなわち閣僚委員会のための下準備が必要であり、それは官僚によってなされる必要がある。官僚による調整なしに閣僚委員会を機能させることは困難であった。混乱の末、東日本大震災をきっかけに事務次官会議は復活へ向かった。仙谷官房長官は、官僚排除に傾きがちな民主党流の政治主導を修正し、各府省を横断する次官や局長ら官僚レベルの政策調整プロセスの再構築を手探りしていた。その結果、被災地支援の省庁横断的な取り組みを加速させるため各府省の事務次官らを一堂に集める連絡会議が復活したのである。連絡会議で各省への支持が徹底されているかを事務方トップに確認することで、被災者生活支援特別対策本部の機動力向上を目指した。枝野官房長官は「全く性質が異なる」と反論したが、各府省連絡会議は事務次官会議に酷似していた(62)。野田政権は、各府省連絡会議において震災に限らず幅広いテーマを扱う方針を示し、週1回の開催を定例化した。

 次に、第3策についてである。政治主導確立法案の成立により、国家戦略室は局へと格上げされるはずであった。この法案は国家戦略局の設置をはじめとする、様々な制度改革を含んでいた。菅(2009)によれば、日本の政府の行政組織では、各省には局、部、課及びそれに準じるものとして室を置き、その局や部の設置と所管事務の範囲は政令で定めることになっている。だが、内閣法には、内閣官房内の局や部についての内部組織の規定はない。したがって、内閣官房の中に新たに「局」を設けるには内閣法の改正が必要となるという解釈で、まず「国家戦略室」がスタートしていた。しかし、政治主導確立法案は、2009年秋の臨時国会に提出されるはずが、補正予算案や子供手当の創設が優先され、提出されなかった。その後、翌10年の通常国会に提出されたが、賛否が激しく分かれる法制局長官の答弁権廃止が関連法案の国会法改正に含まれたこともあり、店ざらし状態のまま審議継続となった。結局、民主党は2011年5月11日、政治主導確立法案を取り下げる方針を決めた。国家戦略室の「局」格上げを切り離して再提出する案もあったが、野党が同意する見込みがなかった。民主党の安住国会対策委員長は「(昨年の通常国会以来)成立の見通しが立たないから現実的な対応をせざるを得ない」と語った(63)。経済財政諮問会議は法的には廃止されないまま開かれず、政権中枢のスタッフに関する制度整備がないまま民主党職員が兼ねており、国家戦略局の法的な手当も未だ進んでいない。法的根拠がない組織が各省庁の交渉、折衝、調整作業を行うのはのぞましくないとして、国家戦略室は機能を縮小することとなった(64)。

 次に、第4策についてである。政府は、各省の幹部人事を官邸や閣僚に一元化する「内閣人事局」の設置を盛り込んだ国家公務員法の改正案をとりまとめた。人事局が幹部候補者を審査し、合格すれば各省横断の人事名簿に掲載する。各省幹部の人事は「官邸主導」でその名簿から選ぶことができ、官僚が握っていた人事権を事実上、官邸に移す狙いがあった。しかし、給与法などの関連法を変えないままの見切り発車となったため、人事管理上は次官・局長・部長級で同格にもかかわらず給与には大きな差が存在するなど、今後の運用や制度改革には不安が残った(65)。法案は衆議院では可決されたものの、参議院にて審議未了で廃案となった。2011年の通常国会で民主党により再提出されたが、未成立のままである(66)。

 最後に、第5策についてである。5原則・5策の中でも注目を浴びたのが、行政刷新会議の設置を打ち出した第5策であった。行政刷新会議の第一次事業仕分けは11月11日、東京・市谷本村町の国立印刷局市ヶ谷センターの体育館で始まった。予算編成のプロセスや税金の使い道が透明化された点や、会議が公開されている点、予算を取ったり配ったりする側でなく、使う現場や一般の目で予算を見直すことは評価を受けた(67)。しかし、枝野も蓮舫も仕分け人にすぎず、内閣の官職ではないので予算編成に関わる職務権限はなく、官僚に命令する立場にもなかった。仕分けの結果に強制力はなく、あくまで予算の判断材料のひとつであった。実際の予算を削るのはあくまで政治の役目であった。自民党政権下において、職務権限のない与党議員が「政治主導」の名のもとに官僚を使い、政策決定に口を出すのを「族議員」と呼んだ。仕分け人は利益誘導ではなく、もっぱら歳出カットに蛮勇をふるうのだから許される、という論理は内閣一元化の政権マネジメントとの整合性に欠けた(68)。権限と責任なしに予算編成に公然と介入するという仕分け人の姿勢は「族議員」に重なる側面もあった。また、歳出削減という本来の期待に応えることはできなかった。2009年に行われた仕分け作業では、2010年度予算の概算要求から3兆円以上削ることが目標であった。しかし、菅直人副総理・国家戦略担当相は仕分けを反映し6900億円を削減するよう閣僚委員会で指示する結果となり、目標を大きく下回った。独立行政法人や公益法人から返納させる基金総額は一兆円に上ったが、この一時的な財源をあわせても、財務省が2010年にマニフェストの初年度分の完全実施に必要とした6兆9000億円には及ばなかった。また、初年度の第一弾事業仕分けは自民党政権がつくった予算が対象であったため、民主党政権は無駄削減へと切り込みやすかった。自民党政権以来の経緯に詳しいのは官僚であるという名目で、仕分け人対官僚という構図をつくりやすかった。しかし、その後は民主党政権が作成した予算を自ら仕分けするので、矛盾をはらむ構造となった。仕分けられる側の各府省も、副大臣や政務官や政務三役が説明役として登場し仕分け人と激しい議論を交わした。身内同士の潰しあいになることで、行政刷新会議の機動力は失われていった。


第5節 政官関係における問題点

 民主党政権が目指す政権構造改革そのものは、本論文が目指すべき政治像として序章で述べた「政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙の実施により、この3点セットの正統性を明確にし、トップダウン式の政策実行を可能にするような政治」に沿ったものであった。実際に民主党は政治主導を実現すべく、5原則・5策にて具体策を掲げていた。では、民主党政権による改革にはどのような問題点があったのだろうか。第1節では「政党・首相候補・政策の3点セットで選ぶ政権選択選挙」にあたり、民主党がどのような問題点を抱えていたかを述べた。第5節では、「トップダウン式の政策実行を可能にする政治」を行うにあたり、第3・4節で確認した民主党の政権構造改革にどのような問題点があったのかを述べる。ところで、本稿の主旨は「政党・首相候補・政策の3点をセットで選ぶ政権選択選挙の実施により、この3点セットの正統性を明確にし、トップダウン式の政策実行を可能にする政治」のための政官関係を考えることにある。そのため、政官関係に関連した問題に絞って取り上げる。

 第一に、民主党による政権構造改革の内容そのものについてである。重要なのは、問題があると見られる制度を選び出して、それを廃止するだけでは改革の成果を上げることはできないという点である。政治主導という目標のもと官僚を排除し官僚の仕事を奪っても、円滑な政権運営はできない。民主党は政治主導のための政策を実行する際、代替機能を十分に整えていなかった。この問題点は5策のうち第2策と第4策に象徴されている。まず、第2策についてである。事務次官会議で全員一致の賛成が得られた議題しか閣議に上がらず、各省縦割りの省益重視に陥りがちな点が問題だからといって、事務次官会議を廃止するだけでは問題解決とはならない。民主党は代わりに閣僚委員会を設け、大臣レベルでの直接調整を強化することとしたが、代替機能を果たせなかった。その結果野田政権では、事務次官を集めた各府省連絡会議で扱う議題の範囲を拡大するなど、旧来のやり方を復活させる動きがでてきた。次に、第4策についてである。民主党は内閣人事局設置などを含めた国家公務員法改正を試みたが、ただ一部の人事権を官僚からとりあげるだけでは問題は解決しない。給与制度など他の仕組みと一体で変更しなければ、幹部人事の「格」と「給与」の整合性が失われるなど法的な整合性がとれなくなってしまう。問題のある制度でも、一定の機能を果たしており、それを代替する仕組みを十分に整えたり包括的な制度変更を行ったりしなければ、システムは機能不全に陥ってしまうのである。政治主導という目標に照らしたときの問題点に注目するあまり、制度がそれまで果たしていた役割を過小評価してはならないのである。

 第二に、政権運営方法の問題点についてである。民主党は政権交代直後に、政権構造改革に専念せず、様々な政策調整に入ってしまったため、政権構造の改革が中途半端になってしまった。第4節で言及した、国家戦略局の設置などを盛り込んだ「政治主導確立法案」の挫折が例である。副大臣・政務官の増員や、国家戦略局の設置をはじめとする制度改革を盛り込んだこの法案は、2009年秋の臨時国会に提出されるはずの予定を見送られるなど優先順位が低く、成立のめどはたたなかった(69)。代わりに補正予算案や子ども手当の創設が急がれたのである。日々の政権運営をしながら、政権運営方法を変更するということは難しい。自民党から民主党へと政権党が完全に入れ替わったなか、あらゆる省庁に関係する政権構造改革は優先的に取り組むべき課題であった。民主党は「政治主導」を重視し、5策で様々な具体的方策を提示していた。政権交代直後の時期は、これまでの政権運営を見直し構造的な変化を起こすのに適していた。しかしいざ政権の座に就くと、政策各論の実施を急ぐあまり根本の政権構造改革は中途半端になってしまった。鳩山政権が誕生した頃は支持率も高く、この政権がしばらく続くと考えられていた。しかも、脱官僚を掲げて登場した政権だけに、抜本的な改革が行われるという覚悟が官僚にはあった(70)。しかし、支持率が落ち来年には政権や大臣が変わりそうとなると、求心力は急速に失われる。下手に指示に従えば、次に来た大臣の方針が変わって梯子を外され、次官や官房長は役所の利益に反する行動をとったとしてマイナス評価を受けるリスクを背負うことになるためである。政権構造改革の優先順位を低くしたために、民主党は政権構造改革の機会を逃してしまった。


(脚注)

(40)佐々木・清水、前掲書、406頁。
(41)渡辺治・二宮厚美・岡田知弘・後藤道夫『新自由主義か新福祉国家か―民主党政権下の日本の行方』旬報社、2009年、14-15頁。
(42)民主党アーカイブ http://archive.dpj.or.jp/news/?num=8833 (2012年1月17日最終アクセス)
(43)読売オンライン 衆院選2005 http://www.yomiuri.co.jp/election2005/(2012年1月17日最終アクセス)
(44) 民主党の政権政策Manifest2009 http://www.dpj.or.jp/policies/manifesto2009(2011年12月28日最終アクセス)
(45)基本方針は首相官邸ホームページのhttp://www.kantei.go.jp/jp/tyokan/hatoyama/2009/0916siryou1.pdf にて参照することができる。
(46)佐々木・清水、前掲書、408頁。
(47)佐々木・清水、前掲書、408頁。
(48)長妻昭『招かれざる大臣―政と官の新ルール』朝日新聞出版、2011年、56頁。
(49)民主党の政権政策Manifest2009
(50)佐々木・清水、前掲書、50頁。
(51)大山礼子『比較議会政治論』岩波書店、2003年、231頁。
(52)菅直人『大臣 増補版』岩波新書、2009年、213頁。
(53)佐々木・清水、前掲書、52頁。
(54)菅 前掲書、53頁。
(55)同書、54頁。
(56)同書、55頁。
(57)国家戦略室http://www.npu.go.jp/ (2012年1月5日最終アクセス)
(58)長妻、前掲書、85-86頁。
(59)行政刷新会議http://www.cao.go.jp/sasshin/kaigi.html (2012年1月5日最終アクセス)
(60)大山、前掲書、209頁。
(61)佐々木・清水、前掲書、411-412頁。
(62)「枝野官房長官の会見(要旨)」『朝日新聞』2011年3月23日朝刊、4面。
(63)「『国家戦略局』を断念」『日本経済新聞』2011年5月12日朝刊、2面。
(64)内閣府 荒井内閣府特命担当大臣記者会見要旨 http://www.cao.go.jp/minister/1006_s_arai/kaiken/2010/0716kaiken.html(2012年1月19日最終アクセス)
(65)「公務員改革、見切り発車」『日本経済新聞』2010年2月20日朝刊、2面。
(66)内閣法制局 http://www.clb.go.jp/contents/diet_177/law_177.html (2012年1月19日最終アクセス)
(67)「ムダ削減 強気の出足」『日本経済新聞』2009年11月12日朝刊、3面。
(68)佐々木・清水、前掲書、91頁。
(69)古賀茂明『日本中枢の崩壊』講談社、2011年、178-179頁。
(70)同書、189-191頁。



第4章 他国との比較 政権交代に対応した政官関係について


 3章では、民主党が掲げた政治主導の具体的方策とその実施状況を確認したうえで、政官関係における問題点を2点挙げた。第一に、問題であると考えられる制度をただ廃止するだけでは政治は機能不全に陥るという点である。民主党は事務次官会議の廃止や内閣人事局の設置を実行する一方、官僚がそれまで担っていた役割を過小評価し十分な代替機能を整えなかった。その結果、事務次官会議が事実上復活したり国家公務員法改正案が通らなかったりという事態を招いた。第二に、政権構造改革が後回しにされたことで、改革の機会を逃してしまったという点である。4章では、政官関係における民主党政権の問題点について他国との比較により改善策を検討する。ここでは特に第一に挙げた、民主党の政権構造改革そのものの問題点に絞って取り上げる。第二に挙げた政権運営方法の問題点は、民主党が政権運営に不慣れであることやマニフェストの粗さが背景にあると考えるためである。2009年の政権交代まで、民主党は政権党の座に就いたことがなかった。その結果、3章2節で挙げた政権交代のメリットを十分に発揮することができなかた。政権交代は今後も起こると予想されるなか、政権を担いうる政党としての民主党の成熟が期待される。

 先に述べたように、民主党による政権構造改革の問題点は第2策と第4策に表れている。民主党は事務次官会議の廃止によって官僚による政策の事前調整を阻止したり、内閣人事局の設置によって一部官僚の人事権を握ったりすることで政権構造改革を試みた。しかし、改革は難航している。本稿では、民主党が第2策と第4策で改革を試みた「政策決定段階における官僚の関与」と「官僚の人事権」について他国ではどのような方針がとられているのか、どのような改善の流れが起きているのかを比較していく。

 比較を行うのは日本と同じ議院内内閣制をとるイギリス、ドイツである(71)。民主党は多くの点でイギリス政治を参考にしている。菅直人元首相は2009年6月に「民主党英国政権運営調査団」の団長としてイギリス視察をしている。イギリスを参考にする理由として、菅は議院内閣制を採用しており政治・行政機構の形が近いことを挙げている(72)。また、後述するようにイギリスは二大政党制下で政権交代を繰り返していることから、今後も政権交代が予想される日本にとって参考になると考えられる。一方、イギリスの事例は政権交代がありうる時代の政官関係として1つのモデルであるが「日本にはドイツ型(の政官関係)が良いという結論もありそうである」(73)という指摘もある。ドイツは議院内閣制のもと連立政権を組むなど、日本との共通点を含んだ政治形態である。以上より、イギリスとドイツの政官関係を取り上げる。


第1節 イギリス

 イギリスでは議院内閣制の下、労働党と保守党の二大政党による政権交代が頻繁に行われている。サッチャー政権で大法官を務めたヘイルシャム卿による「選挙による独裁」という言葉に象徴されるように、総選挙に勝利した政党にすべての意思決定が負託される(74)。



     (75)


 まず、「政策決定段階における官僚の関与」についてである。民主党政権は、事務次官会議で全員一致の賛成が得られた議題しか閣議に上がらず各省縦割りの省益重視に陥りがちな点を問題視した。民主党政権はイギリスの制度を参考に閣僚委員会を導入した。事務次官会議を廃止し、官僚どうしの折衝は閣僚委員会で大臣レベルでの調整をもって替えようとしたがうまく機能しなかった。

 イギリスでは、「公務員は政治的中立性を保つ」という原則があるため、日本に比べて官僚に委任する部分は少ない。事務次官会議のような官僚による事前折衝の仕組みは存在しない。公務員は政府の政策を中立的に支えるべく、政治的中立性を揺るがす行動、例えば党派的な政治的配慮によって行動することや個人の政治信念によって助言や行動を決めることはすべきでないとされている。政府の政策立案は、与党が選挙前に公表したマニフェスト(政権公約)に基づいて行われる。政府の立案や各省の行政権限の行使については、府省を統括する大臣が全面的な責任を負う立場に立ち、その下で副大臣、政務次官には大臣から一定の権限が委任される。大臣は、これら政府内の職に就く与党議員から必要な支援・補佐を仰ぐとともに、専門的知識と経験などを備えた事務次官以下の公務員から政策立案・運営の補佐を受ける。閣議は毎週1回開催される。閣僚全員で行う閣議のみでは実質的な議論が困難であることから、関係閣僚で構成される内閣委員会が随時開催されている。そこでの結論は閣議に報告され、原則として閣議の決定となる。政治色のない公務はイギリス公務員にもイギリス社会にも理想として深く根付いている。

 次に、「官僚の人事権」についてである。民主党は、省庁別に採用され省内のポストを昇進していき、同期が事務次官クラスになると他の同期は外郭団体や企業に天下るという人事システムを問題視した。内閣人事局が幹部候補者を審査し、各省横断の人事名簿に掲載してその中から幹部選出を行う。官僚が握っていた人事権を官邸に移すことにより、官僚が省益に囚われることを避けようとした。しかし、仙谷元国家戦略相が改革に慎重な姿勢をとるなど、法案は未成立のままである。

 イギリスにおける官僚の人事権の扱いは従来の日本と近い。官僚は心身の故障などに該当しないかぎりは免職されないとされ、身分保障が認められている。政権交代の場合にも、事務次官、局長を含めた公務員が異動を求められる慣例はないなど、公務員の人事に政治家は介入を自制する伝統がある。これは、政権が交代したときも継続性を保つことで知識や専門性が省内に蓄積されることを促し、より客観的かつ分析的な政策形成ができることを狙いとしている。これは、イギリスにおける官僚の政治的中立性を重視する考え方に沿っている。

 政治任用者に該当するのは、大臣が行う政策立案・運営を政治的側面から支援する人材として、副大臣、政務次官のほかに設けられている特別顧問という存在である。特別顧問は、政府内において閣内大臣を政治的な側面から補佐・支援することを目的として設けられ、閣内大臣個人が自由に政治任用できるものとされている。彼らは臨時的な公務員として位置づけられている。大臣は政治的に密接な関係を持つ党内外の人材を特別顧問として政治任用し、彼らは政治的な側面から大臣に助言・支援を行う。近年、特別顧問の活用例が増えている。例えば、1997年に政権に就いた労働党は、それまで20年近くも急進的な右翼政権が続いたために、公務員がごく限られた選択肢しか大臣に示そうとしなくなっているのではないかと危惧した(76)。ブレアはメージャーやサッチャーの100人に対して150人もの特別顧問らを集めた。特別顧問は党派的な助言をするものと明確に位置付けられているため、官僚たちを政治的な事柄から保護する役割を果たした。さらに、官僚が大臣にとるべき方針を説得するために使えるルートの1つとしても役立っていた。一方で、選挙も経ずに大きな力を持つ特別顧問は「憲法上正統とは言えない立場から公務にケチをつけて弱体化させる、有害なものである」(77)という見方もある。特別顧問を中心とした首相官邸主導の政策形成が強化される一方で、特別顧問の制度や行動規範の一層の明確化、特別顧問・職業公務員の間での役割分担の整理が課題となっている。中立的な位置にいる官僚にとどまらず、党派的な助言をしてくれる特別顧問を政治家は必要としている。しかし、特別顧問には正統性がなく制度の明確化が求められている点などは、日本における事務次官会議の問題点と似通っている。

 イギリスでは特別顧問の位置づけが問題となっているものの、政官の役割分担やそれぞれの職業規範が明確で、政治任用者が果たす役割の特定が容易である。公務員の社会的威信も高い。二大政党制による政権交代を前提として、党のマニフェストに基づいた政策運営を多数の与党議員が行政府に入って行い、官僚は中立・客観的な立場から、そうした時々の政権の政策運営を支える体制が長年の歴史と慣行により確立されている。政治家と官僚の果たす役割及びそれぞれの職業規範は、実績と経験に裏打ちされた形で存在している。一方日本では、イギリス同様に議院内閣制をとるものの、政権交代を前提とした政官の関係が確立されておらず、大臣・副大臣等の閣内議員、閣外の与党議員および公務員がそれぞれ政策立案において果たす役割や責任関係について、イギリスのような統一的認識が確立されていない状況である(78)。


第3節 ドイツ

 ドイツは日本同様に議院内閣制を採用している。行政運営の実権を担う首相は連邦議会によって選出され、任期4年であるが在任期間は一般的に長い。大統領は「連邦議会」で選出され、連邦と各州を等しく代表する立場に立ち、条約の締結、外交使節の信任・接受など象徴的な役割を担う。連邦制の下で主に連邦が立法、州が行政と役割を分担している。連邦固有の行政対象は小さく政府規模は小さい。議院内閣制とはいえ、連邦制の下分権的な政治形態が取られている点が日本とは異なる(79)。1949年の西ドイツ成立以来一貫して連立政権であり、キリスト教民主・社会同盟とドイツ社会民主党のいずれかが自由民主党や緑の党と連立するという形をとる。1966〜1969年と2005年〜2009年には社会民主党、キリスト教民主・社会同盟による大連立が成立するなど、独自の政治形態が展開されている(80)。

 ドイツの公務員は、公法上の勤務・忠誠関係に立ち公権力の行使に関わる「官吏」と労働契約に基づく私法上の雇用関係にある「職員・労働者」に分かれている。そのため、この節では官僚のことを官吏と表記する。



 
(81)


 まず、「政策形成段階における官吏の関与」についてである。後述するが、ドイツには大臣と近い位置におり身分保障を緩和されている政治的官吏が存在する。政治的官吏の基本的な役割は、大臣の意向や与党の意向を政治的官吏以外の官吏に指示するとともに、大臣や与党が必要とする情報の収集・提供を官吏に指示するなど、政治と行政との橋渡しである。特に大臣の政策アイディアを具体化するための法案作成過程で政党、他省、州との調整を行うほか、議会委員会において専門的、技術的な事項に関し適宜大臣に代わり答弁する。与野党の妥協が図られつつ議会審議を通して法案が完成するドイツの議会では、非公開の委員会審議において政治家とともに実質的な意見を述べる官吏が少なくない(82)。なお身分が保障されている通常の官吏は、法案作成過程等において専門的、技術的観点からの検討、助言、情報提供を行い、上司である政治的官吏を補佐する役割を担う(83)。官吏は特定の政党に奉仕するものではなく、職務遂行を中立・公正に行うことを義務付けられている。

 政治的官吏が法案作成過程で政党、他省との調整を行ったり、政治家と共に法案修正に取り組んだりというドイツの方式は、事前審査によって法案に修正を加えていた日本と共通性がある。ただ、政治的官吏は身分保障が緩く大臣の意向で退職に付される可能性があること、ドイツでは議会内で実施される政府・与党会派間の交渉が日本では議会外の与党審査で処理されていたという点は異なっている(84)。民主党は事前審査の場そのものを廃そうとしたり委員会での官僚による答弁禁止を掲げたりしたことから、ドイツよりも強い脱官僚の方針を目指していたといえる。

 次に、「官吏の人事権」についてである。官吏に対しては、強固な身分保障が講じられており、政党政治からの中立性に配慮されている。ただし、政府の企画立案に際し、政権の政策方針との一致を確保するため、各省の次官、局長などの大臣に近いところに位置する特定の官吏については身分保障が緩和されている。これらの官吏が政治的官吏である。大臣は理由を明示せずに政治的官吏を一時退職に付し、ポストから外すことが可能である。政治的官吏は専門性、経験を有する官吏を主たる人材供給源としている。任用は成績主義に基づくことが法律上規定され、大臣が政策実現に向けて信を置く者を任命している。ただし、政治的官吏も職務遂行における政治的中立が求められる。政治的官吏の役目は、あくまで政治の意思を職業公務員団に橋渡しする「政官の橋渡し」である(85)。政治的官吏が政権交代時に退職した場合、手厚い経済的措置(退職後一定期間の給与支給、割増恩給)が講じられている。また、政治的官吏の再就職先として、前大臣の紹介による州政府の高官、大学教授、民間企業役員等一定の受け皿が用意されているほか、政治的官吏の大半は法曹資格を有しており、弁護士を開業する場合もある。以上のような方針のもと、政権交代の経験を通じた政治任用に関する寛容が培われている。

 政治的官吏でない通常の官吏は強固な身分保障が講じられており政党政治からの中立性に配慮されている点は、ドイツとイギリスで共通している。また、イギリスにおける特別顧問とドイツにおける政治的官吏は、政治任用であり身分保障が緩いという点で共通している。ただし、政治任用者はイギリスの場合外部からの特別顧問だがドイツの場合は主に官僚である。これは、ドイツの政治的官吏は政治の意思を職業公務員団に橋渡しする「政官の橋渡し」を担うが、イギリスの特別顧問は大臣の政治的顧問として「高級アドバイザー」を担うという役割の違いによる。


第3節 イギリス、ドイツ、日本の比較

 第1節・2節ではイギリス、ドイツの「政策形成決定における官僚の関与」と「官僚の人事権」をそれぞれ確認した。第3節では、議院内閣制のもと政権交代がたびたび繰り返されてきたイギリス・ドイツと、長い間政権交代がなかった日本ではどのような違いがあるのかをまとめる。そのうえで、「政権選択選挙のもとトップダウン式の政策実行を進める」という政治像を照らし合わせたときに日本の政官関係をどのように改善すべきかを提言する。

 第一に、官僚の政治的中立と身分保障についてである。イギリス・ドイツともに官僚は特定の政党に奉仕するものではなく、身分保障が認められている。特にイギリスでは、政治家と官僚の接触が厳しく制限されている。この仕組みは、3章の2節で述べた政権交代の効果を反映している。政権交代となれば、支配的統治連合の解体あるいは入れ替えが起きる。その際、前の政権党と官僚の抜き差しならぬ関係は次の政権党に仕える官僚にとって自らの地位を危うくするものである。官僚は政治家に対して自らの自律性を保とうとする。一方、日本は自民党長期政権下で政権交代が起こらず、政治家が官僚に大幅な委任を行うという政官関係が続いた。今後政権交代が繰り返し起きると予見されるなか、官僚は政治家に対して一定の自律性を確保し中立性を高める必要があるだろう。

 しかし、単に政治家と官僚の接触を規制するだけでは、「問題と考えられる仕組みを廃止するだけでは問題は解決せず、代替機能を十分に整える必要がある」という3章5節の指摘をふまえていない。イギリスとドイツはそれぞれ特別顧問と政治的官吏という政治任用者を設けて、政府の政策方針が政策の企画立案に十分に反映されるようにしている。これらを日本が参考とする場合、どのような課題が生じるのだろうか。

 イギリスにおける特別顧問の場合、通常3カ月から6カ月分の給与額に相当する退職手当が支給されるのみで、退職後の雇用保障がない。その代わり、日本に比べて労働市場は流動的であり再就職しやすい。現状の日本はイギリスのような労働市場の流動性はなく、現在の枠組みの中では民間企業のトップを獲得するだけの処遇を用意することも容易ではない(86)。また、イギリスの政官関係を考えるうえで、内閣と与党の党機関が分離されておらず、両者が一本化されているということは重要である(87)。多数の与党議員が政府の役職に就き、内閣府と各省庁のトップ・マネジメントを形成し、総選挙のマニフェストの具体化を官僚機構に指示し指揮監督する。内閣は行政部の執政機関であると同時に与党の最高機関であり、政権の政治指導力は極めて大きなものとなっている。議会での答弁をはじめとして政治的な分野での説明責任を負うのも、政権入りしている与党議員の任務である。官僚が政治的に中立であるがゆえ、政治家の負担は一層大きくなる。しかし3章4節で述べたように、民主党は政府・与党の一元化を目指すことで逆に二元化という事態を招いている。民主党による政権構造改革の多くはイギリスを参考にしたものであるが、イギリスから日本への制度輸入のハードルは決して低くない。

 ドイツにおける政治的官吏の場合、一時退職に付された者が連邦政府内にとどまることは事実上ない。しかし、政治的官吏への手当はイギリスよりも充実している。一時退職に付された場合、一時退職後3ヶ月間は給与が全額支給され、政治的官吏であった期間に応じ最長3年間は最終給与額の約7割の恩給が支給される。それ以後は一般の官吏と同様に通算勤務年数に応じた恩給が支給される。他方官吏としての通算勤務年数が5年未満の場合には、一時退職後3カ月間は給与全額が支給され、その後最長で3年間、転職給付金として最終給与額の約7割が支給される(88)。イギリスに比べて労働市場が流動的でない日本にとって、主に官僚から政治任用者を定め一時退職後の手当が充実したドイツの例はモデルの1つになると考えられる。ただ、年金問題などで公務員に厳しい視線が向けられる中、公務員の福利厚生を手厚くする改革を行うことは難しい課題である。ドイツ国内でも、政権交代により退職する官吏への恩給コストに対する国民の批判がある。しかし、官僚人事が明確な制度となれば、結果的に現在の天下りに比べ税金の無駄や不透明性が改善されるのではないだろうか。

 第二に政治任用者の活用についてである。民主党は、人事の閉鎖性により官僚が縦割りの省益に走ることを防ぐため、一部の官僚の人事権を官邸が握る内閣人事局を試みた。しかしこの改革には政治任用者を活用するという視点が欠けていたと考えられる。イギリスとドイツでは、先に述べたように、大臣に近い立場で政治をサポートする政治任用者と政治的中立を保つ官僚では役割が分けられている。逆に、政治任用者と官僚とで役割分担が不適切であると、政治任用者の長所(政権との共通意識、一体性など)と官僚の長所(専門性、中立公正性)が相殺し合って十分に機能せず、むしろ混乱を招く危険性がある。例えば、政権公約で示された抽象的な政策目標を、行政組織における政策プログラムに転換・具体化していくにあたってどのような協力関係を築くのか、政党・議会・圧力団体等との調整を誰がどのように行うのか役割分担を整理する必要がある。


(脚注)

(71)比較を行う国の選択については、網谷隆介・伊藤武・成廣孝編『ヨーロッパのデモクラシー』ナカニシヤ出版、2009年を参考にした。
(72)菅、前掲書、196-197頁。
(73)村松、前掲書、267-276頁。
(74)下條美智彦『イギリスの行政とガバナンス』成文堂、2007年、28頁。
(75)人事院『公務員白書』国立印刷局、2004年、25頁表5を基に筆者作成。
(76)ジューン・パーナム、ロバート・パイパー著、稲継裕昭監訳、浅尾久美子訳『イギリスの行政改革―「現代化」する公務』ミネルヴァ書房、2010年、54頁。
(77)ジューン・パーナム、ロバート・パイパー著、稲継裕昭監訳、浅尾久美子訳、前掲書、80頁。
(78)人事院、前掲書、36-37頁。
(79)菅、前掲書、196-197頁。
(80)外務省 ドイツ連邦共和国http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/germany/data.html(2012年1月20日最終アクセス)
(81)村松、前掲書、2008年、155頁を基に筆者作成。
(82)飯尾、前掲書、2007年、167頁。
(83)人事院、前掲書、67頁。
(84)大山、前掲書、227頁。
(85)人事院、前掲書、75頁。
(86)小林節・森田朗・西尾勝「政治任用―専門家の目から見た展望と留意点」人事院平成16年度年次報告書 http://ssl.jinji.go.jp/hakusho/h16/jine200502_2_025.html (2012年1月23日最終アクセス)
(87)下條、前掲書、27-28頁。
(88)人事院、前掲書、70頁。



第5章 今後日本が抱える課題

 
第4節では同じ議院内閣制をとり政権交代が繰り返し起きているイギリス・ドイツとの比較を行った。民主党による事務次官会議の廃止と内閣人事局の設置難航を踏まえ、「政策決定段階における官僚の関与」と「官僚の人事権」について他国ではどのような方針が取られているのかを述べた。その結果として、官僚の政治的中立性を高めた上で政治任用者との役割の違いを明確にすべきであるという指摘をした。5章では、これまでの議論をふまえ今後の課題を述べる。

 
第一に、他国からの制度の導入についてである。第4章で比較を行ったものの、新しい制度の導入には注意が必要である。政官関係は、議会と内閣・大統領との関係性、政党制の状況、政権交代の有無などあらゆる制度と密接な関係がある。他国の制度はその国が置かれた状況によって規定され、またシステム内部における機能的分担関係によっても規定されている。他国でうまく機能している制度を切り離して導入しても、それが効果を持つとは限らない。だからといって、システム全体を移植することもできない。その果たすべき機能と、何のために新制度を導入するのかという改革の必要性を明確にして、新制度を導入することが重要である。

 
第二に、政府と与党の一元化の問題である。本稿では政官関係を主題に論じたが、政府と与党の関係すなわち政政関係の問題も民主党政権が直面する重要な課題である。また、4章3節で言及したように政府と与党の関係は政官関係にも影響を与える。日本はイギリスから多くの制度を取り入れているが、イギリスと日本の政治形態で最も異なる点は政府と与党が一元化されているか否かである。大山(2003)は、政府と与党が一元化されておらず事前審査で与党内の合意形成が図られることから、日本の議会政治はイギリス型ではなくドイツのような欧州大陸型であると主張している。また、イギリス型ではなく欧州大陸型を維持したうえで政治主導を目指すべきであると主張している(89)。このような政政関係についての議論も今後一層重要性を増すだろう。

 第三に、選挙の際に掲げる政策についてである。政党・首相候補・政策をセットで選ぶ政権選択選挙に勝利しても、マニフェストをそのまま政権党の方針として引き継がなければ、国民の信託を得たという正統性は揺らいでしまう。また、政権運営に不慣れな中では新たに党内合意を形成する負担は大きい。トップダウン式の政策実行を行うためには、政権党を目指す各政党が完成度の高いマニフェストを提示することが重要になる。しかし日本では現在、国の政策立案は政府のシンクタンク、すなわち霞が関の官僚機構に大きく依存している。今後、政権交代の可能性をふまえれば、政党に政策アイディアを提供するシンクタンクの政策立案能力の強化など、各政党の政策立案能力を支える環境の整備が必要となるだろう。

 序章において「政官関係自体は手段であって目的ではない」と述べたが、政権交代も同様である。政権交代は、過去の政権運営を見直しシステムを修正する機会の最たるものではあるが、あくまで機会を提供するだけである。政権交代のみによってシステムの転換、改革の完成へと至ることはできない。イギリス・ドイツとは異なり、日本における政権交代の歴史はまだ始まったばかりである。政権交代に対応した政官関係の構築が、政政関係の見直しや野党の政策形成能力向上など諸制度とともに進められていくことを期待したい。


(脚注)

(89)大山、前掲書、246頁。



参考文献およびWebサイト

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民主党の政権政策Manifest2009 http://www.dpj.or.jp/policies/manifesto2009(2011年12月28日最終アクセス)読売オンライン http://www.yomiuri.co.jp/   (2012年1月17日最終アクセス)



おわりに

 本稿を作成するにあたり、ご指導を賜りました田中拓道先生に深謝いたします。特に、民主党政権の考察についてどのように焦点を絞るか悩んでいたとき、「論文中の『政官関係』という言葉は何を想定しているのか」という根本的な問いに立ち返って議論のぶれを指摘していただいたことは、目から鱗が落ちる経験でした。

 
また、ゼミ生の皆様から毎週多くの刺激と示唆をいただきました。ときには危機感を高めあい、ときには励ましあいながら論文作成を進められたことは大きな支えになりました。どうもありがとうございました。