日本社会党はなぜ社会民主主義化できなかったか
――60年、70年代における社会民主主義化の可能性を探る――

社会学部3年 山崎光


<序章>

 現代の日本政治では、民主党・自民党両党の政策距離は近いように思われる。安全保障政策・経済政策も有権者から見れば大差は見あたらない(1)。現在の政治状況と対比されるのが戦後日本の政治体制を担った「55年体制」であろう。かつて自民党と社会党(2)の間には保守・革新という対立軸があった。大獄によれば保革対立は「八〇年代に至るまで、一貫して、防衛問題、天皇制、労働者のストライキ、および憲法問題がこの保革の尺度をはかる最も的確な政策内容であった」(3)。しかし現在において社会党の直系である社民党は、その地位を大幅に低下させ、弱小政党として存在しているに過ぎない。なぜこのような事態になったのだろうか。

 新川(2007年)によれば社会党の衰退は必然であった。「社会党の社会民主主義化を阻んだのは、左派優位を助長することになった党内制度構造(機関中心主義)であり、階級政治レベルにおける権力資源動員であったと思われる」 (4)と新川は指摘したうえで、総評依存の資源動員が社会党衰退の原因であるとの説を展開している。また社会党が教条主義化(左傾化)したのは、総評に代わる資源が得られなかったためであり合理的でもあるとしている。従って社会民主主義化は非合理的戦略と結論づけている。だが社会党の衰退は果たして必然であったのだろうか。1960年には構造改革論争があり、社会民主主義化への兆しが見受けられていた。70年代には自民党長期政権下において腐敗が相次ぎ、国民世論の左傾化が見られた。社公民路線(社会党・公明党・民社党)による連合政権も議論されており政権党への復活は絵空事ではなかった。人々の関心である生活の豊かさは、経済成長と言った量から質へと転換していた(5)。量から質への転換は、西欧社会民主主義政党が取り組んだ諸課題である。社会党のあり方次第で社会党が躍進する可能性は十分にあったと考えられる。

 上述を踏まえて本稿では社会党が社会民主主義化しうる可能性が最も高いと思われる、60年代・70年代を中心にその可能性を探る。その上で社会党の社会民主主義化を阻害した要因と、社会党衰退の理由を考察していく。第1章では社会民主主義化、日本社会党の概要や先行研究を簡単にまとめ、議論の視座を得たい。第2章では60、70年以外の時代(1950,1980年から1990年)における日本社会党の概略に触れる。歴史的文脈を踏まえたとき、これら年代での社会民主主義化は非合理的戦略であったことを述べる。第3章では60年、第4章で70年代の社会民主主義化の可能性及びそれを阻害した原因を明らかにしたい。



<第1章 社会民主主義と日本社会党>                          


@社会民主主義と社会党

 社会党は1986年の「日本社会党における新宣言」(新宣言)で「中ソなどの既存の社会主義からの脱却からの決別をうたい、西欧型の社会民主主義政党への移行をうたった」(6)。しかしそれまで社会党は「階級的大衆政党」(7)であって、「社会民主主義政党」とは様相を異にする。社会民主主義政党は修正資本主義、議会主義、福祉国家の3つで特徴付けられる(8)。例えばドイツ社会民主党(SPD)が社会民主主義政党の好例だ。SPDがこのような立場を取った背景にはドイツ国民において、根強いソ連・共産主義アレルギーがあったことが指摘されている。対して86年まで、日本社会党は「社会主義」的性格を持つ政党である。階級闘争によって政権を奪取し、最終的には社会革命を起こし社会主義政権成立させることを目的としていた。1964年党綱領である「道」(9)を見る限りではプロレタリア独裁にも含みを持たせており、結党当初の社会主義より幾分左傾化していた。さらに議会内での権力獲得よりは院外活動を重視する傾向があった。 

 では社会党内の派閥はどのように分かれていたのであろうか。1950?70年代までの主だった思想(イデオロギー)は四項に分類できる。

  @ 客観主義・待機主義(10)に立つことで社会主義革命は確実に起こるとする。その上で社会主義政権を成立させる。最も教条主義的な思想は暴力革命も認めている。(労農派マルクス主義)
  A 議会内で社会主義政権を成立させる。政権成立の後、社会主義政権維持のためプロレタリアート独裁にも含みを持たせる。(社会党左派)
  B 政党を国民政党(全ての国民を支持基盤とする)と位置づけ、社会主義的政策を打ち出す。(社会党中間派・右派)
  C Bの立場に加えて、安全保障面において現実的立場を取る(社会党右派:西尾派)

 尚@、A、Bは安全保障面として護憲平和主義に立つ。Cの位置に立つ社会党右派、中間派は日米安保を擁護するなど現実的な外交を基軸にした。またイデオロギー的には左に立ちながらも現実的政策を打ち出す和田派もあった。

 護憲平和主義か現実主義かは、社会党の性格を規定するイデオロギー対立であった。イデオロギー対立は、講和条約と日米安保を巡り右派社会党・左派社会党の分裂に至った。その後総評の支援もあり、社会党は統一後される。しかし、その統一は右派・左派両派のイデオロギー対立を棚上げにして成されたものであった。鈴木派・河上派が多数派を構成することで社会党のバランスを取っていたのだ。

 このように社会党には元来社会民主主義と非常に近い高い西尾派 が存在していた。また第3章で詳しく触れる構造改革論争も社会民主主義化への第一歩を踏み出す要素を含んでいた。社会民主主義化を可能とする潜在的能力は初期において社会党は存在していたといえるだろう。


A先行研究の概略

 五十嵐仁によると社会党の衰退の要因は大まかに3つに分類される(11)。

 @. 歴史的転換説:社会党がマルクス・レーニン主義に拘泥したことで西欧型の社会民主主義政党への転換に失敗したことに衰亡の原因を求める。論者として安東仁兵衛、石川真澄、山口二郎などがいる。社会党が左傾化した原因を自民党に求める「自民党内反動仮説」(大獄秀夫)と、共産党・公明党に対抗するために左傾化は合理的選択であったとする「合理的選択仮説」(河野勝)はその有力な仮説である。
 A. 社会的基盤不在説:1960年代以降の企業主義的統合によって、社会民主主義を支える基盤がなくなったことに衰亡の原因を求める。主な論者として新川敏光,渡辺治がいる。新川はマクロな権力資源動員論でその原因を説明している。
 B. 組織・活動説:近代政党としての態をなしていない社会党の組織や活動のあり方に衰亡の原因を求める。主な論者として岡田一郎、五十嵐仁などである。

 これら先行研究では以下の点が争点となっている。具体的にはT構造改革論争をどう捉えるか、U教条主義化の原因を何に求めるか、V社会党の衰亡を必然と捉えるか、W総評の役割をどう捉えるかという点である。例えばVの議論においてAの立場は、社会党の衰亡を必然と考えている。対して@、Bは社会党の活動のあり方で社会党の衰亡は免れることが出来たという立場に立つ。一方@、BではTの構造改革を巡って評価が異なる。具体的には、江田三郎が唱えた構造改革論を「マルクス・レーニン主義を脱却し、社会民主主義への萌芽を開く可能性を持っていた」と評価するか、「マルクス・レーニン主義枠内での改革でありその可能性は低い」として否定的評価を下すかという違いなどである。80・90年代の急速な現実主義化路線に対してどう評価するも分かれる。山口二郎は「創憲論」の立場から90年代に社会党躍進の可能性を求めているが、90年代の詳細な分析は本稿の目的ではないので、これ以上は立ち入らない。

 著者はBの立ち位置に基づき分析を行う。これは序章で踏まえたように1960,70年代に社会民主主義化することで社会党は衰亡を免れる可能性があったと考えられるためである。本稿ではこれら3つの論を視座として踏まえ、比較検討を行う。



<第2章 社会民主主義化が非合理的戦略であった時代>         


@50年代における社会民主主義化の可能性

 議論に入る前に章題にある「非合理的戦略」について触れたい。政党は議会内(議会外)での権力拡大を目的とする存在である。そのために、政党は有権者からの支持を得ることが不可欠であるし、得票数を最大化するために行動すると考えられる。従って自ら得票数を減らすような行動を「非合理的」行動として定義する。社会党が政権獲得を真剣に狙っていたかどうかは論者によって評価は分かれるが、少なくとも60年代までは左派でさえ連立構想を練っていたことが明らかになっている(12)。党是である「護憲平和主義」を果たすためには最低全議席の3分の1を占める事が不可欠であるため、非合理的行動を意識的に選択することは無いと言えるだろう。

 まず50年代を概観したい。50年代はまだ終戦間もない時期であり、日本は復興の途上にあった。社会党の党組織は脆弱であったが、社会党左派は総評依存の資源動員で党勢を拡大していった。


図1 日本社会党の議席数変化(衆議院)(13)

総選挙

社会党右派

社会党左派

保守陣営

1949年 第24回

48

347

1952年 第25回

57

54

325

1953年 第26回

66

72

310

1955年 第27回

67

89

297

1958年 第28回

166

287

1960年 第29回

145

296



 図に示されるとおり、もちろん右派も党勢を拡大していったのだが左派に及ばなかった。冷戦構造は東アジアに波及し、吉田茂内閣・鳩山内閣などでは逆コース政策が取られた。50年代において、左派が唱えた護憲平和主義は国民的支持を得る状況にあった。再軍備反対を明確に訴えていたのは平和四原則を唱えていた社会党左派だけだった。これにより再軍備反対派の支持を一身に集めることができた(14)のである。加えて総評からの強力な社会党へのバックアップが大きかった(15)。総評は1952年の第3回党大会で、社会党左派を全面的に支持し総評・社会党ブロックの形成を目指した(16)。組織票としての資源だけでなく候補者として労組出身の若手を送り込むなど、総評は社会党に強力な支援を行った。社会党左派と右派が統一綱領で統一した後もこの状況は変わらず、社会党内の左傾化が進むようになった。

 以上の歴史的文脈を考慮しても、50年代に限って言えば社会党が社会民主主義化するのは合理的選択とは言えなかっただろう。当時の状況では、西尾派のような社会民主主義路線は社会党の右傾化として国民から理解され、自民党左派と差別化が図れない恐れがあった。当然党勢を拡大していた社会党にとっては合理的選択と言えない。そもそも社会党統一を推進したのが、右派・中間派に属する河上派と左派の鈴木派である。社会民主主義勢力と言える西尾派自体も政策面で共通点があれば手を結ぶ現実主義的立場に立っていた(17)。こうした状況を考えたときに、右派がその左傾化を食い止め、かつ社会民主主義路線へ転換することは困難であった。そればかりか、左傾化の流れは右派を追い出す結果となった。1959年から60年にかけて日本社会党は「新日米安全保障条約」をめぐり再び右派と左派で対立する。安保条約に関して、対案を出すべきだとする西尾派に対して、護憲平和主義に立つ左派が反発した。前述した通り階級闘争主義に立つ総評に権力資源を依存していたため、社会党議員において左傾化が進んだ。社会党左派は総評とも密接に結びつき、西尾派追放を目指して執行部批判を公然と行った(18)。西尾自身当初は離脱することには消極的であったとされる。しかし党執行部の委員長であった鈴木茂三郎が自派の若手の突きあげを統制できないことに西尾は幻滅し(19)、離脱を決意したという。結局西尾派・河上派一部が離党し民社党を結成した。民社党の結成は今後の構造改革論争の行方を大きく規定したといえる。詳しくは第3章で述べたい。


A80、90年代における社会民主主義化の可能性

 80年代においては石橋委員長の下、社会党の社会民主主義化は進んでいた。86年には新綱領が採択された。しかしながらこの時期も党勢は伸び悩んでいた。背景としては社会党に対する国民の不信があった。それは社会主義協会の残滓が色濃く残っていたことである。新綱領を巡っては社会主義協会の流れを引く左派が抵抗を見せた。機関中心主義の社会党において活動家は一票の議決権をもっていた。左派は活動家層を中心に支持を固めており、彼らが現実主義路線に対して大きな抵抗力を持っていた。結局社会党の方針転換は有権者には目新しい物には映らず、得票数は伸び悩んだ(20)。土井は女性党首としての目新しさから社会党のイメージ刷新に成功し、幅広い層から支持を得た。しかし、その支持を生かすことなく社会党は現実路線を決定づけることはできなかった。社会党は護憲平和主義というイデオロギーに最後まで拘泥していた。社会党は91年の統一地方選挙で敗北する。その後細川連立政権に参画したことで、社会党は政策内容でも急速に現実主義化していく。村山首相が日米安保を容認した事が決定的だった。だがこれら一連の転換は場当たり的であり、社会党自身が主体的に取り組んだことでは無かった。もはや90年代以降社会党は党としての形態をなしていなかった。

 以上の議論をまとめたい。50年代においては社会党が社会民主主義化するのは、当時の社会状況を踏まえても合理的選択でなかった。加えて総評依存の資源動員が最高のパフォーマンスを発揮していた事を考えれば、社会党の左傾化は合理的選択であった。80年代、90年代において社会党は実際に社会民主主義化した。この路線転換にも関わらず、党内対立が長引いたことで社会党は「古くさい党」のイメージを脱却できなかった。それは自民党が下野した93年総選挙において、自民党が議席数を維持したのにも関わらず社会党だけが議席を大幅に減らしたという事実がものがたっている。この時代においては社会党が衰亡を防ぐ手段はもはや残されていなかったといえるだろう。



<第3章 60年代の考察>


@構造改革論争とは何か

 この節では構造改革論について説明していきたい。構造改革とは、イタリア共産党から誕生した社会主義の理論である。構造改革論とは、マルクス主義の枠内での社会改良を重ねていくことで、社会主義政権の樹立を図ろうとするものである。従来の社会主義の理論は@「前衛政党による暴力革命論をとったマルクス・レーニン主義型」、A「平和革命理論(21)に基づくカウツキー型マルクス主義」、B「社会改良主義に基づくベルンシュタイン型」に分かれていた。なおAは日本では「労農派マルクス主義」とほぼ同義と考えて良い。

 構造改革論はAを乗り越える理論として登場した。構造改革理論は「独占資本に対する抵抗を通じて資本主義の社会的構造を漸進的に改革することで、平和的に社会主義への移行をめざす考え方」(22)である。この構造改革理論はイタリア共産党の理論であり、日本共産党の反主流の理論であった。社会党員にとって構造改革理論は、社会主義の先駆者である共産党コンプレックスを克服しうる理論であった。また党員拡大によって階級性と大衆性を両立することができる理論(23)とも言える。こうして構造改革理論は地方活動家や新たな理論を模索した(24)貴島らによって受け容れられた。同時期に江田・加藤は党機構改革として、社会党の党組織を拡大するため「二重党員制度」を導入しようした。他にも国会議員の自動代議員資格停止、書記や専従職員の身分保障などのイニシアティブを江田が取った。これら機構改革により、江田は末端の書記・専従職員といった貴島グループ等若手の支持を集めた。また江田自身も階級性と大衆性を両立しうる構造改革理論に関心を示していた。地方活動家・若手党員(専従職員、書記など)の支持をうけて、江田は構造改革理論の旗手となった。しかし構造改革論はあくまでも、マルクス主義を否定するものではなくマルクス主義に基づいて改良的な方向を目指すものであった。


A60年代当時の社会党

 西尾派と河上派の一部が離脱したことで、社会党の党勢は大きく削がれた。1960年浅沼が日比谷公会堂で刺殺され、委員長代行として江田が就任した。西尾派の離脱にかかわらず国民的人気があった江田を党の顔として選挙を戦ったため、社会党は145議席にまで回復した。この選挙結果を受けて江田は構造改革理論を社会党の方針として打ち立てた。同時に党組織の拡充も進められた。しかし、構造改革理論は大きな壁にぶつかる。1つは個人レベルでの権力闘争で、書記長就任を巡って鈴木派が江田派と佐々木派に分裂した。派閥の理としては江田書記長の後を継ぐのは鈴木派の先輩である佐々木であった。しかし江田の国民的人気の高まりに、佐々木・鈴木派は江田への対抗心を募らす。佐々木派は社会主義協会に接近した。こうして構造改革理論を支持する勢力が削がれた。社会主義協会は向坂を中心にして、構造改革理論を修正主義的として真っ向から批判した。もう1つは社会党の権力資源である総評を敵に回すことになったことである。階級闘争主義の総評も、構造改革論を修正主義として批判を加えた。総評指導部(岩井=太田ライン)も社会主義協会に所属していたこともあり、批判はある種当然であった。総労働と総資本の対決といわれた三池闘争に対して、構造改革派が批判的総括を行ったことも理由とされる。1962年の書記長選挙において江田が再任されたが、運動方針としては構造改革理論に歯止めがかけられた。構造改革を巡る論争は、江田派、佐々木派、和田派の派閥抗争へと転化してしまう。党執行部の人事ポストを巡り派閥が争う中、社会主義協会は着実に活動家層に基盤をのばしていく。旧来江田の構造改革理論を支持していた活動家層を、社会主義協会が取り込んだことが理由だ。社会主義協会が社会党左派と手を組むことで、社会党は左傾化(教条主義化)した。この事実を示しているのが、1964年に採択された新綱領「道」であろう。この新綱領はプロレタリア独裁を認める文言を含む、教条主義的マルクス主義の性格を帯びていた。

 このような社会党のあり方を有権者はどのように見ていたのだろうか。少なくとも1960年代前半まで、社会党は一定の支持を集めていた。この事は社会党が政権交代を実現すると予測した石田博英論文が1962年に発表されていたことにも現れている。しかし、1963年総選挙で敗北して以降社会党は停滞傾向が続く。原因としては、党組織のあり方、選挙戦術のまずさ、社会主義に対する不信などが考えられる。しかし、社会党執行部は何ら手を打たなかった。


B60年代における社会民主主義化の可能性

@社会民主主義化の可能性

 @、Aを踏まえたときに60年代に社会党が社会民主主義化する可能性はあったのだろうか。結論を述べるならば、可能性は極めて少なかったと言えるだろう。というのも構造改革理論の敗北は歴史的文脈に大きく規定されているからである。構造改革理論が力を持つ1960年から1964年は、西尾派らが離脱した直後である。もともと社会党左派は社会民主主義を改良主義とする批判を浴びせていた。西尾派らの離脱により、社会党内には民社党(社会民主主義)アレルギーが一層根強くなってしまった。構造改革理論は社会民主主義と政策的に類似しており、西尾派らの社会民主主義との違いを明確に打ち出せなかった。その理論的脆弱性を社会主義協会らによって批判された。活動家層自体は構造改革理論が社会民主主義につながる可能性があったから支持したわけではない。あくまでも自分たちの身分保障という目的や、労農マルクス主義に代わる理論という認識のために造改革理論を支持した。そのためイデオロギーとして魅力がある社会主義協会支持へと活動家層は変わったのだろう。そもそも江田三郎自体が60年代に社会民主主義を支持しているどころか、これを明確に否定している(25)。江田三郎が社公民路線や、社会民主主義路線への転換を模索するのは70年代に入ってからである。つまり60年代に社会党が社会民主主義化する可能性は無かったと言える。だが多くの論者が指摘しているとおり、構造改革理論は社会民主主義へと発展する可能性がある(26)。構造改改革派が勢力を保持し続ければ、社会党は衰退することなく自らの手で社会民主主義政党へと変わることができていたかもしれない。現にイタリア共産党は70年代にマルクス・レーニン主義を放棄している。では構造改革派を減速させたものが何であろうか。それは歴史的文脈以上に、構造的な要因であったと考えられる。

A社会民主主義化を阻害した要因

 この構造的な要因して、@党の体質、A資源動員の2点が指摘できる。そしてこの2つが密接に絡み、不可分の関係にあったことが大きな要因であった。@の体質としては以下の点が挙げられる。

  @. 自前の下部組織が存在していない
  A. 議員政党であったのが、59年以降の党改革により機関中心主義へと変化した(議員以上に活動家が権限を持つようになった)

 さて@は社会党結党以来の問題であった。社会党が政権を担当した40年代は、まだ日本の政党自体が名望家政党としての域を出ていなかった。都市有権者を主な票田としていた社会党議員は、組織的選挙をせずとも知名度・イデオロギーといったシンボルで戦うことができた。だがシンボルのみで戦うことは、支持基盤として脆弱であり限界があった(27)。加えて社会党は財源不足という問題を抱えていた。当時の保守陣営が戦前政党の流れを引いて資産を受け継いでいたのに対して、無産政党が大同団結した社会党はそのような資産を持たなかった(28)。そのため下部組織(地域支部など)が極めて貧弱だった(29)。その社会党の下部組織を余りある形で代替したのが総評であった。社会党左派の躍進を見ても、総評の動員力がいかに大きい物か分かるだろう。統一後右派の存在や政権奪取の意欲から、社会党左派も現実的感覚を持つようになる。社会党左派も政策において現実的感覚を持たなければ、右派と統一を維持できないからである。1959年に右派が離脱し総評の全面支持を得ていた左派だけが残る。結果として総評の影響力を大きく受ける事になる。とはいえ、国会議員は自民党と国対政治を展開する以上、政治に対する現実的感覚を残していた。だがそれをAの要素が阻害する事になる。議員政党であった社会党期においては、社会党も極端に教条主義化することはなかった。しかし党機構改革を機に国会議員が党大会の代議員になる特権が廃止され、活動家層を中心とする書記局が国会議員より強い力をもつようになる。佐々木派は旧鈴木派が手を組まなかった社会主義協会と手を組んで、佐々木派・社会主義協会による左派連合を組んだ。一方構造改革派は党内政治に明け暮れ、次第に活動家層の支持を失う。最終的には江田派として一派閥へと転落した。

 以上の経緯から、社会党議員は総評と教条主義化した活動家層の意向に反することが極めて難しくなることになる。国政選挙における資源動員としての総評、そして社会党大会における資源動員としての社会主義協会に左派(佐々木派)は依存するようになる。このことは現実的政策への歩み寄りを困難にした。このことが教条主義的イデオロギーを強めた党綱領「道」に表れている。佐々木派に対抗した江田派は他派閥と統一行動を取る努力を怠り、権力闘争に常に敗北したのであった。



<第4章 70年代の社会党>


@70年代の社会党

 社会党は60年代後半から衰退傾向を示すようになる(30)。これは社会党が頼りにしていた総評依存型の選挙戦略が機能不全化していたことを意味していた。第一の理由として、総評の力が弱まっていたことが挙げられる。1960年代に労使協調主義にたつIMF?JC(国際金属労連日本協議会)を中心とした階級交叉連合が成立し、生産性向上と賃金の上昇を果たしていた。総評に属する民間労組も、階級主義的産別化闘争ではなく生産性運動に協力していくようになる(31)。総評は民間労組での影響力を弱めていくようになった。第二の理由として、組織力を強化した共産党、公明党が社会党の票を奪ったからである。裏を返せば社会党自体の組織力は一向に改善されていないことを示している。第三の理由として、教条主義化した社会党を有権者が見放したことがあるだろう。従来から自民党と対比されるイメージで流動的な有権者の票を集めていた社会党であった。しかし自民党顔負けの派閥抗争や社会主義自体のイメージダウンに旧来の支持層が社会党から離れたと考えられる。

 1960年代後半からは自民党長期政権の下、自民党の腐敗が次々と明らかになった。社会党優位の下馬評にも関わらず、社会党は1969年総選挙議席数を減らす結果になっていた。そんな停滞傾向に対して社会党は地方組織の充実など党として何ら手を打たなかった。次の図を見ていただきたい。これは各党の都道府県議会議員数の推移を示している(32)。表2からも分かるとおり、社会党は地方議会においても勢力を減らしていたのであった。


図2 各党の都道府県議会議員数の推移

自民党

社会党

公明党

共産党

民社党

1967年

1697

588

107

46

102

1971年

1656

504

120

123

95

1975年

1648

457

198

123

107

1979年

1617

415

185

136

115



 このように社会党は支持を失う一方で、国民世論は左傾化するという奇妙な状態が70年代にはおきていた。これは自民党政治の政治腐敗・開発第一の政策に有権者への反発によるものだ。この反発は国政レベルでは野党陣営の多党化として現れる。地方政治レベルでは革新自治体の登場として現れた。革新自治体とは革新陣営が首長である自治体を指す。東京都の美濃部、横浜市長飛鳥田などが典型とされる。しかしながら、革新自治体の隆盛と社会党の党勢向上とはリンクしていなかった。革新首長の躍進は、保守系首長と比較して個別政策、個人的人気や公明党、共産党の組織力が要因であった。革新自治体と社会党のつながりは見た目によらず希薄であった(33)。それどころか共産党の躍進を受けて、野党共闘路線に疑問を唱える勢力も現れ、社会党は次第に自民党候補に相乗りするようになる。ここに革新自治体は終焉を迎えた。 

 70年代の党内政治を考察したい。党内においては社会主義協会が熱心な活動により勢力を拡大させた。向坂がマルクス・レーニン主義へ左傾化したことで、社会主義協会も左傾化した。1970年当時において社会主義協会(向坂派)は党大会代議員獲得数で、江田派、佐々木派を抑えて最大勢力となり77年には社会党代議員の25%に達していた。社会主義協会の勢力拡大は、佐々木派の警戒心を抱かせることとなり、74年には佐々木派と江田派は和解し社会主義協会への対決姿勢を明らかにしていく。だが77年党大会衆院選挙で江田・佐々木が落選すると、協会派は江田派・佐々木派批判を展開した。とりわけ「活発な党活動を展開した江田に非難が集中し、江田は反論の機会すら奪われ、離党を決意する」(34)。江田はその後急逝し、党内は反協会派で結束した。スト権ストの敗北以後合理化路線を唱えた総評は社会主義協会を見捨てた。こうして社会主義協会は一時期ほどの力を失った。


A70年代の社会民主主義化の可能

 70年代社会党は停滞傾向であったが、社会党が社会民主主義化は不可能でなかった。1つには世論全体の左傾化がある。社会が大衆化や無党派層化が進み、得票は流動的になっていた。社会民主主義的政策は有権者に十分受け容れられる可能性があった(35)。江田自体が社会民主主義路線を志向し、民社党・公明党との連立を模索していた。民社党・公明党も江田に接近し、71年参議院選挙では選挙協力もなされた。50年代、60年代とは異なり70年代の外部環境は社会党の社会民主主義化を後押ししていた。74年以降社会党内では、協会派と反協会派の対立が激化していた。反協会派が早い時期に統一行動に出れば社会民主主義化は可能であったと言える。実際に江田の死後、80年代に入り社会党は社会民主主義路線へと転換している。ではこのような条件にもかかわらず、なぜ社会党は社会民主主義化する事ができなかったのだろうか。それは60年代と同じく、総評依存の資源動員と党の体質が社会党の社会民主主義化を大きく阻害したと考えられる。それぞれ考察していきたい。 

 総評は民間労組への影響力を失いつつはあった。だが公労協が階級闘争主義を持っており総評も階級闘争主義的であった。75年のスト権ストでの敗北まで、総評は社会党の社会民主主義化を志向する動きを阻害する役割を果たしていたと考えられる。60年代から続く総評の衰退にも関わらず、社会党は地方組織の拡充を行わなかった。1つには財源・人材不足があった。もう一つは拡充を行わなくても、総評による資源動員により平均120議席を組織票で獲得することができたからである。結局労組に社会党下部組織を代替してもらう状況であった。社会民主主義化を阻害した力としてもう一つある。それは総評と共に大きな役割を果たした社会主義協会であった。なぜなら社会主義協会と総評指導部はイデオロギー的親和性があり、社会党の社会民主主義化を阻害する志向で両者は一致していたからだ。社会主義協会はレーニン・マルクス主義化したことで、イデオロギー的動員を可能にし、組織拡大に成功した。この結果社会党代議員数で向坂派は最大勢力に踊り出る事になる。このため社会党指導部も社会主義協会や総評の意向に反することができなくなった。例えば中ソ対立を巡っては、社会主義協会の領袖向坂がソ連を礼賛したため党執行部(石橋委書記長)もソ連よりの姿勢を打ち出した。これに対し親中派の佐々木派は、社会主義協会と対立した。これを機に江田との和解に動くことになる。しかし78年まで社会主義協会は勢力を一貫して拡大していた。社会主義協会の勢力を削ぐ、あるいは反社会主義協会の勢力を拡大しなければ、社会党の社会民主主義化は不可能であった。社会党が社会民主主義化するためには、党機関主義から執行部中心主義(議員らによる)に代わる必要がある。加えて下部組織を拡充する必要があった。しかし向坂派以外の社会党諸派は下部組織を拡充できなかった。結局社会主義協会の抵抗力を削ぐことを可能にしたのは、江田の離脱と逝去に端を発する、反社会主義協会派の団結であった。そして穏健化した総評の斡旋があったからであった。反協会派が自力で社会主義協会を押さえることはできなかった。構造改革理論の敗北同様、またしても社会党は歴史的文脈によって、自身のあり方を規定されたのである。



<終章>

 第3章、第4章を通じて分析した、本稿の結論を述べたい。60年から70年代を通じて社会党の社会民主主義化を阻害したのは、総評依存の資源動員と党組織のあり方であった。これを2つの次元に分ければ理解しやすいと思う。1つは国政レベルにおける資源動員であり、これを総評が担った。もう1つが党内政治(権力闘争)における資源動員であり、佐々木派が主導権を握るために社会主義協会の資源を用いた考えることができる。


     図3 次元レベルにおける資源動員のあり方















       
     注: 四角は勢力を示している。矢印は資源の調達先と動員された方向を示している。


 さて社会主義協会の勢力拡大を可能にしたのは党機関主義を中心とする社会党組織のあり方だった。山川均が立ち上げた社会主義協会には、向坂、高野、太田、岩井といった総評指導部が名を連ねていた。このことから総評と社会主義協会は歴史的に深いつながりがあった。まさに両者は社会党の教条主義化を果たした役割では、表裏一体の関係であっと言えよう。この表裏一体化した総評と社会主義協会を崩さなければ社会党の社会民主主義化は不可能であった。そのためには社会主義協会の影響力及ばないような地方組織の拡充が必要不可欠であった(36)。地方組織拡充を妨げた要因はやはり党内抗争に力を費やしたことであろう。これは自民党と比較すれば良く分かる。自民党が政権党に留まるために、党内抗争を棚上げにして団結した。それに比べて社会党はイデオロギー対立があった分、党内抗争が激化することになった。自民党と対比しても、党組織のあり方や末端組織力のなさは明らかだ。こうした党組織や自前の組織力のなさが社会党の衰退を決定づけた。

 このほかにも歴史的文脈に社会党が規定されていたことも指摘できる。片山哲内閣に端を発する連立恐怖症もあって、社会党は社公民路線、社共路線に踏み出せなかったともされる。社会党の社会民主主義化を阻害した要因としては何より西尾派の離脱が大きい。西尾・江田にしても、他派閥に対して政策的歩み寄りができる現実的感覚があった。仮に西尾派が離脱せずに60年代の安保闘争まで党内に留まっていれば、政策的親和性がある江田派との結びつきが可能であったと言える。62年まで江田派は河上派(社会党右派・中間派)と和田派(左派だが現実的政策を志向)と連携を組んでおり、ここに西尾派が提携できる可能性は高いように思われる(37)。しかし西尾派が離脱したことで、構造改革理論は理論的に脆弱性を抱えることになった。また佐々木派に対抗するための勢力を失うことになった。

 社会民主主義化の好機は、社会主義協会と総評の表裏一体の関係に亀裂が入った時であった。しかし第2章で考察したようにこの亀裂が顕在化したとき、社会党このとき党勢を失いつつあった。党内の亀裂と組織の疲弊により、選挙を戦える力を持っていなかったのだ。加えて社会党が社会民主主義化しようとしても、社会主義協会の流れは党内抵抗勢力として残存した。これを精鋭化した一部労組がバックアップしたことで大きな抵抗力を持つことになった。この残滓は今日でも護憲平和主義や一部左翼集団として残っている。

 最後に今後の課題を述べて本稿を閉じたい。やはり課題としてはミクロレベルでの考察が出来なかったことが挙げられる。例えば世論の動向を得票数(絶対得票数)や議席数で今回は判断したが、当時の報道の様子なども踏まえて分析する必要があったと考えている。特に地方活動家のオーラルヒストリー研究の成果(38)を反映できていない。本稿では構造改革派を支持した活動家の変節ぶりを、社会主義協会の地道な活動によって取り組まれたと説明している。しかし、それ以外の要因はなかったのかについては十分な考察を加えていない。また思想的分析も不十分であった。労農派マルクス主義の系譜に連なる社会主義協会が何故マルクス・レーニン主義へと変わったかも説明していない。これをソ連・中国による政治工作に落とし込むのはあまりに安直であろう(実際にはなされていたらしいが、今回は分析の対象にしなかった)。そして時間の制約で民社党・河上派の分析ができなかった。次回の卒論のテーマはまだ未定であるが、日本社会党の次は民社党や共産党を分析し、野党共闘がどれほど現実性を持っていたか分析したいと考えている。



<脚注>

(1)これは小泉政権下の時、民主党が「改革の党」として新自由主義的政策を掲げ有権者の支持を訴えていたことからもわかるだろう。
(2)以後断りがない場合は社会党=日本社会党を指す。
(3)大獄秀夫『日本政治の対立軸』中公新書、1995年、4頁。
(4)新川敏光『幻視の中の社会民主主義』法律文化社、2007年、51頁。
(5)自民党側もこの点を認識して政策を打ち出していた。1973年には田中内閣は福祉元年を打ち出して福祉拡充を図った。また大平内閣も量から質への転換を図っていた。詳しくは福永文夫『大平正芳―「戦後保守」とは何か』中公新書、2008年を参照せよ.
(6)岡田一郎『日本社会党?その組織と衰亡』新時代社、2005年、184頁。
(7)階級政党=労働者政党、大衆政党=国民政党と二つの志向を持つこの名称は森戸・稲村論争によって決着した。右派・左派双方の妥協の産物である。玉虫色の決着になったことで社会党はこの後も幾度となく党内対立に悩まされた。
(8)新川敏光、前掲書、67頁。
(9)正式名称は「日本における社会主義への道」(1964年)
(10)これはカウツキー型マルクス主義の理論の1つである。資本主義において恐慌は不可避であるとして、この恐慌で階級闘争が激化し結果的に社会革命がおこるとした理論。
(11)ここでは五十嵐仁の紹介を行っている岡田(前掲書),pFと村上信一郎「日本社会党とイタリア社会党」『日本社会党―戦後革新の思想と行動』、日本経済評論社、2003年、171頁を著者なりにまとめた。
(12)これは谷聖美『日本社会党の盛衰をめぐる若干の考察?選挙戦術と政権・政策戦略』選挙研究vol.17(2002)、84〜99頁に詳しい。
(13)石川真澄、山口二郎編『日本社会党?戦後革新の思想と行動』日本経済評論社、2003年、222〜223頁から筆者が作成。
(14)岡田、前掲書、31頁。
(15)新川、前掲書、77頁に詳しい。
(16)新川敏光、前掲書、73頁。
(17)西尾派は社会党執行部(鈴木委員長)を支持していた。これは1958年の鈴木委員長の「釧路談話」を支持した事からも明らかである。党内対立が激化したのは1959年の総選挙を受けての党再建論争がきっかけであった。
(18)原彬久『戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか』中公新書、2000年、140〜141頁。
(19)中北浩爾『日本社会党の分裂』「日本社会党―戦後革新の思想と行動」、日本経済評論社、2003年、64頁。
(20)このとき社会党は石橋委員長であった。彼自身は政治家としては卓越した手腕を持っているとの評価があるが(石田真澄、前掲書、204〜206頁)、社会党の古くさいイデオロギー体質を継承した政治家としてのイメージを払拭することができなかった。この事が「ニュー社会党」を打ち出したのにも関わらず支持を得られなかった要因と推測できる。
(21)革命とは一時的な断絶を示す。戦前・戦後における断絶を「八月革命説」という言葉で説明するのと同義の使い方である。なお平和革命は、恐慌や社会不安によって階級闘争が激化し、合法的に社会主義政権ができるという理論である。
(22)岡田、前掲書、79頁。
(23)中北浩爾、前掲書、55〜56頁。
(24)三池闘争・安保闘争などの院外闘争が盛り上がったのに関わらず、社会主義革命には繋がらなかったことに対して労農派マルクス主義を乗り越えようとして新たな理論を模索していた。
(25)梅澤昇平『戦後“革新”政党とイデオロギー―西尾末廣と江田三郎の“社会主義”』、「法政論叢 45(2)」、14〜26頁、2009年、日本法政学会
(26)構造改革理論は社会改良を通じて社会主義を実現する理論である。社会改良を志向する点では社会民主主義と同じである。ただし最終的なゴールが社会主義の実現か、社会改良的な政策実現を最終的目標とするかで異なる。なお安東仁兵衛はこの見方をしている。
(27)1949年衆院総選挙で、社会党は片山内閣の倒閣・昭電疑獄でイメージダウンし、社会党が143議席から48議席に落とした。このことは当時の社会党が知名度と言ったイメージで選挙を戦っていたことを示している。
(28)岡田、前掲書、5頁を参照。
(29)これは1958年、1959年の選挙結果を受けて党内から指摘されていた。社会党が一番支持を伸ばした時期であるが、社会党議員もこの現状を十分認識していた。財政基盤と世地方組織の拡充を図ろうとしたのが、江田三郎の党機構改革であった。
(30)石川真澄『日本社会党:最後の光芒と衰滅』「新潟国際情報大学情報文化学部紀要 2」39〜49頁, 1999年の図1、2を参考にしている。
(31)新川、前掲書、110頁を参照。
(32)岡田、前掲書、161頁の表5を筆者なりに編集した。
(33)岡田、前掲書、147〜151頁に詳しい。この中で美濃部陣営にとって社会党の存在はむしろお荷物となっていた感もあり、社会党と革新首長とのつながりは希薄であったと言える。
(34)新川、前掲書、171頁。
(35)これは革新自治体の背景として社会民主主義的政策(福祉政策、公害対策等)が有権者から支持されたことがある。国民世論の背景を考えれば社会党の社会民主主義化により都市中間層の支持を調達できたと考えられる。
(36)1975年には社会党千葉県本部では協会派と反協会派が対立することになった。末端の組織での対立は、裏を返せば反協会派の地方活動家もいたことを示唆している。社会主義協会は、マルクスレーニン主義派ではない活動家の入党を妨害したりしていた。
(37)70年代、社会党アレルギーがあった民社党も社会党の連立を模索した。江田派の政策も民社党の共通項があったからであり、民社党は江田に合流を呼びかけていたとも言われる。
(38)例えば社会党が編集した党機関誌や、国鉄労組の闘いなどを記した著作が数多く存在している。しかし、今回はそれら文献資料にまで時間を割くことが出来なかった。



<参考文献>

安東仁兵衛『日本社会党と社会民主主義』現代の理論社、1994年
石川真澄『戦後政治史 新版』岩波新書、2004年
石川真澄『日本社会党:最後の光芒と衰滅』「新潟国際情報大学情報文化学部紀要 2」39-49頁, 1999年
石川真澄・山口二郎『日本社会党―戦後革新の思想と行動』日本経済評論社、2003年
梅澤昇平『戦後“革新”政党とイデオロギー―西尾末廣と江田三郎の社会民主主義』「法政論叢」14頁-26頁, 2009年
大獄秀夫『日本政治の対立軸?93年以降の政界再編の中で』中公新書、1999年
岡沢憲英『政党政治システムの変容―五五年体制の比較政治学』、
岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史』新時代社、2005年
北岡信一『自民党―政権党の38年』中公文庫、2008年
久米郁夫『労働政治―戦後政治の中の労働組合』中公新書、2005年
谷聖美『日本社会党の盛衰をめぐる若干の考察―選挙戦術と政権・政策戦略』選挙研究vol.17(2002)、84〜99頁
中村政則『戦後史』岩波新書、2005年
福永文夫『大平正芳―「戦後保守」とは何か』中公新書、2008年
新川敏光『幻視の中の社会民主主義』法律文化社、2007年
原彬久著『戦後史のなかの日本社会党;その理想主義とは何であったのか』中公新書、
2000年
兵藤ツトム『労働の戦後史(上)』東京大学出版会、1997年
的場敏博『戦後前半期の社会党―指導者の経歴を手掛かりに』「年報政治学」 Vol. 42 、1991年、 No. 0、75頁-95頁