首相がリーダーシップを発揮しうる条件とは何か
― 小泉政権の考察を通して ―

社会学部3年 井口 知久


【序章】


 様々なメディアによれば,現在の政治が閉塞状況にある要因として,首相によるリーダーシップの欠如が挙げられるという。実際,小泉首相の退陣後は首相が短期間で交代する状況が続いている。小泉が強力なリーダーシップを発揮できたにもかかわらず,なぜそれ以降の首相は小泉と同様のリーダーシップを発揮できなかったのであろうか。その理由を明らかにすることが本論文の研究目的である。

 首相がリーダーシップを発揮できる条件とは何か。本論文はこの問いを小泉政権を事例として考察する。以下では小泉のリーダーシップを2つの視点から考察する。第1の視点は,政治制度が小泉のリーダーシップに与えた影響についてである。ここでは1990年代以降の政治改革が小泉のリーダーシップに与えた影響について検証する。第2の視点は,小泉個人の資質がリーダーシップに与えた影響についてである。小泉の特殊な行動様式や言語様式が,高い支持率の源泉となり,強力なリーダーシップにつながった,という説を検証する。

 第1章では,第1の視点に基づき,1990年代以降における政治改革の過程と成果について考察する。第2章では,第2の視点に基づき,小泉の特異な気質と行動について考察する。第3章では,第1と第2の両方の視点を踏まえ,小泉のリーダーシップが政策イシューによって異なっていたことを複数の事例によって検証する。以上の議論を踏まえ,終章では首相がリーダーシップを発揮しうる条件を示すとともに,今後の研究課題を示したい。

 なお,本論文では,首相のリーダーシップが発揮された状況を以下のように理解する。すなわち「首相直属のスタッフを活用して,自らの関心のある政策を取り上げ,与党や官僚の抵抗に直面したとしても,それを排して自らの意向を強く反映した政策を最終的に決定し,実施することができた場合」(1)である。



【第1章】小泉のリーダーシップに対する1990年代以降の政治改革の影響


 竹中治堅は1990年代以降の政治改革と行政改革の2つの改革によって55年体制は変容し,「2001年体制」が成立したと主張している(2)。政治改革とは衆議院選挙における小選挙区・比例代表制の導入と政治資金制度の変更を指す。行政改革は,行政機構が1府12省庁に再編されたことを指す。この2つの変化が小泉のリーダーシップに対していかなる影響を与えたかを本章で考察する。55年体制には以下の5つの特徴があった。第1に,衆議院の選挙制度は中選挙区制であり,主要な政党は自民党とそのライバルであった社会党であった。第2に,首相の地位を獲得・維持する条件として重要であったのは派閥からの支持の獲得であった。第3に,首相の権限は派閥の領袖としての実力によって規定されていた。第4に,主要経済政策を担当する大蔵省が大きな権限を持っていた。第5に,政治過程の中心にいるのは衆議院議員で,参議院議員の影響力は限定されていた。以上の5つの特徴は,1990年代の政治改革と行政改革によって,2001年以降以下のように変容した。第1に,小選挙区・比例代表並立制によって自民党と民主党が競い合うようになった。第2に,首相の地位を獲得・維持する条件として派閥ではなく世論からの支持が重要になった。第3に,首相の権限の大きさは世論の支持によって規定されるようになった。第4に,行政改革によって,内閣府が大きな役割を果たすようになり,大蔵省が分割されることによって,その権限が縮小された。第5に,1989年や1998年の参議院選挙における自民党の敗北や,派閥の弱体化がきっかけとなり,自民党の参議院議員は政治過程において影響力を強めた(3)。2001年に,首相に就任した小泉は,第1から第4の制度変化によって,リーダーシップを発揮できるようになった。ただし,第5の参議院における変化に関しては,当初は小泉のリーダーシップ発揮は制限された。しかし,小泉は第1から第4の制度変化を背景として,参議院においても影響力を行使するようになる。

 以下では,小泉が制度変化を基盤にして,リーダーシップを発揮した事例を考察する。第1の具体例としては小泉の郵政解散があげられる。衆議院選挙における小選挙区・比例代表並立制の導入によって,総裁による公認が議員の当落を左右するようになった。従来よりも実質的な公認権を得た首相は議員に対して大きな権限を有するようになった。実際,2005年の衆議院解散において,小泉は反対した議員を公認せず,「刺客」候補を送り込むことで首相の権力の強さを見せつけた。第2と第3の具体例としては小泉が派閥の意向を無視して閣僚人事を決定したことがあげられる。小泉は世論の支持を背景として,派閥の意向を無視し,自らの意志で閣僚を指名した。第4の具体例としては,経済財政諮問会議の活用があげられる。小泉は財政諮問会議を通じて「骨太の方針」などの政策方針決定に,官僚の抵抗を排して自分の考えを反映させた(4)。第5の参議院に対する小泉の影響力強化の事例としては,郵政解散があげられる。参議院の影響力増大には以下の2点があった。第1に,1989年の総選挙で,自民党が参議院において,過半数割れに追い込まれたことであった。第2に,1998年総選挙において,自民党が連立政権を組まざるを得なくなったことによって,自民党の参議院議員が連立交渉において重要な役割を果たしたことにあった。首相は参議院に対して解散権を持たないため,参議院の影響力を無視することはできなくなった(5)。郵政民営化法案が参議院本会議で否決されると,小泉は衆議院を解散し,総選挙で3分の2以上の議席を獲得することに成功した。この総選挙を通じて,小泉は参議院にも影響を及ぼすことが可能になった(6)。

 以上より,1990年代以降の制度における2つの変化によって,小泉は自らのリーダーシップを発揮して政策に関わることが可能になった。その結果,今までの首相では,派閥などの勢力に妨害されたような難しい政策に取り組むことができるようになったと考えられる。



【第2章】 小泉自身の資質と能力がリーダーシップ発揮に与えた影響


 第1章では,制度変化が小泉のリーダーシップに発揮に大きな影響を与えたことを分析した。では,小泉は政治改革を通して,より重要になった国民世論の支持をいかにして獲得したのか。その獲得には,小泉個人としての資質や言語様式が大きく関わっていた。制度変化は小泉のリーダーシップ強化に本当に寄与していたのだろうか。本章では,内田と大嶽による小泉の分析を基礎にして,小泉の資質および能力が小泉のリーダーシップ発揮にどのような影響を与えたか考察する。第1として,「パトスの首相」としての小泉が,世論からの高い支持率を可能にしていたことを考察する。第2として,制度変化が小泉のリーダーシップ発揮を可能にしたわけではなく,小泉個人としての資質が新たな制度を定着させたという大嶽の説を分析する。

 第1として,小泉の政治運営を分析することで,小泉の個人としての資質がそのリーダーシップに与えた影響を分析する。内田は小泉の政治運営の特徴について,「パトスの首相」として分析している。小泉は,ポピュリスト的手法によって,国民からの高い支持率を獲得していた(7)。以下では,小泉が具体的にどのような手法を用いて,高い支持率を獲得していたかを分析する。第1として,小泉は特異なメディア戦略を用いた。小泉は,これまでの「ぶら下がり取材」のあり方を大きく変え,テレビカメラがセットされているところで立ち止まって話をする方法をとるようになった。新聞に対しては,大新聞よりも,今まで政治報道の枠外にあった週刊誌やスポーツ紙を優遇した。第2として,小泉は善悪二元論を用いて話をすることが多かった。小泉は,改革に反対する,族議員や官僚を「抵抗勢力」を呼び,自らは「善」であるという二元論的な構図をつくりあげた。自らと抵抗勢力との対決を劇場化するこの手法は,テレビのワイドショーなどで格好の題材となったこともあり,普段は政治に無関心な層の興味を引き付けた。第3としては,小泉の特殊な言語様式である。小泉はわかりやすい単純なフレーズを用いて,一般の人々に語りかけた。小泉はテレビメディアの特性に適合したメッセージ発信を行なったのである(8)。内田は以上の3点を通じて,小泉を「パトスの首相」と名づける。小泉はロゴス=理性・言葉よりもパトス=感情・情念を重視していた。小泉のポピュリスト的手法はパトス重視の態度に大きく支えられており,パトスからほとばしる鮮烈な言葉は,長々しい説明をともなわないだけに,国民の心に直接響いた。このパトス重視の姿勢と特異なメディア戦略を結びつけることによって,小泉は国民世論からの高い支持率を長期間にわたって維持できた(9)。以上のように,本節では小泉の個人としての資質が,世論からの高い政権支持率に関係していたことを検討した。高い政権支持率を背景に,小泉は自民党内の派閥の意向を無視したうえで,政権の人事を決定できた。くわえて,官僚に対しては,予算編成等で各省庁の要求を排して,自らの意志を政策に反省させることが多かった。

 第2として,制度が小泉のリーダーシップを強化したわけではなく,小泉自身が制度を効果的に活用したという大嶽の説を,財政再建の例を通して検討する。1990年代以降,財政危機の深刻化という状況を打破するため,橋本は財政構造改革会議を組織し,2005年までの財政健全化目標を2年間前倒しすることを決定した。しかし,金融危機が深刻化したため,方針を転換せざるを得なかった。小渕は,産業競争力再生会議を打ち出したが,総裁再選後は急速に会議への関心を低下させた。森は財政首脳会議を新たに創設した。しかし,この会議は与党と大蔵省主計局との利害調整の場に過ぎず,森はリーダーシップを発揮しなかった。小泉は,政権発足後,経済財政諮問会議を最重要会議と位置づけ,そこに強力な権限を与えた。以上のように,橋本政権以降,諮問会議がたびたび創設されていたのだが,実際に,諮問会議を活用したのは小泉のみであり,小泉が諮問会議という制度を強化したことは明らかである。ゆえに,制度が首相権力を強化したわけではなく,首相が制度を強化した,と大嶽は分析している(10)。しかし,この大嶽の説には誤りがある。第3章で詳述するが,首相就任当初の小泉は,自民党内における権力基盤が不安定であったために,経済財政諮問会議を活用した。郵政解散以降,小泉は諮問会議から権力基盤を自民党に移し,諮問会議を重要視しなくなる。この事実から,諮問会議があったことによって,小泉は政権初期に,リーダーシップを発揮することができたといえる。小泉のリーダーシップによって,諮問会議の制度を強化したわけではない。諮問会議を権力基盤とせざるを得なかったのである。以上から,制度が首相権力を強力にしたと考えることができる。大嶽の分析は,小泉のリーダーシップ発揮を可能にした制度的要因を軽視していると考えられる。

 以上の2つの分析から,第1として,小泉の個人の資質はリーダーシップ発揮に大きな影響を与えていたことがあきらかになった。第2として,第1章で述べたように,個人の資質だけではなく,制度も小泉のリーダーシップ発揮に大きな影響を与えていたことが明らかになった。第1章と第2章の分析から,小泉は,首相を強力にする制度を背景にしつつ,特異な人格によって,そのリーダーシップを発揮していたことが明らかになった。以上の考察から本論文では,制度が首相を強力にしていたことに足場をおきつつも個人としての資質も重要であったという立場をとる。しかし,以上で検討してきた小泉のリーダーシップはどの政策においても発揮されてきたのだろうか。第3章では政策イシューによって,小泉のリーダーシップの発揮のされ方が異なっていたことを検討する。



【第3章】 政策イシューによって異なった小泉のリーダーシップ


 第1,2章では,1990年代以降の,政治改革と制度改革が,類いまれな小泉の個人の資質とうまく合わさってリーダーシップの発揮を可能にしてきたことを検証してきた。本章では,個別の政策において,そのリーダーシップの発揮のされ方が異なっていたことを検証する。この検証を経ることによって,首相のリーダーシップ発揮の条件をより詳細に考察することが可能になる。本章では3つの政策の事例を取り上げる。なお,郵政解散を経た2005年以降,小泉の権力基盤が経済財政諮問会議から自民党に移ったため,そのリーダーシップの発揮のされ方が2005年を境にして変化する。本章では,以上の変化を踏まえて,2005年以前と以降の事例を区別して取り上げる。2005年以前に関しては,小泉のリーダーシップが発揮された事例と,そうでない事例の2つをとりあげる。前者の事例としては,不良債権処理問題の事例を,後者の事例としては,税制改革の事例を取り上げる。2005年以降に関しては,歳出・歳入一体改革を取り上げる。

 第1として,不良債権処理問題の事例を取り上げる。1990年代以降,バブル崩壊をうけて銀行は多額の不良債権問題を抱え,金融システム不安が起きていた。小泉内閣の当初金融担当大臣であった柳沢は,公的資金注入の必要性を拒否し続けたため,株価低迷や,「9月危機」,「3月危機」が噂される状況となった。そのため,不信感を抱いた小泉は柳沢を更迭し,竹中を金融担当大臣に任命した。竹中は,大手行に対して,検査を厳格化し,必要であれば公的資金の注入も辞さないことを明確にして,不良債権を早期に処理するように迫った。その結果,不良債権の処理は急速に進んだ。小泉が与党から目の敵にされていた竹中を金融担当大臣に指名できたのは,選挙制度改革によって派閥が弱体化し,閣僚人事権を掌握した成果である。ただし,内閣初期においては小泉が不良債権処理の加速を迫っても,柳沢は様々な理由をつけて,抵抗し続けた。このことから,たしかに個別政策分野においては首相のリーダーシップ発揮に一定の限界があったことがわかる。しかし,小泉は強力になった閣僚人事権を用いて竹中を金融担当大臣に起用した。小泉はこの点において強力なリーダーシップを発揮したといえる。竹中は外部の人材を活用することによって,官僚が知らせてこない情報をつかみ,自ら政策の内容を細部にわたり設計した。そのうえ,監査法人に圧力を加えるなど「きわどい手法」も用いた。竹中は現実主義的な対応を通して,その政策を実行したのである。不良債権処理問題において,小泉は,柳沢の抵抗があったもの強力になった閣僚人事権を用いて,これを排し,竹中に強力な政策を実行させた。柳沢の抵抗に関しては,小泉のリーダーシップには一定の限界があったが,竹中の任命以降は,強力なリーダーシップが発揮された。以上より,不良債権処理問題においては,小泉はリーダーシップを発揮できたといえる。(11)

 第2の税制改革に関しては,小泉はリーダーシップを発揮することができなかった。2001年以降,行政改革によって経済財政諮問会議が設置された。小泉はこの諮問会議を活用することによって,これまで党税調と財務省主税局が独占してきた税制改革議論を主導することができるようになった。しかし,小泉は自由に政策を決めることができなかった。この理由は2点ある。第1として,税制に関しては党税調,財務省主税局の力が依然として強く,首相が自らの望む税制改革を実行するには,党税調と対決する必要があった。小泉の政権維持戦略は「抵抗勢力」との対決を演出することで,世論の支持を集めることであった。党税調と対決して敗れれば,「抵抗勢力」の意気があがり,首相の求心力は低下し,世論からも見限られる可能性があった。小泉は地位の保全という政治的利益の観点から,党税調と真っ向から対立することを避けた。第2として,小泉は税制改革に強い政策理念を持っていなかった。税制改革において,小泉は経済財政諮問会議での竹中や民間議員の考えに賛同したかと思えば,財務省の説明を受けた後では,財務省寄りの発言を行い,民間議員を落胆させた。この繰り返しで,最終的には自らの意思を明確にすることなく,党税調と財務省主税局に税制改革の判断を委ねてしまった。そもそも税制改革は小泉が当初から主張していたものではなく,竹中の説得によって取り組み始めたものであった。小泉は「小さな政府」を志向していたが,財源を確保したうえでの減税を望んでいた。そのため,小泉の政策理念は,財政赤字・国債発行額の削減であったといえる。竹中は,この小泉の姿勢をうけて,改革還元型減税を提案した。改革還元型減税とは,減税の財源を歳出削減で賄う方法である。しかし,この方法には予定通りに歳出を削減できるか分からないという弱点があった。そのため,小泉は財源確保策として,確実に実行できる増減税一体の税制中立を選択することを望んでいた。最終的な選択として多年度税制中立を選んだ。竹中は,この意向を踏まえて,企業の国際競争力強化や経済活性化のため,法人税率の引き下げを目指すようになった。法人税引き下げのためには,党税調と対決する必要性があった。小泉は税制改革に対して確固とした政策理念を持っていなかったために,自ら判断をくだすことは避け,法人税率引き下げを主税局や党税調に委ねたのである。以上から,小泉は,税制改革においては確固とした政策理念を持っていなかったためにリーダーシップを発揮することができなかったと考えられる(12)。

 第3として,歳出・歳入一体改革をとりあげる。2005年の総選挙後,経済財政担当相は竹中から与謝野へと交代し,竹中は総務相に就任した。谷垣は消費税率の引き上げを主張し,与謝野もこれに同調した。一方,中川と竹中は「上げ潮派」であり,増税ではなく,歳出削減と経済成長による財政再建を重視する路線を主張していた。小泉は後者を支持する発言をし,消費税率引き上げを明確に否定した。しかし,財政再建の手法において,与謝野,谷垣と竹中,中川の対立は収まらなかった。これまで諮問会議では,長期金利は名目成長率を下回って推移するという見通しをたてていた。そのため,竹中,中川は徹底した歳出削減を行なえば財政再建は可能であると主張していた。一方,与謝野は長期金利が名目成長率を日常的に下回ることはないと竹中らの見通しを批判した。民間議員である吉川もこれに同調し,竹中らの見通しをインフレ政策といって批判した。与謝野は財務省と関係が深く,財政再建論者であった。かつては竹中と協力して与党や官僚と対決してきた民間議員も,与謝野に協力する形で財務省に近い主張を行なうようになった。2006年5月22日に政府・与党幹部でつくる「財政・経済一体改革会議」が初会合を行い,「骨太の方針」に盛り込む財政再建の具体案の検討を始めた。この時点で,与謝野は与党との協調を重んじており,中川とも連携を強化したために諮問会議と与党の関係は敵対から協力へと変化していた。中川,安倍は党主導を強調し,政策決定の主軸を諮問会議から改革会議に移す考えを示唆した。6月22日の財政・経済一体改革会議では,名目経済成長率は3パーセントとされ,プライマリーバランスの黒字化に必要な額は17兆円という政府試算が公表された。小泉は22日の諮問会議で消費税増税ではなく歳出削減を徹底するよう熱弁を振るい中川を擁護した。結果として,歳出削減では,財政健全化の目標達成に必要な額の半分を上回った。7月4日に政府・与党は国の資産を140兆円規模で圧縮することに合意し,財務省の反対をねじ伏せた。7日に「骨太の方針」が決定され,2011年にプライマリーバランスの赤字を解消するための必要額16.5兆円のうち,11.4〜14.3兆円を歳出削減で,2.2〜5.1兆円を税制改正で充当するとした。消費税率の引き上げに関しては先送りした。もともと自民党議員の多くは,歳出削減に反対であったが,党の執行部を小泉の「イエスマン」で固め,政調会長を改革志向の中川にすることによって,小泉は自民党内で圧倒的な支配体制を確立していた。以上の政策過程において,中川は財政再建を重視し,かつ消費税増税よりも歳出削減を優先する小泉の意向に従って,嫌がる族議員たちに歳出削減策の策定を強要したのである。2005年度以前,竹中が経済財政担当相だったときには,小泉が政策の方向性を示し,竹中らが具体化するというのが政策過程の実態であったが,2005年度以降,与謝野が経済財政担当相になってからは,その役割が諮問会議から自民党政調会に移ったに過ぎず,小泉自身にとってはリーダーシップ発揮するにあたって,大きな変化ではなかった。以上から,歳出・歳入一体改革において,小泉は諮問会議から自民党に権力基盤を移したものの,リーダーシップを発揮したと考えることができる(13)。

 以上,3つの事例を通して,小泉は政策イシューによって,リーダーシップを発揮した場合と,そうでない場合があったことが明らかになった。くわえて,そのリーダーシップ発揮を可能にした要因も2005年を境にして変化していたことが明らかになった。以上を通して,本章において導かれる結論は以下の3点である。第1として,確固とした政策理念を首相が持たなければ,リーダーシップを発揮するのは難しい。小泉は不良債権処理問題には確固とした政策理念を持っていた一方,税制改革にはそのような理念を持ち合わせていなかった。そのため,税制改革ではリーダーシップを発揮できなかった。第2としては,個別政策領域において首相は優秀な大臣を用いることで,リーダーシップを発揮できる。竹中は類いまれなる能力を用いて,不良債権問題を処理した。第3に,首相は権力基盤を党以外にも求めることができるということである。小泉は,2005年以降は自民党支配により,その基盤を与党に移したが,権力基盤が不安定な2005年度以前には,諮問会議を活用して与党や族議員をけん制していた。終章では,これらを踏まえて,首相がリーダーシップを発揮する条件を考察することにする。



【終章】 首相がリーダーシップを発揮できる条件


 第1〜3章までの議論において,首相がリーダーシップを発揮する条件について考察してきた。以上の議論を政治的リーダーシップ論の研究動向に対応させると,本論文は「相互作用アプローチ」の立場をとってきたといえる。「相互作用アプローチ」とは,制度的要因が直接に政治的帰結を決定するのではなく,政治的リーダーと環境の相互作用を構造化することを通して政治的帰結に影響を及ぼすという立場である。第1章では,リーダーシップの環境的要素を考察し,第2章では,リーダーシップの個人的要素を考察してきた。第3章では,竹中や与謝野といった,首相以外のアクターを考慮しながら小泉のリーダーシップの強さは政策イシューによって異なることを考察した。これらを踏まえて,首相がリーダーシップを発揮する条件はいかなるものか一般化を行なう。なお,この条件は極力少なくしなくてはならない。なぜなら,変数が多ければ一般化する意味が薄れるからだ。本論文では,首相のリーダーシップが発揮できる条件を以下の4点とする。

 リーダーシップ発揮における環境的要素を踏まえると,首相のリーダーシップ発揮に必要な条件は,第1に,諮問会議または与党の活用である。首相が政党に強固な基盤を持っていないときは,諮問会議を用いて与党や,官僚をけん制することができる。小泉は,2005年まで,自民党に強固な基盤を築いていなかったため,諮問会議を用いて改革を実行していった。逆に,与党に権力基盤を確立することができれば,諮問会議を使わずとも,族議員,官僚や利益団体を中心とした「鉄の三角形」を抑え込んで政策決定にリーダーシップを発揮することが可能である。第2に,参議院の権限の縮小である。小泉は,郵政解散までは,参議院の自民党議員の意向を無視することはできなかった。小泉は,幸運にも郵政解散によって,衆議院で3分の2以上の議席を確保することができたが,これは例外と考えてよい。このような特殊な手段をとれない限り,首相は参議院からの影響力に苦しむことになる。衆議院における再可決は法律上,可能であるが,このような状況はまれにしか出現しない。参議院が常に法案を否決し続けると,参議院無用論も生じてしまうため再可決を常に用いることはできない。首相は参議院に対して,解散権を持たないため牽制することもできない。よって,首相がリーダーシップを発揮するためには参議院の選挙制度を変えたほうがよい。具体的には,ねじれ国会を防ぐために,衆参同時選挙の実施がある。または少数派の意見を考慮するため参議院における比例代表の全面的導入がある。全国比例代表制の全面導入によって,参議員は首相に人事権を握られるため,首相は参議院を牽制できるようになる。

 リーダーシップ発揮における個人的要素を踏まえると,首相のリーダーシップ発揮に必要な条件は第3に,国民からの高い支持を実現できる行動と発言である。小泉は,善悪二元論に基づいて国民に話しかけ,特異なメディア戦略を用いることによって,高い支持率を実現した。このような場合,ポピュリストとしての側面が強調されてしまう場合が多くなるが,本論文では,首相のリーダーシップの発揮の条件を問題にしているためこの点は考慮しない。

 最後に,首相のリーダーシップが政策イシューによって異なっていたことを踏まえると,首相のリーダーシップ発揮において必要になる第4の条件とは首相が,有能な大臣を活用することによって,個別政策領域において「鉄の三角形」を抑え込むことである。竹中のように有能な大臣を活用すれば,族議員や関係省庁の反対を抑え込むことが可能になる。よって,有能な大臣の活用が首相のリーダーシップ発揮の条件となる。以上,3つの視点から,首相のリーダーシップ発揮に必要な4つの条件を提示した。小泉は,以上のうち,第2の参議院の権限縮小を除く他の条件を部分的に満たしていたと考えられる。

 今後の研究課題としては,リーダーシップに関して,首相周辺からさらに大きな範囲へと研究対象を広めていくことであろう。その中で,諮問会議などの補佐機能をより詳しく研究していきたい。これらを研究するアプローチ方法として中核的執政論に注目している。この理論を研究することによって,他国との比較という視座から日本における首相のリーダーシップをより深く研究できるのではないか。



【脚注】

(1)上川龍之進,『小泉改革の政治学―小泉純一郎は本当に「強い」首相だったのか』,東洋経済新報社,2010年,17頁。
(2)竹中治堅,『首相支配―日本政治の変貌』,中央公論新社,2006年,237頁。
(3)竹中治堅,『首相支配―日本政治の変貌』,中央公論新社,2006年,237-242頁。
(4)同上,149-160頁。
(5)同上,185-202頁。
(6)同上,222-236頁。
(7)内山融,『小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか』,中央公論新社,2007年,4-5頁。
(8)同上,5-10頁。
(9)同上,11-13頁。
(10)大嶽秀夫,『小泉純一郎―ポピュリズムの研究』,東洋経済新報社,2006年,96-106頁。
(11)上川龍之進,『小泉改革の政治学―小泉純一郎は本当に「強い首相」だったのか』,2010年,東洋経済新報社,85-114頁。
(12)上川龍之進,『小泉改革の政治学―小泉純一郎は本当に「強い首相」だったのか』,2010年,東洋経済新報社,167-196頁。
(13)上川龍之進,『小泉改革の政治学―小泉純一郎は本当に「強い首相」だったのか』,2010年,東洋経済新報社,214-224頁。



【参考文献】

1.竹中治堅,『首相支配―日本政治の変貌』,中央公論新社,2006年。
2.内山融,『小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか』,中央公論新社,2007年。
3.大嶽秀夫,『小泉純一郎―ポピュリズムの研究』,東洋経済新報社,2006年。
4.上川龍之進,『小泉改革の政治学―小泉純一郎は本当に「強い首相」だったのか』,2010年,東洋経済新報社。
5.伊藤光利,「政治的リーダーシップ論とコア・エグゼクティブ論」,『神戸法学雑誌』,第57巻第3号,2007年。
6.飯尾潤,『日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ』,中央公論新社,2007年。