戦時におけるメディアの報道のあり方
(法学部1年)




目次  1, 序論
       2, ベトナム戦争
       3, 湾岸戦争
       4, イラク戦争
       5, 結論



1, 序論


 近年、新聞、ラジオ、テレビそしてインターネットというようにメディアの情報伝達方法は様々なものがあり、日々進歩を続けている。そんな中でいつの時代もメディアが大いに活躍する場面が存在する。それが、戦争である。戦争はメディアにとって大きなマーケットであり、できるだけ自由に報道することを望む一方、政府はできるだけメディアを自国に都合のいいように利用し管理することを望む。つまり、戦争において政府と報道機関はほとんどの場合において対立関係にある。そこで政府と報道機関の関係を踏まえながら戦時の報道に焦点を当て、実際にどのような戦争報道がなされているか、またどのような戦争報道が好ましいかを問題として取り上げることにする。

 戦争報道は第二次世界大戦に始まり、多くの国が行っているのだが、私はアメリカ合衆国の戦争報道について調査を行う。理由は、米国は近年大きな戦争を繰り返しているが、いずれも政府が戦争においての報道を重くとらえ、情報戦を戦争の作戦計画のひとつとしていること、また、政府の戦争報道に対する態度が毎回異なるために比較検討しやすいこと、などが挙げられる。

 本論では第一に、メディアの報道による敗戦といわれているベトナム戦争を検討する。第二に、次の湾岸戦争ではベトナム戦を反省として、どのような政策をとるようになったかを検討する。第三に、もっとも最近のイラク戦争において、どのような戦争報道を行うに至ったかを検討する。このような戦争報道の変化を時代の流れとともに見ていきながら、結論として戦争報道のあるべき姿を明らかにする。



2, ベトナム戦争


 ベトナム戦争は、米国に歴史上もっとも深い傷を負わせた戦争といわれている。これは、メディアの報道が活発化する中、それをコントロールすることができなかったことが大きな原因として挙げられる。その後、米国の戦争報道への姿勢が大きく変わった転機という意味で大変重要な戦争である。では何故このように米国は戦争報道により大きな被害を受けたのか、ベトナム戦争の概要を踏まえながら見ていくことにする。

 ベトナム戦争は、共産主義の中国・ソ連を味方につけながらホー・チ・ミンの率いる北ベトナムに対し、アメリカ合衆国がゴ・ディン・ディエム率いる南ベトナムに加勢し始まった戦争である。米国の意図として共産主義封じ込め政策の一環として行っていた戦争であるが、特徴的な言葉として、ベトナムは最前線のない戦争とよばれている。これは、まず第一に、ベトナム戦争は簡単に識別できる敵、目的がなく、国家の憎悪を集中できる明確な“悪”がいなかったことによる。第二に、遠隔地であり本国には何の脅威もなく、一般の犠牲もなかったことによる。これらにより、アメリカ国民の愛国主義の全国的高揚を期待できる状況ではなくなった。CBSの記者バーナード・カルブ氏は戦後に、ベトナム戦争のことを「わが国でもっとも特徴のない敵」を相手にした戦争だと述べている。(注1)このような結果、米国は軍事の成功を数で図らなければならない状況となり、死体計算という新しい概念を生んだ。明確な敵が存在せず、戦争の進展がはかれない以上、戦地での殺害者数で戦争がうまくいっていることを伝えようとしたのである。しかし、いつまでもこのような方法だけでは国民に戦争を理解させ協力させることはできない。米国は国民に戦争を理解させるために高度に専門的な方法を考案した。

 それが、後に敗戦をもたらすこととなる広報キャンペーンという方法である。まず米国の報道中小企業をサイゴンに案内し、特派員となることを勧めた。また外国の報道機関に対しても積極的に援助し報道を奨励した。具体的には、輸送手段の提供や現地についてからの案内を行っていた。この目的は二つある。一つが、報道を奨励することにより世論の好印象を得ようとすること。二つ目が、特派員全体に愛国主義を訴え、共感させることにより軍の宣伝機関のようにして統制すること、であった。情報を伝えないことではなく、情報をコントロールすることに重点を置いた政策である。

 結果は米国政府にとって散々なものだった。これらにより特派員の数は増大し、異常なまでに戦地の情報を獲得できるようになった。このような中で、政府の意図どおり軍に足並みをそろえる特派員もいたが、公式見解に従わずに独自に調査を行い報道する記者が現れ始めたのである。結果として情報のコントロールを失い、米国政府にとって不利な報道も自由に行われるようになった。また、ベトナム戦争において情報をコントロールできなくなった理由としてテレビの登場も挙げられる。ベトナム戦争は始めてテレビでお茶の間に届けられた戦争といわれている。テレビに映し出される生々しい戦争の映像は国民の反戦感情をあおるには十分なものであった。このような経緯により国民に反戦の世論が高まり、ベトナム戦争で米国の敗戦という結果となった。

 このようにベトナム戦争の敗北はメディアの報道によるものといわれている。その後軍は情報戦を戦争の重要な作戦計画のひとつと考えるようになった。



3, 湾岸戦争


 以上でベトナム戦争における米国政府の情報統制の失敗を述べてきた。湾岸戦争ではベトナム戦争の反省をいかし、政府がどのような情報統制を目的としたのかを見ていくことにする。まず第一に、前回の戦争の正当化の失敗を克服することを目的とした。敵国の非道徳性、自国の判断の妥当性の根拠を作り出し、国民の賛成や協力を確固たるものにしようとした。第二に、映像の制限である。ベトナム戦争では生々しい映像の流出により国民の反戦感情をあおってしまったため、これを制限することは非常に重要であった。第三に、ベトナム戦争においては約700人というおびただしいジャーナリストの数の削減であった。では、これら三つの目的を踏まえ、実際に政府がどのようにメディアに対処したのか見ていく。

 まず湾岸戦争の概要を述べる。1990年フセイン政権率いるイラクはクウェートに侵攻し、暫定自由政府を樹立した。それに対し、ブッシュ政権率いる米国をはじめとする多国籍軍が編成され、イラクを攻撃した、というものである。まず、米国政府は戦争の正当化という目的のために、徹底してフセインを悪者として扱い発表し続けた。フセインのテロ行為、クウェート征服などを第二次世界大戦での悪役として印象付けられているアドルフ・ヒトラーになぞらえ、フセインに対し「ヒトラー二世」という見出しをつけた記事などを発表した。この方法により戦争の正当化は大いに成功した。米国国民はフセインに対し批判的なイメージをもつようになり、米国に対する愛国主義や戦争賛成の世論を引き出すことができたのである。

 このように一方的にフセインを悪役にするよう情報統制をするという目的や映像の制限という目的、さらには現地のジャーナリストの削減をするという目的のために米国政府が取った政策がプールシステムというものであった。プールシステムとは代表取材制度ともいい、政府とメディア間が話し合い、一定数の代表者のみに取材させる制度である。取材場所や取材方法が事前の話し合いで決められるほか、報道の際、軍による検閲が行われていた。この方法は非常にうまくいった。取材陣にとってもっとも恐れることはプールから外れることであるために、プールに入った記者は一種のエリート意識や特権意識を持つようになった。これらにより記者の軍に対する仲間意識や愛国的な感情を生み出す結果となったのである。また、プールの数が限られているために、報道機関の敵はプールを奪い合う同業のジャーナリストであると感じさせ、政府に対する敵対心を目立たなくするという効果もあった。また、検閲による情報操作も成功した。検閲において、軍の係官が映像や記事を許可する権限を持つといっても、公表の最終決定権はあくまで報道機関が持っていた。しかし、軍の判断に異議を唱えて検討ということになれば、結論が出るまで報道が不可能となってしまう。そうするとニュースの鮮度は落ちていき報道の意味がなくなってしまう。そのために報道機関はとにかく早さを重視し、軍の注文を聞くしかないという結果になったのである。

 このように湾岸戦争においては政府の徹底した情報統制によりメディア側は自由な報道ができなかった。後にニューヨークタイムズの記者マーチン・アーノルドは朝日新聞の取材に対し「今度の戦争で負けたのはイラクとメディアだ。」と述べている。(注2)プールシステムに対し多くの批判が集まり、米国は規制を緩めざるを得ない状況となった。



4, イラク戦争


 最後にもっとも最近の戦争であるイラク戦争について見ていく。湾岸戦争におけるプールシステムは廃止になったのだが、政府の対応としてあいかわらず情報戦は重要なものであり、目的も上記の三つのままであるといえる。ではプールシステムの廃止にもかかわらずどのように政府がこれに対応しようとしたのかを見ていくことにする。

 イラク戦争は、アルカイダによる9・11同時多発テロにより始まり、ブッシュ大統領が「ウォー・オン・テロリズム」と述べたように、対テロ戦争であり、アフガニスタンおよびイラクの制圧を行った。この戦争はかつてないほどのイメージ・心理戦となった。この戦争の特徴として、米国政府が十分な証拠もない時点で、容疑者を特定したという事実がある。結果としてはこの特定はビンラディン氏で正しかったわけであるが、なぜここまで早急に容疑者を特定する必要があったのか。アルカイダによるテロで歴史的痛撃を受けた米国民は、やがて怒りと復讐心をぶつける対象を求めるのは必至である。その対象を早く与えないとテロを未然に防げなかった政府に向かってくる可能性があったのだ。このたった八ヶ月前には大統領選挙があり、フロリダ選での投票数の数え直しなどにより政権の正当性になお疑問が残っているときに、この大被害である。政府の失態を責められる前に、一刻も早く悪者を作る必要があったと見ることができる。テロへの怒り、怒りの対象が与えられることがあいまって米国民は一致団結し、戦争への正当性は湾岸戦争を越えるほど世論で認められる結果となった。

 戦争が始まって、米国のメディア戦略はほぼ湾岸戦争を踏襲していた。その目的は上記した明確な悪者づくりのほか、情報漏れの厳重注意、発表窓口をしぼること、テレビカメラを戦場に近づけないことなどが挙げられる。このために政府は従軍メディア以外の民間メディアを戦地から遠ざけたかった。しかし、結果として民間メディアを強制的に遠ざける必要はなかった。アフガニスタン現地でほとんどのメディアが立ち往生してしまったのである。先の湾岸戦争ではプールシステムにより情報の規制が行われたが、プールにさえ入れば輸送手段の提供や戦地到着後の軍による保護が与えられたのである。しかし、イラク戦争ではプールシステムがなくなりメディアの保護がなくなり報道機関の危険が増した。その上、現地についてからの戦争の最前線の特定さえ軍の協力がないために困難になったのである。これらがイラク戦争で多くの報道機関やフリージャーナリストが戦地に赴いたにもかかわらず、報道過小になった理由である。

 戦地の報道過小は、情報規制の点においては政府に有利なのであるが、問題点も持っている。国民に戦争の実感を与えられないために、戦争の意義を伝えきれないこと、また米国の勝利を印象付けられないことなどが挙げられる。この報道過小は先の湾岸戦争でもあり、当時はさして問題とならなかったが、イラク戦争では大きな問題となった。二つの戦争の違いは何なのか。それはメディアにおいてのライバルの出現である。ライバルとなるメディアが存在すると、報道過小は大きな問題となる。一方が報道過小なのに対し、片一方が映像を用いた印象的な報道をすれば、そちらの報道のほうが信憑性をもつのは自明である。イラク戦争において米国の当局メディアの敵となったのは、アルジャジーラであった。

 アルジャジーラは1996年カタールにおいて発足した中東の衛星テレビである。アルジャジーラの特徴は、これまでほかのアラブ・メディアが避けていた対象もためらわず取り上げ、検閲も廃止し、報道の独立性を重視した点にある。戦地にもテレビカメラを送り印象的な映像を多く提供した。このため米国政府は自国の報道機関の情報規制だけでなく、アルジャジーラの報道も何とかしなければならなく、アルジャジーラのカブール支局を爆撃し発信機能を失わせた。

 このようにイラク戦争においても情報戦はかなり重要な要素であり、今後もなんらかの対応により政府による情報規制は行われ続けると考えられる。



5, 結論


 これまで、実際どのような戦争報道が行われているかを調査するために、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と三つの戦争を米国の政府とメディアの関係から見てきた。メディア側にとって自由な報道を確保するためには政府による規制をなくすことが課題といえるのだが、そのためにはどのような方法をとればいいのかを考えてみる。そこで今まで見てきた三つの戦争を、政府の保護と政府の規制に焦点を当ててまとめてみることにする。

 ベトナム戦争では広報キャンペーンという方法を用い、政府の保護があるにもかかわらず規制はないという結果となった。報道機関にとってこのような状況は理想的である。しかし、政府側としては国民の戦争賛成の一致団結がとれなく、反戦感情をあおってしまう可能性さえあるこのような方法を今後とって行くとは考えづらい。湾岸戦争においてはプールシステムにより徹底した情報規制をおこなった。これは政府による保護は確保されているが、同時に政府の規制が存在するという場合である。これは情報規制のために、メディアの本来の目的である自由報道が害されてしまう結果となった。イラク戦争においては、プールシステムが廃止され、自由報道が可能となった。これは政府による規制がない代わりに政府の保護もないという場合である。この場合もやはり問題点はあった。輸送手段の確保の問題、中小企業の資金面での報道の困難、戦地で保護がないために報道機関の安全が脅かされる、などが挙げられる。

 これらから考えると、政府の保護は必要であり規制もないというようなベトナム戦争のような方法を取らなければ、十分に取材をし、自由に報道するということは不可能であることがわかる。戦争報道のあり方は、戦地の取材時には保護を受け、報道時には規制を受けないものであるといえる。しかし、そもそも政府と報道機関は対立するものなのだから、このような戦争報道はかならず不可能であると言い切れるのだろうか。現在まででこのような戦争報道に最も近い形であるものはアルジャジーラである。イラク戦争の際、米国政府の攻撃を受け報道ができなくなってしまったが、戦争報道の形として非常に理想的なものであった。イラク戦争において、多くの記者が戦地に赴けるように保護されており、多くの映像が配信された。また上記したように自由報道をその目的として掲げていた。事実、イラク戦争ではビンラディン氏のテレビ出演を認める一方、その後、米国国防長官ラムズフェルド氏も出演し演説を行っている。このように対立した二つの勢力を同じように取材することは、多角的な意見を伝えることができる上に、報道機関の中立という立場が守られるという意味で大変意義のあることである。

 戦争報道のあり方を考える上で、政府はもっと自由報道を尊重すべきである。そして報道機関は戦争を多角的に捕らえ、中立の立場を持って報道することが肝心である。私はこれらを政府と報道機関の関係を考慮に入れた上での戦争報道のあり方の結論とする。

 最後に、戦争報道のあり方として政府と報道機関以外に忘れてはいけないものがひとつある。それは情報を受け取る側の我々である。今まで見てきたように、報道において多くの情報は真実のそれであるとはかぎらない。伝えられる情報を鵜呑みにせず、場合によっては取捨選択をする、そのような能力が戦時に限らずとも今後必要になってくるだろう。



脚注

(注1)フィリップ・ナイトリー著/芳地昌三訳「戦争報道の内幕」1987 233頁
(注2)木下和寛「メディアは戦争とどうかかわってきたか」朝日新聞社2005 225頁



参考文献

石澤靖治「戦争とマスメディア」ミネルヴァ書房2005
木下和寛「メディアは戦争とどうかかわってきたか」朝日新聞社2005
武田徹「戦争報道」ちくま新書 2003
フィリップ・ナイトリー著/芳地昌三訳「戦争報道の内幕」1987