イラク攻撃理論とブッシュ政権の課題
(法学部1年)





目次




1.はじめに

2.イラク戦争開始までのアメリカの動きとイラク攻撃の論理

3.ブッシュ政権のイラク戦略

4.民主化によるイラクの犠牲

5.結論



1.はじめに


 イラク再生への重要な道しるべとなる新憲法の草案づくりが、予定されていた期限が過ぎ難航している。旧政権を支えたスンニ派と新政府の主導権を握ったシーア派やクルド人勢力との間で、厳しい対立が今もなお続いている。その対立を象徴するかのように、バグダッド中心ではテロが頻繁に起き多くの市民が犠牲になり次々と病院へ運ばれていく。このような惨事が続く中、2003年に開始されたアメリカによるイラク攻撃はどういった意義があったのだろうか。本稿では、イラク戦争がどうしてアメリカに攻撃されなければいけなかったかについて検討していきた。そのうえで、イラク戦争の正当性を評価し、さらには民主化によるイラクの犠牲を調査することで今後のアメリカ(ブッシュ)政権の課題について考えてみたい。

 以下では、第一に、イラク戦争が開始される経緯、つまりアメリカがいかにしてイラク攻撃を行う正当な(!?) 論理を築いていったのかについて検討する。第二に、イラク攻撃に固執するブッシュ政権の戦略について検討する。第三に、民主化によって犠牲になったイラクの現状を検討する。




2.イラク戦争開始までのアメリカの動きとイラク攻撃論理


 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生した。この同時多発テロによって、ブッシュ政権のイラク観は根本的に変わった。つまり、イラクが98年以降の査察空白を利用して、再び大量破壊兵器開発に乗り出し、それを米国及び国外に展開する米軍基地を攻撃すてくる可能性、さらにはこうした兵器をアルカイダなどテロ組織の手に渡し、米国を攻撃する可能性を極めて現実性のあるものにしたのだ。そこでブッシュ大統領は、200年9月の演説でフセイン政権に対し、全ての大量破壊兵器の即時無効条件廃棄を要求した。イラクがこれを受け入れない場合には、「安保理決議は執行されなければならない。平和と安全のための正当な要求が満たされない場合、行動は避けられない」と述べ、武力行使も含めた強制的手段をとる考えも表明した。これを受け米国は前述した内容を安保理に提示した。こうしたブッシュ政権の動きに、フセイン政権はそれまで全く無視してきた査察について交渉を開始しようとした。一旦は査察の受け入れの前提条件を要求してきたが、米英が強制査察決議案の採択に動き始めると、フセイン政権もことは深刻な局面であることをはっきりと意識し、「即時、無条件、無制限」査察の受け入れを認めた。これによりフセイン政権は決議1441に基づき、大量破壊兵器開発に関する申告書を国連に提出した。申告書は膨大な量となったが「イラクには大量破壊兵器は存在しない」という主張に尽きる内容だった。さらにフセイン大統領はあの手この手で戦争回避の工作を行った。

 しかし、イラクが提出した申告書についてブッシュ政権は、申告書には「重大な遺漏」があり、決議1441への「さらなる重大な違反」 にあたるとの見解を示し、事態は一気に緊迫する。安保理内部でも、イラクが正確な申告を怠ったとの認識は共有された。こうして、国際社会に戦争不可避の空気が漂う中で、ブッシュ政権は湾岸への兵力増強を本格化させた。

 これに対し、ブリスクUNMOVIC委員長は査察に関する中間報告を安保理に提出し、依然イラクの協力姿勢は不十分とした、同時に、査察妨害や大量破壊兵器の存在を示す決定的証拠がないとも言及、「灰色」の見解を示した。こうした中、立ち入り拒否などの明白な「重大な違反」や「決定的証拠」が見つからない現状では、武力行使を正当化する理由はなく、査察結果の正式報告以降も査察を当面継続すべきだ、との意見が国際社会で強まった。

 しかし、こうしたイラク寄りの流れがあるにも関わらず、パウエル国務長官のイラク側の兵器隠しの実態の訴えからもうかがえるように査察打ち切りを狙う米国の意図は明らかだった。そして、2003年3月には国際社会の同意を得ないまま米国はイラク攻撃に踏み切った。しかし、後に明らかにされたようにイラクには大量破壊兵器は無かったと報告され、米国は各国から強い非難を浴びた。

 ブッシュ政権は、大量破壊兵器のほかイラクを攻撃する論理として「先制攻撃」を挙げている。これについて詳細に論じているのは、「ブッシュ・ドクトリン」のなかの第5章である。「先制攻撃」について、国際法的に見て「差し迫った脅威」の存在がなければ正当化されな、という見方があることを認めながらも、現代においては、「差し迫った脅威」の「概念」を新たな敵の「能力と目的」に照らして適合させなければならない、と強調している。つまり、@ならず者国家とテロリストは「容易に隠蔽でき、密かに攻撃することが可能で、しかも警告なしに使うことができる」大量破壊兵器で世界を脅迫しようとしている、Aその攻撃目標は米軍と民間人であり、戦争法規の規範に違反する、Bテロリストが今後、大量破壊兵器を使用して、同時多発テロのような事件を起こせばその被害は計り知れない―という現実がある以上、「敵の攻撃を未然に防ぐために、米国は必要なら先制攻撃を起こす」という、新たな自衛の論理を展開している。まさに、これこそ、イラク攻撃の論理にほかならない。

 しかし、こうした恣意的な先制攻撃論について当然米国内で批判が相次いだ。また国際社会は総じて当惑し、欧州諸国からは米国至上主義に対する反発がますます強まった。特に、イラクが同時テロに関与した明確な証拠がない限り、イラク攻撃を正当化する理由はないとの考え方が大勢を占めた。また、将来的な不安を指し示すことで批判する考え方も取り上げられた。つまり、先制攻撃を「規範」として認めてしまえば、例えば、核保有国となったインド、パキスタンが将来、お互いを「差し迫った脅威」と認識し、先制攻撃論を援用しかねないというものである。さらに、アメリカが指摘する「差し迫った脅威」についても問題点がある。確かに、湾岸戦争前、100万の大兵力を誇ったイラク軍も、湾岸戦争で米軍の空陸戦によって徹底的に叩かれ、現在は約40万人規模に減少している。米軍を攻撃できる弾道ミサイルも保持していない。湾岸米軍への脅威についても同様の問題点が挙げられている。主力戦車はなお約2200両を保持し、作戦機も約300機あるとされているが、いずれも主に旧ソ連製の旧式だし、空軍機で稼動できるのは5割程度のものしかない。海軍にいたっては湾岸戦争で事実上、消滅している。最新鋭装備を常に更新している米軍に敵ではない。したがって、国際法の伝統的考えに立てば、イラクを米軍にとっての「差し迫った脅威」と認定することはやはり無理がある。

 以上では、様々な問題点はあるもののイラクの大量破壊兵器の保持とそれによる「差し迫った脅威」から先制攻撃の必要性を唱えることで、米国はイラク攻撃の正当性を示し、国連の支持なしに単独で行動していることを明らかにした。そこで次に、この攻撃論の根拠となるブッシュ政権の戦略について検討する。



3.ブッシュ政権のイラク戦略


 第2章ではアメリカがイラクの大量破壊兵器、さらには先制攻撃を唱えてイラク攻撃を正当化しようとしていることを示した。ではこういった攻撃論を支える根拠はいったいどこにあるのだろうか。

 さまざまな根拠はあるが、その中の一つに中東全体の民主化推進がある。反米、パレスチナ過激派支援、強権政治、そして大量破壊兵器開発―米国にとって負の要素をほぼすべてかね揃えて、中東における独裁政権の代表であるフセイン政権を強制退陣させ、強力な親米政権を樹立、これを突破口に、中東全体の民主化を順次図っていくという戦略である。米国にとって極めて不安定な地域である中東を「民主主義」導入によって体質改善を図り、同時に過激なテロを生む政治的土壌を除去していこうというシナリオである。これは、中東を米国の気に入るように変えていこうとするものであり、米国の国益拡大だけでなく、中東の大きな問題となっているイスラエルの長期的安全保障の確立を狙ったものであることは容易に伺える。米国は冷戦時代から中東地域で強権的な独裁国家であろうが腐敗した王政国家であろうが、親米で国内過激分子を押さえ込んでさえいれば、民主化をあえて迫ることはしなかった。しかし、この政策は同時テロの経験によって、腐敗し、国民の不満を省みない独裁体制こそ、過激派やテロリストを生む元凶であるという認識に変化したのである。そこで、ブッシュ大統領は「国家安全保障戦略」の中で、政治的・経済的自由、他国間の平和的関係、人間の尊厳の尊重、の現実を目標とし、これを達成するための中東における戦略が「民主化推進」という位置づけになるとした。

 またブッシュ政権は先制攻撃論を進める際に「ミュンヘン」を持ち出した。第二次世界大戦勃発直前の1938年9月、英チェンバレン、仏ダラディエ両首相がナチス・ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニとミュンヘンで会談し、チェコスロバキアのズデーテン地方割譲を求めたヒトラーの要求を、ドイツとの戦争回避のために認めた、いわゆる「宥和政策」である。しかし、翌年、ヒトラーのポーランド侵攻によって大戦に突入したため、この宥和政策は後世にまで非難されることになったのだが、ブッシュ政権はこの宥和の危険性をバグダッドに適用したのである。もちろん1938年の欧州と2002年のイラクをめぐる情勢は多くの部分で異なってはいる。当時のナチス・ドイツと英仏、現在のイラクと米国の軍事力の相対関係を比べれば、明らかに前者は拮抗し、後者は圧倒的に優位に立つ。しかし、ブッシュ政権は、フセイン大統領をヒトラーになぞらえながら、宥和の危険性を訴えるばかりである。

 フセイン政権打倒戦略の背景にはいくつかの理由がある。一つは、イラク自体が持つ最大の戦略的資産である原油資産の確保、それによる油価の安定、つまりエネルギー戦略である。ブッシュ政権は「石油のために戦争をするのではない」としているが、フセイン打倒の裏に、米国の将来に向けたエネルギー戦略が大きく影響することは間違いない。さらに、ブッシュ大統領を始め、政権幹部の多くが石油産業との密接な関係を持っていることからもうかがえる、と岡本氏は言う(注1)。

 以上のように、第3章ではイラクへの先制攻撃論の根拠となる米国の中東戦略の一部を明らかにした。では、次にフセイン政権が倒壊した後のイラクの実態を検討する。



4.民主化によるイラクの犠牲


イラク攻撃の際には、最大の問題となったのが2章でも記述したように大量破壊兵器の存在の有無をめぐってのものだった。しかし、フセイン政権が崩壊すると、問題の関心は、独裁政権後の、イラクの民主化の樹立にシフトしていった。
世界各国にはよくフセイン政権下での残虐行為は伝えられてきたが、アメリカ占領後の暫定政権下で起こっている残虐な行為は、暫定政権が民主主義の樹立を目的とするため、あまりよく知られていないのが実態である。

 実際には、イラク市民の犠牲者は昨年では1万2000人、軍人の犠牲者は5000人から6000人にのぼると言われている。いずれにせよ昨年以降、犠牲者の数が増えるいっぽうであり、現在の数はその数字をはるかに上回るだろう。直接の死者だけでなく、逮捕・拘禁され、虐待されたイラク人の犠牲者は1万人もいる。連合軍の卑劣な逮捕や侮辱的行為なども実際にはあるが、特に世界的に注目されたのがアメリカCBSが報道したアブ・グレイブ刑務所の拷問であった。

 イラクにおける外国人誘拐、拉致、殺人などは有名になっているが、この問題が一般のイラク人にも起こっていることはあまり報道されていない。これは、戦後処理の失敗、不十分な治安がこうした問題を引き起こしていることが容易にうかがえる。さらに、被害の拡大として戦争で使用された劣化ウラン弾による被害の拡大も指摘されている。

 民主主義の設立のためにこれほどの多くの犠牲者を必要とするのは、極めて逆説的な話である。わずかばかりの民主主義を実現するという口実のもとにどれだけの民衆が犠牲になるのかがイラク戦争によって露骨に示された。以上、本章では様々なアメリカの占領統治政策には不手際が目立ち、本気でイラク民主化に取り組んでいるのかという疑問を指摘した上で、イラク攻撃の正当性の主要な論理、つまりイラクの民主化の不安定な要素を明らかにした。



5.結論


 これまで本稿では、イラク攻撃の正当性と今後のブッシュ政権の課題という問題意識から、一連のイラク攻撃について調査してきた。

 アメリカはイラク攻撃を主張する際、イラクの大量破壊兵器の存在の有無を根拠に強く主張してきたが、実際には大量破壊兵器は無かったと調査員によって証言されるというような事態が生じ、イラク攻撃の必要性が無かったと非難されている。さらに、第3章でイラク攻撃の根拠となる論理を幾つか挙げているが、中でも民主化推進論には第4章に指摘されたように大きな問題点があることがわかった。さらに、民主化論をはじめとするイラク攻撃を正当化する論理にはネオコンの強い影響力がかかっている。特に、現在のネオコンの国家戦略はテロとの戦争、ユニラテラリズム、先制攻撃論、唯軍事力主義、中東民主化論となっている。2004年の大統領選挙でのブッシュの勝利宣言は、米国の戦略と進路の正しさの自己認識を意味し、今のアメリカには、自らの力や道義の限界を自覚したうえでの、自己検討と自己抑制はできないように思われると、古矢洵氏は指摘している(注2)。彼が言うように、アメリカは自国を客観的に見ることができない危険性を持っている。さらに、アメリカが世界の警察官であるという考えは、本稿で示してきたイラク戦争の論理や戦後処理で国際的支持を得られなかったことを証明している。このように国際社会とイラク内の双方で完全に信頼を失って、かつ自国を客観的に見られないブッシュで政権は、今後単独政権主義、先制攻撃などの戦略をどう展開していくのかがこれらの解決の重要な鍵となっていくだろう。




脚注

(注1)岡本道郎 『ブッシュvs.フセイン』中公新書  2003年 184頁
(注2)古矢旬『アメリカ 過去と現在の間』岩波書店 2004年 177頁



参考文献

 酒井啓子『イラクとアメリカ』 岩波新書 2002年
 的場昭弘「ブッシュ大統領二期目と世界」『アソシエ』No.15、2005
 ロバート・ケーガン『ネオコンの論理』 2003
 上田耕一郎『ブッシュ新帝国主義論』 2002