【第17回】一橋哲学・社会思想セミナー


【日 時】 2019年7月12日(金) 13:15-18:00

【場 所】 国立東キャンパス 第三研究館3階 研究会議室    アクセスマップ キャンパスマップ

講演者】  森功次(大妻女子大)、村山正碩(一橋大学)

【セミナー内容】

(1)個人報告
村山正碩(一橋大学) 「表出とは何か、像表出とは何か」

(2)レクチャー講演
森功次(大妻女子大) 「専門家の意見はわたしの美的判断にどう関わるのか―
                ―理想的観賞者と個人的判断との関係をめぐる現代の論争とその展開」

【要旨】
村山正碩「表出とは何か、画像表出とは何か」

 画像は情動や思考といった心的状態を表出できる。絵文字からロマン主義絵画、報道写真に至るまで、その事例を思い浮かべることは容易なはずだ。しかし、画像が
心的状態を表出するとは、正確にはどのような事態なのか。これが本発表の主題である。
表出に関する哲学的研究では、表出的現象として真正の表出(genuine expression)と表出性(expressiveness)の二つが区別されてきた。喜びを感じると、私は笑顔
になるが、その笑顔は私の喜びを伝える。このように、何者かの心的状態を伝達するものが真正の表出である。表情、ガッツポーズのような身振り、「腹減った」のよう
な発話など、真正の表出は第一に人間の行動に適用される。一方、サモエドはその顔つきのおかげで喜んでいるように見えるが、実際にはその顔つきはサモエドの心的
状態を伝えるものではない。このとき、サモエドの顔つきは喜びの真正の表出ではないが、しかし喜びの表出性をもつとされる。悲しく聴こえる和音や陰鬱に見える光景
など、表出性をもつ事物の種類は非常に幅広い。

 分析的伝統では、音楽の表出性という問題に対する芸術哲学の熱意を除けば、表出的現象の本性は必ずしも盛んに探求されてきたわけではない。近年この状況を
打破し、表出的現象について体系的な理論を構築したのがミッチェル・グリーンである。グリーンはシグナリング(signaling)と示し(showing)の概念を用いて
真正の表出を、示しの概念を用いて表出性を説明しようとする。本発表の前半では、グリーンの理論を(画像表出への適用を念頭に置いて)紹介し、その説明力を検討することになる。

 本発表の後半では、前半で得られた真正の表出と表出性の理論を実際に画像表出に適用する。その準備として、表出的現象をよりうまく捉えるため、
準表出(quasi-expression)の概念を手始めに導入する。これは真正の表出ではないが、単なる表出性の所有でもない表出的現象のあり方を捉える。
そして、画像世界(pictorial world)の概念を導入することで、画像表出の諸相を明らかにする。


森功次「専門家の意見はわたしの美的判断にどう関わるのか――理想的観賞者と個人的判断との関係をめぐる現代の論争とその展開

近年の分析美学では、理想的観賞者、および美的価値についての従来の理論に対して、見直しを迫る論考が数多く出てきている(この背景には、倫理学領域における「理由(reason)」概念の見直し、および徳理論(virtue theory)の隆盛、がある)。本講演では、現代のこうした動向を紹介しつつ、専門家の意見はわれわれにどう関わってくるのか、という問題について考察したい。

本講演ではまず、近年の論者が論敵として挙げる、伝統的な理想的観賞者説、および快楽主義的美的価値論(hedonistic theory of aesthetic value)についての快楽主義的立場(これはしばしば「美的価値のdefault theoryデフォルトセオリー」とも呼ばれる)の論点を紹介する。この立場は、古典的にはヒューム、そして現代ではJ.レヴィンソンが代表的な論者として挙げられる。レヴィンソンはいくつかの論考を通じて、ヒュームを読み解きつつ理想的観賞者説のはらむ問題について指摘しつづけており、その改訂作業を行ってきた。レヴィンソンの指摘してきたいくつかの問題点と、彼が示唆する改善案を紹介するのが本講演での最初の作業となる。

次に、M.キーラン、D.M.ロペス、J.シェリー、N.リグルらの論考を参考に、批判者側の論点をまとめていく。ロペスは2018年の著作Being for Beautyにおいて、ネットワーク説(network theory)という新たな理論を提出しつつ、「美的にどこでもないところからの眺め(the view from aesthetic nowhere)」から美的価値を語ることを批判し、各人の個性を重視する「ここからの美的眺め(the aesthetic view from here)」から美的価値を語るべきだと提案している(本講演ではレクチャーという観点から、このロペスの議論をできるだけ紹介していきたいのだが、ロペスの理論はかなり複雑なので、その論点をどこまで丁寧に紹介できるかは心もとない部分もある)。また、キーランやシェリー、リグルも、それぞれ理想的観賞者説、快楽主義的美的価値論を批判し、改訂を迫っている。デフォルトセオリーに集中砲火が浴びせられるこうした論争状況について、報告することが本講演の第二の作業となる。

最後に、こうした状況を受けて、われわれは専門家の意見をどのように聞くべきなのか、という点についていくつかの指摘を行いたい。理想的観賞者の存在が疑わしくなり、さらに美的価値がわれわれに快を与えるかどうかも疑わしいとなれば、われわれは専門家の意見から何を得られるのだろうか。専門家の意見はもはや「遠くの世界の一参考意見」にしかならないのだろうか。専門家の意見を教えていた授業・教育は、根拠を失うのだろうか?

現時点で提出しようと考えている暫定的な答えは、以下のようなものとなる。

理想的観賞者説や美的価値のデフォルトセオリーが強く見直しを迫られているとはいえ、われわれは専門家の意見を聞かなくてもよいということにはならない。われわれは、そこで論じられている対象がいかなる美的プロファイル(aesthetic profile)を持つのか、そして、その美的プロファイルと関わる中で専門家がいかなる能力(competence)を発揮し、いかなる達成(achievement)をなしえているのか、を考慮しつつ、専門家の意見に耳を傾けるべきなのである。そしてわれわれ各自が専門家から何を学べるかについては、われわれ各自が自身の美的個性と照らし合わせながら検討していかなければならない(し、その出会いと学びは、そこから先のわれわれの美的個性・美的バイオグラフィーを形成していく)。

最後に、この考察から得られる教訓について、二点述べたい(この二点については、基本的にロペスの主張に乗っかるものであり、特にオリジナリティのあるものではない)。

まず、この考察は批評文の読み方について、ひとつの立場を示唆する。われわれは専門家の提出する命題をただ知るだけではないし、自らの判断にこだわるという美的自律性の確保にもそれはそれで大事な意味はあるのだが、それでもわれわれは自分と近しい美的領域で優れた能力を発揮している専門家の意見には耳を傾けるべきなのである(逆に、自分にとってあまりになじみのない領域の批評文を読む場合には、そこで提示される判断・観賞法に従うべき理由は弱くなる。われわれは、そこで発揮されている能力が自分に馴染みある領域(もしくは自分にとって今後手を伸ばしうる領域)にどれくらい応用可能かについて、よりいっそう配慮せねばならない)。

2つ目の教訓としては、公教育における美的(芸術)教育を支える根拠について、再考せねばならない、という点である。われわれは、なぜ特定の芸術種を教えるための公的支出をすべきなのか、という問題を考えるさいに、もはや従来の理想的観賞者説や快楽主義的美的価値論を安易に前提にすることはできない。だがそれでも、現状の介入主義的教育ポリシーが完全に理論的根拠を失うわけではない。美的教育については何もせずに放っておくべきだ、ということにはならない。われわれは、介入主義的な教育方針を採るのであれば、より応用効率の高い能力が発揮される美的領域はどこか、という観点から教育方針を考えていくべきなのである。


【主催者コメント】
今回は、日本における分析美学研究の実質的リーダーの1人である森功次先生をお招きして、分析美学の特定のテーマに関する状況解説をしていただきつつ、ご自身の議論を展開していただきます(「レクチャー講演」となっている所以です)。また、同分野の若手研究者である村山さんにもご報告をいただき、専門家同士の間で議論を深めてもらう予定です。ご両名共、丁寧にわかりやすく論点を説明していただける方々ですので、専門が異なっていたとしても問題なく内容を理解できると思います。参加費無料&事前申請不要ですので、お気軽にご参加ください。