【第11回】一橋哲学・社会思想セミナー


【日 時】 11月28日(火) 15:15 開始

【場 所】 国立東キャンパス 第3研究館3階 研究会議室  アクセスマップ キャンパスマップ

【講演者】 佐藤 駿(東北大学)

【タイトル】 経験、表象、表現―現象学的表現主義への試論

【講演要旨】
 本発表は,現象学的アプローチにもとづく表現主義的哲学の可能性を点描する
 (1)まず知覚経験と知識の関係を取り上げて,私が「知覚的知識に対する表現主義的アプローチ」と呼ぶものを提示する。マクダウェルらの議論に言及しながら,ある経験がその経験に基づく判断の内容と同じ表現形態を持つということ,すなわち文というカテゴリーに属する表現において経験と判断が一致するという点に注目する。そしてこの事実を,フッサールの見解を手がかりとしながら,判断とは経験を論理的に利用可能な形態へと形成する(コード化する)ものだというアイディアへと展開したい。知覚的知識というのは,知覚経験にそれ自体で組み込まれている独特な理解を(ブランダム風に言えば)明示化したものにほかならないというのがその着想である。
 (2)このような試みは,経験と判断の関係を表現という構造の全体のうちで特徴づけることになるが,これは〈正しい判断〉という考えが論理的にはもはや説明できない地点にまで私たちを連れてゆく。そこで「判断力」の可能性の問題に触れながら,言語と経験の関係について上記の考えが含意するところを描き出そう。経験が判断を媒介として表現されるということは,経験がすでに判断に利用可能な特徴と構造をそれ自身として具えているということを含意する。この構造を再び現象学を手がかりとしながら記述しつつ,経験が言語(概念体系)からは独立な機構を持つということを示してみたい。
 (3)表現された経験は,繰り返される批判と探究のうちで客観性という性格を持ち,この批判と探究の全体は合理性(「理性」)という性格を持つ。ローティは,近代哲学に浸透している表象主義的発想を批判して,探究の制約となるのは会話だけであると主張した。表象主義とともに経験という概念もまた捨て去られる。「現象学的表現主義」とでも呼びうる上述のアイディアは,非表象主義的でありながら,しかし経験という概念をしかるべき意義と重要性のうちに取り戻すひとつの試みとして特徴づけられるだろう。いささか大胆な構想となるが,こうしたアイディアの全体を整理しながら実地に提示することによって,現象学がプラグマティズムを典型とする他の非表象主義的哲学と融合しながら,展開してゆくひとつの可能性をほのかにでも示すことができればと考えている。


【講演者紹介】

佐藤駿氏は、『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学』(東北大学出版会、2015)に見られるように、地に足のついた現象学研究を展開する傍らで分析哲学との接合を積極的に進めてきた気鋭の現象学者である。氏の丁寧かつ明快な議論の仕方は、必ずしも現象学を主要な研究テーマとしていない参加者にとっても有益なものとなることが期待される。