【第10回】一橋哲学・社会思想セミナー


【日 時】 11月14日(火)15:15~ (18:00ころ終了予定)

【場 所】 国立東キャンパス 第3研究館3階 研究会議室  アクセスマップ キャンパスマップ

【講演者】 山口尚(京都大学)

【タイトル】 分析哲学研究の哲学的意義―自由意志の不在をめぐる議論に即して

 【講演概要】
「分析哲学研究の哲学的意義は何か」と本講演が問うことはない。なぜなら「意義」とは対象に内在する固定的な何かだとは思われないからである。私はむしろ「分析哲学研究を哲学的に意義あるものにするためにはどうすべきか」と問いたい。結局、私たちが「分析哲学」をどう捉え、それをどうしたいのか、あるいはそれをどうすればよいのか、こそが問題なのである。かくして本講演は、分析哲学研究の過去を振り返るだけでなく、同時にその将来を思い描くことにも取り組む。分析哲学をより意義深いものとして更新する、というのが私のやりたいことである。
 
だがそもそも分析哲学とは何か――これについては触れておく必要があるだろう。例えばローティは1970年代の後半に、「分析哲学者」という名称はすでに本質記述的な内容を失い、「それは単にある伝統の成員たること――ある著作には精通しているが他の著作には精通していないこと――を表わすに過ぎない」ものになった、と指摘したが(「認識論的行動主義と分析哲学の脱超越論化」、冨田恭彦・野村直正訳、竹市明弘編『分析哲学の根本問題』、晃洋書房、1985年、363頁)、この診断は現在ますます妥当するものになっている。例えば近年の日本では(他国でもだいたい同じであると思う)、ネイサン・サーモン、ダンカン・プリチャード、ブライアン・ロアー、タムラー・ソマーズ、マイケル・デヴィット、ジェイムズ・ウッドワード、リンダ・ザグゼプスキー、ヒュー・プライス、リチャード・ジョイス、ジョナサン・シャッファーやこの周辺のひとびとの論著を主な参照項としつつ研究を進めているひとが「分析哲学者」と呼ばれているが、こうしたひとびとの共通点は〈ラッセルとムーアの子孫であること〉ぐらいであろう。本講演も「分析哲学(者)」という語をこうした系譜学的意味で使用する(この意味で私も分析哲学者である)。
 
本講演は、《自由意志や道徳的責任は存在しない》というテーゼをめぐる分析哲学的議論の検討を通じて、「そうした議論をどう捉えれば最もうまくその意義を把握できるか」を考える。具体的には、問題のテーゼの正しさを証明しようとするゲーレン・ストローソンと同じテーゼの重要性を解明しようとするゲイリー・ワトソンのそれぞれの姿勢を比較し、《論証よりも理解にウェイトを置いた方が分析哲学の真価はうまく掴める》と指摘したい。
 
文献
Strawson, Galen, 1994. “The Impossibility of Moral Responsibility,” Philosophical Studies, 75: 5-24, reprinted in G. Watson (ed.), Free Will, 2nd ed., Oxford: Oxford University Press, 2003: 212-228.
Watson, Gary, 1987. “Responsibility and the Limits of Evil: Variations on a Strawsonian Theme,” in F. Schoeman (ed.), Responsibility, Character and the Emotions, Cambridge University Press: 256-286, reprinted in G. Watson, Agency and Answerability, Oxford: Clarendon Press, 2004: 219-259.


 【講演者紹介】
講演者である山口尚氏は、著書『クオリアの哲学と知識論証』(春秋社、2012)において「良質の分析哲学」の典型とも言える詳細な議論を提出している分析哲学者です。他方で、同氏は分析哲学的なスタイルに盲従することなく、その問題点や限界についても積極的に議論を展開しています。この意味で、「分析哲学の哲学的意義」というテーマを論ずる上では最適の講演者の一人と言えるでしょう
 
なお、本セミナーは2017年度日本哲学会大会シンポジウム「哲学史研究の哲学的意義とは何か?」の議論及び問題提起を踏まえたスピンオフ企画であり、いわゆる「分析哲学」の研究スタイルに関してもその意義を問い直そうとするものです。本セミナーでは、分析哲学について日頃から疑問や不満を持っている方々も含めて、活発な議論ができればと考えています。