酔芙蓉のひそやかな抵抗−「おわら風の盆」にみるポスト観光

『国際交流』Vol.23 No.1(通巻89号)pp.58-63
Copyright 長尾洋子 2000


富山県八尾町は高橋治の小説『風の盆恋歌』で全国的に知られるようになった祭り「おわら風の盆」の舞台である。この祭りの行なわれる9月1日から3日の間には、町の人口の10倍以上にあたる20万あまりの観光客がひしめき合い、町の辻々や競演会場、料亭などで演じられる芸能「おわら」を堪能する。筆者は1991年に富山県八尾町の知人宅を訪問した際、偶然「おわら風の盆」に出会い、住民のアイデンティティー形成や現代における文化の生成過程など少しずつテーマを変えながら、現地調査を続けてきた。

「おわら」とは、言い伝えによれば17世紀半ばごろ、町の創建に関する重要な文書が町外に持ち出されたのを再び取り戻したことを祝って、歌い踊りながら町内を練り廻ったのを起源とする芸能であり、その芸能に託された一種の美学である。うたは時代によって変化をとげながら伝えられてきたが、稲の作付けから取り入れまでを舞踊化した「豊年踊り」、かかしを思わせる鋭角的な動きが特徴の「男踊り」、振り付け当時は芸者にだけ稽古をつけたといわれる艶やかな「女踊り」を交えた現在の様式の原形ができあがったのは、昭和初期のことである。岐阜県境に連なる山々と富山湾に向かってひろがる平野のちょうど交わる地点にあたる八尾町は、かつて交易の中継地として栄え、春の曳山祭り、初秋の「風の盆」など行事があるたびに、周辺の村に住む人々が見物にやってきた。しかし今では全国的に知名度も上がり、中年・熟年層を対象としたバスツアーの人気スポットで、見物もままならぬほどの賑わいである。

◆ ポスト観光と酔芙蓉 ◆

混雑の中ではなかなか目にとまらないかもしれないが、それでも年配の女性観光客がある家の軒先で立ち止まり、「あら、スイフヨウだわ。育てるの大変なのに、よく手入れされているわね」などというのを聞くと、その聞きなれない植物の名に興味をそそられるであろう。

スイフヨウは、漢字で「酔芙蓉」と書く。直径7〜8センチほどの、どちらかといえば大ぶりの花だ。咲き始めは白色、次にうす桃色、そして紅色に変わり、一日でしぼんでしまう。色の変化を酒の酔いにたとえて酔芙蓉の名がついた。もともと九州など温かい土地で育つのだが、本稿では北陸の山間の町、八尾にさく酔芙蓉にスポットライトをあてたい。なぜなら、八尾の酔芙蓉ほど繊細なかたちで観光客と地元住民、そして彼らを媒介するメディアや行政機構をつなぐものはないからだ。そして、観光が前提としている日常と非日常の異なる次元を、酔芙蓉は意外な回路で結んでいるように思えるからだ。

「観光」とは、これまでV.スミスのゲスト−ホスト関係を軸としたアプローチ以来さまざまに定義されてきたが、本稿では「特定の場所イメージの増幅によって触発される移動が利益を生む娯楽産業、およびその移動に伴う非日常性の享受」を観光とよぶ。そして、場所イメージをめぐるエコノミーにおいて、他の産業や概念が観光を呑み込んでしまうような状況や、観光を成立させている日常性と非日常の区分を無化してしまう状況を「ポスト観光」としたい。

「おわら風の盆」をめぐる場所イメージや日常−非日常を問題化したときに頭をよぎるのは、八尾で宿を共にしたある雑誌記者と交わした会話である。彼女によれば、八尾には小説『風の盆恋歌』よろしく、芙蓉がやけに目に付くというのだ。とはいえ、小説ではいわくつきの一軒にのみ植えられているから意味を持つのであって、こうもたくさん植えてあってはかえって腑に落ちない、と言いたげであった。それ以来、花の栽培という日常的な行為と、地元住民の観光客への一見媚びているかにもみえる態度、大衆小説を含むマスメディアのイメージ増幅作用が、きわめて微妙な連関をもっているのではという予感を抱いてきた。本稿では観光現象としての「おわら風の盆」のなかに、酔芙蓉のモチーフを手がかりに、ポスト観光の要素を探ってみたい。

◆ 日常性をつなぐ密やかな回路 ◆ 

1993年、八尾町商工会と観光協会は「おわら風の盆」の件で問い合わせのあった人々に対して、「おわら風の盆」の感想と八尾町の観光振興について、自由記述式のアンケートを行った。288件中、198通の回答が得られた中から、内容の重複を避ける形で50通ほどがそのまま「意見文書」として小冊子にまとめられている。アンケートの回答というと機械的な反応を想像しがちだが、実際に読んでみると時候の挨拶や回答者の日常風景もおりこまれていて、さながら町に宛てた手紙のようだ。その中で、実に21通の回答で小説「風の盆恋歌」、それをもとにして作られた演歌、テレビ番組に言及している。マス・メディアによって拡散された小説のイメージが、いかに多くの人々を八尾に向かわせたかは想像に難くない。

さて、その小説は、若い日にすれ違いに終わってしまった男女が数十年後にその愛を再び育むべく隠れ家を手に入れるという、いわゆる大人の不倫の物語である。八尾町でももっとも奥まった諏訪町通りにその隠れ家たる古い町屋作りの家があるという設定で、その玄関先に酔芙蓉は植えられる。小説中では恋の展開を予示したり、恋人たちの心理を代弁したり、「酔って散る」花として不倫を象徴したり、と重要な役割を与えられている。

小説「風の盆恋歌」が発表されると、早速その年に同名でテレビドラマ化され、現地ロケが行われた(翌年全国放映)。舞台となった諏訪町通りの家の玄関先には、もちろん、酔芙蓉が植えられた。そしてこの年、一連の出来事にちなんで、100軒あまりある諏訪町通り沿いの各家に、町役場が酔芙蓉の鉢植えを無料配布したのである。とはいえ、実際に配ったのは諏訪町通りの住人の中からえらばれた自治会長である。町役場の存在を感知しないまま鉢を受け取った人も多いであろう。逆に、特に好きでもない花を押し付けられて育てきれなかった人もいるらしい。ともあれ、この無料配布は数年後には周辺の町内[マチ]もまきこんだ酔芙蓉の流行をもたらし、以来15年たった今でも、諏訪町通りに面する何軒もの家々が栽培を続けている。中にはこれをきっかけに、さまざまな種類の芙蓉を育てて、芙蓉の栽培がすっかり日常生活の一部になってしまった人もいる。

日本でマス・ツーリズムが開始されて40年あまり。観光についても一億総批評家化がすすんだ今日、アンケートでも自らの体験を「[八尾で接した]自然の美しさと豊かな人情が現代忘れがちなものを、私たちの乾いた心を潤してくれるのではないでしょうか」と、他人事のように語る回答が目に付く。その中で、「酔芙蓉の花の数を数えながら風の盆を待ちわびている」「花が咲くと夫婦で競うように写真にとっている」といった記述は、批評家としての観光客には回収され得ない、観光行動の余話の存在を暗示させる。観光客の日常と彼らを迎える側の人々の日常は、マスメディアが介在しながらも、それとはまったく関係のない次元でつながっているのである。そこには、観光を通じて消費される非日常=「風の盆」の一部として酔芙蓉があるのではなく、それぞれの日常の風景として共振する酔芙蓉がある。

◆ ひとつではない、イメージ奪還の試み ◆

「おわら風の盆」を観光の目的地に仕立てているのはマスメディアばかりではない。八尾町の行政や商工団体も大きく関与している。1980年代に入ってから、八尾町では観光をめぐってさまざまな変化が起きた。バスツアーの観光客が最初に訪れ、入門ビデオ鑑賞と踊りの基本を手ほどきをうける「曳山おわら会館」が竣工し、ほぼ時を同じくして諏訪町通りは「日本の道百選」に選ばれた。以来、諏訪町通りは電線を地下に埋設したり、道路舗装を石畳風にしたり、自治体がイニシアティブを取って景観の整備にあたった。また個人レベルでも、家の改築に際して町屋風の構えを意識して行ったりした。諏訪町通り以外にも、橋や駅などの建造物に踊り子の姿や編み笠といった意匠が取り入れられたり、おわら節の歌碑が20個所以上に建てられたりしている。「風の盆」当日には競演会が繰り広げる地元小学校の校舎も和風に改築され、舞台の設置されている運動場につながる階段は、見物客の座席としても使えるようにしてある。さながら八尾町自体のテーマパーク化が進行しているのではないかと見紛うばかりである。

ところが、行政資料をひもといてみると、やや意外な実状が浮かび上がってくる。一見テーマパーク化のようにみえる変化は観光振興が第一の目的ではなく、住環境整備の一環として行われているらしいのである。八尾町において、体系的な住環境の整備の中核をなすのが、1987年以降次々に策定されたHOPE計画および関連の施策である。これは、地域の風土を生かした住居や町並みを整備していくために建設省が1983年に開始し、大きく反響を呼んだ施策の活用である。実際に計画をたてるのは自治体で、これを国が助成し、事業補助金の優先的な割り当てや融資の増額を行う仕組みになっており、地域の自由な発想を刺激し、その土地に伝えられる工法や地場の材料を生かした住宅生産が奨励される。しばしば批判されるトップダウン型、金太郎飴型の開発とは異なり、住民、文化人、建築家、建設業者、行政関係者らが共同で地域の居住について多角的視野から話し合い、提案する機会を生み出したといわれる。

八尾町が中心市街のみならず公営住宅や新興住宅地、山間集落、個々の住宅も視野に入れた総合的なHOPE計画および関連の施策を開始した背景には、高度経済成長期を経て生活様式が急速に変化したという自覚があった。すなわち、古くからの市街地では駐車場の不足、雪対策の遅れ、生活排水設備の不備などが離町の原因となり、残された土地は無機質なシャッターのついた車庫や青空駐車場へ転用されたため家並みの分断が進み、空家や倉庫の老朽化によってうらぶれた空気が漂い始めていたのである。折りしも、諏訪町通りが歴史性と親愛性に富んだ道路として「日本の道百選」に選ばれたことは、住民にとっても、つかの間の訪問者にとっても、「伝統的雰囲気」が「魅力あるまちづくり」の重要な資源として活用できるという発見をもたらした。

計画は町屋ファサードや土蔵の修景によって家並みの連続性を強調したり、既存の石垣や親水空間の演出を図ったり、東屋風の公衆トイレを整備したりと、ディテールと地点間のつながりにかなりこだわったものとなっている。数年後には、まさしくテーマパークの設計書ではないかと目を疑うばかりの「歴史的地区環境整備街路事業報告」なるものまで作成され、5つに設定された歩行者ルートにはそれぞれ「水の路−歴史とせせらぎへの誘い」、「風の路−おわら風の盆にふさわしい"風"イメージの演出に似合う横丁の活用」、「杜の道−眺望への誘い」、などと入念にデザインされている。こうなってくると、かなり観光振興の色彩の濃い住環境整備に見えてくる。

このような行政主導の景観整備の例は、八尾に限らず他の市町村でも報告されている。たとえば、「民話のふるさと」として知られる岩手県遠野市は、「トオノピア」という一連の地域振興プロジェクトを実施している。映像資料や展示物を通じて遠野の生活文化や民話を学ぶ遠野市博物館、『遠野物語』成立にちなむ複数の家屋群と昔話パフォーマンスが楽しめる「とおの昔話村」、そして地域の村落生活を再現した伝承園の建設を皮切りに、遠野市を構成する旧村単位の特色を生かした社会教育施設を整備していくなど、生活環境そのものの保存・育成・展示を通じて地域振興をはかっており、それが観光に抵触しない形で展開されているのである。それどころか観光と生活の妥協点を積極的に見出していこうしている。

この種のテーマパーク化は、マス・メディアや通俗化された民俗学などによって担われていた場所イメージの生産を「地元」が奪い返す試みとみることもできる。それでは、この奪還の物語は「ポスト観光」と何かつながりがあるのだろうか。

先にも述べたように、観光とは、場所イメージの増幅によって触発される移動が利益を生む娯楽産業、およびその移動に伴う非日常性の享受をさす。テーマパーク化はその市町村が娯楽産業に参入していることの証であり、「ポスト観光」というより、観光という範疇で捉えられるべきだ。だが、移動に伴う非日常性の享受という点から見ると、微妙である。

遠野市の場合は、観光の非日常性が伝承者にとっても鑑賞者(=観光客)にとっても客体化された民話の再現によって演出される。いわば、観光という名のゲームを、お互い合意の上で、演出された非日常性として提供し、享受しているのである。このゲーム性こそ観光市場を支えているものであり、その意味では遠野イメージ奪還の物語は観光という範疇で捉えるべきであろう。

しかし、「おわら風の盆」の場合、その強烈な非日常性は9月1〜3日の開催日に向けて注がれる求心的エネルギーから生み出される。たとえば、鼓弓、三味線、太鼓、うた、囃子からなる地方[じかた]は、日ごろ個人的に稽古をつけてもらうほか、各種団体や町内ごとでの練習に励んでいるが、開催日が近づくにつれて、断然熱がこもってくる。8月も盆が過ぎれば町の辻々で子供や若者が踊りの練習にいそしみ、町外にでていたおわら好きの若者も帰ってくる。開催当日に10日以上も先駆けて各町内[マチ]交代で本番さながら「前夜祭」で演技を披露し、気の早い観光客をもてなす。週末ともなれば、公民館や各家の軒先で沿道にともす雪洞[ぼんぼり]の支度をする姿が気分をもりあげる。いよいよ「おわら風の盆」が幕を開けると、沿道に茜色の雪洞がともり、家々の入り口には町紋を染めぬいた鮮やかな幔幕が掛けられ、それだけで舞台効果満点である。揃いの衣装に身を包んだグループが踊り、この日のために調整をしてきた地方衆がおわら節を奏でながら町を流していく。実際のパフォーマンスは、当然の事ながら単なる装飾として配された橋の欄干や駅の壁に配された「おわら」の装飾を凌駕し、見る者を圧倒する。「風の盆」イメージの推進をはかる行政・商工会主導の演出がその本来の目的を達するばかりか、それとは一線を画したところでの町内会や演技集団毎の取り組みや各個人の芸の精進などが、年に一度の突風を受けて、町のあちらこちらに散らばっていた「おわら風の盆」の断片をひとつのうねりにまでまとめあげてしまうような求心力を発揮しているのである。

求心力ばかりではない。町なかで行われる踊りの向きをよく観察すれば、なぜか観光客には背を向けて踊っていることに気がつくに違いない(演技は祝儀を出した家・店などに向かって行うので、観光客にとっては必然的にそのような位置関係になる)。また夜も更けてくると揃いの衣装に身を固めた町民が通りにござを敷いて宴会をしているのに出くわすが、観光客には背を向けて、周囲にはお構いなく自分たちだけで盛り上がっている。挙げ句の果ては、絶え間ないカメラのフラッシュやあまりの混雑に気を悪くした踊り手が、「すみません、これでは踊れないんですけど」と、美しい着物姿からは想像し難い調子で観光客をたしなめる場面に遭遇することすらある。おわら節の囃子詞にもあるように、「ようこそ来られた、 ようこそ来られた、来られたけれどもわがままならない」らしい。

このような排他的なハレ空間の創出は、マスメディアや消費文化の浸透する以前であれば単に共同体の維持と強化のための儀礼と位置づけられるであろう。それを見る者は、単なる「見物人」である。しかし、マスメディアによるイメージの大量生産・流通が観光という消費行動を促し、地域行政の要請から文化実践や表象が「活性化」のための資源として活用され、国家統治のひとつの有効な技術として地方文化の競合が奨励されている現在、観光客にあえて背を向けるポーズをとることは、かつてとは違った意味をもっている。

ここには、「八尾町」という行政単位で目論まれるイメージ操作とは別に、もうひとつの動きが見て取れる。すなわち、行政や商工会による、観光と生活アメニティの両立を目指した「おわら風の盆」の演出という自治体の論理さえも呑み込んでしまうような、演者自身によるハレ空間の実現である。それは観光客に背を向け、侵入をゆるさない。演者は知っているのである。「風の盆」には「風の盆」の時間があり、観光客には観光客の時間があることを。そして、観光客は必ずしも「風の盆」の時間に没入したいわけではないことを。

このような交わることのない時間の流れは、「おわら」の演者自身によって実現される排他的なハレ空間だけでなく、他の局面においても見出せる。例えば地方[じかた]衆と観光客の足どりの違い。夜中の零時には町内[マチ]単位での行動は一応終了する。その後夜明けまで、地方[じかた]衆は好みの浴衣に着替え、気のおけない仲間たちと町を流す。その足どりは夢を見ているのか、酔っているのか、こちらにふらり、あちらにふらりといった体である。そして節の決めどころではきゅっと力がこもる。観光客はそんなふうには歩かないし、歩けない。足どりの違いは流れる時間とリズムの違いであり、闇に響く音の聞こえ方の違いでもある。一方自ら演奏することのない人々は、この闇の中の音にこそ耳を澄ませているという。道路の拡張が進んだ現在は、ただでさえ幅が狭い上に軒がぐっと路面に伸びていた往時ほど音響はよくないが、それでも演奏者はわざと細い道を選んだり、建物に近づいたりして音の反響効果を狙っているそうだ。宿泊施設の少ないこの町であえて深夜まで「おわら」を聴く観光客は、異質の時空に身をおいているとはいえ知らぬ間に、演者と見えない聴衆との間の音をめぐる交感に包まれてもいるのである。

観光が、演出された場所で、上演された出来事を、登場人物とともに楽しむ一種のゲームであることを自覚してふるまう観光客をM.ファイファーは「ポスト・ツーリスト」と名付けたが、他方には「ポスト・ツーリスト」の存在を自覚し、ゲームの土俵の内と外を巧みに出入りする、いうなれば「ポスト・ホスト」もしたたかに存在する。ドラマであれ、ドキュメンタリーであれ、放映用に絶好のアングルから撮影された映像を見ている限りでは、視聴者すなわち潜在的観光客は「見る者」として観光地・演者よりも優位にある。この幻想が続く限りは観光が成立するだろう。しかし、わざわざ足を運んだその先で、ゲームに興ずることしかできない観光客が、行政組織、自治組織、演技集団、個人といったさまざまなレベルでのイメージ操作に絡めとられている間に、排他的なハレ空間は自治体行政とはまったく違った次元で「おわら風の盆」奪還の物語を紡ぎ出しているのである。観光がハイパーリアリティの渦にのみこまれ、他のメディア体験と区別できなくなった後にも、自律した軌跡を描く文化の営みがそこには息づいているのではないだろうか。

酔芙蓉は大量の水と肥料を必要とする貪欲な花である。しかし、小説『風の盆恋歌』によって息を吹きこまれた酔芙蓉はもっと貪欲で、観光客のまなざしも、育てる者の愛情も、自分を取り囲む風景を作り出していく力をもつ行政マンの視線も独占しなければ気がすまないかのようだ。ところが、こぼれた花の種は、いつしか観光という物語の筋書きからはずれて、訪れる者と迎える者の日常にさりげなく根をおろしたり、そこここに仕組まれた観光ゲームの仕掛けを意に介さないかのように大輪の花を咲かせたりする。「おわら風の盆」にひたっていると、観光を否が応にも無化してしまう要素は、こんなこぼれた種の中にひそんでいるように思えてならい。