リレーエッセイ 国際協力の現場から(4)
日本も国際協力の「現場」である (外交フォーラム 1997年5月)

 ジュネーブ、ローマと、華やかな「現場」の報告から一転して、また日本の見慣れた風景である。といっても、国際協力の現場と言うと、紛争地であったり難民キャンプであったり、ゆったり文化的な生活ができないような状況をイメージする人が多いだろうから、ジュネーブやローマも人によっては「現場」とはみなさないかもしれない。

 今回私は、国際協力の「現場」としての「日本」について考えてみたいと思う。言いたいことは、日本も国際協力の立派な「現場」である、ということである。良い見本かどうかはわからないが、一つの例という意味で、私が現在している活動を紹介しよう。

浮き彫りになる日本の医療問題

 前に紹介したように、私はAMDAという医療分野の国際協力をめざすNGO団体のメンバーである。AMDAの活動の重要な柱の一つとして、海外での災害救助活動などの他に、国内に住む外国人への医療援助活動というものがある。具体的にはAMDA国際医療情報センターという組織を東京と大阪におき、外国人からの相談に電話で対応している。センター東京は設立して6年、センター関西は3年を超え、それぞれ相談の延べ件数は、1万3,794件と3,142件に上っている。私は、センター関西の方の代表をしている。

 電話相談といっても、直接そこに医者が常駐して、問題を解決するというわけではない。外国人が持つさまざまな医療問題に対して、適切な医療機関を紹介したり、日本の医療福祉制度を説明するなどの「情報の提供」を行っているのだ。要は、外国人と医療機関の橋渡し、または外国人支援団体などとのネットワーキングである。相談は色々な国の言葉でかかってくるから、各国語の通訳ボランティアの人たちが活動を支えてくれている。

 たとえば、最近ではこんなケースがあった。仕事中の事故で脳を挫傷し足を骨折し、入院中のアラビア語圏出身の男性が、言葉が通じないせいか夜に痛がったり精神的に不安定になったりするので、転院してもらうか、英語かアラビア語のできる人に夜付き添ってほしいと病院から言われているというものだ。この場合は、アラビア語の話せる医師のいる病院と、外国語大学の学生ボランティア・グループを紹介し、事態は好転したようだ。

 医療機関側からの相談もある。たとえば、「国籍性別不明で超過滞在中の患者さんが転院してくることになっている。手術をする予定なので、医療費が高額になると思うが、このようなケースについてどう対応すればいいか、何か知っていることがあれば教えて欲しい。」といったものだ。

 おもしろいのは、外国人の相談を聞いていると、日本の医療の問題が浮き彫りになってくることである。「背骨に問題があるため、注射を打たれた。副作用は出ないと言われたのに、帰宅後しんどくなった。医師は英語を話すが、ちゃんとコミュニケーションがとれていないと感じ、今までの治療も正しいものかどうか不安である。」といった相談である。この他にも「薬の名前がわからない」「いつまで通院すればいいのかわからない」「先生が話をちゃんと聞いてくれず、ちゃんと診断されているのか不安」などなど、日本人の患者が不満に思いながらも仕方ないとあきらめてきた問題が、きっちり外国人によって指摘されている。

 生きた国際協力というのは、援助する側にもいろいろなものが跳ね返ってきて、自分たちの居ずまいを正させるものだということを実感として感じる。

地球規模の想像力を持っていれば

 私自身の活動としては、この他に大学での教育・研究も、国際協力に関わるものだ。先日、他の大学の国際保健のコースで、「開発途上国の女性の健康」という講義をした。女性の男性に対する人口比率が普通より少ない国がいくつかあって、世界で一億の女性が「いなくなっている(Missing)」と計算できること、その原因としては、女児の選択的中絶や殺害、栄養摂取の男女差、病気になったときの処置の男女差、危険な中絶や妊娠・出産に伴う死亡などがあることなどを、資料を交えて話した。講義の最後に感想を書いてもらったのだが、現状を知ってショックだったというものから、国際経済との関わりなど鋭い指摘をするものまでレベルはさまざまながら、大いに刺激を受けた様子が見られた。中には「女性でも国際協力に関われるんですね」といった感想もあり(ついでに着ている服を誉めてくれた学生もいた)、ロールモデルとしても少しは役立ったかな、と思っている。

 中満さん言うところの「アドレナリン」の上がる場所にいなくても、テレビのニュースに取り上げられるような場所にいなくても、「国際協力」は可能だと私は思っている。要は、地球規模の想像力をもちながら活動すること、アンテナを鋭くしておくことである。地球環境問題が、一人一人の毎日の生活の方法を変えなければ解決しないように、国際協力は、自分の日常生活の中で出会う隣人と協力しあうことからしか、始まらない。

 国際協力が、工藤さんのいうように、人間が高等動物であるかどうかの試金石であり、中満さんのいうように、国際責任分担であるということは、そういうことではないだろうか。


Copyright 宮地尚子 1997