毎日新聞 (大阪 朝刊)1996年4月13日
生命と現代文明:「泥水を飲まない道」はあるか: システムに支えられた「いのち」

 十年前の春、私は医師になった。卒後研修をした病院では、夜間よく、血友病の男の子たちが転んで腕や足を打ったといって、血液凝固因子の注射をうけにきていた。簡単な経過を聞き打ち身を診察し、内出血が止まるよう血液製剤を注射するのは、たいてい研修医の役目だった。彼らは一様に寡黙で、主治医でもない一回きりの当直医には、打撲の状況を説明する以外進んで口を開こうとはせず、決まりきった治療が終わるのを待ちうけて帰っていった。

 私は時々、そういった夜の救急室の光景や彼らの表情を思い出しつつ、彼らの多くが今はエイズ薬害被害者となっている事を考え、日本で安全な加熱血液製剤が認可されたのが、私が卒業前の85年だったことにわずかの安堵を感じていた。

 ところがその後も2年余り非加熱製剤が出回っていたことが、最近明らかになった。この手で彼らの静脈に入れた薬にもHIVウイルスが潜んでいたかもしれない、その思いは抜けない棘のように私の指先を疼かせる。

 たぶん私が直接、汚染製剤を注射したかどうかは、彼ら被害者にとってはどうでもいいことなのだと思う。私の前にも多くの医師が汚染製剤を注射してきたのだし、あの救急室に私がいなくても他の医師が同じ事をしていたに違いないのだから。彼らにとって私は必要に迫られて関係を持たねばならなかった多くの医師の1人、彼らの身に迫る危険を見過ごしてきた無責任な医師の1人に過ぎないのだ。自分の手が汚れていないからといって責任から逃れられるわけではない。けれど私はやはり「自分の手を直接汚したくはない」と思う。そしてその思いが、有効な道徳的歯止めであってほしいと切実に思う。

 人は主体的に生きたいと思っている。自分のいのちに干渉されることなく自由に生きたいと思っている。けれど、現代文明を生きる私たちのいのちは既に、いろんなものに、人に、システムに、干渉されながら生きている。私たちの主体性はもはや純粋無垢なものではなく、あちこちで部分的に明け渡されたしろものだ。しがらみにかられ、長いものに巻かれなければ、「常識的な社会人」と認められない社会だ。

 その社会で私たちは毎日、様々なシステムを通じて、他の人間にいのちを預けあって暮らしている。名も知らない誰かを信頼して、トンネルを通り、エレベーターを使い、飛行機に乗る。むろんみんな、自分のいのちが自分一人では守りきれないことに漠然とした不安は持っている。けれどその不安が、自分も他の人のいのちを預かっているという感覚の希薄さの裏返しである事には気づいていない。自分がシステムの一部を担っているに過ぎないとき、預かったいのちも自分一人では守りきれないと感じてしまう。エイズ訴訟の原告の言葉に「死ぬのと殺されるのとは違う」というのがあったが、いつどうやって殺されるかわからない、いつどうやって殺してしまうかわからない、そんな風に社会はできている。

 けれど、自分のいのちが守られるためには、自分が預かっている他人のいのちを守るという単純な術しかない。そして現代社会においてそれはシステムを通してしかできない。「殺人」のあり方が、直接この手で首を絞めるといった身体的感覚を伴うものから、危険な製剤の回収手続きを遅らせるという非身体的、間接的、知的なものになるとき、「自分の手を直接汚さない」ということの意味も大きく変わってくるはずだ。直接手に触れなくても、情報や知識として入ってきたものにも責任が生まれる。隣人のしたことであっても、見過ごし、口をつぐむことで責任をおう。内部批判や内部告発を白眼視し恐れていては、システムに支えられたいのちを守ることはできない。

 システムのせいにしてはいけない。システムの影に隠れてはいけない。システムを通してしか人間のとしての責任を果たす術もないのだから。

 エイズ訴訟の和解成立後も変わらず、朝早くから製薬会社の営業マンが臨床の医局の前に立ち並ぶ廊下を歩きながら、私は以前上司に言われた「女性は泥水を自分では飲みたがらないから、なかなか責任ある上の地位につけない」という言葉を思い出す。「泥水を飲む」というのはどういうことなのか、どうせお前だって薄汚れているんだから自分だけ潔白なふりをするなということか、他の人の罪を自分がひっかぶらねばならないこともあるということか。

 でもどこまで汚れた水を飲まねばならないのか、誰のために泥水を飲むのか、そもそも誰が泥水をつくるのか、私はその意味を探りあぐねたまま、今また「自分の手を直接汚さないこと」にしがみつこうとしている。


Copyright 宮地尚子 1996