稲賀繁美編 「異文化理解の倫理にむけて」pp269-286

14 難民を救えるか? 国際医療援助の現場に走る世界の断層


・・・私にとってもっとも興味のある脱構築的実践の側面は、次のような一連のことがらだ。すなわちまず、その内部でいえば、どのような探求の努力であれ、その出発点は、かりそめの、扱いにくいものであると認識すること。知への意志が対立をつくり出す場となっている共謀関係を暴露すること。その共謀関係を暴露するにあたって、主体−としての−批評家自身が、彼女の批評の対象と共謀関係にあると主張すること。その共謀関係の「痕跡」である、「歴史」と倫理的・政治的なもの------つまりそれは、われわれが、そのような痕跡を免れた、明確に定義された批評的空間に住んでいるわけではない証拠でもある------を強調すること。そして最後に、それ自体の用いる言説が、取りあげる例にとって決して適切ではありえないと認めることである。

ガヤトリ・C・スピヴァック(1)

 

 

<1.ジブチの難民キャンプから>

 私は1993年の春、アフリカ東部のジブチ共和国 (2)という国にいました。あるNGOの医療援助プロジェクト (3)で、ソマリア紛争(Q1)のために流れてくる難民を受け入れる難民キャンプ(4) で医師として仕事をしていたのです。

 私は今、その時の「ナマの経験(rawexperience)」を元にして異文化交流の倫理について書くことを求められています。途方に暮れます。何をどう書けば「ナマの経験」をわかってもらえるのでしょう(Q2)。資料は「終わったプロジェクト」の棚にしまっても、自分の中で整理しきれていない経験を。

 いえ、「書くことを求められている」などと受け身で語ることはよくないに違いありません。書くことを承知したのは私なのですから。書きたいことはあるのです。伝えたいことはあるのです。ただ、それらがたくさんありすぎて、いちどきにあふれ、いろんな方向に散らばっていくのです(5)。なのに時間がたてばそれら一切が、伝える価値のない私の些細なこだわりのように思えてくるのです(6)。もどかしいのです。言葉が。表象(言葉で言いあらわすこと)が。言説(言葉に置き換えられてしまうこと)が。

 けれども、冒頭に引いたスピヴァックのいうように出発点はかりそめでいいのかもしれません。こわがることはありません。最終的には、「それ自体の用いる言説が適切ではありえないと認めること」さえ、予定されてしまっているのですから。ノーテンキに解釈すればそれは、オトシマエをつけないで語ってしまえばいい、終わりもかりそめでいい、ということなのですから。そして希望的観測をいえば、それは全ての物事が学問的言説や知識に回収されるわけではないということの証なのかもしれないのですから。

 本稿では、「難民を救う」という意志と実践(及び非実践)をとおして、非倫理的な世界で倫理的でありたいと願うこと(7)、そして、他者を尊重しながらも同時に自己の影響力を及ぼしたいと願うこと、という二つのジレンマについて考えたいと思います。稿を(かりそめにも)終えるために「世界システムのあり方への冷徹なまなざし」、そして「恣意性への存在論的肯定」という答えめいたことを書き散らすかもしれません。そこまでのプロセスで「自分自身も痕跡を免れない共謀関係」が少しでもあぶり出せたらと思います。

 

<2.写真>

 24時間テレビなどで、世界のどこかの戦争や内戦、飢饉や災害などに見舞われた人たちの姿が映し出されます。ぼろをまとい身のまわりのものを頭にのせて、黙々と国境を越えていく難民たち。目が落ちくぼみ、腕と足はガリガリなのに、おなかだけが膨らんだ赤ん坊。テレビの前にいる人は心を痛めます。

 次に、白衣の医師の姿がクローズアップされます。先進国からかけつけた医療援助団体。テレビの前にいる人はほっとします。医者が駆けつけたんだからもうだいじょうぶ。

 次の瞬間にはテレビの画面はコマーシャルに変わっています。新発売のチョコがでてるんだって?。今度コンビニに買いに行って、その時は釣り銭でもチャリティの箱に入れておこう。心はツルンとまるくなり、痛みは消えています(8) 。

 本章のかりそめの出発点は、一葉の写真です(写真1)。ベッドに横たわっている難民の少女(髪を剃られているのでそうみえないかもしれませんが)の胸に私が聴診器をあてています。帰国後、国際医療協力についての講演を頼まれたときや、ジブチでの活動が雑誌に紹介されたときに、よく使われた写真です。

 そこには「難民を救う」という私の意志と実践が表象されて ---写真を媒体として、かたちづくり、あらわされて ---います。けれども、私の胸はざわつきます。この写真にはいくつかの意味で「嘘」が隠されているからです。

 

 彼女の名前はシヤダ。12歳。エチオピアのオガデン地方の出身で、母親と一緒に半年前に難民キャンプに着きました。調査の必要があってキャンプのテントを巡回していたときに呼び止められ、テントのなかに入ってみたら、彼女が寝ていました。シヤドは歩くどころか、立ち上がることさえできませんでした。ガリガリにやせ、声を上げる気力もありませんでした。ときおり苦しそうに咳をし、熱もありました。そんな状態がもう2ヶ月以上続いているとのことでした。母親も年老いて力がなく、とても彼女を運んでいけないということで診療所には一度も来たことがありませんでした。父親は別の難民キャンプに他の妻と子供と一緒にいるということでした。担架と人手を呼び寄せ、診療所に連れていった時に撮ったのが写真2です。身長は147センチ、体重はわずか21.7キロでした。立っているように見えますが、これはお母さんが後ろから支えているのです。

 キャンプには入院施設も検査設備もありません。何が衰弱の原因かわかりません。シヤドは病院にうつることになりました。病院でレントゲンをとると、彼女の片方の肺はつぶれて全く機能していませんでした。けれどもそれ以上の検査や治療は進みませんでした。病院にも十分な資源や設備がないのです。それに病院に入ってしまえば、私達の管轄ではありません。滞在中、何度かシヤドの様子を見にいきましたが、よくなる兆しはありませんでした。シヤドが今生きているか死んでしまったか私は知りません。「難民を救う」という実践は実行されたわけではなく、写真に表象(うつしだ)されたに過ぎないのです。

 

<3.治療活動>

 そもそも私は「難民を救う」という自分の意志や実践を、純粋に信じていたわけではありませんでした。ジブチに行く前に私は3年間、米国で医療人類学や文化精神医学を勉強していました。国際保健のコースもとりました。そして世界でおこっている医療問題が国際政治や経済、文化や宗教などとどれほど深く絡んでいるか、先進国の人間の安易な救済者願望が被援助者側にどれほどの害を与えるか、現代医学(biomedicine)の普遍的有効性という主張がどれほど欺瞞的であるか、そんな知識をあふれ出るほど頭につめこんでいました。ささいな人道的援助で何が変わるのか、と懐疑的にもなっていました(9)。けれど留学を終え、日本での博士課程も修了し、ジブチの医療援助プロジェクトの話が舞い込んできたとき、私は医師として参加することに迷いはありませんでした。初めての海外援助、やってみなくては問題もわかりません。少なくとも医療人類学者としてフィールドで何も介入せず観察だけするよりは許される行為のように思えました(10) 。

 現地の文化を尊重し、難民の人たちのニーズを重視し、自分たちがいなくなっても持続できるような形で医療援助、「難民を救う」という「介入」をしてみよう。そう決めました。

 難民キャンプの状況は予想通りたいへんなものでした。食料配給も十分ではなく、消毒液、抗生物質など基本物品の不足のため、日本でなら簡単に治療できる人がたくさん死んでいました。下痢、呼吸器感染症、貧血、寄生虫症、結核、マラリアなどが猛威を振るい、栄養不良の子供の割合は多いキャンプで15〜20%に達していました。

 絶対的な資源不足の上に環境の問題がのしかかってきます。薬があっても必ずしも解決になりません。例えば下痢で脱水症状を起こした子どもを診ます。脱水の治療をし、抗生剤を与え、どうにか生命の危機は脱します。栄養不良もひどいので、補助栄養プログラムに入れるように手はずもします。けれども、トイレもなく水源は汚染され、衛生状態は劣悪な難民キャンプです。1,2週間もすれば同じ子どもが同じ症状でまた母親に抱きかかえられ診療所にくるのです。

 このような状況に合わせ、私達の活動は診療より物品の補給や公衆衛生的な予防対策に重点を置くようになりました。診療所では政府所属の医療スタッフのサポート役にまわりました。薬品や必要物資を調達し適切に保管・配布すること、キャンプでの難民の死亡や罹患状況をモニターし対策をたてること、キャンプの衛生状態を改善し、難民に適切な生活習慣を指導すること、それらが最終的には現地スタッフだけで行えるようスタッフへの教育指導をすることなどが私達の仕事の中心になりました。

 「難民を救う」ということは、シヤドという少女の病気を治すことではなく、このように地道で絵にならない、効果も目にみえない活動を黙々とこなすことでした。診療行為をする医師だけが脚光を浴び、活動の中心のように見せてしまうことも、私は自分の写真の「嘘」だと感じています。

 

<4. 文化的なことは政治的なこと>

 では、地道な活動なら「難民を救う」という実践はうまくいくのでしょうか。そうではありません。地道な活動ほど現地の文化理解が必要になります。ところがこの文化を理解しようとする行為が、ことごとく思いがけない抵抗にあってしまうのです。

 例えば、私達はせめて死亡に至る例を減らしたいと考え、死亡者の発病からのプロセスを社会文化的に分析することにしました(11)。その調査で死亡者の家族にインタビューをした時、通訳をしてくれたCHW(コミュニティ・ヘルス・ワーカー)がそっと忠告してくれました。家族が皆「どうして死んだ人のことなんか尋ねるんだ」と不安がっているというのです。「死んだ人のことを調べて何になるんだ、生き返る訳でもないのに」という理由でした。生死は全てアラーの思し召しと考える彼らには、過去の死から学ぶことで現在の生をコントロールするという考えはなじまないようでした。けれども、実は別の理由がありました。彼らは必ずしも家族の死亡をキャンプ当局に通知していませんでした。通知すると、ただでさえ少ない配給が減るからです。私達の調査は配給のための資料になるのではと恐れられていたのでした(12) 。

 こんなこともありました。私達は難民の生活をもっと知ろうとキャンプでの宿泊を計画しました。難民出身の医療スタッフやその友人たちと、彼らが作ったなけなしの郷土料理や私達が持参した食料を食べ、ゲームや話をして楽しみました。気になったのは、普段は診療所に顔も出さないキャンプ・マネジャーがずっと私達のそばにいたことでした。退屈しのぎかと思っていたのですが、難民達が用意してくれた私達の寝場所が急にジブチ人スタッフのテントに変更になり、初めて私達はキャンプ・マネジャーが難民と私達を監視していたことに気づいたのです。

 新しいCHWや通訳などのスタッフを選ぶときにも問題がおこりました。あるとき新しいCHWにジブチ国籍の若者が雇われました。キャンプのことは何も知らず、保健医療の知識もほとんどありませんでした。それまでCHWをしていたのは難民で、医療知識も経験もかなり上でしたが、最後の給料ももらえずに解雇されました。難民局に意見を言ってもむだでした。現地スタッフのまとめ役の主任看護士は自分がジブチの主要部族出身でないこともあり、巻き込まれるのを避けていました。キャンプ・マネジャーと新任CHWは主要部族出身でした。

 私達の目標は、現地の文化と難民のニーズに合った援助でした。けれど、それは部族や国籍、難民と非難民などの分断され反発し合う動きの中で、うまく立ちまわるということでした。調和のとれた均質な文化などありません。フェミニズムの有名なスローガン「個人的なことは政治的だ」をもじっていえば、「文化的なことは政治的」でした。現地の文化と難民のニーズといっても、誰に情報を得るかによって見え方は大きく変わってきます。私達は「難民を救う」という目標のもと、つい現地政府関係者を敵視してしまっていました(Q3)。けれど困っているのは難民だけではありません(13)。ジブチは国全体が貧しく、失業率も高く、医療も行き渡っていません。私達がキャンプで努力すればするほど、国民より難民の方がいい医療を受けるという皮肉な結果をうみます。重症の難民患者を病院に送れば、国民にしわ寄せがいきます。お昼の補助栄養食配給の時間には、近隣の村人たちが難民のふりをして食事にきているという噂もありました。海外からの救援活動は様々な利権を生みます。難民受入れ国にとって海外援助は一種の産業であり雇用対策になります。難民の自主自律よりも政府関係者が自分の部族の者への就職斡旋を優先するのも無理はありません(14)。援助の名の下に流れ込む金や物、それらの分配をめぐって現地の人々の間に様々な思惑が飛び交い、予想外の影響を及ぼすのは当然なのです(15) 。

 それに、地道な活動とは言え、私達のしていたことはキャンプの管理であり、コントロールでした。統計や調査によって全体の状況を把握し、それに対して「効率」よく「成果」があがる予防策をたてる。そういう枠組み自体が、瞬く間に荒れ地を更地に変えていくブルドーザーのようなものだったのかもしれません。いえ、現地の文化を理解し、尊重して進めているつもりの分だけ、もっとたちが悪いのかもしれません。現地の社会文化的背景を把握するということは、文化=政治のひだに入り込んでいくことです。知識や情報こそマイクロ・ポリティックスにおける最大の操作対象なのですから。他者を尊重しながらも自己の影響力を及ぼしたいと願うこと、介入をする限り大きな成果は望まれる目標であり、現地に抵抗をおこすような混乱を生むのは必然でもあるのです(16) 。

 

<5. 帰国と語り部>

 さて、私はシヤドを治療することが難民を救うことではないと既に書きました。けれども直截に彼女を救うことは、本当にいけないことなのでしょうか。

 実は私は病院に送った後も、彼女のことが気になってしかたがありませんでした。なぜなのかはっきりとはわかりません。ただ、大きな黒い目に怒りを、世界の理不尽さに対する怒りをみたような気がしました。すでに半分あきらめたかのように何も語らない、何も要求しない、にもかかわらず彼女のまなざしは強さと美しさを失っていませんでした。女の子だということで彼女に自分を重ね合わせ、同時に自分の無力感と怒りを彼女に投影していたのかもしれません。

 ひそかに彼女を日本に連れて帰るという案を考えてみました。日本で医療を受けたら彼女は助かるでしょう。「行きすぎた行為」だというのはわかっています。お金も手間もたくさんかかります。所属団体から賛成はえられないでしょうから、個人でするしかありません。夫はびっくりするでしょうが、経緯を説明し、私の決意が固いと知れば協力してくれそうな気はします。養女として育てていくことも可能かもしれません。

 けれども結局、私はそんな考えを誰にも告げないまま帰国しました。言葉の壁、文化の違い、シヤドと母親との絆・・・あまりにも非現実的で突拍子もない考えのように思えました。そもそもシヤドや母親がそれを望むのか、なぜ彼女だけを救うのか、それが現地の人たちにどんな影響を及ぼすのか、日本での生活がどのようなものになるのか、すべての問いに否定的な答えが出そうでした。

 そのかわり私がもって帰ったのは、ガリガリに痩せたシヤドの写真、そして彼女を診察している私の写真でした。帰国後写真をスライドにし、私は幾つもの講演や講義をこなしました。現地の惨状に関心を持ってもらい、理解してもらうこと、活動資金を得ること、後に続く人たちを育てること・・・ジブチでの経験を話すのは期待されることであり、必要なことでもありました。けれども、「難民・飢餓・病気などが待ち受ける土地で活躍する日本人女性たち。彼女たちを国際協力に駆り立てる力はいったい何なのだろう。」(17)といったヒロイックな紹介をされながら、私は罪悪感を感じていました。私はシヤドを助けてなんかいない。なのに彼女を見世物にし、なおかつ助けたかのような写真を見せびらかしている・・・。

 南部スーダンで飢え死に寸前の少女を背後からハゲワシが狙っている写真が、世界に衝撃を与えたことがあります。ケヴィン・カーター(KevinCarter)というその写真家は名誉ある賞を受賞したけれども、なぜ助けなかったのだという批判をも浴びました(18)。しばらくして彼は自殺しました。自殺の理由を直線的に説明しうることなどほとんどありませんから、写真と自殺がどう関係していたのかはわかりません。ただいいようのないショックが残りました。

 カーターの写真は、周りに人がいない場所だけに、「写真を撮ったのは誰だろう?」と見る人に思わせてしまうものでした。つまり、写真を見た人の頭の中には、写真の像の手前にそれを撮るカメラマンの姿もはっきり写っていたのです。だからこそ、この写真は衝撃的だったのだと私は思います。助けなかった、もしくは助けられなかったカメラマンに、世界の人々は自分を重ねてしまったのです。そして本来、傍観者である自分に向けるべき怒りをいらだちを、カメラマンに向かって全て吐き出したのです。

 とすれば私のしていることは何なのでしょう?24時間テレビと同様、人々を心配させ、次に安心させ、心をツルンとさせるだけではないのでしょうか?たとえ、講演の中でいかに自分が現地で無力だったかを強調したとしても?

 

<6. 救済−そのジレンマ>

 ジブチから帰国して数年後、私は米国留学時代の友人クリスティーナからメールを受け取りました。私とは同年代のカナダの医師で、国際保健や医療人類学など関心も似ているためセミナーなどでよく顔を合わせ、仲良くなったのです。彼女は米国で公衆衛生の修士号をとった後、医療人類学の博士課程に進み、カナダで急増するソマリア難民に関心を持ち、彼らの故郷であるエチオピアのオガデン地方でのフィールド・ワークを終えたところでした。メールは私を驚かせました。彼女はソマリア人の少女を養女にしていたのでした。

 顛末はこうです。ある時、インフォーマントの知り合いの家で、下痢と栄養不良の悪循環で体重はたったの2.3キロ、命も危なくなっている3ヶ月の赤ん坊を見つけました。母親は出産時に死亡、父親は他に4人の子供を抱えていました(奇しくも彼らはジブチの難民キャンプから帰還してきた家族でした。そしてキャンプにいた頃に他の4人の子供を亡くしたといいます)。見るに見かねてクリスティーナはイフラというその赤ん坊を自分の家に連れて帰り、治療をし栄養を与え命を助けました。ところがイフラが元気になっても、親族の誰も彼女を引き取ろうとしませんでした。彼らはクリスティーナを、イフラの命を救いカナダに連れて帰るためにアラーがよこした使いだと見なしていました(19)。クリスティーナ自身も世話をしているうちにイフラが愛しくなっていました。

 現在イフラは3歳を越え、カナダで元気いっぱいに育っています。もちろんクリスティーナの生活は大きく変わりました。シングル・ペアレントかつ勤労学生として目のまわるような日々、家族や恋人との関係にも与えた影響は大きかったようです。

 似たような話が『ウエルカム・トウ・サラエボ』 (20)という、映画化もされた本にも出てきます。イギリスのジャーナリストである著者マイケル・ニコルソンは、戦場と化したサラエボでの取材から、孤児院の9歳の少女ナターシャを連れて帰ります。

 なぜ連れ出したのか。なぜその子でなければならなかったのか。なぜその子だけなのか。

 絶望的な状況の中では、連れ出すことだけが唯一の「救済」です。人間のふるまいがジャーナリストや人類学者としての役割からはみ出ないことのほうが不思議です。ニコルソンは、子供を異なる文化で育てるのは良くないという学者達や、ジャーナリストの非介入という不文律を問うインタビュアーに、苛立たしげに反駁の言葉を記しています。

 ただ、誰かを救済することは、誰かを見捨てることになります。むしろ倫理的にはこちらの方が重い問題なのかもしれません。

 クリスティーナはなぜイフラを助けたのかという問いに、「私はエチオピアで物乞いの子供たちをずっと見て見ぬふりをしてきた。ただイフラの時は見えないふりができなかっただけだ」といいます(21) 。

 ニコルソンは、ナターシャがカメラ写りのいい顔であること、輝いていて、ここ(サラエボ)にいるべきでないように見えたことを、正直に書き記しています。そして「ここにいるべき子供など一人もいない」と言い返す孤児院の院長との重い会話のそばに、精神障害を負った少年がたたずんでいることも描写しています。また、帰国後「ナターシャだけ助けてアフリカの餓死する子供たちをほおっておくのは白人主義者だ」と非難された経験も書いています。

 全ての人を救えないなら誰も救わない方がいい、そんなばかなことはありません。救うということが一方的な行為であったとしても、逆の選択肢が死や抹殺でしかないのなら、それを文化帝国主義とか傲慢さの裏返しだと批判するのは白々しいことです。恣意的に選ぶこと、ある意味で無思慮に行動すること。それを抜きに「救う」という行為はあり得ないのかもしれません。そして一人を救うことが、数多くの救われずにいる人たち、その場に残され、殺され、痕跡を消された人たちを(22)、忘却や無関心の縁から甦らせることにつながるのかもしれません。私は、クリスティーナの、そしてニコルソンの行動に感動します。シヤドを連れて帰るという「突拍子もない」行動をしなかった自分を恥じもします。

 けれどそう書いたとたん、頭の中に、ずっと以前に見た映画『キリング・フィールド』(23)のシーンが甦ります。プノンペンにクメール・ルージュが迫ってきたとき、主人公の米国人記者たちが友人のカンボジア男性記者を脱出させようと偽のパスポートをつくります。私はなぜこの手の映画の主人公はいつも欧米人なのだろうと思いながら映画をみていました。悲劇は、ベトナム人やカンボジアに数百倍もふりかかったはずなのに、と。そして、土壇場で米国人に助けてもらうには最低限英語ができないとダメなのだと冷静に考えていました。映画のテーマが民族を越えた友情の絆だったとしても、英語ができなければ友情も始まりません。一緒にいたカンボジア人の運転手には偽のパスポートは与えられません。自分を「救われる側」、カンボジア人の立場に置いて見ると、問題は生きのびるかどうかです。残され、殺され、その後哀悼されたってしかたありません。

 救えるかどうか、誰を救うかどうかを悩めるなんて、なんて恵まれた場所にいるのでしょう。恣意的に選ぶとき、無思慮に行動する時、たしかにそこには世界レベルの、マクロ・ミクロ入り乱れた社会構造とその権力が作用しています。かわいいとか、愛しいとか、気持ちが通じ合うとか、友情や愛情のレベルに権力は容赦なく入り込んでいます(24)。そこまで理解して、それでも恣意性を受け入れ、行動するしかない。「救う」側としては、それ以外の結論はありません(25)。恣意的な行動が権力であり、選ばれなかったものにとっては暴力になることに気づきながらも、行動するしかないのです。しかも、なんて恵まれた場所にいるのでしょう、と繰り返し言われ(もしくは自分でつぶやき)続けながら(26)。そして行動が問題への答えなのではなく、新たな問題群を引き起こす始まりに過ぎないのだとうすうす予感しながら。

 

<7. 世界の段差をこえること>

 ようやく恣意性という言葉までたどりつきました (27) 。

 今の世界は悲惨です (28)。非倫理的です。内戦、災害、飢饉、貧困、環境破壊、経済政策の歪み、原因は何であれ、生まれた場所や境遇によって命の重みは極端な格差を生じています。例えばAIDSは先進国では治療法の発展で必ずしも死に至る病いではなくなってきましたが、今やHIV感染者の94%は途上国(29)にいます(例えばジンバブエの成人のHIV感染率は25%です)。彼らのほとんどは最新の治療の恩恵を受けることはできません。一般の保健医療サービスさえ利用できない人が多いのです。AIDSワクチンの開発が期待されていますが、B型肝炎のワクチンは一人あたりの年間医療費より高額なため、多くの途上国で利用されずに来たという歴史もあります(30)。平等であるはずの人間の価値は値踏みされ、ボーダーレス・エコノミーの原動力となり、国際臓器売買を生み(31) 、世界の別の場所に利潤や幸福(Quality ofLife!)をもたらします。一方、世界人口の3分の1近くの13億人が1日1ドル未満で生活し、5億人以上が慢性の栄養失調状態にあります(32) 。

 他者を尊重するということは、ただ眺めていることではありません。異文化理解の倫理とは、非倫理的な世界で倫理的でありたいと願うこと、倫理的に行動しようと試みることです。

 世界のあちこちに走る段差。その段差の部分でバランスを崩したみっともない恰好のまま立ち続けること、整合性のない複数の日常を行き来し、残酷なまでの恣意性を自らにひきうけるタフさといいかげんさが、世界の非倫理がどのようなシステムによって形成、維持されているのかを冷徹に読み解く「知性」と同時に求められているのかもしれません。

 難民キャンプでの経験を異文化体験として語るか、北から南への援助活動として語るかで、不思議なほど倫理的な含意が変わってくることを、私は書きながら感じていました。その場で人がどう行動すべきかを判断するのが倫理であるならば、それは同一になるはずであるにもかかわらず、異文化体験と南北間の援助活動の「語り方」の間には深い溝があります。難民キャンプという段差における困難を、「難民を救う」というほとんどアナクロニックな言葉でたどっていった本章は、その溝をどこまでのぞき込んだでしょうか。(終わり)

 

 追記:難民キャンプで共に悩みながら仕事をしたAMDAフィリピンのDr.EmmaPalazo(エマ・パラゾ医師)が、本稿校正時1999年12月7日、航空機事故で逝去しました。本稿を彼女に捧げます。

 

<Q1>ソマリア紛争とは何ですか。ジブチへはどのような人たちが難民として流れていったのですか?

<A1>ジブチを含むアフリカ東部は、19世紀後半に民族の広がりと無関係に英仏伊などの植民地国に分割され(ジブチで最もありふれた食事は、フランスパンとスパゲッティ、山羊肉のシチューでした。植民地国の影響力がよくわかります)、それをもとに現在の国境が定められたため、ソマリア系部族はソマリア、エチオピア、ジブチにまたがって存在します。この地域が政情不安定なのもこの人工的な国境によるところが大きいといえます。1978年には大ソマリア主義を唱えるソマリアがエチオピアに侵攻して大量の難民を生み、1985年のエチオピアの飢饉の際も多くの難民がソマリアに流れました。部族抗争に世界列強国の援助・介入が絡んで状況はより不安定化し、1991初頭のソマリア政変後は特に北ソマリアから難民がジブチに流れていました。その後もエチオピアでは度重なる戦争や飢饉で生活が苦しいところに旱魃があったため、多くの難民が流れてきました。1993年当時、ジブチ国内の難民は10万人弱と推定され、難民の7割は首都でスラムを形成していました。4つの難民キャンプにはソマリア及びエチオピアからの難民が約33000人存在していました。 (Davidson,B. The Black Man's Burden: Africa and the Curse of the Nation-State. Times Books.1992)ソマリ民族と文化、歴史、女性の生活についてはアマン(口述)ヴァージリア・リー・バーンズ、ジャニス・ボディ(構成)高野裕美子(訳):『裸のアマン:ソマリ人少女の物語』早川書房1995が参考になります。

 

<Q2>ナマの経験を描くということは可能なのでしょうか?経験をした本人が語るのであれば、それは真実なのでしょうか?

<A2>ナマの経験、自分が巻き込まれている状況を、正確に描写することなど不可能です。

 他者を表象することの政治性については人類学の危機的問題として多く語られてきました。そして、観察者が自己のポジショナリティ(発話の位置)を認識し、自身をも記述に含めることが解答の一つとして実践されたりもしてきました。けれどもそれは、よりやっかいな問題を政治的にも実存的にも抱え込むことになります。どこまで自己開示が必要とされるのか?誰に向かって自己開示するのか?自己のポジションを語ることは、ときにカミング・アウト(マイノリティとして名乗り出ること)であり、ヴァルネラブル(攻撃性を受けやすい弱い)な状況に自分を置くことであり、現実の政治的(マクロミクロ両方の意味において)な状況判断のもとでなされるざるをえない、複雑かつ危険な行為なのです。けれどもそれは同時に自己パフォーマンスでもあります。情けない自分を描写するというのは、一つの作戦でもありえます。一見権威(Authority)を失うようで実は真実味(Truth effect, Authenticity)を増し、また自己の攻撃力を低く見せかけることで、自己に刻印される被害者性 / 加害者性のレベルを調節する。そんな効果も持ちうるのです。この本の中で、誰がどのように自己を表象しているのか、もしくはしていないのか、それぞれがどのような効果を持っているのか、比較してみるのも興味深い(著者達にとっては怖い?)試みかもしれません。

 参考までに、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳。ページ数は文春文庫版1998)から、経験を語ることの困難さに言及した部分をいくつか引用しておきます。

 「往々にして、本当の戦争の話には話のポイントさえ存在しない。あるいはもしあったとしても君は二十年後までそのポイントに思いあたらない。」(p.136)「どうも品性に欠ける話だなと思うようならそれは真実の戦争の話だ。」(p.117)「本当の戦争の話というのはいつまでたってもきちんと終わりそうにないものだ、そのときも終わらないし、そのあとでもずっと終わらない。」(p.127)

 最後に彼は、本当の戦争の話とは「何に対してもきちんと耳を傾けて聴こうとしない人々についての話である。」(p.140)と結んでいます。真実性とは、語る側より聴く側に問われるべきことなのかもしれません。

 

<Q3>「難民を救う」といいますが、難民は本当に救われることを望んでいるのですか?

<A3>15才位の意識不明の少女を髄膜炎の疑いで町に救急車で移送しようとして、付き添いの母親に「この子は死ぬのだからこのままテントにいさせたい」と反対されたことがありました。兄弟の説得でどうにか救急車にのせましたが、母親はまた渋りはじめ、「町の病院に連れていったら、私は何を食べればいいのか。キャンプなら何とか食べ物があるけれど」といいました。娘の命より自分の食事が大事なのかと私達はショックを受け、自分達の努力をバカにされたような怒りさえ感じました。

 死亡者の家族にインタビューした時も、悲嘆にくれる人に話を聞くのは申し訳ないのではと心配する私達をよそに、大抵の人は「アラーの思し召しで人は死ぬ」とさばさばと答えていました。3歳の子を前日に亡くしたばかりの若い母親も、乳飲み児を抱えながら近所の女性と談笑しています。愛しい子を亡くしたら泣き悲しみ、自分を責めるのが普通ではないか、ましてや、水分を母親がちゃんと与えていたら子供は助かったかもしれないのに、と私達はいらだちました。

 生への執着を見せず、なぜ子供が死んだのか突きつめて考えないのは、喪失の悲しみに対する防衛規制かもしれません。厳しい環境の中では子供の内の何人かが死ぬのは当然と考えても無理ないのかもしれません。

 いえ、事実はもっと単純かもしれません。確かに病院では家族どころか患者の食事さえ十分保証はされていません。この母親は物乞いするしか現実に選択はないのです(物乞いが悲惨なことであるというのは私達の思いこみに過ぎないのかもしれませんが) 。それにキャンプから病院までは救急車で1時間半かかります。歩けば1日以上かかる山道です。母親は、病院とキャンプがそれぞれどこにあるのかもわからないでしょう。現金はもっていません。電話で彼女とキャンプにいる家族が連絡しあうこともできません。これから放り込まれる未知の状況への不安が、食べ物という形で表されていたのだと考えてもおかしくはないのです。

 また、感情表現のルールは文化によって大きく異なります。女性の人類学者Wikan*はバリ島で恋人を亡くした直後の若い女性がニコニコと明るく振る舞う姿にひどく驚きます。けれど、冷たく非道徳的にみえるそのふるまいは、バリの文化的価値体系や世界観(黒魔術との関係など)の中ではむしろ厳しく要求されているのです。感情表現を文化的理解抜きに道徳的判断と結びつけることも危険です。

 難民は救われることを望んでいるのか、一見簡単にわかりそうなことも実は判断は困難です。ただ、こういった根本的な問いを頭に置いておくことはきわめて貴重だと私は思います。

*Unni Wikan, Managing Turbulent Hearts : A Balinese Formula for Living (University of Chicago Press,1990). ほかに Catherine A. Lutz, / Lila Abu-Lughod(eds.), Language and the Politics of Emotion (Cambridge University Press, 1990)も参照のこと。

文献

 

(1)ガヤトリ・C・スピヴァック,鈴木聡/大野雅子/鵜飼信光/片岡信訳『文化としての他者』(紀伊国屋書店,1990)p248  

(2)ジブチ共和国はアフリカ北東部に位置し、紅海、エチオピア、ソマリアに囲まれた面積2.3万km2の九州の半分程度の国。19世紀後半よりフランス植民地となり、1977年に独立しましたが現在も中東・アフリカにおけるフランスの重要な軍事基地。人口は約39万人、ソマリア系イッサ族47%、エチオピア系アファル族37%、ヨーロッパ系8%、アラブ系6%('89)。公用語はフランス語、アラブ語、ソマリア語、アファル語。イスラム教(スンニー派)信者が94%、GDP1547$、平均寿命48.3歳、識字率43.2%、乳児死亡率115/千人、合計特殊出生率5.8('92)。民族融和政策をはかっているもののイッサ系住民とアファル系住民の間で政治抗争が継続中。

気候はステップ/砂漠気候で、日中は50℃近く。国土の多くが半砂漠の荒地で資源もなく、日常物資は輸入に依存。人口の7割は首都に集中し、遊牧民は減少中。女性は夜でも町中を歩けるなど原理主義的なイスラム教国に比べると開放的ですが、一夫多妻制も存続し、女子の割礼(ファラオ型陰部封閉)も広く行なわれています。

(3) 私の所属していたNGOは、AMDA (Association of Medical Doctors ofAsia:アジア医師連絡協議会)といい、世界20ヶ国に支部を持つ国連登録NGOです。1984年に発足し、相互扶助の精神を旨にルワンダ、サハリンなど世界各地で緊急医療支援や地域保健医療を行っています。国内ではAMDA国際医療情報センターが在日外国人への医療情報提供を行っています。詳しくはhttp://www.amda.or.jp。ジブチ・ソマリア難民キャンプ医療プロジェクトに関しても、詳しい情報が得られます。ただし本稿はあくまでも筆者個人の見解であり、AMDAの公式見解ではないことを明記しておきます。

(4)難民キャンプは1988年より設置され、ジブチ内務省難民局がジブチ保健省、国連難民高等弁務官事務所、WorldFoodProgramの協力の元に運営していました。NGOはAMDAと国境なき医師団(MSF)が活動していました。難民局、保健省、UNHCR,MSF,AMDAから成るヘルス・コミッティーが毎週開かれ、ヘルスワーカーの配置などキャンプの保健医療活動の細かな調整を行なっていました。各キャンプの診療所には、難民局所属の主任看護士(婦)1名、ヘルス・アシスタント1-3名、コミュニティ・ヘルスワーカー(CHW)5名、TraditionalBirth Attendant (産婆)1-2名が配属されていました。

(5)リゾームをそのまま映し出せる文体はないものでしょうか。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ,宇野邦一他訳『千のプラトー』 (河出書房新社,1994)

(6)こだわり、こわばりという言葉については、中川米造『医療のクリニック』(新曜社,1994)を参照。

(7) それは例えば、安彦一恵/大庭健/溝口宏平編『道徳の理由 Why bemoral? 』叢書「エチカ」1(昭和堂,1992) など倫理学プロパーの議論とはほとんど重ならないようです。また、生命倫理とのずれもかなりあるようです。

(8)「心がツルン」については、村上龍:『ラブ&ホップ』 (幻冬社,1996) 49頁より。「去年の夏、『アンネの日記』のドキュメンタリーをNHKの衛星放送で見て、恐くて、でも感動して、泣いた。次の日の午前中、「バイト」のため「JJ」を見ていたら、心が既にツルンとしているのに自分で気付いた。」

鷲田清一:「時が去りゆく、物が消える」『中央公論』1998.5月号182-191頁は、本章とは全く異なる文脈においてですが、やはりこの表現から思索をめぐらせています。

(9)医療人類学の医療に対する応用的側面と、ラディカルな批判的側面の2面性については宮地尚子:「医療人類学と自らの癒し」 『現代のエスプリ』335(1995),174-183頁を参照のこと。医療人類学と国際保健の関係については、宮地尚子:「難民医療援助プロジェクトにおける社会文化的アプローチ:その問題点と可能性」 『日本保健医療行動科学会年報』9(1994),180-199頁。

(10)それはちょうど阪神淡路大震災の時に、震災の様子は見てみたいけれども物見遊山は恥ずかしいのでボランティアとして行くという心理と近いものだったような気がします。だからといって震災ボランティアの志がいい加減だといいたいのではありません。

(11)この「主要疾患と死亡者についての社会文化的調査」は、UNHCRやMSFのメンバーから大きな期待が寄せられました。「外部からの介入は社会文化的理解のもとで」という認識は既に国際協力の常識のようです。けれども、ヘルス・コミッティーに現地スタッフの主任看護士を含めるという私たちの提案を強く拒否したのも彼らでした。

(12)家族だけではなく、人数報告を調整して物資の横流しをするキャンプ関係者がいることもCHWは教えてくれました(U.S.State Dept., Country Reports on Human Rights Practice,71-78,1993などにも報告あり)。難民の正確な数は、全体的な保健統計の把握に不可欠なので、私たちは何度も管轄の難民局に問い合わせましたが、答えは聞く度に変化し、死亡や出生数、新着難民数と足し引きしても合いませんでした。人数確認という単純な私たちの要請は、キャンプの最もセンシティブな「文化」に触れてしまっていたのです。

(13)難民の方も一枚岩ではありません。出身地や部族、教育程度によって、また政治難民か経済難民かなどで多様にわかれています。私たちが主に情報を得た難民は、英語の話せる、教育程度の高い、キャンプでは少数部族の政治難民であり、彼らはしばしば他の難民に軽蔑感を抱いていて、通訳を頼んでも自分たちで答えてしまうことがたびたびありました。

(14)派遣者が殺人事件などに巻き込まれるのは、現地での雇用のもつれからおこることが多いというのは国際協力専門家の常識といえるかもしれません。

(15) 武井秀夫:「保健所という名のカーゴ」 (波平恵美子編.『人類学と医療』( 弘文堂,1992)44-69頁。

(16)人類学の表象の危機は、文化内部に潜む政治性や権力、差異や葛藤、多様性に目を向け、人々の行動の意志や戦略的側面をも視野にいれる方向性を生み出しました。けれど、周辺の、応用に近い場所でこそ、このポストモダン的問題はより劇的な形でたちあらわれ、経験する者の鋭い感受性を必要とします。応用の場所では観察する者とされる者の間の距離は限りなく近づきます。表象の問題は、ただちに政策に結びつくような価値判断として迫ってきます。難民を善人として一括りにし、政府関係者を悪人とすれば、それは必然的に活動方針を決めてしまいます。一方、文化相対主義の姿勢を維持しようとしても、判断を停止したまま中立を保つことは現場では不可能です。すでに国際協力団体は現地のマイクロ・ポリティックスに取り込まれています。何もしないことさえも一つの勢力の加担になるのです。

(17)宮地尚子/中満泉/工藤絵理「リレーエッセイ国際協力の現場から」『外交フォーラム』1997.1-1998.3

(18) 写真はNew York Times1993年3月26日初出。論争についてはNHK『メディアは今:人命か報道優先か〜ピュリツア賞・写真論争』1994年6月30日放送参照。上記情報については栗本英世氏に感謝する。

(19)類似の現象として人類学者が魔女と見なされたりすることもあります。鍵谷明子『インドネシアの魔女』(学生社,1996)。

(20)マイケル・ニコルソン,小林令子訳『ウエルカム・ト・サラエボ』(青山出版社,1998)

(21) Christina Zarowsky“Ifrah's Story, ”McGill News,Summer 1997 (http://www.mcgill.ca/alumni/news/s97/ifrah.htm)

(22) ガヤトリ C.スピヴァク,上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房,1998)。

(23)ローランド・ジョフェ監督『キリング・フィールド』(イギリス=アメリカ,ワーナーブラザーズ,1984)。

(24)なぜ、ハゲワシに襲われそうな少女、シヤド、イフラ、ナターシャ、いずれも少女なのかを考えてみるとよいかもしれません。それは果たして偶然でしょうか?多少ずれはありますが、関連するものとして、ピエール・ブルデュー:『ディスタンクシオン』1,2(藤原書店,1990)は、芸術的嗜好に反映される社会構造を、山田昌弘『結婚の社会学』(丸善,1996)は恋愛に反映される社会構造を描き出しています。

(25)学問の主体とポジショナリティについては、宮地尚子「文化と生命倫理」加藤尚武/加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』(世界思想社,1998)289-301頁、宮地尚子:「フィールドの入り口で:あるいは文化精神医学らしさという呪縛」『文化とこころ(多文化間精神医学研究)』2-3(1998),230-237頁, 宮地尚子「揺らぐアイデンティティと多文化間精神医学」『文化とこころ(多文化間精神医学研究)』3.2.(1999)92-103頁。

(26)植民地に生まれたシクスーが「偶然、偶発事、落下」について思考をめぐらせているのも、無関係ではないでしょう。エレーヌ・シクスー:「私のアルジェリアンス」『現代思想』25;13p.234-261, 1997

(27)恣意性という言葉は、柴谷篤弘、池田清彦両氏の議論(本稿とは全く異なる文脈においてなのですが)を参考にしています。柴谷篤弘『比較サベツ論』(明石書店,1998) 池田清彦『思考するクワガタ』(宝島社,1994)など参照。

(28)パトリック・シャンパーニュ,杉山光信訳「社会学対話についての考察 P・ブルデュー『世界の悲惨』をめぐって」『思想』872(1997),86-101頁。

(29)開発・発展が一方向に向かうかのようなニュアンスに抵抗を感じながらも、便宜上本稿では途上国、先進国という言葉を用いています。

(30) C.B. Ijsselmuiden, R.R. Faden: Research and Informed Consentin Africa---Another Look. New England Journal of Medicine 326(1992)pp.830-834.

(31) D.J. Rothman, et al.: The Bellagio Task Force Report onTransplantation, Bodily Integrity, and the International Traffic inOrgans. Transplantation Proceedings, 29(1997),pp.2739-2745.

(32) 国連開発計画 (編): 『UNDP人間開発報告書』(国際協力出版会,1997)

 

<読書案内および参考ホームページ>

@ミシェル・レリス,岡谷公二/田中淳一/高橋達明訳『幻のアフリカ』(河出書房新社,1995)

 1931-33年のダカール・ジブチ、アフリカ横断調査団の記録。当時の「異文化理解」の状況だけでなく植民地政策と民族学、学問と個人的経験との関係など、多面的な読み方のできるきわめて魅力的な書。

A宮本正興/松田素二編『新書アフリカ史』(講談社現代新書,1997)

 世界史の授業で、アフリカの歴史を学んだ人はどれくらいいるでしょうか。学校教育の「隠れたカリキュラム」(何が重要で何が学ぶに足りない知識かを暗黙の内に伝える機能)に対抗する術はあるのです。

B西崎真理子他『国際協力を仕事として』(弥生書房,1995) 

 私も難民キャンプの経験について書いていますが(「ソマリア難民キャンプでの医療援助」170-189頁)、そのほか国際協力に関わる日本女性が率直に自分の経験を語っています。ユニークなのは、国際協力の仕事を今はやめてしまった人、挫折した人の話も含まれていることです。

C国連開発計画 (編): 『UNDP人間開発報告書 』(国際協力出版会)

 毎年、世界各国の人間開発に関する指標を包括的に報告しています。特集内容は年毎に変わり、『ジェンダーと人間開発』(1995)、『貧困と人間開発』(1997)などがあります。

Dhttp://www.unhcr.or.jp/index.html

 世界の難民及びUNHCRの活動について、最新の情報を得られます。

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