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〜人の意識・思想に焦点をあてた歴史研究を行っています〜 

研究のすすめ

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研究のすすめ
☆ 思想史って何?
☆ 既成通念・常識という視角
☆ 思想家・領主層・民衆思想史の統合
☆ 読書研究のすすめ
以下、続刊。
☆ 歴研大会要旨


               思想史って何?

 僕の専門は、日本近世史・思想史研究です。思想史研究というと、「むずかしそうなことをやっているのですね」って言われたり、特異な分野のように見られるのですが、決してそんなことはありません。現代のことを考えてみて下さい。現代がどのような時代かということを考えるときに、現代の人々がどのようなことを意識し(あるいは意識せず)考えているのかということが分からないと、現代という時代は結局分からないのではないでしょうか。過去についてもまったく同じです。たとえば徳川綱吉の治世って元禄時代と言われるけどどんな時代だったのかについて考えるときに、その時代の人々の意識・思想を抜いては、その時代は分からないのです。このような人の意識・思想に焦点をあてた歴史研究を、僕は思想史研究と呼んでいます。
 従来の歴史研究では、ともすると、思想史研究がなおざりにされ、人の息吹が感じられない人間不在の歴史叙述となっていたのではないか。このような反省に立って、思想史研究を根幹に据えて、個別分化史研究(政治史・社会史・経済史・文化史等々)を総合する歴史研究を開始しなくてはならないと考えております。そのような試みの第一歩が、1999年に出版した拙著『「太平記読み」の時代―近世政治思想史の構想―』(平凡社選書192)です。次に掲げたのはこの「あとがき」の冒頭です。僕の問題意識が出ています。

  • 「思想史研究がさかんである。研究者と論文の著しい増加は近年に特徴的なことに思われる。それ以上に顕著なのは、いわゆる思想史プロパーでない研究者が歴史を叙述するにあたって、かつては切り捨て見ようともしなかった人間の意識・思想を重視し始めたことである。いわば日本史研究の思想史化とでもいうべき新しい潮流が起きている。新しい?、否、実は家永三郎氏が半世紀も前に述べていたこと―「いやしくも歴史的世界の全領域は、潜在的にもせよ思想を含まないではいない」のであるから、思想史学は「あらゆる歴史的領域にわたりその意識面を対象とするものとして、一切の分科史の主体的側面を統括する位置に立つ」(「思想史学の立場」『史学雑誌』58―5、1949、のち『日本思想史学の方法』名著刊行会、1993、に所収)―がようやく認められようとしているともいえる。しかしながらこの研究潮流がおそらくソ連・東欧崩壊後の思想状況と無関係ではないことを思うとき、その行く末には少なからぬ不安を感ぜざるを得ない。唯物史観から自由になって、ことさらに「基礎構造が上部構造を制約しながら上部構造に基礎構造からは理解しえない要素がある」(家永氏)などと主張しなくても思想史研究を行い得るようになってきているのであるが、それでは思想史研究が何を求めどこに行こうとしているのかというと、まったく見えてこないのである」(拙稿「書評:倉地克直『近世の民衆と支配思想』」『歴史学研究』699、1997)。
  •  右の小文は、近年の私の問題意識を凝縮して吐露したものである。思想史研究がさかんでありながら、関心と領域が専門化・個別分散化して、意識・思想のレベルから時代像を結ぶことがますます困難となってきている。このままでは思想史研究は一過性のブームに終わり、結局、「分科史」を統括する総合史としての思想史学は自立できないのではないかという危機感をもちながら、私は本書を執筆した。「太平記読み」を基軸とした政治思想史の構想は、私の意図としては、分科史の一つとしての思想史の世界だけのものではない。政治史・社会史・経済史・社会運動史・文化史等々の「分科史」のすべてに関わるものであり、それらを統括する総合史の構想でもあることを、ここで述べておきたい。もちろん本書の提起が、不十分であることは承知している。あくまで「構想」であり、今後の議論のたたき台になればとの思いから、いわば中間報告として出したのである。
           既成通念・常識という視角

 人の意識・思想に焦点をあてた歴史研究といっても、「ある人はこう考えていた」「別のある人はこう考えていた」などという個別事例のられつに終わってしまっては、永遠に時代像を結ぶことはできない。では人の意識・思想に焦点をあてて時代を読み取るには、どうしたらよいのか。僕が今注目しているのは、「既成通念・常識」という視角です。ある時代・社会の人々にとっての既成通念・常識とはどのようなものか。それはどのようにして既成通念・常識となったのであろうか。またいかにして既成通念・常識でなくなったのか。このような、既成通念・常識の歴史的形成と破綻という視角を導入することによって、時代を描くことができるのではと考えているところです。これについても、前掲『「太平記読み」の時代』の一文(329,30ページ)を下に揚げておきます。
 なお、2000年1月の『日本歴史』620号「歴史手帖」に、塚本学氏が「江戸時代人の常識」というエッセイを寄せておられます。そのなかで、氏は、『大雑書』が江戸時代の人の常識形成に大きな役割を果たしたことを述べたあと、「最近、若尾政希氏の『「太平記読み」の時代』(1999年、平凡社)を読む機会を得た。ここでの話題とはちがって政治思想をテーマとし、「太平記読み」が提起した国家・政治に関するみかたが常識として形成され通用した時代という興味深い主張を説得力をもって示す力作であった。口承の文化と文字化されたそれとのかかわりという問題もふくまれた。橋本・小池両氏(橋本萬平・小池淳一編『寛永九年版大ざつしよ』1996年、岩田書院)から教えられた面とあいまって、前代人の常識について、現代の常識からの思いこみを離れて考えていく道が、ひらかれていくことを期待したい」と、拙著を紹介して下さいました。ここではあげておられませんが、塚本氏の動物観や肉食観に関する御仕事(「動物と人間社会」<『日本の社会史』岩波書店、1987年>、「肉食の論理と異人感覚」<塚本学『近世再考―地方の視点から―』日本エディタースクール出版部、1986年>等)も、やはり同じ視角の研究だと思います。皆さんも、既成通念・常識について考えてみませんか。
  • 「ある社会の人々にとっての通念・常識が別の社会では非常識」とは、国際化時代といわれ高度に情報化が進んだ現代でさえ(あるいは現代だからこそというべきか)、しばしば痛感させられるところである。身近な例を挙げれば、何を食べ何を食べないかという食文化の相違(ある種の肉食の禁忌や食習慣など)が、相互の理解を妨げ文化摩擦を引き起こしているのは周知のことであろう。ところが、一つ社会においても、その歴史をひもといていくと、現代では常識であることが古い時代には常識ではないことに気づかされる。ともすれば我々は常識にどっぷりつかり、それが普遍・不変であるかのように考えがちであるが、現代の常識もその社会のなかで歴史的に形成された歴史的産物なのである。このように常識は変わるものであるから、常識は時代を区分する指標になり得る。すなわち社会のなかで、人々が共有する常識が形成される時期からそれが常識として通用しなくなる時期までを、一つの時代としてくくることができると思われる。
  •  時代・社会の変革という問題を意識・思想のレベルから捉えるとき、「ある時代、ある社会において人々が共有する通念なり常識といったもの(いいかえればその秩序を支えている通念・常識)がどのようにして形成されるのか。またかつては疑いえないもの絶対的なものに見えた通念・常識がどのようにして通用しなくなり別のものにとって代わられるのであろうか」という課題を提起することができるのである。
  •  「政治思想史」を副題に冠する本書では、さまざまなレベルの常識のうち、政治に関する常識(関係意識から具体的政治論まで)に着目し、その形成の過程を描写し、その時代を意義づけてきた。それは具体的には、本書で見てきたように、「太平記読み」が提起した「国家」についての考え方が、支配者・被支配者の別なく社会一般に共有され常識となっていく過程であった。本書が対象としたのは、「太平記読み」が提起した政治思想が常識となり通用した時代であり、いわば「太平記読み」の時代とでも呼ぶことができる。本書のタイトルとしたゆえんである。
       思想家・領主層・民衆思想史の統合

 「人の意識・思想に焦点をあてた歴史研究」と、「人」と一口に呼んできたのですが、江戸時代は身分上下の差別がはっきりと存在した社会であり、平等で(人権をもった)均一な 「人」がいたわけではありません。よって、身分階層に応じた意識・思想の有り様や、他の身分階層との関係意識を問題としなければなりません。ところが従来の研究ではそのような問題意識はほとんどなく、丸山真男氏以来の儒学・思想家研究と、安丸良夫氏らによる民衆思想史研究とが、それぞれ別々に無交渉に行われてきました。また領主層の意識・思想を探る研究は、ほとんど行われてきませんでした。こうした反省に立って、僕は、儒学・思想家研究、民衆思想史研究、領主層の思想の研究を統合するような研究を模索し、 「太平記読み」を基軸とした政治思想史の構想を提起しました。以下、拙著から関係する部分(断片)を抜き出しておきました。なお、この構想でも、下層民衆や「周縁」身分の意識・思想が捉えられているかと言われると不十分であることを認めざるを得ず、今後の課題はとても多いと思っております。
  • ところで、このような儒学(朱子学)を基軸とした思想史研究(丸山真男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952)に対し、1960年代半ばから70年代にかけて、それを「頂点思想家研究」だと厳しく批判して登場してきたのが、安丸良夫氏らによる民衆思想史研究(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店、1974)であり、この研究潮流から領主―「百姓」関係意識に関する画期的な研究成果がうち出された。1973年に宮沢誠一氏らが、金沢や岡山等の藩政史料に基づいて提起した「幕藩制的仁政イデオロギー」論(宮沢誠一「幕藩制イデオロギーの成立と構造―初期藩政改革との関連を中心に―」<『歴史学研究』別冊、1973>、深谷克己「百姓一揆の思想」<『思想』584、岩波書店、1973、のち「百姓一揆の意識構造」と改題して同『百姓一揆の歴史的構造』校倉書房、増補改訂版、1986に所収>)がそれである。
  • 以上、関係意識に焦点をしぼって研究史を整理してみて、非常に興味深いのは、両研究、すなわち儒学・思想家研究と民衆史・民衆思想史研究とは、その対象も研究方法もまったく異なっているにも関わらず、ともに17世紀半ばを転機と見ていることである。これはまったくの偶然とは考えられず、二つの関係意識の形成が密接にからみ合っていることが予想される。にもかかわらず、両研究の成果を総合して、17世紀半ばという時期の歴史的特質を明らかにして、思想・意識の側面からの時代像を提起するようなスケールの研究は行われなかった。これまで両研究は、問題意識の上でも大きく乖離し、それぞれ独自に無交渉に行われ、何の接点も見出せなかったのである。安丸氏がすでに1974年に、「民衆の意識や思想について考察することは、いわゆる頂点的思想家の思想的営為の本当の意味を照らしだすための基礎作業の一つでもある」(安丸前掲書)と、的確に指摘していたにもかかわらず、またそのような総合化に向けた試み(たとえば、しらが康義氏の仕事(「近世初期思想史研究序説―天・天道と不受不施―」<『民衆史研究』17、1979>等)や倉地克直氏の仕事(「幕藩制前期の支配思想と民衆―一つの試論―」<『日本史研究』163、1976、のち『近世の民衆と支配思想』柏書房、1996に所収>を参照)がいくどもなされたにもかかわらず、20有余年たった現在に至るまで、両研究は別個の研究潮流として交わることなく行われてきているのが、現状なのである。
  • いよいよ「太平記読み」と政治・社会との関わりへと考察を進めなければならない。「太平記読み」は、現実の施策に影響を与えたのだろうか。政治主体として政治を主導した幕藩領主層(執政クラスも含めていう)の意識・思想にどのような影響を与えたのであろうか。いったい幕藩領主層にとって「太平記読み」とはなんだったのか。
  •  この課題に取り組もうとするとき、気づかされるのは、これまで近世史研究において、幕藩領主の意識・思想を真正面から取り上げ、その歴史的特質や地域・時期による変質を明らかにするような研究があまり行われず、研究の蓄積がないということである。確かに、幕藩領主の支配思想を抽出した画期的な研究に、「仁政イデオロギー」論があった。しかしそれは、支配思想が民衆思想を強く規定し呪縛したという視角から、支配思想にアプローチしたものであり―あくまで重点は民衆思想にあって―、さらに深めて、幕藩領主の意識・思想の歴史的位置づけを探るという方向には研究は進まなかった。また柴田純氏(「徳川頼宣の藩教学思想―近世における「学文」の性格―」<『史林』六四−三、一九八一。のち『思想史における近世』思文閣出版、一九九一>に収録)2)は、すでに1981年に、「近世幕藩制社会の支配思想を考察する場合まず留意すべきは、単にイデオローグとしての思想家のそれを検討するのみではなく、領主階級の意識をも合わせ含めて考察せねばならぬ」と的確に指摘し、紀州藩主徳川頼宣の支配思想(家臣団統制と農民支配)を検討している。しかし氏の提起を受けたとめた研究は、その後現れず、新たな研究潮流を生み出すことはできなかった。近世の国家や社会のありようを解明しようとするならば、当然、支配層の中核をなした幕藩領主の意識・思想がどのような歴史的特質をもつのかといったことが、中心的な課題として問われるべきであったにもかかわらず、現実には、そうした本格的研究は行われなかったのである。
  •  このような反省に立って、「幕藩領主の思想史的研究」を開始したい。とはいっても、従来の、いわゆる頂点的思想家研究と民衆思想史研究の外に、新たに幕藩領主思想研究をうちたてようというわけではない。前二者が分立し接点を見いだせず成果を共有できない現状で、それを行えば、研究はますます分化・分散化する。そうなれば、意識・思想のレベルからのトータルな国家像・社会像を結ぶことは、一層困難になってしまう。今求められているのは、領主・民衆・思想家、この三者を総合的に把握できるような―いわば同じ土俵の中で議論できるような―基軸を見いだすことであろう。
  • 「太平記読み」の政治論は、もともと武士層(そのなかでも選りすぐりの者)を対象に、指導者像や政治のあり方を提起するものであり、武将から為政者への転換を余儀なくされた人々にとって、それが切実な生きた思想であったことは、第二部で見たとおりである。しかしその影響は、武士層を越えて、第一部で明らかにしたように、素行や蕃山、直方といった当代一流の学者・思想家をも巻き込み、彼らの思想形成にぬぐい去ることができないほどの大きな影を落としていた。そしてさらに、ここで、一民衆が、出版メディアによる知の回路を通して、「太平記読み」が提示した理想的な指導者としての正成像を受けいれていたことが明らかとなった。『理尽鈔』の「明君」像は、領主レベルから代官へ、そして村役人レベルへと、いわば下降化し、その結果、武士層から民衆の上層までに、共通の指導者像が形成・定着したといえるのである。さらにそれは、さきにも見たように村役人層による口誦を介して中下層に流通した可能性もある。つまり「太平記読み」の政治論は正成像というわかりやすいかたちで、武士層を越えて思想家や民衆にまで大きな影響を与え、指導者像や政治のあり方に関する社会の共通認識(常識)の形成に寄与したと推定されるのである。
  • 以上、可正の事例を通して、「太平記読み」が指導者像や政治のあり方に関する社会の共通認識の形成に寄与したのを見てきた。すなわち「太平記読み」を基軸にすえることによって、武士層や思想家の政治思想から民衆の政治意識・思想までを歴史的かつ総合的に把握することがはじめて可能となった。というわけで、ここで、「太平記読み」を軸にした政治思想史の構想を提起したい。

             読書研究のすすめ

 人の意識・思想に焦点をあてた歴史研究を行うとき、どんなものが史料となるのでしょうか。現在、僕が注目しているのは、「書物」です。最近、頼まれて「書物から時代を読む―読書研究のすすめ―」(『一橋論叢』123巻第4号、2000年4月号)なる論文を書きました。次にその末尾の文章を掲げておきます。
  • 私は、『「太平記読み」の時代』において、「太平記読み」を基軸にすえることによって、武士層や思想家の政治思想から民衆の政治意識・思想までを歴史的かつ総合的に把握することが、はじめて可能となったとして、「太平記読み」を基軸とした近世政治思想の構想を提起した。この構想は、以上の叙述から明らかなように、昌益はどんな書物を読んだのかという、一見些末な謎解きから始まった。まさしく「事実は小説よりも奇なり」で、人と史料との出会いにも恵まれて、思ってもみない成果をうむことができたのである。
  • ところで私がこのような研究に没頭していた90年代は、くしくも近世史研究において書物に着目した新たな研究動向が現れた時代であった。これまでの研究では、主として支配のラインにのって作成される手書きの文書史料から歴史を再構成してきた。各地で史料調査が行われ、文書の整理、目録の作成、史料の保存がなされてきたが、そこでは文書史料のみが重視され、書物はながらく、目録の「雑」の部に入れられ分析の対象となってこなかった。ところが90年代に入ると書物に光があてられ、書物に着目して書物を史料として(書物史料から)近世史を語ろうとする研究が出てきたのである。たとえば阪神淡路の大地震後の史料救済活動の中で、庶民が膨大な蔵書を持つことに新鮮な驚きを感じた横田冬彦氏は、畿内をフィールドにした蔵書調査から、1700年前後には畿内村落において知的読者層が成立していること、そして近世の政治支配はそのような在地社会の知の水準を踏まえた上での支配であったという刺激的な論点を提起した(横田冬彦「益軒本の読者」<横山俊夫編『貝原益軒』平凡社、1995>、「近世村落社会における<知>の問題」<『ヒストリア』159、1998)他。)。また「古文書返却の旅」(網野善彦『古文書返却の旅』中公新書、1999)で、能登時国家の膨大な蔵書の整理に直面した橘川俊忠氏は、奥能登や関東をフィールドに蔵書の掘り起こしを行い、家・地域の総合的調査研究に蔵書研究が重要な位置を占めるという問題提起を行うとともに、「戸数三百ほどの村に、これほどの教養人がいたという事実をどう考えたらよいだのだろうか。近世の「地方」は、現在(中略)よりもはるかに知的水準が高かったように思われるが、いかがであろうか」と述べている(橘川俊忠「在村残存書籍調査の方法と課題」<『歴史と民俗』4、1989>、「近世文人・名望家の教養」<同10、1993>他)。
  •  そして私の安藤昌益・「太平記読み」研究も、そのような研究動向の一翼を担ったものと研究史上に位置づけることができよう。昌益に限らず、ある人物が書物をどのように読んだかという観点からの研究を進めることによって、ある人物の意識・思想形成過程を追うことができ、ある人物を歴史・社会のなかに位置づけることがはじめて可能となったのである。なお、いうまでもないことであるが、これは決して他人事ではない。我々自身も意識・思想形成の途上にあり、どんな人・書物と出会いどのような蔵書を形成するのかという問題は、現代の我々自身の切実な問題でもある。もし未来の歴史家が、「20世紀末から21世紀初頭における<知>」を問題にしたとき、それはどのように位置づけられるのであろうか。あなたのノートを歴史家が入手したとして、そこから彼はどのような結論を導き出すのであろうか。
  •  それはともかくとして、いま、読書・書物研究は、もっとも刺激的な研究分野の一つである。@読者の蔵書形成、A読者の獲得した「知」と在地社会、B読者の読書遍歴と意識・思想形成(読者が作者になるという問題)、C読書と芸能者(口誦芸能、太平記読み、講釈師)、D本屋と貸本屋、E写本と版本、F権力と本屋(出版統制)、G作者と書物……等々。いずれもほとんど手つかずの沃野が我々の前に広がっており、我々が鍬を入れるのを待ち望んでいるのである。さあ、発掘・謎解きの旅に出掛けよう。

歴史学研究会大会報告要旨

 以下は、2002年6月2日に開催される大会における報告要旨(4月5日現在)です。要旨というより、問題意識を前面に出したものですが、お読み頂いた上で、報告をお聞きいただければ幸いです。

近世の政治常識と諸主体の形成

  
私は、「近世の政治常識と諸主体の形成」というタイトルで報告を準備した。今なぜ政治常識なのか、主体の形成なのか、私の問題意識の一端を述べて要旨に代えたい。私は2000年の歴史科学協議会大会で「政治常識の形成と『太平記』」という報告をした。そこでは、歴史は「物語」だという「物語」論の攻勢を受け萎縮している現状を「歴史学の危機」と捉え、「物語」論と厳しく切り結んで歴史学をいかに立ち上げていくのか、歴史をどう叙述していくのかという問題意識から、報告を組み上げ、具体的には日本列島における歴史叙述・認識の歴史を振り返った。2002年の今日でも、この問題意識を堅持せざるを得ない状況にあるが、事態はさらに深刻化し、たんに歴史学という一学問の危機に止まらない、現代社会そのものが危機に直面しているのではという実感を私は強く持つに至っている。たとえば、私が念頭に置いているのは、2001年の教科書問題である。「新しい歴史教科書をつくる会」は歴史・公民の両教科書を通じて、子どもたちに、「国家」「民族」を拠り所にして「自分をもつ」よう教諭していた。このような新味のない古くさい主体形成論に共鳴する人々が、政財界から教育界さらに民間までに、いまだに存在していたことに驚きあきれたのであるが、彼らがいわばスクラムを組んで議会への請願運動をはじめ「草の根運動」を展開するに及んでは、驚きを通り越して恐怖を感じた。また2001年9月の同時多発テロ後のアメリカ社会にも衝撃を受けた。「報復攻撃」という名の戦争に突き進む「国家」に対して、異論を許さないアメリカ社会の変貌ぶり(言論統制と自己規制)を見るに及んで、アメリカの社会が培ってきた自由と人権はどこに行ってしまったのか、と深く当惑させられた。こうして私は、自立した個人が担う民主主義というこれまで自明とされてきた理念が、現実の前に無惨にもその基盤を崩されつつあるという危機感を抱き、改めて「国家」や「民族」に拠らない主体形成のあり方を模索しなければならないと痛感した。このような問題意識から私は、主体の形成にこだわった報告を準備したのである。
   さて、現代の課題をこのように措定したとき、この課題の解決に歴史学はどのような役割を果たし得るのであろうか。私は、これに歴史学は大きく寄与できるし、すべきだと思う。私見によれば、「社会通念・常識という視角」を持ち、その視角から社会を考察するときに、当該社会の特質や問題状況が見えてくる。社会通念・常識は空気みたいなもので、誰もそれに疑問を差し挟まない。人はともすれば常識にどっぷり浸かり、それが普遍・不変だと考えがちであるが、一歩外に立って歴史研究者としてそれを考察の対象とするとき、現代の常識もその社会のなかで歴史的に形成された歴史的産物であることがわかる。我々がいわば身にまとっていた社会通念・常識に疑念を抱きそれを対象化してその歴史的由来を追跡するとき、我々は自身が「今」という時代の政治的社会的関係のなかに身を置く歴史的存在であることを自覚することができる。すなわち一個の歴史的存在としてどのような主体を形成すべきかという人生の切実な課題は、歴史を学び究めることによって達成することができるのである。この意味で歴史学は自己確立・自己変革の学問であり、ひいては政治・社会の変革の学問であるといえるのである。私が日本近世の政治常識に着目するのも、現代とは異なる政治常識がどのような過程を経て形成され社会に一般化し定着するのか、そして定着した政治常識がどのようにして破綻していくのか、その歴史を描いてみたいからである。具体的には、私はこれまでの研究を通して、「太平記読み」(『太平記評判秘伝理尽鈔』<『理尽鈔』>の講釈)の政治論が、もともとの対象であった領主層を越えて、思想家や民衆(上層民衆)にまで大きな影響を与え、治者像・指導者像や政治のあり方に関する社会の共通認識、政治常識の形成に寄与したと推定した。こうした見通しを得て、私は「太平記読み」を基軸に据えることによって、武士層や思想家の政治思想から民衆の政治意識までを歴史的かつ総合的に把握することがはじめて可能になるとして、「太平記読み」を基軸とした政治思想史の構想を立ち上げた。今回の報告でも基本的には、それを踏まえたものとなるであろう。くわえて、政治常識の形成、あるいは形成された政治常識と密接にかかわって、領主層から民衆までのさまざまな主体形成が行われた。それら相互の関係性、葛藤と協調の諸相を描いていきたいと思う。もちろん私の報告はその全貌を描写することはできないであろうが、このような問題意識をもって今回の報告を準備したことを、ここで述べておきたい。