2006年度歴史学研究会大会のお知らせ
終了しました。どうもありがとうございました。
2006年度歴史学研究会大会
会場 学習院大学目白キャンパス(東京都豊島区)
第1日目 5月27日(土) 
 13:00〜
全体会 13:00〜17:30 
いま、歴史研究に何ができるか
 
−マルチメディア時代と歴史意識−
権力・メディア・歴史実践−グローバル化と植民地期メキシコにおける歴史の生産−……安村直己
歴史と主体形成
−書物・出版と近世日本の社会変容−………若尾政希

  コメント………………………………加藤博
第2日 5月28日(日) 9:30〜17:30
近世史部会 歴史意識からみえる近世-近世の国家・社会と「秩序」-
近世後期における大名家の由緒
−長州藩を事例として−…………………岸本覚
近世後期の地域社会における藩主信仰と民衆意識……………………………………引野亨輔
他の部会については、こちらを御覧下さい。 


       歴史学研究会で報告しました

お陰様で終わりました。ほっと一息という間もなく、あれこれ仕事をやっております。
 
本年度の歴史学研究会全体会で報告することになりました。近世史部会の報告ではいかに実証的に緻密な議論を展開するかに神経を使ったのですが、今回は全体会。近世史研究者だけを相手にするのではないので、細かい史料を並べるような報告はできずません。これまで私自身がやってきた実証研究をどうやってわかりやすく伝えることができるかが、勝負だと思っております。お出でいただければ幸甚に存じます。以下は報告要旨です。
歴史と主体形成―書物・出版と近世日本の社会変容―
                                                           若尾政希
 いまなぜ主体形成なのか、主体形成に関わって歴史を問題にするのはなぜか、私の問題意識の一端を述べて報告要旨に代えたい。私は2000年の歴史科学協議会大会で「政治常識の形成と『太平記』」という報告をした。そこでは、歴史は「物語」だという物語論の攻勢を受け萎縮している現状を「歴史学の危機」と捉え、「物語」論と厳しく切り結んで歴史研究をいかに立ち上げ、歴史をどう叙述していくのかという問題意識から、報告を組み上げ、具体的には日本列島における歴史叙述・歴史認識の歴史を振り返った。続いて2002年の歴研大会近世史部会報告では、事態はより深刻化し、たんに歴史学という一学問の危機に止まらない、社会そのものが危機に直面しているのではという危機感を背景に、「近世の政治常識と諸主体の形成」という報告をした。具体的には、2001年の教科書問題と同年9月の同時多発テロ後のアメリカ社会の変貌ぶりを前にして、自立した個人が担う民主主義というこれまで自明とされてきた理念が、現実の前に無惨にもその基盤を崩されつつあるという危機感を抱き、改めて「国家」や「民族」に拠らない主体形成のあり方を模索しなければならないと痛感した。このような問題意識から私は、主体形成―ここで主体形成とは、自己をとりまく諸関係、社会・政治の構造との関わりにおいて主体性を形成していくことと定義している―にこだわった報告を準備したのである。そして2006年の現在、委員会からの主旨説明に言うように「歴史研究をめぐる環境」は「危機的様相を深め」ている。くわえて社会の危機はより深まったように思う。「マルチメディア時代」に生きる我々は多様な情報を瞬時に得ることができる。しかしながら情報を取捨選択できる「主体」を形成できていないことは、2005年の衆議院選挙の結果が如実に示している。いわゆる「小泉劇場」の雰囲気に飲まれ雷同する人々を眼前にして、私は強くそう感じた。今こそ、主体形成があり方が真摯に問われなければならない。
 ところで、かつて日本近世史研究において「主体」と言えば、幕藩制解体期の変革主体を指すのが一般的であった。現在でも変革主体概念は堅持したいとは考えている。しかしながら主体概念をそれのみに限定して使うことは、今述べたような現代が直面している課題にはふさわしくない。学生や市民を対象に歴史学を講義しているときに、<我々=変革主体>論では説得力がない。むしろ<我々=歴史的被拘束>論の方が、説得力があり、学生や市民を歴史学に誘うことができる。我々がいかに歴史的規定を被っているのか。我々が不変であるかのように考えている社会通念・常識が、実はその社会のなかで歴史的に形成されてきた歴史的産物であることがわかるときに、人は歴史学が自己に切実な学問であることに気づく。こういうわけで私は、「社会通念・常識」を問うところから歴史研究を立ち上げようと思っている。我々がいわば身にまとっていた社会通念・常識に疑念を抱きそれを対象化してその歴史的由来を追跡するとき、我々は自身が「今」という時代の政治的社会的経済的文化的関係のなかに身を置く歴史的存在であることを自覚することができる。一個の歴史的存在としてどのような主体を形成すべきかという人生の切実の課題は、歴史を学ぶことによって達成することができる。この意味で歴史学は自己確立・自己変革の学問であり、ひいては政治・社会の変革の学問だと言える。こういうわけで、先に述べたような現代の課題の解決に、歴史学は大きく寄与できるし、寄与しなければならない。私が日本近世の政治常識に着目するのも、現代とは異なる政治常識がどのような過程を経て形成され社会に一般化し定着したのか、定着した政治常識がどのようにして破綻していくのか、そして破綻した政治常識とどのような関わりを持って、次の時代を担う新たな政治常識がいかにして形成されていくのか、その歴史を描いてみたいからである。そしてこの政治常識の形成の過程、あるいは形成された政治常識と密接にかかわって、領主層から民衆までのさまざまな主体形成が行われた。それら相互の関係性、葛藤と協調の諸相を描いていかねばならない。
 報告では、1.主体形成の契機としての書物に着目することの意味と意義を問い、2.近世社会の形成と変容に書物が果たした役割を考察する。そして、3.近世の人々が自らが生きている時代をどうとらえたのか、―それは過去に起きたことを相対化して歴史を意識して、その歴史に自らを位置づけることになるのであるが、―近世の人々の歴史意識の形成過程に迫ってみたい。

<参考資料>
全体会 主旨説明
いま,歴史研究に何ができるか
−マルチメディア時代と歴史意識−


委員会から

ここ4年ほど,全体会ではグローバル化をキー概念として,一方では資本主義,ナショナリズム,公共性などがいかに変容しつつあるかを歴史的に位置づけ,他方では「帝国」やアメリカ,イスラームなどを対象化する方法について検討を重ねてきた。その過程で,歴史認識とそれを形成する環境の激変に対して,歴史研究者がどのように向きあうべきか,またそのための視座をいかに養えるかが新たな問いとして浮上してきた。
今日,歴史研究をめぐる環境は危機的様相を深めている。新自由主義的政策の急速な進行にともない,専門的な歴史研究を支える制度的基盤が著しく減退している。また,「世界史」や「全体性」という認識枠組みがグローバル化のなかで切実さをいっそう増しているにもかかわらず,極度の専門分化の結果,対象とする地域や時代を異にする歴史研究者との対話が困難になっているという事態がある。
危機はそれだけにとどまらない。グローバル化にともなって新たなメディア環境が形成され,マルチメディア時代と呼びうる状況に突入した今日,歴史研究は多様なメディアによって発信される情報との競合にさらされるようになった。映画やテレビ,マンガやアニメ,そしてインターネットによって,種々雑多な情報が発信され,そうした情報から人々は歴史に関わる情報を意識的,無意識的に受容して独自の歴史意識を獲得している。もはや学校教育や啓蒙書に依拠することなく,人々は多様な歴史的主題にふれ,しばしば研究者の予想だにしない歴史認識を形成し自ら発言しているのだ。歴史教科書問題や靖国問題などをめぐる人々の反応も,そうした位相の中に置かれているのであり,そこでは歴史研究者が必ずしも主要なアクターとしての役割を果たしているわけではないことを認めざるをえないだろう。しかも今日のマルチメディア時代において,歴史研究者とて過剰な情報から無縁でいられるはずもなく,研究者自身がメディアからさまざまな影響を受けていることに自覚的である必要がある。もはや歴史の語り手と受け手という二分法はその自明性を失ってしまったと言えよう。
こうした歴史研究が直面する状況に対して,歴史研究者は何をなしうるのであろうか。この根源的な問題を考えるための足がかりとして,本年度の全体会では,過去のあり方を考察することを通じて,現在われわれが置かれている状況を相対化するという方法を取ることにした。すなわち,過去において,歴史の語り手と受け手とはいかなる存在であり,相互にいかなる関係を結びながら歴史を「実践」してきたのかという問いを立てることによって,マルチメディア時代に生きる歴史研究のあり方を考えるというものである。報告をお願いするのは,メキシコ植民地時代史の安村直己氏と日本近世史の若尾政希氏のお二人である。このテーマに関して,報告者がいずれも17〜18世紀を研究の対象としていることは決して偶然ではない。
安村氏には「権力・メディア・歴史実践−−グローバル化と植民地期メキシコにおける歴史の生産−−」と題して,植民地期メキシコにおけるインディオをめぐる歴史実践について考察していただく。メキシコにおいて,17〜18世紀は歴史叙述における西洋的な規範が支配的になった時代であった。「新世界」の歴史を書く権利はヨーロッパ人によって独占され,インディオは歴史実践の主体であることを否定された。けれども,スペインによる征服・植民地化の以前,先住民たちは伝承や儀礼などを通じて自らの歴史を語っていたし,征服後はヨーロッパの文字による歴史記述という方法を獲得していった。そうしたスペインによる征服後のインディオたちをめぐる歴史実践の諸相を,彼らの残した訴訟や請願といった史料を通じて解読していただく。
若尾氏には「歴史と主体形成−−書物・出版と近世日本の社会変容−−」と題して,近世日本における人々の思想形成と歴史意識のありようを考察していただく。この時代は,日本において初めて商業出版が成立した時代であり,新たなメディアの登場は,政治・社会だけでなく,個々人の思想形成にも大きな変容をもたらした。版本や写本として流通する書物は社会通念の形成に寄与し,人々の歴史意識もいわば書物を中心とした磁場のなかで形成されていく。こうした近世人の思想形成の諸相を,具体的な事例を通して読み解いていただく。
歴史の語り手と受け手の関係がダイナミックに変容した時代である17〜18世紀を対象にしたお二人の報告に対し,コメンテーターをエジプト近代史の加藤博氏にお願いすることにした。加藤氏はエジプトの一農村(アブー・スィネータ村)に関する一連の事例研究を通じて,村人たちが支配的な歴史叙述に向き合って自らの歴史を紡いでいく過程を考察してきた。19〜20世紀を対象とした一連の研究の成果をふまえたコメントをいただくことで,17〜18世紀とわれわれの生きる21世紀とがより立体的な形で架橋されることになろう。
過去における歴史の語り手と受け手の関係性をめぐるこうした考察が,マルチメディア時代における歴史研究の新たな可能性への一路となることを期待してやまない。(研究部)
〔参考文献〕
安村直己「植民地期メキシコにおける民族隔離法制と地域社会秩序−−ヌマラン村訴訟を中心に−−」歴史学研究会編『紛争と訴訟の文化史』青木書店,2000年。
同 「帝国における「中心」と「周縁」−−十八世紀メキシコにおける地域社会とスペイン帝国の再編−−」濱下武志・川北稔編『支配の地域史』山川出版社,2000年。
同 「交通空間としてのスペイン帝国における文化的混淆と「政治的なるもの」について」『思想』937号,2002年5月。
若尾政希『安藤昌益からみえる日本近世』東京大学出版会,2004年。
同 「近世人の思想形成と書物−−近世の政治常識と諸主体の形成−−」『一橋大学研究年報 社会学研究』42号,2004年3月。
同「「書物の思想史」研究序説−−近世の一上層農民の思想形成と書物−−」『一橋論叢』134-4号,2005年10月。
加藤 博『アブー・スィネータ村の醜聞』創文社,1997年。