『「大名評判記」の基礎的研究』(若尾政希編集、2006年)より

「大名評判記」諸本について

                                                          若尾政希



 はじめに

 一七世紀半ばから一八世紀にかけて、『武家諫忍記』、『武家勧懲記』、『土芥寇讎記』、『諫懲記後正』、『武家諫懲記後正』等といった、諸大名を俎上に載せて政の善し悪しから賢愚、はては色欲の程度まで縦横に論評した「大名評判記」とでも総称できるような書物がいくつも作られていた。金井圓氏の翻刻によりよく知られている『土芥寇讎記』も、そうした一群の「大名評判記」の一つであった。本書の「はじめに」でその経緯を述べたが、二〇〇五年度の講義の中で、私も講義中に「「武家評判記」(仮称)の諸本の系統について」という短い報告を行った(本稿の末尾に付したレジュメを参照)。そこで本書でも、「大名評判記」の諸本に関する、現時点までの調査結果を述べておくことにしよう。
 次にあげたのは、二〇〇六年二月末日時点における「大名評判記」調査一覧表である。番号の百番台には『武家諫忍記』を、二百番台には『武家勧懲記』を、三百番台には『武家諫懲記』というように、便宜上、書名ごとに番号を振った。所蔵者の欄には、現所蔵先を記した。国書の欄には、『国書総目録』『古典籍総合目録』所載のものに○を入れた。調査の欄には、調査済みのものには○を付けた。写/刊の欄には、写本・刊本の別を記した。現存する「大名評判記」はすべて写本である。冊数の欄には何冊からなるのか、巻(順序)の欄には、その構成を順に記した。序の欄には、序があるものについてその名称を記した。また各大名を論評した本文の他に、附録として「国郡部類」「教法之巻」を収載している場合には、それぞれの欄に記入した。作者・書写者欄は、作者あるいは書写者についての情報があれば、ここに記すために、欄を設けたが、現在のところ、書写者の名前が一人だけ判明しているだけである。最後の旧所蔵者欄は、近世における所蔵先を記した。

 1.書名から

 まず、書名の欄を見てみよう。『武家諫忍記』が二二本、『武家勧懲記』が同じく二二本で、この両書の数が抜きんでている。これとは別に『武家諫懲記』という書名のものが(『国書総目録』『古典籍総合目録』によれば)二本あるが、いまだ実物を確認していない。『諫懲記』という名の書物もあるが、これも中味を確認できていない。次の『諫懲記後正』は四本、『武家諫懲記後正』が一本挙がっている。この両書は書名こそ似ているものの、私が確認したところ別本である。『武家諫懲記附録』二本のうち一本が盛岡市中央公民館に現存しているが、これは『武家諫懲記後正』の附録である。最後に挙げた『土芥寇讎記』は、いうまでもなく「大名評判記」では最も有名であるが、一本しか現存していない。現存の確認できない旧浅野図書館本を入れても二本のみであり、「大名評判記」のなかで最も広まっていないものの一つといえよう。

 2.序から

 次に序の欄を見て欲しい。@「武家諫忍記序」、A「武家勧懲記序」、そしてB「武家諫懲記後正叙」の三種がある。
 『武家諫忍記』の二二本(現存が確認できるのは一九本)のうちこれまで調査したのは一一本。内、七本に「武家諫忍記序」と題する序が付いている。他の四本には序がないが、そのうち一〇六、一一三、一一九には、「序」はないものの、それぞれの「目録」には「序并国分一冊」いう記載がある。すなわち現存はしないが、もともとはあったということがわかる(残る番号一一八には「目録」も欠落)。なお、「武家諫忍記序」には、筆者の名も年記もない。
『武家勧懲記』の二二部(現存が確認できるのは一八本)のうち調査済みは八本であり、そのうち四本に「序」がついている。ここにも筆者の名は見えないが、延宝三乙卯年(一六七五)の年記がある。本文でも、「尾張中納言源光友卿  卯五十二歳」と、延宝三年時点での年齢が記載されており、『武家勧懲記』は延宝三年のデータに基づいてその年のうちに作成されたとみることができよう。
 盛岡市中央公民館にただ一本現存している『武家諫懲記後正』は、「奥御蔵書」の印をもち盛岡藩南部家旧蔵書であるが、これには「武家諫懲記後正叙」が付されている。この「叙」にも作者の記載はないが、成立年については、享保一一年(一七二六)七月下旬に書き上げた後、享保一九年(一七三四)に加筆増補、さらに寛保二年(一七四二)にも加筆改訂を加えたと述べている。
 さて、この三つの序のうち、まず成立年がわかるA「武家勧懲記序」をみてみよう。「序」の内容は(若干の字句の異同はあるが)『武家勧懲記』の諸本により大きな違いはない。次にあげたのは、盛岡藩南部家旧蔵『武家勧懲記』(番号二〇一、盛岡市中央公民館蔵)所収の「序」をである。
A「序」(『武家勧懲記』)
  夫惟異域本邦之治世者、聖主弘於道賢哲行之、而以所謂施教天下
  自安平也。然吾朝到中興、国政従皇廷、従武家以来数性、令与奪
  雖執権柄、其等者皆暴慢偏讐之悪行超過、故栄辱曽而不定、悉断
  嗣、乱諍変易、是世人之所知顕然也。
  爰清和之尊裔大相国源君大将軍家康公、忽出東海之辺國、威風於
  震万境、剱光於耀外州、五畿七道静謐、而以猶四夷八荒服其徳、
  諸民安起居唱万歳。是只  公仍武力之廣太誠神奇之明将、古往
  不聞、(中略)愚案今時武威全盛、而諸将皆坐官禄、極栄耀。是
  即先祖依粉骨之誇遊興奢侈、而聊不知一家之往事、況哉於他家之
  儀者、猶以不辨之輩多、予以愚案、亀手甚拙発雑文、彼是褒貶事
  々恐怖、見之聞之、便兎角為一分之覚悟旦慰試乎、不顧後見之嘲
  笑、綴之、所謂是万石已上衆将之噂、或國郡地形之厚薄等愚慮所
  向之大概也。雖妄語間々據聖賢之教誡。然則可為勧善懲悪之端乎。
  故令畧題之者也。于時延宝三乙卯稔月日
 『武家勧懲記』執筆の目的について、この作者(「愚」)はいう。徳川家康公の出現により「本邦」で治世が実現されたが、「諸将」(ここでは大名をさす)は栄耀を極めながらも、自家の往事(すなわち歴史)を知らないし、ましてや他家の歴史を知らないものが多い。よって万石以上の「衆将の噂」や「国郡地形の厚薄」など、私の考えているところを、時に「聖賢の教誡」を引きつつ述べて、「勧善懲悪」の端緒たらんとした、と。ここで作者は自らの地位について一言も述べていない。しかし、私などが拙い文でもって諸将を褒貶するのは恐れ多いことだがと述べながらも、この作者は自らを、諸大名を勧善懲悪という観点からあげつらう位置にまで高め、その高みから論評しているといえよう。
 こういった意識は、一八世紀の第二四半期に書かれたB「武家諫懲記後正叙」にも引き継がれている。長文であるが、盛岡市中央公民館に一本しか現存しないので、その全文を載せよう(番号六〇一、『武家諫懲記後正』)。
B「武家諫懲記後正叙」(『武家諫懲記後正』)
  夫惟本邦異域之治世者、聖主弘_於道^賢哲行]之、而以所]謂
  施]教於天下^自安泰也。然吾朝到_中興^而國政従_皇公^
  従_武家^以来数姓、令_與奪^雖]執_権柄^、其等皆暴
  慢偏讐之悪逆超過、故栄辱曽而不]定悉断_嗣系^、亂諍
  変易繁多、是能世人所]知顯然也。
  粤清和之尊裔大相国源君大将軍家康公、忽出_東海之邊國^
  震_威風於四海^、劔光耀_外州^、四夷八荒服_其政徳^、
  諸民安_起居^唱_万歳^而巳。是只公因_武力廣太誠
  神奇之明将^也。薨御之後奉]尊(_)崇
  東照大権現宮^、天運發_無窮^而連代鎭_座武陽之大城^、而
  榮葉蔓_総國^、傳聞唐虞三代之教化、現當前賞]信、罸]。
  公之徳政則如]降雨之潤^、木土理萬事人心悦_天下之大和^、
  古往不]聞_先蹤^。因_于茲^國々諸侯大夫不]違_期節^、交  _東西^代_南北^而窺   _尊諚^、以_武城之教令^、為_自国  私郡之掟^。
  或依_一分之辨^出_法制^而順(_)家民(^)。若
  又逆]之悪行奸邪之将者、雖_高門貴族^蒙_國家碩敗之患^。
  善行守信之輩者、雖_下賤庸夫^、預_封賞授禄(^)。親]賢遠
  ]奸、明察而上重]仁礼^、下旨]譲]畔。万代不易之
  政道、誰乎不]仰]之哉。然者當時参暇之衆将并平侯之群士、殆
  如_稲麻竹葦^。世一統之上者、父祖成功之由緒嫡庶之差別、或
  門葉之次第、且其心意行跡之是非、頗如]指_肺肝^好悪歴
  然也。愚按當時武威高盛而諸将皆坐_高位重禄^極_
  栄耀奢侈^。是即依_先祖粉骨之忠義^而勧賞及_子孫^。今雖
  ]令d期_安楽^誇_當坐之遊興等b、曾而不]知_一家之往
  事^、況哉於_侘家之傳來^、聊不]辨]之輩而巳也。予以_
  亀手噤口拙^発_雑筆^、彼是褒貶之事々恐懼不]少。雖]
  然^見]彼聞]是、而便兎角之儀為_其一分之慰試^乎。
  不]顧_後見之嘲哢^綴]之、所謂是一万石已上衆将、古今勤
  侯之噂并所領國郡地形之厚薄等愚慮所]向之大概也。雖_妄語^
  間々據_聖賢之教誡^。然則可]為_勧善懲悪之端^乎。故令
  ]畧_題之(^)。
  伏恭是考_暦代^
  東照大権現治]世爾來百余歳、聖主八世諸侯大夫郡牧、或八世
  或十世或六七世、枕泰山安置、大輝_武光武威^、顕職執役
  之輩、其祖先善行不]知。又凶政暴徒之衆 ]口不]出_口外
  ^、而盲聾之家族多]之。於]是其世其人之智徳善政、或悪行
  愚昧暗将無_偏避^書]之、而以後來之為_鑑戒^。前人以_
  武家勧懲記^為_題号^、寛文延宝之間流_布于世上^。是此
  依_頼 往古堪忍記^、大畧雖]編輯之旧世家傳之演説、殊荒々
  略々過 多、未_見聞^不]及_其口傳^者、不]顕]此省_除
  之^。厥后寶永正徳年中再補]之、号_武家諫懲記^普]世雖]
  令_傳來(^)、猶烏焉馬之齟齬不]少。於]是僕多年渉_猟旧
  記古老談話^、夏日長秋夜之徒然、漫以_賤筆^討_補之^。
  文章作意 ?]實、正疑密編輯 惣計九十九巻為全部、改
  (_)諫懲記後正^。且将軍外戚傳二十巻附録之、総計合百廿
  余巻。不](_)世買賣^、以慰](_)老眼(^)、妄不
  ]許]出_閾外^、深秘 治_文庫^。于]時享保十一丙午
  年初秋下旬成]功。然 経_九ヶ年^、而諸家悉有_異変^。仍
  而同十九寅年新加筆而増_補之^。亦経_九箇年^家々變数多。
  故不]得]止 、寛保二壬戌年再加筆而改]之。然予老命向
  _朝夕^終後所]秘之聞_文庫^而見]之者、可]補_向來之違
  變^而巳
 一見すると、この作者がすべてを書いたように見えるが、実は冒頭の「夫惟本邦異域之治世者」から「故令]畧_題之」までの三一行分の文章は、『武家勧懲記』の序を全文引用したものである。ここから、この作者が、『武家勧懲記』の作者の意識を継承して「後来の鑑戒」とせんためにこの書物を編纂したことがわかる。さて、この「叙」で興味深いのは、後半部分である。箇条書きに整理しておこう。1.寛文・延宝年間に『武家勧懲記』という題号の書物が「世上に流布」した。2.この『武家勧懲記』とは、『往古堪忍記』(往古より伝わる『堪忍記』の可能性もあるが、ひとまず書名としておく)に依拠してその誤りを正し補訂したものである。3.その後、宝永・正徳年間に、『武家勧懲記』を再補訂した『武家諫懲記』が「世に普く」伝来した。4.『武家諫懲記』に、なお誤りが多いことに気づいた「僕」は、多年にわたり「旧記、古老(の)談話に渉猟」して、享保一一年(一七二六)の夏から加筆補訂を始め九月下旬に完成。九九巻、名を『諫懲記後正』と改め、附録に「外戚伝二〇巻」をつけた。5.この書物は「世に売買せず」、「文庫」に秘匿したままであった。その後、享保一九年(一七三四)と寛保二年(一七四二)の二度にわたり加筆訂正した。
 このようにこの「叙」は、「大名評判記」の諸本の形成について見事に語っていてくれる。ただし、言うまでもないことがであるが、素姓はおろか名前もわからない「僕」の語りをそのまま事実と見なすことは困難である(厳密な史料批判を行う必要がある)。しかしながら、享保一一年時点で自らの目を「老眼」と述べるこの作者が、「大名評判記」が形成・展開した一七世紀後半を生きてきた人物であることは確かであり、よって同時代人の述懐のひとつとして読むことは可能であろう。「僕」によれば、諸本は次に順に作成された。
 A『往古堪忍記』(あるいは往古の『堪忍記』)
 B『武家勧懲記』……寛文・延宝年間(一六六一〜八一)流布
 C『武家諫懲記』……宝永・正徳年間(一七〇四〜一六)補訂
 D『諫懲記後正』『同附録』……「僕」編集、享保一一年(一七二六)成立、享保一九年(一七三四)・寛保二年(一七四二)加筆訂正
 ここに『土芥寇讎記』について何の言及もないのが注目される。「僕」は『土芥寇讎記』の存在を知らなかった可能性もある。それはともかくとして、これが先の「大名評判記」調査一覧表に挙がっている諸本(T『武家諫忍記』、U『武家勧懲記』、V『武家諫懲記』、W『諫懲記』、X『諫懲記後正』、Y『武家諫懲記後正』、Z『武家諫懲記後正附録』)のどれに該当するか(あるいはしないのか)。まずD『諫懲記後正』『同附録』は、いうまでもなく、「僕」が編集したY『武家諫懲記後正』、Z『武家諫懲記後正附録』である。Dと同名のX『諫懲記後正』が存在しているのでややこしくなるが、これは別本である。X『諫懲記後正』について現存が確認される四本中、三本を閲覧したが、いずれも首巻「総目録」の末尾に「元禄十四辛巳年春撰焉」とあり、元禄一四年(一七〇一)に編集したという。そして実際に大名の年齢は元禄一四年時点のものが記載されているのである。
 次に、書名から判断すると、BーU、CーVが、それぞれ一致する。順に確認すると、U『武家勧懲記』は、すでに見たように延宝三年(一六七五)の年記をもつ「序」があり、本文中に記載される大名の年齢もこの年のものである。よって、寛文ではないが、延宝年間の作であり、BーUである可能性は高いといえよう。次にVについては、いまだ現物を確認する機会に恵まれず、判断を保留せねばならない。ただ言えることは、X『諫懲記後正』は元禄一四年の成立であった。よって、その補訂前の本である『武家諫懲記』が宝永・正徳年間であるのはおかしい。「僕」の事実認識と誤りというべきか。
 A『往古堪忍記』については未詳である。『国書総目録』によれば、浅井了意の仮名草子に『堪忍記』なる書物があり、後年『貝原堪忍記』とも題して出版され流布しているが、これは「大名評判記」ではない。 ところで、先の一覧表からわかるように、「堪」の字が違うが、T『武家諫忍記』という書物がある。この書物につけられた「武家諫忍記序」をここでみておこう。「序」の内容は(若干の字句の異同はあるが)、諸本により大きな違いはない。次に挙げたのは、加賀大聖寺藩旧蔵の『武家諫忍記』(加賀市立図書館聖藩文庫蔵、番号一〇一)所載の「武家諫忍記序」である(以下、加賀大聖寺本と呼ぶ)。
@「武家諫忍記序」(『武家諫忍記』)
  夫我朝者東海中故號日本、凡東西千里ニ不過、南北五百里不足、
  小国ナリトイヘトモ開闢ヨリ以来、聖主道ヒキテ、今ニ至マデ其
  シルシ明ナリ。是則宗廟天照太神一切之神祇之教誡神力威光ノ力
  ニハ、唐土天竺之威徳モ及事アタワス、誠ニ禮義ヲ守テ豊饒目出
  度国ナリ。(中略)乙卯ノ年江府ヲ立給ヒ大坂発向ヲハシテ、同
  年五月七日秀頼切腹有。(中略)是ヨリシテ天下国家治大平之御
  世トナツテ政道宜ク人民安楽セリ。誠喜悦ノ眉ヲ開ク。凡當家ノ
  御代トナツテ及五十年、日々夜々武運繁栄、天下古今其例マレ也。
  偏大権現ノ威徳廣太成カ故也。然レハ其例ヲ定、大樹主守護トシ
  テ高家大家国主郡主ニ至ルマテ、或東西入替或父子カワル々々ニ
  参勤法儀イササカ違ヒナシ。国所々ニ下知ヲナス事、古式ノ式、
  舊事之禮慮詳ナリ。然レ共国司ノ制法郡主ノ政道ハ、其違多シト
  ニヤ。タトヘハ自ラ才ヲ以テ治臣下ノ制禁ヲ加ヘテ猶以順、道不
  同有耳也。所謂某永々浪人ニテ身上為稼事、便ヲ求テ国々所々徘
  廻シテ、其国其家之御作法等荒増聞及見及テ記之畢。凡我諸国ニ
  至ル事始テ九州筑前福岡ニ暫ク滞留スル内ニ肥後熊本肥前又薩摩
  鹿児嶋ニ行。中国ヲ不残四国ヘメクリ、山陰道ヨリ北陸道越前加
  賀ニ一ヶ年在テ、越後路ニカヽリ、出羽奥州或米澤南部或仙台ニ
  至ル。コレヨリ江戸ニカヘル。其折ニマタ所々城下ヘ廻来ル。大
  概日本国中ニ不到ト云事ナシ。年月ヲ得ル事、四年三月也。其折
  柄思出テ記之。然レ共国所ノ用ナキニハ不出、故ニ如此国所々ハ
  不]及]見、依テ聞傳マヽ也。又国主郡主之行跡モ及見ニハアラ
  ス。タヽ聞傳テコノ書ニノセタレハ不分明(後略)(傍線筆者)
 唐土や天竺とくらべても、日本は礼儀を守って豊饒な国であるという。その理由として「宗廟天照太神一切之神祇之教誡神力威光ノ力」が挙げられていることから明らかなように、この作者は強烈な「我が朝」=神国意識を持っている。この意識がいかにして形成されたのか、その歴史的意味を考察することは大事であるが、小稿では深入りしないでおこう。ここでまず注目したいのは、はじめの傍線部である。「当家の御代となつて五十年に及」ぶという表現から、その執筆時期を推し量ることができる。「秀頼切腹」により当家の御代が始まったとしているので、大坂夏の陣が起きた慶長二〇年(元和一、一六一五)を起点に五〇年を数えると一六六五年(寛文五)となる。「五十年」が概数であったとしても、一六六〇年前後の執筆とみることできよう。実際に、加賀大聖寺本の中味を見ると、『武家勧懲記』以降の「大名評判記」が各大名の年齢を「卯○○歳」などと記載しているのに対し、『武家諫忍記』にはそのような記載はない。しかしながら、各大名の生没年や事績等の事実を踏まえながら、丹念に読んでいくと、執筆年を推測することができる。たとえば、「水戸中納言源頼房卿」の項を設け、水戸藩初代頼房について論評し、それに続けて「同姓宰相源光国」を立項しているが、光国(光圀への改称は後年)について、「家督タラサルニヨツテ国ノ政道ヲマカセス」と述べる。頼房が亡くなるのは寛文元年(一六六一)七月二九日(光国が家督を継ぐのは八月一九日)であることから、加賀大聖寺本『武家諫忍記』のデータがこれより前であることがわかる。また「左馬守源綱重卿」の項では、「在所未定、本知拾五万石」とある。徳川綱重が甲府藩主になるのは(すなわち在所が甲府に決まるのは)、寛文元年閏八月九日であり、やはり寛文元年以前であるといえよう。さらに、「右馬守源綱吉卿」徳川綱吉について、「綱吉今年十四歳、御行跡生得悠寛ト柔和ニ直ナリ」と、今年綱吉が一四歳だという。綱吉の生年は正保三年(一六四六)であるから、少なくとも綱吉の項は万治二年(一六五九)のデータに基づいて書かれたことになろう。『武家諫忍記』については、(後に述べるように)なお諸本の系統を検討する作業が残っており、その成立時期については慎重に確定していかなければならないが、加賀大聖寺本『武家諫忍記』は、万治二年頃のデータをもとに作成された可能性は高いといえよう。
 「武家諫忍記序」に話を戻そう。もう一ヶ所の傍線を見て欲しい。作者が「某永々浪人にて」云々と、みずからについて語ってくれている。なんと浪人だという。「永々」には、「@いつまでも。永久に、A永年にわたって。ながながと」(『日本国語大辞典第二版』)の二つの意味があり、『武家諫忍記』執筆時点に浪人であったかどうかはわからない。それはともかく、「稼ぎ事」(仕事の中味は未詳であるが)をしながら便を求めて国々所々を徘廻して、その国その家の作法等をあらまし見聞し記したのだという。九州福岡から出羽・奥州まで日本国中を四年三ヶ月かけて廻ったともいう。『武家諫忍記』の大名家や領内統治に関するデータは、一見したところでは(詳細な検討は今後行っていかねばならないが)、補訂されながらも『武家勧懲記』や『土芥寇讎記』に引き継がれていくようである。その元のデータが、幕府の公的な機関の調査によるものではなく、一介の「浪人」の見聞によるとは驚きであり、にわかに信じがたい。「大概日本国中ニ不到ト云事ナシ」と自信満々に言ったか思えば、そのすぐ後には一転して気弱になり「然レ共国所ノ用ナキニハ不出、故ニ如此国所々ハ不]及]見、依テ聞傳マヽ也。又国主郡主之行跡モ及見ニハアラス。タヽ聞傳テコノ書ニノセタレハ不分明」と、見ていないところは聞き伝えるままにこの書物に載せたので「不分明」であるとさえ述べる。もちろん「武家諫忍記序」の史料批判ができていない現段階では、この言明を鵜呑みにすることはできない。なんらかの公的任務を隠蔽するための発言である可能性も含め、今後の検討を待たねばならない。
 ところで執筆動機については、「序」では「国司ノ制法郡主ノ政道ハ、其違多シ」、国々所々において「制法」「政道」の違いが大きいから、見聞したことを著したと述べるに止まる。『武家勧懲記』のような諸大名の政治を正そうという意識をここに読み取ることはできない。しかし、本文をみると、第一巻の最初の「尾張大納言源義直卿」の項の「愚評」に次のようにいう(加賀大聖寺本より)。
  愚評曰、凡主将ノ行監カミトモ可成、夫一国一郡ノ司タラン者ハ
  自ヲ正シテ政道ナストキンハ、タトヘ曲レル者アリトモ終ニハ直
  ニ道ヲ正シ忠ヲツクサン者多出来ヘシ。若又司タラン人ノ不行ナ
  ルトキンハ、必其下ニ有者背、邪曲不直ニシテ侍民トモニ君臣ノ
  礼ヲウシナヒ、父子ノ孝モ夫婦兄弟朋友ノ愛モ信モ徳モクラミテ、
  終ニハ主将ヲ恨ミ嘲、国家ヲ奪身ヲ亡ノ本タルヘシ。雖然世ニハ
  邪ニ不直ナル事多キ中ナレハ、司トシテ其実ヲシラサル故ニ、タ
  マ々ノ下知ヲナスモ己カ利欲ノ業ノミニシテ世ノタメ人ノタメナ
  ラン道トモ端トモ可成品一ツモナシ
国郡の司たらん者は、自らを正して政道をなすべきだ、「世のため人のために」政治を行うべきだという、強い主張をここに読み取ることができるのである。

 3.教法之巻・国郡部類について

 冒頭に掲げた「大名評判記」調査一覧表をもう一度御覧いただきたい。本文の他に、「国郡部類」、あるいは「教法之巻」を付けているものについて、それぞれの欄にその旨を記した。現物を確認できた『武家諫忍記』一一本のうち、「国法」「国部分」等と表記は違うが、「国郡部類」を付けているのが九本ある。これは「日本国中高付方角山海河田畠生物之品々善悪城付」(加賀大聖寺本より引用)について、山城国はどうかというように、それぞれの国について記載したものである。『武家諫忍記』の本文にも「国部文類曰」(加賀大聖寺本 、「国郡分類ニ具ナル」(刈谷市立図書館村上文庫、以後刈谷村上本と呼ぶ)等と、この書物に言及しているので、『武家諫忍記』に附属するものであることがわかる。『武家勧懲記』にも、「配国之巻」「国郡数量巻」等とと称してこの巻を有するものが三本あり、『武家諫忍記』のそれを継承したものと推定できる。
 他方、「教法之巻」は現物を確認した『武家諫忍記』一一本のうち八本に付けられている。これは、「主将嗜之事」・「臣下嗜之事」・「四民共嗜ノ事」にわかれ、主将(あるいは「人主」)、臣下、四民それぞれが嗜むべきことを説いたものである。たとえば、主将の嗜みとして「臣諸卒民百姓ヲ第一可憐事」「人主タルハ賢者良臣ノ用テ能諫ヲ可請事」等、九ヵ条にわたり論述している。これはあるべき政治を行うための要諦を著者がまとめたものということができ、その思想的背景を今後明らかにしていく必要があろう。なお、まだ二本しか確認できていない(現物をみた八本のうち)が、『武家勧懲記』にも「附属教法之巻」としてこれを付けたものがある。

 4.『武家諫忍記』諸本研究

 以上のように、『武家諫忍記』は、現段階では、現存する最も古い「大名評判記」である。ところが、『武家諫忍記』の本文を吟味すると、序や附録の二巻は共通するにも関わらず、加賀大聖寺本とそれ以外の本とは大きく異なる。本文のうち、大名のデータについてはまだ共通する部分があるが、大名を評価した箇所(加賀大聖寺本では「愚評曰」、それ以外の本では「愚評義曰」)の内容がかなり異なっているのである。詳細な検討は別に行わねばならないが、この箇所だけ見ると別の書物といっていいほどである。そして後継の『武家勧懲記』との関係を述べれば(これも綿密な比較検討が必要であるが)、『武家勧懲記』に受け継がれるのは、加賀大聖寺本以外の本である。加賀大聖寺本以外の本を通行本と呼ぶとすれば、加賀大聖寺本はまったくの異本だと言えるのである。同じ「序」を持ちながらも、通行本と異本の別が生じたのはなぜだろうか。いったいどちらが先に作られたのであろうか、等といった、大き謎を我々は突きつけられているのである。今後、この謎解きに挑まなければならない。
 なお、『武家諫忍記』の成立時期について、先ほどは加賀大聖寺本の本文を引いて、万治二年(一六五九)頃のデータに基づいて執筆されたと推定した。そこでここでは通行本の一つ刈谷村上本を見てみよう。「左馬守源綱重卿」の項では、「御在城未定、本知十五万石」とあり、この記載は加賀大聖寺本とほぼ同じである。綱重が甲府藩主になるのは、寛文元年閏八月九日であり、これ以前であるといえる。刈谷村上本では、綱重について「愚評義曰」として、「然ルヲ十五歳ヲ越テ若年トハ云カタシ」云々と論評している。綱重は正保元年(一六四四)生まれであるから、数えの一五歳になるのは万治元年、一五歳を越えるのは万治二年以降であるから、データ的には通行本も異本と同じ頃のデータを用いているといえよう。
また通行本として一括りにした諸本のなかにも、加賀大聖寺本ほどの異本ではないものの、部分的に異なった文章を混入させたものもある。管見によれば、たとえば、番号一一六岩国徴古館蔵『武家諫忍記』はそのような本である。未見のものも含めて、本文をさらに詳細に検討していくと、『武家諫忍記』諸本の系統が明らかになるであろう。ついでにここで『武家勧懲記』について指摘しておくと、諸本のなかには異文を有するもの(たとえば二〇一盛岡市中央公民館蔵本)がある。『武家勧懲記』諸本について同様の検討が必要である。あわせて今後の課題としたい。


 5.「大名評判記」の基礎的研究

 もともとは、素性のわからない『土芥寇讎記』の謎を解き明かし(すなわち、十分な史料批判を行って)、『土芥寇讎記』を史料として利用したいという目的で始めた研究プロジェクトであった(本書の「はじめに」、及び『『土芥寇讎記』の基礎的研究』参照)。しかし一七世紀後半から一八世紀にかけて『武家諫忍記』『武家勧懲記』等々の「大名評判記」が作成されていたことが明らかとなった今、これまでのように『土芥寇讎記』の記述を引いて、個別の大名を論じたり、近世大名支配のありようを見ようとする研究は、もはや立ちゆかなくなってしまった。
 実例を挙げよう。
 「甲府宰相綱豊卿」徳川綱豊(のち、六代将軍家宣)について、『土芥寇讎記』では次のようにいう。
  綱豊卿ハ自然ト権威備リ有_剛勇^聡明叡智之御器量ト云、文武
  之沙汰ナシ、少々御短慮ナル故ニ(下略)
   謳歌評説ニ云、凡主将道アルトキハ自然ト権威備リ、遠近恐怖
   スルトカヤ。既ニ世之事業ハ、上一人之好所ニ依テ、下万民是
   ヲ成リ。然バ君トシテハ好悪ナキヲ吉トス。伏テヲモン見ニ此
   君ハ  大樹公之御甥トシテ官禄共ニ貴ケレバ、譬自分之御徳
   行ナキトテモ世尊敬シ奉事勿論也(下略)
『土芥寇讎記』に先行する「大名評判記」は、『武家諫忍記』『武家勧懲記』も、綱豊ではなく、父の徳川綱重(正保元<一六四四>〜延宝六<一六七八>)を載せている。よって右に引いた綱豊への論評は、『土芥寇讎記』の作者によるものとみるのがふつうであろう。しかしながら、『武家勧懲記』「甲府宰相源綱重卿」の項を見ると次のような記述にぶつかる(刈谷市立図書館村上文庫蔵本より)。
  綱重卿ハ自然ト権威備リ、剛勇有テ物毎好悪ノ意地ナク、行跡悠
  然トシテ、聡明叡智ノ御器量タリ(下略)
   愚評義曰、主将道有トキンハ自然ト権威備リ、遠近恐怖スルト
   カヤ。スヘテ世ノ事業、上一人ノ好ムトコロニ依テ、下万民是
   ヲナセリ。然レハ君トシテハ好悪ナキヲ吉トス。伏テヲモンミ
   レハ 大樹之御連枝トシテ官禄共ニ貴、尤モ尊崇シタテマツル
   事、殊礼不大形、サアレハ又御一分ノ徳行計ニモ非ス、権威有
   事勿論也(下略)
熟読するまでもない。一見するだけで、『土芥寇讎記』の綱豊評は、先行の『武家勧懲記』の綱重評を引き写していることがわかる。子は父に似るではすまされない問題がここにはあるように思う。「大樹の御連枝」を「大樹公之御甥」と書き換えるなど、手が込んでいる。
  もう一例。次にあげたのは、『諫懲記後正』の綱豊評である(東京大学史料編纂所蔵本より引用)。
  愚評曰、(中略)其謂レハ柔ハ剛ニ勝ツト本文アリ、誠ニ舌ヤハ
  ラカ成共、久シクタモチ歯ハカタシト雖ドモ、必スカクルコトア
  リ。(中略)況ヤ其家民恩恵ニヒカレテ忠功ヲ尽サントス。亦心
  意所行不宜ニシテ、柔弱成ハ何ノ益カ有ン。今綱豊卿御行跡悪義
  ナク、政道宜シトナレハ良将トスルナルヘシ
 少し長いので中略せぜるをえなかったが、これは『土芥寇讎記』の綱豊評とは異なる。では『諫懲記後正』の作者の評価と見て良いのか。次にあげたのは、『武家勧懲記』の「舘林宰相源綱吉卿」、徳川綱吉の項の「愚評義」である。
  愚評義曰、上将之行跡ハ柔和ヲ用ニ、柔ハ剛ニ勝ツノ謂レハ、舌
  ヤワラカニシテ久シクタモチ、歯ハカタケレトモ必カクルコト有。
  (中略)況哉其家民恩恵ニヒカレテ忠功ヲ尽サントス。亦心意所
  行不宜シテ、柔弱ナルハ何ノ益カアラン。評ニ不及。今綱吉卿御
  行跡柔ヲ本トシタマフ故、国家静謐タリト称美シタテマツル所也
 両者を比べると、傍線部が異なるだけでほとんど同文である。『武家勧懲記』の綱吉評を、『諫懲記後正』の作者はそのまま利用しているのである。
 このように、「大名評判記」諸本において、先行するものの引用・抜粋が多用されている。こうした状況を目の当たりにするとき、我々がまずすべきことは、このような引用・抜粋の典拠を明らかにする基礎的研究を行って、「大名評判記」諸本の関係性を洗い出すことであろう。その上で、「大名評判記」全体のなかで、たとえば『武家諫忍記』が、また『土芥寇讎記』がどのような位置を占めているのか、はじめて見えてくるといえよう。それぞれの「大名評判記」の作者がその作品に託した主張、政治思想も、「大名評判記」諸本の関係性において、はじめて明るみにされるであろう(ひとまず「大名評判記」と総称したのであるが、それぞれの本の作者が共通の思想的基盤に載っている―すなわち一枚岩である―と想定してかかるべきではないと、私は考えている)。

 むすびにかえて

 最後に、一覧表の旧蔵者の欄を御覧いただきたい。注目すべきことに、「大名評判記」の大多数が旧大名家の蔵書の中から出てきている。二〇〇五年八月には長崎県対馬の対馬歴史民俗資料館で、『国書総目録』『古典籍総合目録』に未収載の『武家諫忍記』(番号一一九)を見出すことができた。また弘前市立図書館蔵の享保一五年(一七三〇)八月の年記をもつ『御国御書物目録』には、「一、武家諫忍記  二十一冊 書本」とあり、現存を確認できないが、弘前藩津軽家もかつては『武家諫忍記』を持っていた。同様に土佐山内家宝物資料館蔵『御道具根居』によれば、高知藩山内家も『武家勧懲記』(二二冊)を所蔵していた(資料紹介『御道具根居』(上)、同資料館『研究紀要』一、二〇〇二)。「(明治)四五年五月三日東京送り」と記入されており、明治まで確かに存在していたが、現存を確認できない。このようなものも便宜上、一覧表には加えておいた(番号一二二、二二二)。いったいどの程度の大名家が「大名評判記」を持っていたか、今後の調査を待たねばならないが、わかっているだけでもいくつもの大名家が所蔵していた。自ら(あるいは自分の父祖)の政治や行動等を批評した書物を、なぜ所蔵していたのか、その書物をどう読んだのか。非常に興味深い。もし、それぞれの大名がその論評・批評を意識して政治を行ったとすれば、「大名評判記」は藩政に影響を与えた可能性すら出てくる。一七世紀の半ばは、『本佐録』、『東照宮御遺訓』といった政道書が作られた時代であった(拙稿「『本佐録』の形成―近世政道書の思想史的研究―」、『一橋大学研究年報 社会学研究』四〇、二〇〇二、拙稿「『東照宮御遺訓』の形成―『御遺訓』の思想史的研究序説―」、『一橋大学研究年報 社会学研究』三九、二〇〇一)。まさに同じ頃、あるべき領主像・政治像を鮮明に打ち出した「大名評判記」が作られ、少なからぬ大名に出回っていたことの意味は、問われねばならない。しかも「武家諫忍記序」によれば、そのような語りだしが、幕府の中枢からではなく、「浪人」と自称する人物により行われたとされていることにも興味が惹かれる。いくつも謎を一つひとつ解いていって、「大名評判記」の思想史的研究を深めていきたいと思う。
【付記】本稿脱稿後、浅井了意『堪忍記』とは異なる『堪忍記』の存在を知った(深沢秋男「如儡子の『堪忍記』(1)〜(3)」『近世初期文芸』六〜八、一九八九〜九一)。残念ながら本稿に組み込むことができなかった。次稿を期したい。