『「大名評判記」の基礎的研究』(若尾政希編集、2006年)より

はじめに
                                                         若尾政希


 本書は、『『土芥寇讎記』の基礎的研究』(研究代表者若尾政希、二〇〇四年四月)の続編である。今、なぜ『土芥寇讎記』なのか、また「大名評判記」とは何か。我々の問題意識の一端をここで説明しておきたい。
 『土芥寇讎記』とは、元禄三年(一六九〇)段階の全国の大名二四三名について書き上げたもので、各大名について、家系・家族、略歴、居城(陣屋)、領内の様子、支配の状況、主な家老、及び大名の人柄・行跡・評判などを列挙し、論評を加えた書物である。全四三巻のこの史料(現在東京大学史料編纂所に所蔵)は、金井圓氏が一九六七年に翻刻(『江戸史料叢書―土芥寇讎記―』新人物往来社、一九六七)して以来、世に知られるようになり、その地方知行の記載が驚くほど正確なことも手伝って、一七世紀末の大名を論じる際にしばしば引かれる重要な史料とされ、今日に至っている。
 確かに『土芥寇讎記』は魅惑的な史料である。何よりも幕藩領主の意識・思想に迫るための絶好の史料となる可能性をもっている。しかしながら、魅惑的であるが故に、妖しげな近寄りがたい雰囲気を醸し出している。より直接的な表現を使えば、史料として使うには、謎が多すぎるのだ。作者が誰か、一人なのかグループなのか、また編集意図は如何、等といった基礎的情報がまったくわからない。現状では、『土芥寇讎記』によりかかってこれを史料として何か言おうとすることは、きわめて難しいのである。
 よって、これを史料として利用する以前に、その謎を解き明かす基礎的作業が必要である。すなわち『土芥寇讎記』の内容・表現を綿密に分析し、作者(あるいは作者たち)がそれを執筆する上で参考にした書物や、影響を受けた人物等を特定し、作者のいわば思想的基盤を掘り起こしていく研究を行っていかなければならない。こうした地道かつ困難な作業を積み重ねていくことによって、『土芥寇讎記』の作者と編集意図に迫り、『土芥寇讎記』という史料の歴史的位置を探ることができる。そのような基礎的作業=史料批判(これを史料批判と呼ぶことができるであろう)を踏まえてはじめて『土芥寇讎記』を史料として利用できるのである。
 こうした問題意識から、我々は二〇〇三年度の一橋大学の講義「日本社会史特論」(夏学期)で、この書物を取り上げ、半期にわたり院生・学生らとグループ学習・討論を行い、その成果を『『土芥寇讎記』の基礎的研究』にとりまとめた。そして、二〇〇五年度の講義「日本社会史特論」(夏学期)では、『土芥寇讎記』の十年ほど後に編まれた『諫懲記後正』という(やはり作者不詳の)書物と比較対照することによって、『土芥寇讎記』を相対化し、『土芥寇讎記』の歴史的位置を見極めようとした。
 『諫懲記後正』とは、『土芥寇讎記』と同じく東京大学史料編纂所に所蔵されており、題簽に「諫懲後正」、内題は「諫懲記後正」。首巻、巻一〜巻三十まで、全三一冊。首巻(惣目録)の末尾に「元禄十四年辛巳年春撰焉」の年記をもつこの書物については、金井氏が前掲翻刻の解説論文「『土芥寇讎記』について」において、「内容の上で『土芥寇讎記』とよく似た編纂物」して、書名を挙げ紹介している。興味深いのは、金井氏によれば、『諫懲記後正』は、「大正十三年東京帝国大学図書館が『土芥寇讎記』を受入れ、登記したとき、同時に受入れ、登記された編纂物」だといい、書物の来歴という点からも両書は近い関係にありそうである。よって『土芥寇讎記』という書物の謎解き作業をさらに深化させるために、『諫懲記後正』との関係性にこだわってみようとしたのである(なお、「書物・出版と社会変容」研究会で、盛岡藩の北可継について報告いただいた東北大学大学院生の蝦名裕一氏も、早くから『諫懲記後正』に注目し、両書の大名評価の違い<たとえば津軽信政評>がどこから来ているのか、等々について、一緒に議論したことがある。その議論が一つの呼び水となって、『諫懲記後正』との比較研究を本格的に行うことになったということを、ここに述べておきたい)。
 ところでここで断っておかねばならないことがある。この講義において当初、比較の対照としたのは『諫懲記後正』のみであった。ところが、本書所収の諸論考をざっと一覧すればわかるが、『武家勧懲記』・『武家諫忍記』といった書物の名が挙がり、それらと比較研究を行っている論考がいくつもある。『武家勧懲記』・『武家諫忍記』とは何か、どうしてこの両書を取り上げるのか、少し説明しておきたいと思う。
 『武家勧懲記』・『武家諫忍記』は、まったく無名の書物であるが、実は『土芥寇讎記』と同じように、各大名について論評を加えた書物である。形式や中味が類似しているだけでなく、作者や成立事情が未詳だということも似通っている。その成立時期については今後詳細に検討せねばならないが、刈谷図書館蔵『武家勧懲記』の「序」には「延宝三乙卯稔月日録畢」と、延宝三年(一六七五)の年記があり、大名のデータも同時期のものである。これを信じれば、『土芥寇讎記』の一五年前に作成されたことになる。もう一方の『武家諫忍記』は収録された大名の名前や事績の説明から判断すると、さらに十数年さかのぼりそうである。いずれにせよ『土芥寇讎記』に先行する書物が存在していたことは確実である。しかも、『武家勧懲記』・『武家諫忍記』は、『国書総目録』『古典籍総合目録』によれば、写本としていくつも現存している。これは『土芥寇讎記』―現存が確認できるのが東京大学史料編纂所蔵本のみであり(『国書総目録』には旧浅野文庫にもう一本あったと記すが現存を確認できない)、出回ったとは言い難く、きわめて限定された読者しか持たなかった可能性すらある―と比べると、より広い範囲に受容されたと推定されるのである(本書に収録した拙稿「「大名評判記」諸本について」参照)。
このように、『土芥寇讎記』以前に、諸大名を対象にしたいわば評判記―仮に「大名評判記」と総称しておこう―が作られていたのであり、判明しているだけでも『武家諫忍記』、『武家勧懲記』、『土芥寇讎記』、『諫懲記後正』といった一群の書物が存在していたことが明らかになった。『土芥寇讎記』も、そうした一群の「大名評判記」の一つであったこと、よって『土芥寇讎記』の歴史的位置も、「大名評判記」の全体像を把握することによってはじめて明らかになることがわかったのである。
 『武家勧懲記』・『武家諫忍記』の「発見」の経緯について、もう少しだけ述べておこう。実は『勧懲記』という書物の名はすでに知られていた。金井氏が前掲の解説論文の中で、次のように述べている。
  原型では伝わらないが、弘化二年水戸藩が編纂した『盈筐録』と  いう厖大な大名史料集に『勧懲記』として引かれた本文である。  内容は酷似しているが『土芥寇讎記』とのちがいは、『勧懲記』  の方が、延宝三年卯年現在の記事を収めていて、祖先の勲功に関  する記事が比較的豊富な点と、もし『盈筐録』の編者が省略した  のでないならば、謳歌評説の部分を欠く点である。『土芥寇讎   記』の一層近い原型がそこにあったことは知られるが、残念なが  ら、原本の所在を今知ることができない。
 金井氏は弘化二年(一八四五)に水戸藩が編纂した『盈筐録』に『勧懲記』として引用されたものと、『土芥寇讎記』との類似に注目し、『土芥寇讎記』の「一層近い原型」として位置づけ得るとみなしつつも、「残念ながら」「原型では伝わらない」として、『武家勧懲記』という書物が存在することには気付かなかったのである。
 二〇〇五年の四月にグループ学習・討論を始めたときには、我々も(というより「私も」と言ったほうが適当かもしれない)『土芥寇讎記』に先行する「大名評判記」が広範に存在するとは思いもしなかった。しかし、『土芥寇讎記』と『諫懲記後正』の内容をさまざまな角度から比較した、各班の報告を聞いて議論するなかで、『諫懲記後正』は、『土芥寇讎記』を受けてその影響下で成立したと言えるのか、「後正」、すなわち後に正したというが、これは『土芥寇讎記』を「後正」したのか、あるいは何か別の書物があったのか、等ということが話題になった。五月二三日の第二班(小田班)の報告に際して、班員の小川和也君が、「『国書総目録』によれば、佐賀の祐徳稲荷神社に『諫懲記』という書物があるというが、この『諫懲記』の存在が気になる」という趣旨の発言をした。討議の時間には、「『国書総目録』に『武家勧懲記』という書物があるが、タイトルが似ており気になる」という佐藤宏之君の発言があった。こうした議論を踏まえて、私は、翌日(五月二四日)、国立公文書館内閣文庫の『武家勧懲記』を調査し、まさしく延宝三年時点での「大名評判記」であることがわかり、写真撮影による複写を依頼し、五月三一日の講義で『武家勧懲記』が『土芥寇讎記』・『諫懲記後正』に先行する「大名評判記」であったことを報告した。さらに六月三日には、国文学研究資料館にて、マイクロフィルムになっているいくつかの『武家勧懲記』を閲覧し複写を依頼した。と同時に、書名が似ていることから私自身気になっていた『武家諫忍記』のマイクロフィルムを閲覧したところ、勘が的中して、『武家勧懲記』と類似の「大名評判記」であることがわかった。こうした調査の成果を「武家評判記」(仮称)の諸本の系統について」と題して、講義で報告したのが、六月六日であった。その後、国立公文書館から届いた内閣文庫蔵『武家勧懲記』の複写を各班に配布したのは六月末、国文学研究資料館から送ってもらった『武家諫忍記』『武家勧懲記』の複写を各班に配布したのは、夏学期も終了した七月末であった。講義のなかで、新史料を「発見」することができ、それにより研究が深化していくのを実感できたという点では、実りの多い講義ではあった。しかし、受講生の方々には多大の負担をかけてしまった。グループ学習のコーディネーターとしては大いに反省せねばならないと思っている。
なお、ここで今年度の講義で扱った「大名評判記」を列挙しておこう(最初の番号は、私が便宜的に付けたものである。拙稿「「大名評判記」諸本について」所収の表を参照)。
  八〇二『土芥寇讎記』 東京大学史料編纂所蔵
  五〇二『諫懲記後正』 東京大学史料編纂所蔵
  二〇三『武家勧懲記』 国立公文書館内閣文庫蔵
  一一三『武家諫忍記』 刈谷市立図書館村上文庫蔵(国文学研究資料館マイクロフィルムより)
  一〇一『武家諫忍記』 加賀市立図書館聖藩文庫蔵(国文学研究資料館マイクロフィルムより)
  二〇九『武家勧懲記』 刈谷市立図書館村上文庫蔵(国文学研究資料館マイクロフィルムより)
  二〇一『武家勧懲記』 盛岡市中央公民館蔵(国文学研究資料館マイクロフィルムより)

 本書は、受講生が取りまとめたレポートからなる。未熟な点は多々あろうが、今後の議論のたたき台として活用していただけたらという思いを込めて、冊子体として残しておくこととした。大方の御批判・御叱正をお願いしたい。各班のレポートの取りまとめに際しては特に班長に多大な労力を提供してもらった。また全体の取りまとめについては、博士課程の小川和也君(「書物・出版と社会変容」研究会幹事)の手を煩わせた。ここに記しておく。
 なお、本研究は筆者が代表としている日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(A)「日本における書物・出版と社会変容」(二〇〇五〜八年度交付予定)の重点プロジェクトの一つである。関連資料の収集・調査及び本書の作成にはこの交付金の一部を使用した。
 また、資料所蔵機関には、資料の閲覧等でさまざまな御便宜をはかっていただきました。御礼申し上げます。             二〇〇六年二月